
還暦の年の槍ヶ岳からこれまで12年間、 S44閑人会は毎年夏から秋に山行を実施してきた。

システィーナ礼拝堂(

25日、西条駅前よりバスにて石鎚山登山口へ。西日本最高峰、富

痩せた稜線がおっかない最高峰天狗岳への挑戦を思案するも、

27日(6日目)朝、解散式後、
旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
還暦の年の槍ヶ岳からこれまで12年間、 S44閑人会は毎年夏から秋に山行を実施してきた。
システィーナ礼拝堂(
25日、西条駅前よりバスにて石鎚山登山口へ。西日本最高峰、富
痩せた稜線がおっかない最高峰天狗岳への挑戦を思案するも、
27日(6日目)朝、解散式後、
(今年の甲子園での慶応高校の活躍は塾関係者にとって素晴らしいニュースだった。本稿の筆者は50年工学部機械工学科卒、YHP(現日本HP)でPC分野のエンジニアとして活躍、同時に長年にわたり高校野球マニアをもって任じている。同君はこのブログの出発時点から技術的サポートを提供してくれている間柄でもある。本稿について質問などある場合は下記まで直接ご連絡を歓迎)。
kohji.sugai@gmail.com http://facebook.com/kohji.sugai
甲子園に翻る塾旗
今年の慶應義塾高校(以下塾高と略します)野球部は10年ぶりに
1960年、後
この制度導入以前は中等部や普通部で軟式野球をやっていた内進生
横浜高校の前監督の渡辺元智氏や元野球部部長だった小倉清一郎氏
この推薦入試制度には大学のAO入試同様、
38/45という内申点をクリアした受験生は面接とその場で与え
塾高には授業料免除などの特待制度は全くありません。
大学入試が無いという大きなアドヴァンテージがあるにしても、
何時もブログを楽しく拝読させて頂いております。今回は特に「60周年山荘祭」の投稿を懐かしく拝読致しました。
60年前は遥かに昔のように思えたり、つい5、6年位前の事にも
感無量でした。肝心な妹尾さんが天に召されてしまって、言葉はありません。
天国でショッペイと賑やかに飲みながら小屋の話しをしていた事で
当時から KWV部員として呑気に楽しく山行に参加しておりましたが、山荘建設が決まり、三国トンネルを歩いて浅貝に入り、男性部員が
後は小屋が無事完成して、地元や先輩の方々がご出席下さって、盛大な完成パーテーが開催されて、全員が大感激!私も涙が出た事を覚えています。
私は化粧け もなく三つ編みで、 矢張り昔々ですね。
(返信) チンタさん:
今回の60周年記念山荘祭、それが現役中心で実施されたことが大変嬉しかった。山荘は現役が管理運営する。そして現役のワンダーフォーゲル活動の中心にあるべきだと今も思っているからである。
60年前、資金(積立金)の不足を補い、山荘建設へ部員が直接参加する意味をこめてワークキャンプを6月に2度、実施した。下級生も参加し、山荘を自分たちの手で作るんだということが、夢のような話が、いよいよ現実になりつつあると感じたことだった。
棟上げ式もすみ、夏休みに入ってすぐ、妹尾さんと二人で山荘の建築現場に入った。屋根は出来上がっていたので2階に2帖ほどの板を張ってもらい、ローソクの灯で一夜を過ごした。結果、少人数での使用には充分であったが、スキー合宿、雪山合宿には炊事場が狭いと判断し、二人合意の上、独断で炊事小屋を作ることにした。追加工事費は40万円、当時のわれわれの感覚では大金であった。工事を担当してもらっていた野中建設の野中さんからは、妹尾さん、森田さん、支払いは卒業してからでいいからと言っていただき、有難く甘えさせてもらったが、この炊事場がスキー合宿、浅貝BHの時、大いに役に立ったのである。
