二胡のはなし   (42 保屋野伸)

今日の「題名のない音楽会」はベトナムの伝統楽器による演奏会(ハノイ)でしたが、その一つに「二胡」がありました。

そして、NHKのライブ「おわら風の盆」を観ていたら、「胡弓」の哀愁を帯びた音色が聞こえてきました。そこで家内が「二胡と胡弓はどう違うの」と質問されたので、「同じじゃないの」と答えたのですが、ネットで調べたら両者は全く違う楽器であることが判明しました。二胡は中国、胡弓は日本の伝統楽器で、二胡は2弦、胡弓は3弦でした。また、胡弓は三味線を小ぶりにしたような外観なのに対し、二胡はかなり小さいことも分りました。

それにしても「風の盆」の(ピンクの浴衣におけさ風の編みがさを被った)若い女性の踊りは、その一つ一つの所作が優雅で、本当に魅力的ですね。ちなみに、家内は昔金沢に泊まって見学したことがありますが、私は行ったことがありません。

(編集子)小生に楽器の音色を語る知識も技量もないが、我が国の伝統楽器として胡弓があるとは驚きである。ぐっと砕けたところでは三味線ってのはどういう経路で大衆に広がったんだろうか? 実はここのところベッドサイドストーリーとして(吉田茂は必ず捕り物長をベッドに持ち込んでいたそうだ)愛用なのがかの 居眠り磐根 シリーズなんだが、この一篇に磐根が三味線作りの名人の苦境を救い、それが機縁で義母と妻(セカンドキャラクタであるおこん)が三味線をはじめる、というくだりがあって、この楽器に対する大衆の思い入れが相当なものだったことを知った。ウクレレ一つマスタできない自分には一片の夢なんだけれど。

(クラスメート飯田)保屋野さんの「二胡のはなし」を読ませて頂きました。
そこに出てくる胡弓との関係については、調べたことも無く分かりませんが、
私の楽器サックスで組んでいたアンサンブルに、沖縄の三線(サンシン)を演奏する中学3年生をメンバーに入れたことがあります。
三線(サンシン)は中国・福建省生まれの三絃(サンゲン)がルーツで、
三絃は日本の三味線の原型の一つとその当時、理解しました。三線(サンシン)は本来は蛇腹で、三味線のことを蛇味線と言ったりするので、元来は蛇の皮を使っていたと思われます。

日本で若い人で二胡をやっている人もいるようですが、胡弓を含めて、この辺の古来の弦楽器のことは諸説あって、しかるべきでは無いかとおもいます。
三線をアンサンブルの仲間に入れていた時は、流行っていた「ハナミズキ」や沖縄の曲などを皆で合奏する時は、いちいち、調弦(音程取りのキー合わせ)を3線の1本ごとにやるので、それだけで4~5分掛かってしまって、
珍しい物見たさの人には良いですが、中々、手間の掛かることではありました。因みに三線(サンセン)の楽譜は五線譜ではなく、記号が並んでいるので全く分らない代物でした。

”戦争もの” について

本稿でエーガ愛好会メンバーを意識して ”戦争もの” フィルムについて書いたところ、その結果かどうかわからないが ”パリは燃えているか” の史実についていくつかのフォローがあった。我々のリーチを越えて、パリ在住の平井さんからの情報もあって,臨場感と言うとおかしいが結構なトークであった。

パリは燃えなかったのだが、東京は燃えた。石づくりの欧州の町は完全に燃えてしまうことはなく歴史の重みに耐えてきたわけだが、木と紙でできた日本の町は完全に破壊されてしまった。その時の記憶が残っている人たちも我々の年代くらいまでになるのかもしれないが, 僕は当時父が満州(現在の長春、当時の呼称は新京)に勤務していた関係で日本におらず、”空襲” の経験はない。しかし満州から朝鮮半島を越えて帰国する旅は有名な藤原てい氏の ”流れる星は生きている” そのままの苦難だったようだ(小生には断片的な記憶しかない)。

伯母の家に間借りをして始まった東京生活で、子供たちの遊び場は”焼け跡”であったから、中には爆撃の遺物みたいなものに遭遇することがたびたびあった。中でも ”匂いガラス” といって人気があったのは、(B29の窓ガラスだぞ)と信じられていた、熔けたガラス片だった。そんなことで、本物の戦火は体験しないまでも、まずは飛行機に、それから話を聞くたびに軍艦などに興味が湧いたのは当然で、自分で本を買えるようになってからは当時まだGHQ(連合軍司令部)の統制下にあったけれども少しずつ戦闘、とくに日本海軍の話を読み始めた。

パリは燃えているか の話題になった史実議論が当然だがその現場にいた人の証言ではありえず、残された資料からの後世の知見であるのに対し、僕が接した最初の本はすべて現場にいた指揮官級の人たちのじかの証言であった。なかでも海軍の中枢部にあった奥宮正武・淵田美津雄(真珠湾攻撃指揮官)・源田実(山本五十六の信任篤かった参謀)などといった人たちの記述(本の題名はわすれてしまったが)はまさに現場の証言でありこれ以上正確な史実はないだろう。彼らの本に出てくるいくつかのエピソードは映画 トラトラトラ にそのまま使われている。海軍関係者だけでなく、広く戦争からの生還者による史実の証言や、その体験をもとにした文学作品(たとえば大岡昇平の 俘虜記 とか映画化もされた ビルマの竪琴など)は数知れないが、海軍の眼から見た太平洋戦線の概要を知ってからは、読もうという気が起こらなかったし、サイパンやグアムでの悲劇を知った以上、かの地を観光する気にはなれない。今もってなお沖縄へ行くことに躊躇があるのも同じ感覚だ。

