しばらく山荘祭からは遠ざかっていたが、60周年記念ということもあって久しぶりに浅貝へ行ってきた。”祭り”も楽しいが、60年前、建設の現場にいわせた年代の僕らにはやはり ”小屋” そのものに気持ちがむかう。前々日の午後湯沢で一緒になったOB10数人で好天の小屋に到着したとき、何よりも自分にずん、と響いてきたのは、庭に当然のように立っていた杉の巨木と、その前にあった白樺の樹がなくなっていたことだった。
倒壊の可能性と小屋の安全確保のため、やむをえず伐採する、という計画は何度も議論され、残念とは思いつつ了承していたことだが、現場に行って感じた空虚な気持ちは忘れられない。特にあの白樺は、いよいよ卒業という秋、同期で一夜を明かしたプランで、完全に泥酔した小林章悟(山荘代表)が半分泣きながらそのまわりをぐるぐるととめどなく廻って、大声で小屋への想いをつぶやいていた、あの情景がまだ目に浮かぶ。今は病床にあってコミュニケーションに問題のある彼には、むしろ知らせない方がいいのだろうが。
前日から入荘していた妹尾が”今燃えているたき火、その上にあるまるで大鍋みたいなものが、伐採した杉の言ってみれば”輪切り”だ、と教えてくれた。気持ちを押し隠して冗談にしたのか、なんだか自分たち世代の諦観というか、冷厳な時間の経過、ということを言おうとしていたのがわかって、胸にしみた。
章悟の後を引き継いで山荘を担当したのは福永浩介だが、卒業後、OBの立場で山荘運営に携わった加藤清治も”白樺”に愛着をおぼえているひとりのようだ。
高校時代始めた山歩きを本格的に始められるとの希望を抱いてワンダーフォーゲル部に入りましが、入部早々に山小屋建設のワークキャンプが始まり、基礎の砂利を運ぶためにモッコを担いで、湯の沢の河原から雨の中を何度も往復。入部直後で山小屋建設に協力しているという思いはありませんでしたが、夏合宿で三国山に登り稜線から小屋の小さな赤い屋根が見えた時は皆で歓声をあげました。
ホールの薪ストーブは燃えが悪く、二階まで煙が充満することも度々で小屋から帰ると体全体がイブくさくて弟達に臭いと文句を言われました。便所は水洗でなく汲み取り式でワークキャンプではいつも便所の汲み取りを担当しました。
小屋が全焼したとき、知らせを受けて39年卒の小祝君と現地に急行しましたが、小屋は跡形もなく焼けおち、コンクリートの基礎だけを残して所々から煙が上がっていました。4年間春夏秋冬何度通ったことだろう、煙くて汚い小屋だったが小屋で過ごした日々を思い、深い喪失感を覚えたのを憶えております。小屋は2代目3代目となりましたが、細い白樺に囲まれた初代の山小屋に一番の愛着を感じております。
山荘と言えば、その裏に続いている通称三角尾根。2年夏の合宿前に実施された ”あの” リーダー養成で雨の中を半分眠りながらキタノイリ沢へ降りた、強烈な経験が忘れらないし、卒業1年目、児玉博が仙の倉で遭難したとき、小屋で待ち合わせていた同期の仲間たちが遺体を引き下ろしたのもこの尾根だった。多くの仲間が引退したあと、妹尾のアイデアでKWVのプレートを付けたときには、出発点の”三角”にその第一番目のプレートに児玉の名前を記した。それ以来、”三角”は同期の仲間にとって一種のシンボル的な存在になった。
児玉と小学校以来の親友の翠川などは浅貝へ行けば必ず三角を往復する。あの稜線の出っ張りから、児玉の最後の場所が遠望できるからではないか、と僕は思っているのだが、それを口に出す勇気はなお持ち合わせていない。
僕自身の三角尾根での自慢は3月春、田中新弥がリーダ―を務めたBHで、スキーを担ぎ上げ、平標頂上から滑り出し、この尾根を降りたことである。まだ今の夏路でさえ満足になかった藪と灌木の中を、滑るというよりスキーをわっぱ代わりにしたようなものだが、KWVに残る記録としては、平標から小屋まで、ともかく全ルート。、スキー滑降した、という意味ではおそらくはじめてだと内心思っているのだが自信はない。
児玉が亡くなった翌々年だったと思うのだが、児玉の遭難現場へお参りに行こうと、荒木床平さんや酒井征蔵さんたちとこの尾根を登り始めたが強烈な暴風雨にあって、その手前で引き返したのも僕には忘れられない記憶である。あれが、結果として ”しょっぺいさん” との最後の山になってしまったからだ。
少し時間が経過して、国境稜線に避難小屋を作ることに携わった。経過はいろいろあったが、いちにち、越路避難小屋の完成に伴う行事に何人かが川古から稜線へ駆けあがることになった。あいにく、台風がやってきて大雨が必然の深い谷に入るという、常識では考えられない行動を与儀なくされたことがあった。幸い同行してくれた佐藤団長のいわばマタギの知恵と技術によって事故に至らず無事帰荘できたが、小屋で待機していた僕ら何人かには戦々恐々の半日であった。この時、フィアンセを連れて小屋へ来て活躍したのが斎藤伸介。雨降って地が固まったのか、ほほえましいカプルができたのもこれまた小屋の徳であろうか。
僕が会社時代、同僚やらスキー仲間を何回か 初代小屋 へ連れて行ったことがあるが、毎回大好評だった。”ジャイさん、このシュラフのへりが偉く硬いけどこれでいいんですか?” ”え? ああすまん、それ、忘年会の時のげろが固まったままなんだ” “ギャー、ケイオーって野蛮なのね!”などといった楽しい時間があった。そのときに同行したスキーの名手であり、何を隠そう小生のblog挑戦を支えていてくれる大師匠、菅井康二君はこう書いてきた。
blogの山荘内部の写真を拝見しましたが私が泊めて頂いた時と
山荘へ行った回数もそれほど多くない僕ですら、こういう思い出はいろいろあるのだから、小屋に足しげく通った仲間たちには、いろんな ”初代” 小屋の記憶は強烈なはずだ。ぜひ思い出を投稿してもらえればありがたい。