その10月、われわれ三年生が委員会を担当することになり、正月のスキー合宿を三国山荘でやることを決定し、私がリーダーになった。11月末のワークキャンプで山荘内の整備,薪作り,薪挙げ(平標小屋へ)、スキーゲレンデの整備をおこなった。当時、浅貝にはスキーゲレンデというものがなかったのである。いまの別荘地のあたり、まばらに生えていた雑木を伐採し、切り株が出ないように(スキーが引っかからないように)して300mくらいのゲレンデを作った。浅貝合宿の参加希望者は70名で、50名収容の小屋ではきついとは思われたが何とかしようと決心。薪もできたので寺家幸一をリーダーにクリスマスワンデルングと称して入荘、正月合宿のためのボッカを行った。このとき、浅貝には雪に関するデータが何もなかったので、百葉箱を持ち込み少なくとも冬の合宿、3月の浅貝BH(L.畠山有敦、40名参加)の間、2時間おきに気温、湿度、風向、積雪を調べた。このデータはのちに苗場スキー場を開発した西武・国土開発の方が部室まで訪ねてこられ、ぜひ提供してほしいといわれたものであった。
水は山荘の真裏の上水が勢いよく流れていて決して凍結することはなかった。電気がひけていなかったので、ランプを20個くらいつるし、暖房は薪ストーブ、全く静かな世界だった。浅貝の部落もよく訪問した。本陣(唯一、電話があった場所)、弁次さん、タバコ屋などで、各家庭も17号線の開通と電気がくることを楽しみにしていたものである。
あれから60年。浅貝は全く変わった。しかし山荘は現役にしっかり引き継がれているのだということを感じたことであった。
今回久しぶりに三国山荘に赴き60年の時間が
考えてみると小屋が建設される
小屋の工事
最初のスキー合宿で食当を命じられ、
しばらく山荘祭からは遠ざかっていたが、60周年記念ということもあって久しぶりに浅貝へ行ってきた。”祭り”も楽しいが、60年前、建設の現場にいわせた年代の僕らにはやはり ”小屋” そのものに気持ちがむかう。前々日の午後湯沢で一緒になったOB10数人で好天の小屋に到着したとき、何よりも自分にずん、と響いてきたのは、庭に当然のように立っていた杉の巨木と、その前にあった白樺の樹がなくなっていたことだった。
倒壊の可能性と小屋の安全確保のため、やむをえず伐採する、という計画は何度も議論され、残念とは思いつつ了承していたことだが、現場に行って感じた空虚な気持ちは忘れられない。特にあの白樺は、いよいよ卒業という秋、同期で一夜を明かしたプランで、完全に泥酔した小林章悟(山荘代表)が半分泣きながらそのまわりをぐるぐるととめどなく廻って、大声で小屋への想いをつぶやいていた、あの情景がまだ目に浮かぶ。今は病床にあってコミュニケーションに問題のある彼には、むしろ知らせない方がいいのだろうが。
前日から入荘していた妹尾が”今燃えているたき火、その上にあるまるで大鍋みたいなものが、伐採した杉の言ってみれば”輪切り”だ、と教えてくれた。気持ちを押し隠して冗談にしたのか、なんだか自分たち世代の諦観というか、冷厳な時間の経過、ということを言おうとしていたのがわかって、胸にしみた。
章悟の後を引き継いで山荘を担当したのは福永浩介だが、卒業後、OBの立場で山荘運営に携わった加藤清治も”白樺”に愛着をおぼえているひとりのようだ。
高校時代始めた山歩きを本格的に始められるとの希望を抱いてワンダーフォーゲル部に入りましが、入部早々に山小屋建設のワークキャンプが始まり、基礎の砂利を運ぶためにモッコを担いで、湯の沢の河原から雨の中を何度も往復。入部直後で山小屋建設に協力しているという思いはありませんでしたが、夏合宿で三国山に登り稜線から小屋の小さな赤い屋根が見えた時は皆で歓声をあげました。