”史実” というのは実際に発生した事柄のいわば中性的な叙述でなければならないから、その中に巻き込まれた一人一人のありようがどうであったかをただすことは難しい。戦争文学(というのが正解かどうかわからないが)の多くははそれに挑んだものではあるけれと、あくまで第三者からみた感覚で書かれているように感じる。そういう意味で、僕は吉田満氏の書かれた 鎮魂戦艦大和 という一冊に感動している。

吉田氏はかの大和の乗組員であり、奇蹟の生還を果たしたひとりであるが、日本海軍のしきたりであった、軍艦が沈むとき、艦長は殉死するという事にこだわり、将校の一人として自分も死のうとロープを巻き付けようとしたとき、艦長から何をする、お前たち若いものが生き残って国を再建しないでだれがするのか、と叱咤されて海に飛び込んだ。救援のボートに救われて帰国がかない、復学して日本銀行に勤務され、多くの要職を歴任、艦長の期待通り活躍されたあと、在職中に病死された人である。大和から自宅に帰り着いたその日から書き始めたという 戦艦大和ノ最期 は当時軍人の常で全文カタカナ、文語調でかかれている。

”昭和十九年末ヨリワレ少尉、副電測士トシテ ”大和” ニ勤務ス

という有名な一行で始まり、

徳之島ノ北西二百浬ノ洋上、”大和” 轟沈シテ巨体四裂ス 水深四百三十米   今ナオ埋没スル三千の骸 彼ラ終焉ノ胸中果シテ如何

で終わるこの本は大和の戦史ではなく、彼と同じ学業半ばで徴兵されこの無謀な自殺作戦(海戦を考慮せず、沖縄に乗り上げて陸上砲台とするという)に配属されたインテリ将校たちの心情や行動を書いた―というより写し取ったものだ。歴史にイフはないというが、もし時間軸が10年ずれていたら僕らが遭遇したかもしれない境遇を描いたほかの散文などをまとめたものが表題の 鎮魂戦艦大和 である。評論家の江藤淳は 戦艦大和ノ最期 に寄せて

・・・文学作品の価値を、たとえば一か月とか一年というような単位で測ることもできる。しかし、また、それは数十年、もしくは数百年という単位で測ることもできるはずである。そういう単位で測った時、第二次大戦後の日本文学を代表する作品は、果たしてどのようなものになるだろうか。

と書き、さらに問いかけていう。

・・・・・数百年後に人々の心には日本が世界中を相手に戦い、全面的敗北を喫したという簡明で重い事実だけが残るだろうが、その時人はこの戦争が義戦であったか不義の戦いであったかは問わないだろう。人々が問うのはこの戦いを戦い敗れた日本人がその民族的国家的経験をどのような文字に刻み付けたかという事であろう。人々の前には金石の文字を刻んだという作品であり、いわゆる ”戦後文学” ではない。戦争という経験よりは個人的・断片的文学ではなく、叙事詩的作品であろう、として、この ”戦艦大和ノ最期” をあげている。

僕が先のエーガ論(?)では史実の忠実な叙述であろうとした作品群を第一グループとし、史実に基づいたフィクション、を第二グループと書いた。この 一冊はまさにその第二グループの筆頭なのだが、吉田氏がおかれたと全く同じ環境、すなわち学業を絶たれ戦争の第一線に駆り出された若者たちの群像を描いたのが阿川弘之の ”暗い波濤” である。

今でも覚えているのだが、この本は当時恵比寿近くにあった営業所での出張作業の帰り、飛び込んだ本やで遭遇し、数ページよんで(これは読むべき本だ)と思い込んで帳場に行ったら、なんと財布に残ったのは十円玉が数枚しかなかった。当時の月給から出た月の小遣いをこの本2冊(上下巻)で使い果たしたのだった。しかしその判断は正しかった。阿川独特の口調でつづられる学生上がりの新人少尉たちが現実と学徒として持つべき知性との間にさいなまれ、ひとりふたりと戦死していく。最後の生き残りとなった五人が田町のあたりを歩いていて米軍の車列に遭遇する。その描写でこの本は終わっている。

…やうやく長い車両部隊が過ぎ去って、人々が歩道を渡り始めた。・・・・”行かうか” 田崎が促した。みんなはのっぽの田崎を先に立てて三田のほうへあるきだした。

彼らの胸中にあったものが波に翻弄されながら吉田氏の脳裏をよぎったものと、同じだったのだろうか。当時日本の知性と教養を代表する存在だった学生たちの想い。それは(比較が飛びすぎるが)かの ランボーでスタローンが嗚咽しながら上官に訴えた心情とはまた違ったものだったのだろうと思うのだが。

もう一冊。これは前の2冊とはまったくちがった観点からの ”史実” である。大戦開戦時、最後まで反対した山本五十六は血気はやる参謀たちに(貴様ら、ピッツバーグへ行って煙突が何本あるか数えてこい)と言ったそうだ。それほど彼我の工業力の差は大きく、絶望的だったと言われている。しかし日本にも、一矢報いんとした起業家がいたという事実を掘り起こしたのが前間孝則氏の 富嶽 である。同じフガクでも現在の話題はスーパーコンピュータその名も 富岳。このあたり時間の流れを感じる。やや技術論儀が多いのは当然だが、そのスケールの大きさやこの計画につぎ込まれた技術者たちの情熱はその量においては現代での開発現場に劣るかもしれないが、背後にあった救国、という意識においては全く違ったものだったのだろうと感じる。これも ”史実” だけが持ちえるものなのではないか。

(注)本日現在、この三冊はすべてアマゾンに在庫がある。最近の経験で言うと、アマゾンの中古本は非常に程度がよく、多くは新品同様と言えるうえ、価格はべらぼうに安い。最近逢坂剛に凝っていて、中古を3冊、相次いで買ったが、新品発行時の価格2200円が何と150円で買えた。ただし送料はその3倍の450円だったが。

 

 

さるすべりの花      (34 小泉幾多郎)

残暑厳しき折柄、家に籠ることが多いこの頃ですが、先日駅まで歩かなければならない用事と親戚の人とどうしても会わねばならぬことが出来て、久しぶりに外出しました。
今の季節、どんな花が咲いているのか、わかりませんが、偶々駅へ行く途中の道で、近所の他人の庭先に赤い花が見えました。どうやらサルスベリの花のようで、パチリ。開花期が長いことから百日紅の字が当てられたそうな。

親戚とは、プリンスホテル新横浜最上階の42階トップオブヨコハマで会いました。日曜日でしたが、14時~19時は喫茶で、コーヒー900円、景観の眺望を見られ、これなら安い。みなとみらい高層ビル街とみなとみらい大橋方面の眺望です。

野球場の記憶   (大学クラスメート 飯田武昭)

巨人VS広島戦を観に、大阪の京セラドームへ行ってきました。

熾烈なセリーグ2位3位争い?の最中で、甲子園球場では阪神VSDeNa戦を遣っていました。結果は先発の両投手(菅野と大瀬良)のある程度の好投もあって、現在セリーグ2位の広島が2対1で勝利しました。ジャイアンツ(ホームチーム)は9回に、岡田悠希外野手が初ホームラン、初打点を上げたり、カープの菊池2塁手の華麗なファインプレーが観られました。ジャイアンツはこの所4番バター岡本和真選手の欠場で打線に迫力を欠く印象は拭えません。

今年はWBCの優勝、全国高校野球の慶應高校の優勝もあって、プロ野球もパリーグのオリックス、セリーグでは阪神が3連敗中とは言え、未だ2位と5ゲーム差と頑張っています。昨年11月のサッカー・ワールドカップや先日までのブダペストでの世界陸上など日本選手の活躍が当たり前の時代になりつつあり、コロナ禍で低迷していたスポーツが俄かに活気付いています。

世界野球、高校野球と続いた野球をLIVEで観戦したくなって、依然として猛暑の続く日々なので屋外の甲子園を避けて、京セラドームに行きました。このドーム建設された1990年代の終わりに、ドーム球場の杮落としにプロ野球の2試合ダブルヘッダーが挙行され、当時私は不動産会社に勤務していまして、某大手ゼネコンが球場の貴賓室を確保してくれて何人かで観戦して以来の3回目でした。

この時のダブルヘッダーの1試合は、巨人対ロッテだったと記憶しますが、清原和博選手が打ったボールが、略斜め垂直に上がり、ドームの屋根の溝にハマって落ちて来なかったことが今でも記憶に残っています。清原と言えば、西武ライオンズを引退してから、巨人の長嶋茂雄監督に≪僕の胸に飛び込んできなさい≫と誘われ、阪神の吉田義男監督に≪(ユニフォームの)虎の縦縞を横縞に変えてもいい≫とも誘われて、結局、巨人軍に入団したといういきさつの記憶があります。それらの感傷に浸るような昨日の観戦でした。

(編集子)打撃ベストテンに必ず3人(つまり長嶋・王プラスワン)は入っていた時代のジャイアンツは夢幻のごとし。しかし最近、なんでこんなに故障者が続くんだろうか。巨人軍の楽屋に疑問を呈せざるを得ない。目下唯一の楽しみは秋広の11号がいつ出るか、くらいしかない。それにしても浅野ってのは実力はあるんだろうが、テレビ写りはONに比べるのはかわいそうだけど、あんまり冴えないね。歌手もそうだけどテレビ映えってのも実力のうちか?

奥尻島へ行ってきました    (42 保屋野伸)

奥尻島のシンボル「鍋釣岩」

25日~27日、同期の大場夫妻とJRのツアーで「北海道傘寿記念旅行」をしてきました。最少催行人数が20名ということでしたが、何と参加者はたったの7名。中止にしなかったJRに感謝の旅でした。予想外に天気が良く、奥尻島の青い海や函館の夜景を楽しみました。

25日 初の北海道新幹線で新函館北斗駅へ→大沼公園遊覧船(駒ケ岳が良く見えました。)→江差へ(ビジネスホテル泊)

26日 フェリーで奥尻島へ2時間のクルーズ。3時間ほどの島内観光(昼食時間込)→江差→函館へ。函館夜景を鑑賞後駅前のシティーホテルへ。

27日 函館朝市→ハリスト正教会(80年の懺悔)→函館駅→新函館北斗駅→東京
*青函トンネル53km・23分

函館の夜景

 

エーガ愛好会 (230) ”戦争もの” について

ここのところ、飯田武昭君の膨大な鑑賞作品リストを巡って議論が盛んである。編集子の場合、慶応普通部時代は保護者なしでは映画館に入るべからずという校則に忠実に従っていたので(スガチューあたりは守っていなかったはずだ)、スーパー堅物で映画などは時間の無駄だと言い張る兄貴を説き伏せて同行してもらうのが大変で、映画をよく見たという記憶はない(そのころ見たのは ”西部魂“ と ”荒野の決闘“ ”カナダ平原” ”大平原” などだ)。晴れて映画館にはいれる高校に進学したとき、見計らったように自宅のそばに、その名もいかめしき ”馬込銀座名画座“ オープンしたので、それからは ”名画” ならよかろうと二本立て、三本立てにのめりこんだ。