ホールの薪ストーブは燃えが悪く、二階まで煙が充満することも度々で小屋から帰ると体全体がイブくさくて弟達に臭いと文句を言われました。便所は水洗でなく汲み取り式でワークキャンプではいつも便所の汲み取りを担当しました。
小屋が全焼したとき、知らせを受けて39年卒の小祝君と現地に急行しましたが、小屋は跡形もなく焼けおち、コンクリートの基礎だけを残して所々から煙が上がっていました。4年間春夏秋冬何度通ったことだろう、煙くて汚い小屋だったが小屋で過ごした日々を思い、深い喪失感を覚えたのを憶えております。小屋は2代目3代目となりましたが、細い白樺に囲まれた初代の山小屋に一番の愛着を感じております。
山荘と言えば、その裏に続いている通称三角尾根。2年夏の合宿前に実施された ”あの” リーダー養成で雨の中を半分眠りながらキタノイリ沢へ降りた、強烈な経験が忘れらないし、卒業1年目、児玉博が仙の倉で遭難したとき、小屋で待ち合わせていた同期の仲間たちが遺体を引き下ろしたのもこの尾根だった。多くの仲間が引退したあと、妹尾のアイデアでKWVのプレートを付けたときには、出発点の”三角”にその第一番目のプレートに児玉の名前を記した。それ以来、”三角”は同期の仲間にとって一種のシンボル的な存在になった。
児玉と小学校以来の親友の翠川などは浅貝へ行けば必ず三角を往復する。あの稜線の出っ張りから、児玉の最後の場所が遠望できるからではないか、と僕は思っているのだが、それを口に出す勇気はなお持ち合わせていない。
僕自身の三角尾根での自慢は3月春、田中新弥がリーダ―を務めたBHで、スキーを担ぎ上げ、平標頂上から滑り出し、この尾根を降りたことである。まだ今の夏路でさえ満足になかった藪と灌木の中を、滑るというよりスキーをわっぱ代わりにしたようなものだが、KWVに残る記録としては、平標から小屋まで、ともかく全ルート。、スキー滑降した、という意味ではおそらくはじめてだと内心思っているのだが自信はない。
児玉が亡くなった翌々年だったと思うのだが、児玉の遭難現場へお参りに行こうと、荒木床平さんや酒井征蔵さんたちとこの尾根を登り始めたが強烈な暴風雨にあって、その手前で引き返したのも僕には忘れられない記憶である。あれが、結果として ”しょっぺいさん” との最後の山になってしまったからだ。
少し時間が経過して、国境稜線に避難小屋を作ることに携わった。経過はいろいろあったが、いちにち、越路避難小屋の完成に伴う行事に何人かが川古から稜線へ駆けあがることになった。あいにく、台風がやってきて大雨が必然の深い谷に入るという、常識では考えられない行動を与儀なくされたことがあった。幸い同行してくれた佐藤団長のいわばマタギの知恵と技術によって事故に至らず無事帰荘できたが、小屋で待機していた僕ら何人かには戦々恐々の半日であった。この時、フィアンセを連れて小屋へ来て活躍したのが斎藤伸介。雨降って地が固まったのか、ほほえましいカプルができたのもこれまた小屋の徳であろうか。
僕が会社時代、同僚やらスキー仲間を何回か 初代小屋 へ連れて行ったことがあるが、毎回大好評だった。”ジャイさん、このシュラフのへりが偉く硬いけどこれでいいんですか?” ”え? ああすまん、それ、忘年会の時のげろが固まったままなんだ” “ギャー、ケイオーって野蛮なのね!”などといった楽しい時間があった。そのときに同行したスキーの名手であり、何を隠そう小生のblog挑戦を支えていてくれる大師匠、菅井康二君はこう書いてきた。
blogの山荘内部の写真を拝見しましたが私が泊めて頂いた時と
山荘へ行った回数もそれほど多くない僕ですら、こういう思い出はいろいろあるのだから、小屋に足しげく通った仲間たちには、いろんな ”初代” 小屋の記憶は強烈なはずだ。ぜひ思い出を投稿してもらえればありがたい。