難しいことにあこがれ,格好つけたがった年ごろ、”未完成交響楽“ だの “望郷” だの かの ”モロッコ“ なんかはこのころに見たものの例だ。三田キャンパスに行ってからは仲間が集まれば銀座の映画街へ、確か小型で90円のタクシーに分乗、ロードショウを学生割引で見るのが通例になっていた(あの映画街が事実上なくなってしまったのは寂しい限り)。ワンダー仲間ではこの ”エーガ派”と”ジャン荘派“ がいい勝負だったが、エーガ派、と思っていた自分の場合をこの飯田リストや論客保屋野君の論説に比べれば鑑賞歴はとても勝負にならない。まして飯田の場合、同じクラスでひたすらマルクス経済学(だったかな)に没頭している秀才と思い込んでいたこともあって、(やられた)という感じが強い。ただ、その 飯田リスト、を拝見したなかでもひとつだけ、”戦争もの“ に限ると小生にも多少出る幕があるかもしれないと思って書いてみることにする。

”戦争もの“ というのはもちろん自分だけの呼び方で、現代の戦争つまり第一次・二次大戦を背景に或いは題材にした作品の総称だが、これを3つのサブグループに分ける。第一は出来る限り史実をこのメディアを通じて語ろうとするもの、第二は史実を背景にしたフィクション、第三は単に時間軸と社会背景をこれに合わせているだけの、純然たるフィクション、というものである。

小生の本棚に並ぶDVDを分類すれば、第一グループは ”トラトラトラ“ ”史上最大の作戦“ ”遠すぎた橋“ ”バルジ大作戦“ ”レマゲン鉄橋“、”空軍大戦略“、”パリは燃えているか“ ”ノルマンディ“、”戦艦シュペー号の最後“ “エルアラメイン” ”二世部隊” などや、映画はみてはいるがDVDは持っていない最近の ”ウインストン・チャーチル:世界を救った男“ などになるだろう。第二グループの筆頭はなんといっても ”鷲は舞い降りた“ にはじまり、”ビスマルクを撃沈せよ“ “砂漠の鬼将軍” など、第三グループはたとえば “ナヴァロンの要塞” だとか ”633爆撃隊“ ”荒鷲の要塞“ ”英空軍のアメリカ人“  “狐たちの夜” ”眼下の敵” ”サハラ戦車隊” ”狐たちの夜” ”ケイン号の反乱” ”深く静かに潜航せよ” など数多く見てきた(多少論議をひろげて、時代背景とそのしがらみを描き戦闘場面などが出てこないがあきらかに戦争の結果生まれたもの、とすればたとえば ”禁じられた遊び“ だの ”自転車泥棒“ なども、さらに名作級になれば ”武器よさらば“ も ”誰が為に鐘は鳴る“ だってこのジャンルと言えないことはないが、ま、常識としてここまで論じるつもりにはならない)。

(なお、小生の場合、このジャンルの選択には ”欧州戦線を対象にする“ という限定詞をつけておく。自分自身、あの大戦を身近に感じた年代であり、母の従兄弟に終戦を認めずに戦線で割腹自殺したひとがいたり、伯父の一人は外務省の高官だったがソ連に連行抑留され現地で病死した(伯母はその実情を探り当てるのにその後半生のほとんどを費やした)などという事からどうしても関連した映画に平静には対応できないので、太平洋戦線のフィルムはあまり見ないからである(中国戦線に題材をとった 独立愚連隊シリーズなんてのもあるが、これは主演が加山雄三なのでいわば卒業生同窓意識から見ているものだ)。

さて、小生があえて戦争もの、を話題にしたのは、上記したサブグループのうち、第一のカテゴリにいれる作品を、飯田君や保屋野君が論じているような、映画作品としての優劣や好みの論議とは違う見方をしてきたからである。映画、というものがそもそもエンタテインメントである以上、史実を伝える、という態度で作られたこの ”第一グループ映画” は、同じ題材を使用してもあくまでエンタテインメントとして作られた作品とは異なった観点から鑑賞すべきものと思っているからだ。

自分は大学でまがりなりにも ”専攻“ したことになっている現代思想、という分野には引き続き興味を持ち続けているのに、高校大学を通して世界史の授業を受けておらず、現代の世界の在り方に大きな影響を及ぼした20世紀初頭からの世界の歴史を知らないことを感じている。そうかといって ”世界史“をあらためて読みなおす勇気がなかなか起きない。残された時間の少ない今、そういうギャップを手軽に埋めてくれるという意味で、こういう映画はまことに結構なツールなのだ。例えば、戦火の絶えない中東地域という現実を作り出したのが身勝手極まりない英仏両国の密約(サイクス・ピコ条約)であることを “アラビアのロレンス” で学び、欧州戦線の在り方を決定するまでのその英国の混乱を ”ウインストン・チャーチル“ で再確認する、といったことである。こういう成果?を与えてくれた映画作品には、極論すれば映画としての出来不出来や批評論議は(僕にとってはだが、もちろん)意味がない、というのが今回の論点なのである。その欧州での当時の事情や映画に現われない現実も知りたく、だいぶ苦労して関係の書物を何冊か読んだが(これについては稿を改める)、そこで得た知識が映画にどう反映しているかを見る、というような楽しみもある。

いっぽう、映画に限らず小説でもそうだが、作品そのものの位置づけから離れて、登場人物のことが気に罹りはじめる、という事はよくある。僕の場合、”史上最大の作戦“ で登場した米国陸軍のなかで欧州戦線の主軸であった第101空挺師団 (映画ではジョン・ウエインが司令官を演じた)の話を読んだことがあるが、その史実をその部隊の生存者たち直接の支援を得て作られた Band of Brothers という作品があることをしばらく通っていた会話學校の米人教師から教わってDVDを取り寄せてみた。ところが現物は驚くことに標準サイズDVD6枚に及ぶ大作であることがわかって肝をつぶした。この映画が日本で公開されたかどうか知らないが、ただでさえ難しい兵隊用語で貫かれているこの映画を最後まで見終えられるかどうか不安があり、本棚にこれで4年間、積ん読のままになっている。これを完了すればぼくの ”戦争もの映画“ 論にもはくがつくだろうが。報告がいつになるか、わからないが。

(HPOB 安斉孝之)なかなか話題についていく自信もなくもっぱら読んでいるだけでした。ただ、BAN OF BROTHERSのDVDをお持ちとあったのでメールいたします。私も持っています。US出張時に購入しています。なので価格はかなり安価だったと記憶しています。

あれは映画じゃなくてHBOの制作でテレビ映画です。映画並み以上の予算で作っていますがHBOで流すためのドラマでした。出張時に見て購入したくなり今は亡きFry’s Electronicsで購入しました。その後 日本語版でWOWOWで放送されました。英語版だとなかなか細かいニュアンス(特に戦場のスラングばかりなので)があまり理解できませんでした。この映画 スピルバーグとトムハンクスが総指揮で製作費もかなり膨大(100億円以上)でかなり良くできな映画でした。その後続編ではありませんがTHE PACIFICという太平洋戦争の物も同じ総指揮でHBOで制作されています。

(大学クラスメート 飯田武昭)貴兄がブログに投稿された「エーガ愛好会(230)“戦争もの”について」を拝読させてもらいました。文章の書きだしの部分に私の名前を引用して頂いているので、ジャイ大兄に倣って、映画を劇場で観られる年齢になった高校時代のことにつき、思い出したことを記します。

私は高校生になった昭和29年(1954年)から、堰を切ったように映画を見始めた記憶があります。この年にはロードショウの有楽座、東劇の他に、2本建て、3本建てを自由が丘武蔵野館、蒲田日活、五反田名画座、新丸子モンブラン、雪谷映画劇場、白楽白鳥座、新宿劇場、大森名画座、渋谷国際、目黒パレス、鎌倉市民座、荏原オデオン、エビス地球座、渋谷文化、渋谷国際などで今では名作中の名作と思しき作品を煙草の煙が充満している劇場で観ています。当時の新聞広告(添付)と電車の駅のポスターや劇場前の手書きの看板はちょっと芸術的な人を引き付ける魅力のあるもので、その虜になってしまった気がしています。

(44 安田)ジャイさん曰く「第二次世界大戦欧州戦線の史実を知るためには、史上最大の作戦(The Longest Day), 遠すぎた橋 (A Bridge Too Far) の二大作品が好適ですが、それを補足する意味では パリは燃えているか は貴重な映画だと思っています。」 僕も同感です。ノルマンディー上陸作戦 (1944年6月)と 上陸後、潰走するドイツ軍を追撃して連合軍がドイツ国内へ進撃する上で大きな障害となるオランダ国内の複数の河川を越えるために、空挺部隊を使用して同時に多くの橋を奪取する作戦であった。ベルリン侵攻を目指す連合軍が一敗地に塗れたオランダを戦場として戦われた マーケット・ガーデン作戦(‘44年9月)を描いたのが 「遠すぎた橋」。

これらの作品に加えたいのは、ノルマンディー上陸作戦のオマハビーチの戦闘を題材にその壮絶な悲惨さとその後のヒューマンドラマを描いた、スティーヴン・スピルバーグ監督の「プライベート・ライアン」(原題: Saving Private Ryan ー 兵卒ライアンの救出 – Privateは“兵卒”という意味 )1998年公開。しかし、大局的に第二次世界大戦欧州戦線を俯瞰して描いているというより、ミクロ的に参戦した兵士の運命と人間ドラマを描いた映画という点で「史上最大の作戦」「遠すぎた橋」とは異なります。主演はトム・ハンクス。オマハビーチでの攻防を生き延びた大尉(トム・ハンクス)が上陸作戦前日に行われた空挺降下の際に敵地で行方不明になった、兄3人を戦死で失った落下傘兵ライアン二等兵(マット・デイモン演じる)を救出せよという命令を受け、7人の兵士を選び出し、生死も定かでないライアン二等兵を探すために戦場へ出発する。ノルマンディー上陸作戦の延長線上の波乱万丈の人間物語を描いた映画だ。但し、ユダヤ人スピルバーグの描き方は、当然ながらナチスは悪役として惨い残酷さを描写することになるし、一方、米軍の英雄神話をやや誇張したプロパガンダ色も垣間見える。実際の戦場での現実とはやや異なる被害者型承認欲求に駆られたかのような違和感は否めませんでした。

エーガ愛好会 (229)  ダンディー少佐  (34 小泉幾多郎)

ジョン・フォード監督以降の西部劇の巨匠の一人サム・ペキンパー監督の「荒野のガンマン1961」「昼下がりの決闘1962」に次ぐ3作目の作品。ペキンパーの作品を見るとアメリカ精神の権化ともいうべき剛直な西部男の誇りの挽歌、哀切なエレジーといったものを感じるが、この作品も同様で、しかも最終的には、プロデューサーと揉めて、最後は編集権迄奪われてしまったといういわく付きの作品。監督はこの後4年間第4作「ワイルドパンチ1969」まで不遇の時代を送ったとのこと。