60周年記念として挙行された山荘祭について、担当の52年卒桑原君は次のようにまとめてくれた。いずれ正式な報告はOB会ホームページや”ふみあと”に掲載されるだろうが、ここではいくつかのスナップショットを紹介しておきたいと思う。
9月15日(土)~17日(月)の3日間、と三國山荘に於いて、毎年恒例の山荘祭を開催しました。今年は山荘建設60年の記念の年であるので“60周年記念山荘祭”と銘打ち、企画致しました。
参加は、現役60名超、OB・OGも昭和34年卒の先輩から、今年卒業の若手OBまで、世代を超え・繋ぎ60名超の参加で、お陰様で総勢、120名超の“記念 大山荘祭”となりました。
天気は、メインイベントの中日16日(日)は、KWVの思いと情熱が通じ、昼のプラン行動中は、雨も降らず、この季節としては、恵まれた天気でした。昼のワンデルングは、下記4プランで現役OBとも好評であったようです。
1、旧三国街道散策 2本
・三国峠~般若塚~法師温泉
・永井宿~般若塚~三国峠~三國山荘
2、湯ノ沢(旧三国スキー場)~三坂峠~稲包山~三国峠
3、温泉三昧(猿ヶ京温泉~周辺散策)
夜のイベントは、来賓とし浅貝町内会の師田会長、苗場観光協会の佐藤会長(兼 山荘管理人)をお招きし、大BBQ大会で昼のプランの情報交換、また、現役の夏合宿の報告会等々、交流を図りました。
来年からは、古希に向け、また歴史を積み上げて参ります。皆さまの積極的なご活用が山荘の維持管理に大きく貢献致します。よろしくお願いいたします。
天気は夕食パーティが始まる前まで持ったが、悪化が予想されたので庭にテントを張ったり、現役諸君が頑張ってくれた。特に今回は地面に板を敷き詰めるなどの配慮があり、深夜からの降雨にも十分耐えた。来年も今年と同じくらいの参加人数だとテントがもう一張り、欲しいとろかもしれないが。
例によってキチンは大忙し。初代の設計から基本的構造は同じだが、全般的に衛生的?向上があったように思える。最近では飯盒やストーブ飯などは無縁だし、電気家電品がずらりと並ぶ。
ただしBBQ前の食事メニューは60年変わらないカレーライス(小生は自分の用意をわすれたこともあり3連続で食べる羽目に陥った)。ただし、荒木床平さんが見るだけで機嫌を悪くした時代とは大違いの味なのは、ルーの進化か女性部員の腕なのかわからないまま。
小屋の中でぐだぐだしてるのも小屋生活の楽しみ、とするのは60年たっても変わらないようだ。現役の中にはPCを持ち出して一見、勉強しているらしいのもいたがOB連は(この時間から飲みだすか、どうか?)という雰囲気である。一時こういう時には必ずギターを持ち出す奴がいたものだが、いまやカントリー・ウエスタンは出番が少ないのかもしれない。
一方、山荘祭といえどもワークキャンプを兼ねるのも変わらないようだ。今回伐採した樹の残材処理に、いつも通りストイックに取り組んだのが妹尾。駆り出されたのか、義侠心かはたまた運動不足解消なのか、一部現役の中には(たぶん、しょうがねえなあ、このおじさん!)と思っていたのもいたに違いないが、妹尾の見積もりでは5トン!を超えるという残材処理が進行していた。ワークキャンプに酷使されたチェーンソーの修理など、裏方の地道な活躍も見慣れた光景であった。
第二日目は現役OB交歓の場として企画されたワンデルング。中でも健脚元気組を対象にした稲包ー三国峠プランは、いわゆる”新道開発プロジェクト”で開発されたルートの一部がめでたく ”KWV新道” として県の管理下に入ることを受け、そこに建てる指導標を運び上げる、というアルバイトが組み込まれた。桑原君からのメモを再度ひいておこう。
道標は、ご指摘の通り皆さま先輩の強く厚いご支援で完成した“KWV新道”の道標です。記録では、全17本ですが、実際は、20本有ります。記録に有る17本の内、朽ちて倒れてダメージの酷いものから順に、建て替えます。その正に1本目がこの写真です。
小生も新道開発プランの途中でこの20本のうちの1本をほんのわずかの距離を背負った記憶があるが、あれを稜線まで担ぐというのか!というのが正直な反応。
この他のプランはともかくも天候に恵まれて無事完了。夜は恒例のBBQ大会を楽しんだが、後半から空模様悪化、現役諸君恒例のパフォーマンスが始まるころから雨となった。これをきっかけに、ロートル組にはねぐらに引き返したものも多かったが、それぞれ、宿で愉快な夜を過ごしたのは間違いない。
翌朝、小屋前に集合。今年からは時間が大幅に早められ、夕べの残りか、体操がつらかったOBも多かった。最後は現役を代表、3年鈴木君のエールと慶応讃歌で幕を閉じた。この朝の情景を俳人、杉本光祥君(37年)はこう詠んだ。
「
霧上がり 老若男女 集ふ 朝
楽しい時間を演出してくれたCL以下、関係各位に改めて感謝申し上げる次第である。
異常に暑かった今年の夏もそろそろ終わり、秋の気配も感じられるこの頃、漢詩では、月、菊、雁、霜、秋風、紅葉、などを材料とするものが多い。中秋の名月にちなんで、月を詠んだいくつかを紹介したい。阿倍仲麻呂は奈良時代の遣唐留学生、養老一年(西暦717年)吉備真備らとともに唐に渡り、玄宗皇帝に仕えた。天平勝宝五年(753年)帰国を許され鑑真和上とともに1月15日明州から帰国の途に就いた。この日はちょうど満月で「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」の歌を詠んだと言われる。これを英国人アーサー・ウエイリー(大英博物館に勤め語学の天才とも言われ「源氏物語」英訳でも知られる)が訳したものをまず紹介する。
Across the field of heaven
Casting my gaze I wonder
Whether over the hills of Mikasa also,
That is by Kasuga,
The moon has risen.
盛唐の代表的な山水詩人「王維」に「竹里館」という五言絶句がある。
獨坐幽篁裏 独り幽篁の裏に座し
弾琴復長嘯 弾琴 復た 長嘯
深林人不知 深林 人知らず
名月来相照 名月 来りて相照らす
夏目漱石は「草枕」に東洋詩人の代表的な境地としてこの詩をあげ「汽車、権利、義務、道徳、礼儀で疲れ果てたのち、凡てを忘却してぐっすりねこむような功徳である。」と言った。此のような境地に憧れるのが良いのか、もっと違う道があるのか、考えさせられるようにも思われるのだが。先に紹介した李白にもいくつもの月を読んだ詩がある。
峨眉山月帆輪秋 峨眉山月 半輪の秋
影入平羌江水流 影は平羌 江水に入って流る
夜発清渓向三峡 夜 清渓を発して 三峡に向かう
思君不見下渝州 君を思えども見えず 渝州に下る
此詩を作ったのは李白二十代の半ば。以降長い遍歴の旅が続く。
長安一片月 長安 一片の月
万戸擣衣声 万戸 衣を擣(う)つの声
秋風吹不尽 秋風 吹いて尽きず
総是玉関情 総べて是れ 玉関の情
何日平胡虜 何れの日か 胡虜を平らげて
良人罷遠征 良人 遠征を罷めん
もう一つ、静思夜という詩を挙げておこう
牀前看月光 牀前 月光を看る
疑是池上霜 疑うらくは 是れ地上の霜かと
挙頭望山月 頭を挙げて山月を望み
低頭思故郷 頭を低(た)れて故郷を思う
漢詩の最盛期,詩仙と呼ばれた杜甫にも「月夜」と題する詩がある。
今夜鄜州月 今夜 鄜州の月
閨中只独看 閨中 只独り看ん
遥憐小児女 遥かに憐れむ 小児女の
未解憶長安 未だ長安を憶うを解せざるを
香霧雲鬟湿 香霧 雲鬟(うんかん)湿(うるお)い
清輝玉臂寒 清輝(せいき)玉臂(ぎょくひ)寒からん
何時倚虚幌 何れの時か虚幌(きょこう)に倚(よ)り
双照涙痕乾 双び照らされて涙痕(るいこん)乾かん