冒頭から中盤までは、緊密な画面構成とか、砂漠と水場の美しいロングショットの数々に思わず息を飲む。1864年10月31日南北戦争末期のニューメキシコ準州で、第5騎兵隊の一個中隊が、チャリバ(マイケル・ぺイト)率いる47名のアパッチの待ち伏せを受け、虐殺された。一人生き残ったラッパ手ティム・ライア(マイケル・アンダーソンJr)のその後の手記により物語は進行する。ダンディー少佐に扮するは、ベンハーやエルシドとして伝説を演じてきたチャールトン・ヘストンが無骨さとしたたかさを発揮、この騎兵隊長に率いられるメンバーが、グレアム中尉(ジム・ハットン)、ミュエル・ボッツ斥候(ジェームス・コバーン)、ゴメス軍曹(マリオ・アドルフ)、チラム軍曹(ベン・ジョンソン)、ハドリー脱走兵(ウオーレン・オーツ)といった一癖ありげなメンバー。人員不足に同行させた南軍捕虜たち20名。そのリーダーのタイリーン大尉(リチャード・ハリス)がダンディ―と 士官学校の同期で、過去の経緯から何かとことあるごとに対立。服装からしてダンディーは開幕時からどういう訳か上着なしの上半身下着のままで登場したのにはびっくり、タイリーンはいつも正装できちんとした服装で騎士道を貫く。他にも人員不足で採用した黒人兵たちや敗残兵たちが混乱を引き起こす。更に当面の敵チャリバ率いるアパッチが逃げ込んだメキシコの村にはフランス騎槍兵がおり、これとも戦わざるを得なくなった。凶悪なはずのチャリバは意外と簡単にラッパ兵ライアンが殺し、何となくやる気をなくしたダンディーは、村で会ったドイツ人未亡人テレサ(センタ・バーガー)と懇ろになり、二人で水浴しているうちにアパッチの弓矢で足を射ぬかれる。それだけでなく、メキシコの酒場で其処の女に手当てをしてもらいながら、ベッドに連れ込み、その場面をテレサに目撃される醜態を見せる。こうなると隊長としての権威も吹っ飛ぶ。その後は酒浸りの日々。女性関連は付け足しで必然性が感じられない。それに比較するとリチャード・ハリス扮するタイリーン大尉のこれまでの姿の恰好の良さは最後まで続く。何をやってもやらされても恰好いい。最後はリオ・グランデ川を対峙したフランス軍との激戦へ。この時点では、不思議なことに、ダンディー少佐は元の勇ましい少佐に戻っている。このアル中気味のダンディーを救ったのもタイリーンなのだ。フランス軍に奪い取られた星条旗を取り返したタイリーンが、敵弾に撃たれながらも敵の只中へ単身踊り込み壮烈な戦死。ダンディーがその国旗を持ち帰る。ダンディーは部下11名と共に帰還へ。 どうやらこれは、ペキンパー監督の意図した終わり方なかは疑問。軍人らしく死んだのはダンディー少佐?タイリーンがダンディーに代って勝利?という結末でもおかしくないというスッキリしない作品だった。

ハーバード式深呼吸について (普通部OB 篠原幸人)

血圧が高めなので主治医に毎朝、血圧を定期的に測るように言われてる方、いますよね。しかし早朝測る最初の血圧はとんでもなく高い。その為、何回も繰りかえし、血圧を測り直してしまう人はいませんか? また夜間、寝床についてもいろいろなことを想い出してなかなか寝付けない、つい睡眠薬に手を出したくなる方も少なくないと思います。そんな方々に是非試して欲しい方法があります。

私も、患者さんにもお勧めしている、薬もお金もかからない方法です。

血圧測定時や、夜、床に着いたら、

  • まず、口から大きく息を吐きだします。「フー」と声を出しても結構です。肺の        中に空気が無くなるくらい大きく全部吐き出してください。
  • 次に、4―5秒かけて大きく息を吸い込んでください。
  • そのまま、7秒ぐらい息を止めてください。
  • 次に、ゆっくりと8秒以上かけて、「フー」とその空気を全部吐き出してください。。

たったそれだけのことです。この4-7-8呼吸法は、何も正確に4秒、7秒、8秒でなくて結構です。大体、1,2,3とゆっくり頭の中で大体の秒数を数えればよいのです。 これはヨガの技法がもとになっているようですが、ハーバード大学にいたDr Weilの発案とされています。血圧を医者の前で測ると上がってしまう「白衣高血圧」の方にも有効で、私もよく患者さんに試しています。単に、せっかちに深呼吸を繰り返すだけよりは遥かに有効です。

この手技は、ストレスの解消や闘争心の調節にも良い一種の「リラクゼーション」の方法で、急に脈が速くなる「突発性頻脈」患者さんにも有効でした。いろいろな使い道があると思います。もし睡眠薬を常用せざるをえないが、ボケたくないと思っている方は、この方法と毎日の睡眠薬を1/2錠に減らすことから始め、更にだんだん睡眠薬の方を減らしていくのも一つの方法ですよ。 学生の試験直前にも有効かも。

ソール・ライター展 ー 写真とは何か   (普通部OB 船津於菟彦)

写真とはと言う問いに何度も答えてきているか、答えは無いと思う。小学一年生の記念写真も立派な写真で在り、決定的瞬間のショットも写真。またブレていても「美」と感じる写真もある。

今澁谷ヒカリエホールで開催中の「ソール・ライターの原点 ニューヨークの色 生誕100年記念写真展」が多くの人を呼んでいる。何がそんなに良いのか。
ファション写真もモデルがチョット気を抜いた瞬間とかモデルからずれてショットなど何とも不思議なファッション写真に成っていて人気が出たのでは。矢張り「気を抜く。チョット間を置く」事が何でも必要なのかも。

ソール・ライター(Saul Leiter、1923年12月3日 – 2013年11月26日)は、アメリカ合衆国の写真家・画家。1940年代と1950年代の初期作品は、のちに「“ニューヨーク派”写真」と認識されるものに重要な貢献をした。
83歳にして「衝撃の世界デビュー」を飾った写真家ソール・ライター(1923-2013)の全貌を明らかにする展覧会がいよいよ日本で開催される。2006年、ドイツのシュタイデル社が出版した作品集『Early Color』は写真界にとって「事件」といっても良い出来事だった。1940年代から50年代に撮影されながら長い間、光を見ることがなかったカラー写真の作品群は、写真界にとどまらず各界に大きな驚きをもたらした。その後、世界各地で展覧会の開催や作品集の出版が相次ぎ、2012年にはトーマス・リーチ監督によるドキュメンタリー映画「写真家ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと」が制作される。本作は、2015年に日本でも公開され、独自の哲学に満ちたライターの人生観と作品が多くの人々の共感を呼んだ。

ソール・ライターはユダヤ教の祭主の家に生まれ小坊主になれと言われてが、「脱走」してニューヨークで個展を開催したところでほとんど絵が売れない状況の中、ソール・ライターは写真を生活の糧に生かすことを思いつく。1948年頃からカラー・スライドフィルムでも撮影をはじめていたライターの写真は、次第にファッション誌の誌面を飾るようになっていく。
絵画で培われた色彩感覚、ものを見つめる繊細な視点、独特なユーモア、エレガンスに対する適確な理解などから生まれるライターの写真は、多くの雑誌関係者の注目を浴びた。

アート・ディレクターとして名を馳せていたヘンリー・ウルフもその一人だった。1958年、ウルフが『ハーパーズ・バザー』誌のアート・ディレクターに就任すると、ほぼ毎号ソール・ライターのファッション写真が同誌に登場するようになる。以後、『エル』『ヴォーグ』『ノヴァ』などファッション誌を中心に数多くの雑誌で活躍するが、1981年、5番街にあったスタジオは閉鎖される。時代が変わり写真家の自由な創造性が束縛されることが多くなった現状にフラストレーションを抱えていたのも事実だが、現実的に仕事が減少しスタジオを維持していけなくなったのが直接的要因だった。以後、ソール・ライターは忘れられた存在として、自分のためだけに作品を創造する「隠遁生活」へ入っていく。その部屋の再現ルームが作られてい

絵を描くことが好きでで家出同然でニューヨークに飛びで来る。絵は売れない。写真で身を立てるべく友人-当時の若き前衛文化人とグリニッチビレジの貧しい中で出会い色々な刺激を受け、彼らの写真を撮っている。若き日のアンディー・ウォーホル。ロバート・ラウシェンバーグ。ジョン・ケージ。セロニアス・モンク。写真家のユージン・スミス.この時彼らは「藝術は爆破だぁ」と言う意気に燃えている人々だった。それが幸いして花開く。

ソール・ライターのカラー写真が、世に出るまでに時間がかかった理由はいくつかある。まず、「自分を売り込む」ことをその美意識が許さなかった頑なな性格だ。ライターは、イースト・ヴィレッジのアパートとその界隈が存在すれば、写真を取り続けられれば、そして絵を描き続けられれば、それで満足だったのだ。
もう一つの理由は、カラー現像を取り巻く問題だった。ソール・ライターがカラー写真を撮りはじめた時代、モノクロ現像に比べ金銭的に負担が大きく、また写真家自身がコントロールしにくい現実があった。1994年頃、未現像のままアパートに保管されていたカラー写真の現像に、英国の写真感材メーカー・イルフォード社が補助金を提供したことで事態は一変する。ライターの作品を扱っていたニューヨークの名門写真ギャラリー、ハワード・グリーンバーグ・ギャラリーで、1940年代後半から1950年代に撮影されたカラー・プリントが関係者に初披露された瞬間は、まさに「歴史的瞬間」となった。ソール・ライターのアシスタント、マーギット・アーブ(現在、ソール・ライター財団代表)は、この時の感動を次のように回想している。「その瞬間を私は一生忘れないでしょう。私たちの前に、突然、画家の眼を通してとらえられた写真のイメージが広がったのです。灰色がかった雪と緑の信号、赤い傘、店のウィンドーに反射する太陽の光、赤と黄色の中で走るタクシー、オレンジのネクタイをした男性…」。1996年、早速、同ギャラリーでカラー作品の展覧会の開催が決定した。

1950年代に撮影されスタジオの中で眠り続けていた一連のカラー写真の発見は、世界の写真界を驚かせるに十分なものだった。以後、ソール・ライターの名は「カラー写真のパイオニア」として語られるようになる。
「私はモノクロ写真のみが、取り上げる価値のあるものだと信じている人たちが不思議でならない。美術の歴史は色彩の歴史だ。洞窟の壁画にだって色が施されているのだから」(ソール・ライター)。そしてこんな事を言っている「キャラリーで見ず知らずの人にこう言われたんだ<朝、君の写真を観るとといもいい気分だったよ>私の写真も無駄では無かったと」

https://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/23_saulleiter/

地球沸騰化の危機と国連の要請 (普通部OB 田村耕一郎)

友人MS氏からのメールをご参考までに転送します。
メールの題名は、地球温暖化を超え、「地球沸騰化の危機・・・」とあり一考を要します。昨日の「朝日朝刊」の一面トップの見出しは「最も暑かった7月・120年間分析・45年ぶり更新」となっていました)。