さて 平安時代の日本文学に最も大きな影響を与えた詩人白居易(楽天)に「八月十五日夜禁中獨直対月憶元九」がある。
銀臺金闕夕沈沈 銀台 金闕 夕べに沈沈たり
獨宿相思在翰林 独り宿して相い思いて翰林に在り
三五夜中新月色 三五夜中 新月の色
二千里外故人心 二千里外 故人の心
渚宮東面煙波冷 渚宮の東面 煙波冷ややかに
浴殿西頭鐘漏深 浴殿の西頭 鐘漏(しょうろう)深し
猶恐清光不同見 猶(た)だ恐る 清光の同(とも)に見ざるを
江陵卑湿足秋陰 江陵は卑湿にして秋陰足らん
アンダーライン部分(三五夜中新月色 二千里外故人心)は平安朝の文人の心を捉えたようで、紫式部の「源氏物語」にも引用されている。須磨の巻の中で
月いと花やかにさし出でたるに、今夜は十五夜なりけり、と(源氏の君の)おぼし出でて、殿上の御遊び恋しう、所々ながめ給ふらむかし、思いやり給うにつけても、月の顔のみ、まぼられ給う。二千里の外の故人の心」と誦(ずん)じ給える。例の、涙も止められず
なお この句は、藤原公任(きんとう)撰の「和漢朗詠集」にも採られさらに広く知られるようになった。まだまだ数多くの名吟があるが、次の機会に譲る。
中国雲南省麗江・玉龍雪山訪問記です(2017年11月11日~17日)。S44同期仲間総勢5人で行きました。齢70歳を超えるワンダラーには4500mまでロープウェイで上がれるという老齢者には打ってつけの山岳観光コースでした。
中国雲南省のビルマ・チベットに近く、氷河を持つ山としては北半球で最南端に位置する玉龍雪山。南北35キロ東西13キロに及ぶ巨大な山塊。ヒマラヤの最東端に位置する。麗江は中国南部・ラオス・ミャンマーから四川省・チベットを結ぶ茶葉街道の要衝、少数民族 納西(ナシ)族 30万人の都。玉龍雪山は納西族にとって聖なる山。標高5,596m、未踏峰。ユネスコ自然世界遺産、麗江もユネスコ世界遺産の美しい古都。
麗江はの省都 昆明から飛行機で一時間500キロ西北に位置し、標高2,450m(立山室堂と同じ)、北北西へ仰ぎ見る山頂まで水平直線距離15キロ(東京駅から羽田空港までと等距離)、標高差3,100余m。因みに富士山は山梨県富士吉田市(標高700m~900m)から直線水平距離15Km。ちょうど、標高差と距離は富士吉田市から仰ぎ見る富士山と同じ位です(3000m強、15Km)。今や麗江は人口100万を超える大都市。高いビルは無く旧市街を取り巻いて新市街が整然と緑溢れる景観の調和を保っている。これ程高い山が大都市の至近に聳えるのは、1969年に訪れたボリビアの首都ラパス(標高3600m)から指呼の距離にある、イリマニ山(6439m)以外知りません。ラパス市からは標高差2,800m。
麗江 玉龍雪山は歴史 文化 大自然の異なる魅力が混合した、中国でも超最高級の国立公園に指定されている一級のトラベル地でした。登山口は山塊の東側、麗江から25キロ、標高約3,000m地点。山塊の北東に清流の谷 「藍月谷」、大規模な上高地の類あり。標高2,800m~2,500m、山頂まで谷からの標高差 約3,000m。チベットに近くヤクも生息。到達最高地点4,680mへは3,300m地点からロープウェイで4,500mまで上り、そこからは徒歩で標高差約200m登った地点(空気が薄く携帯酸素ボンベ持参)。スケールはアルプスを裕に凌駕してヒマラヤの雰囲気に近い。景観的に四姑娘山とミニ九寨溝と歴史文化古都を混ぜ合わせた大変魅力に富む山岳歴史文化の旅でした。乾季で毎日快晴に恵まれたのも幸運でした。東京からは上海、昆明、麗江と飛行機を乗り継ぎます。写真には猛々しくも美しい山岳景観のみならず、イナゴ・蜂・さなぎの中国色濃い揚げ料理、昆明近くの世界遺産Stone Forest(石林)、麗江の旧市街の写真を紹介します。