「エネルギー文明研究家」の「田村八州夫さん」からは、それどころか、「地球沸騰化」の危機への対応という「国連要請」をご紹介いただいています。
世界各地での異常な「高温記録」や、それに伴う「災害」を紹介し、その原因は「化石燃料の燃焼」による「温室効果ガスの排出」にあることを再確認しながら、   ”・・・小生は、地球の生態系が、恐竜絶滅の「第5次」の、次の「第6次絶滅」に向かう「人間活動が起こす危機」を覚える・・・少なくとも、「夏は酷
暑」が増幅し、反対に「冬は酷寒」になると、人間は50℃の空気を呼吸できない(グテーレス氏の言葉)・・・人間や動物の社会生活は、冬は「冬眠」、夏は「夏
眠」で、経済活動はストップするであろう・・・”

と、警告されています。

小生は、「インド(ニュデリー)」に駐在時代(1980年代初)に「40℃」の体験はありますが、「カリフォルニア」の「デスバレー」で、何と「56℃超」を記録したとのことで「驚嘆」しました。
余談ですが、「デスバレー」は19世紀半ばの「ゴールドラッシュ時代」に、カリフォルニアの「金鉱」を目指すグループが迷い込んで「死者」が出たことにその名前が由来しています。今は、「国立公園」となっていて、小生も一度訪れたことがあります(1980年代末)。太古の「海」が隆起した地形で一番深いところは「海面下数十メートル」、白い「塩湖」が広がっていたのが印象的でした。「ラスベガス」からレンタカーで「往復約500Km」のドライブでしたが、帰途、ガソリンが少なくなっても「ガソリンスタンド」が無く、(地平線の果てまで)車もほとんど見かけないので、こんなところで「ガス欠」したらおしまいだと、「恐怖」を覚えたのを想起しました。

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①  「世界気象機関(WMO)」や、「世界ウェザー・アトリビュー(WWA)」は、世界の「異常気象」を分析して、「今年7月が観測史上最も暑い月」となるとの見通しを示し、その主な原因が「温室効果ガスの排出」にあり、一刻も早く「化石燃料の燃焼」をやめなければ、地域によっては「エルニーニョ現象」による偏西風の大蛇行の影響も加わって、長期に亘ってより高温の熱波が発生すると警鐘を鳴らした。

今年は、すでに、カリフォルニア州「デスバレー」で「56℃超」を、「ローマ」や、「スペイン南部」で「40℃超」、日本でも広域的に「40℃近いの気温」を継
続的に記録し、世界各地で広域に山火事に襲われている。そして、「海面温度」が「大西洋」で7月26日ない過去最高の「24.9℃」を超えて上昇しており、「地中海」では24日に、史上最高の「28.71℃」を超えている。また、灼熱化は上昇気流や、前線に沿って豪雨が発生しやすい。

このような気候変動が、長期的には「植生崩壊」で「砂漠化」していこう。
既に、農業・生態や人間活動などに深刻な損害を、現に及ぼしている。
単に「熱中症」の危険どころではない。

② 国連事務総長グテーレス氏はこの事態を受けて、7月27日の国連本部での記者会見で、欧米やアジアなどの大部分で観測されている猛暑について「過酷な夏に
なっている。地球全体にとって大惨事だ」との認識を示した上で、「地球温暖化の時代は終わり、《地球沸騰=Global Boiling》の時代が到来した」と警告し、原因が人間活動にあるとして、各国政府や企業に対して即座に言い訳なしに、気候危機対策の強化を求めた。

グテーレス氏は、産業革命前からの気温上昇を1.5度に抑える国際枠組み「パリ協定」の目標達成は「まだ可能だ」と指摘し、「特に、温室効果ガス排
出の8割に責任を負っている20カ国(G20)が気候危機対策と気候正義の実現のためにさらに力を入れねばならない」と強調し、以下について各国に要請した。

・排出削減の面では、G20に新たな野心的な目標設定を要請した
・またすべての政府や企業に対して、化石燃料から再生可能エネルギーへの転換を進めるよう求めた。
・そのため、金融機関が化石燃料事業への融資を中止することを要求した。

・グテーレス氏は、途上国を支援する「緑の気候基金」について、主要7カ国(G7)のうち追加拠出を表明したのは、カナダとドイツだけだと懸念を表し、先進
国に迅速な行動を促した。

③グテーレス氏は「地球沸騰化」とはどんな事態なのかを明確に示していないが、物理的には、水が水蒸気に相変化(エネルギー拡散)してエントロピー増加が進むことであり、気候変動が一方的に非可逆的に進むステージになることだといえよう。

小生は地球の生態系が恐竜が「絶滅の第5次」の、次の「第6次絶滅」に向かう「人間活動が起こす危機」を覚える。少なくとも、「夏は酷暑」が増幅し、反対に「冬は酷寒」になると、人間は50℃の空気を呼吸できない(グテーレス氏の言葉)。
人間や動物の社会生活は、冬は「冬眠」、夏は「夏眠」で、経済活動はストップするであろう。

ウクライナ戦争や台湾有事で大軍拡だと、「紙コップ」の中で核威嚇しながら、愚かに騒いでいる場合ではない。
要するに、「今だけ、カネだけ、自分だけ」の世界観から抜けだし、「豊かな地球文明を次世代に引き渡す」超イデオロギーの世界観に切り替えることである。

「田村八洲夫氏のプロフィール」
1943年大阪府堺市に生まれる。京都大学(大学院・地球物理学)卒。探検部。1973年、石油資源開発会社入社、石油探鉱の技術開発、地熱開発の代表業務などに従事。取締役、顧問を経て2009年退職。その間に早稲田大学10年、東京大学2年、非常勤講師を勤める。著作として炭鉱関係の技術書3点、退職後にエネルギー文明論の著作として共著「石油文明が終わる」(もったいない学会)、自著「石油文明はなぜ終わるのか」(東洋出版)、自著「21世紀文明の岐路とエネルギー選択」(金融ブックス)がある。京大探険部OB。