和歌山・御坊出身の田端の企画、案内で世界遺産の「熊野古道」を歩こうとの話が6年前、飲み会の席で持ち上がり、腰が重かった田端もその気になってくれたが、2011年9月の紀伊半島を襲った台風12号での甚大な被害の影響でこのプランはポシャってしまった。
今般、KWV卒業45周年記念イベントとして改めて企画され、前世の罪を浄めてくれる「熊野速玉大社」、現世の縁を結んでくれる「熊野那智大社」と、来世を救済してくれる「熊野本宮大社」の熊野三山を巡れば、過去、現在、未来の安寧を得られるとされ、神々が住む癒しと蘇りの聖地「熊野」に、それなりに脛に何らかの傷を持ちながらもそれなりに前向きな未来志向の47会同期22名が集結した。
先発隊のSL伊川、熊倉夫婦、古泉、山本、金沢から舛田、小倉から水町は、11/6、十津川温泉から小辺路を「熊野本宮大社」に抜け、11/8、本隊と合流。
本隊は、東京から空路でL田端、大谷、小野田、鈴木、早川、林、吉田夫婦、岡谷から今井;陸路大阪から奥本、金森、後藤;それに山口から関谷の面々。
風来坊の岩崎は何処を彷徨って来たのか、11/8、川湯の宿で合流。それに、未だ現役で活動中の名古屋の那波は、11/9、南紀勝浦での宴会に駆け付けて来た。又、残念ながら、直前に、母親が入院の内藤は参加出来ず。何やかんやワンダーの中では若手と云われる粗古希・団塊世代22名参加でのプランだった。
11/8(水) 雨
本隊は、10時過ぎ、JR白浜駅にて集結、マイクロバスにて熊野参詣道・中辺路の起点となる「滝尻王子宮」に参拝し、プランの安全を祈願。
昼前、先発隊7名と熊野本宮大社近くのバス停で合流。舛田ガリメはここから帰金沢。
39年卒堀川先輩に紹介していただいた、富山・高岡出身、熊野在住25年の語り部ガイドの番留京子さんとも落ち合い、道の駅「熊野古道本宮」での昼食後、コース説明を受けた。
12:45 小雨の中、スタート地点の「発心門王子」社殿に関谷が一行を代表し、先頭で二礼二拍一礼の作法で恭しく神々に挨拶した後、番留ガイドが吹くホラ貝に導かれ「熊野古道」中辺路の霊域に踏み入れた。
道端に点在する江戸時代からのお地蔵さんの由来等々を番留さんから説明を受け、ご利益あるように拝みながら、「水吞王子」を経て、14:15 「伏拝王子」の茶屋にて温泉水で濾したコーヒーで一本。
道中ではスペイン人、アメリカ人、オーストリア人等々に出会うが、何と外国人参詣者の多いこと!恐らくSNSでこの神秘的なパワースポットが取り上げられているのだろう。茶屋で出会ったスペイン人は、スペインのサンチアゴ巡礼路には多くの日本人が来ているよと笑っていた。それもそうだ!
幻想的な杉林の中、所々、江戸時代に敷かれた石畳を踏みしめながら、ガイドさんも苦笑していたが、この人数となると健脚組、だらだら歩き組、おしゃべり優先組等々のグループにばらけてしまい、ポイントポイントで人数点呼しながら、16:00、7kmの行程を踏破し、「熊野本宮大社」を参詣した。「熊野本宮大社」は、杉木立が生い茂る静かな森にあり、古式ゆかしき雰囲気を漂わせているが、明治22年(1889)の熊野川の大洪水で流失を免れた社殿をそのまま移設したものとの事。元々は、10分程の熊野川の中州に日本一高い大鳥居(33.9m)をくぐった先の「大斎原」の旧社地にあった。平安時代の上皇法皇をはじめ江戸時代に至っての庶民の熊野詣はこの大斎原を目指したものだった。かつての社地があった石祠の前にたたずむと神妙な気持ちになったのはなぜだろうか。
この夜の宿は、これも堀川先輩から紹介いただいた川湯温泉の民宿「立石」。観光協会のパンフには「心のこもったサービスと、料理のおいしい民宿」とあったが、その通りで、恐らく家族経営と思われるが、気持ちの良い女将さんのもてなしとアユの天ぷらをはじめとするテーブル一杯の心のこもった料理は美味かった。それを同期の小嶋が米沢から送ってくれた銘酒・東光と、地元和歌山の黒牛でワイワイガヤガヤの宴会となった。川原を掘ると熱い湯が湧き出すとの事で、酔い覚ましに川原の露天風呂を堪能。
11/9(木) 晴れ
8:30 前夜、入浴に行こうとして、迂闊にも転倒、足を打撲したO君は、朝食を食べたら突如回復(!)、離脱することなく全員で旅を続行。宿の女将に見送られ、一路、新宮・那智勝浦を目指し、熊野川沿いを南下。途中のさつき公園で平成23年の紀伊半島大水害時、熊野川氾濫の最高水位リメンバー塔を見上げて一同自然の脅威に改めて畏怖の念に打たれた。
9:30 538段の石段を登りつめ、熊野の神々が最初に降臨した聖地と伝えられている「神倉神社」を参拝、しめ縄で巻かれた巨大な「ゴトビキ岩」に両手を添え新たなパワーを貰った。「熊野速玉大社」に向かう途中、清流・古座川の名水を72時間かけて製氷したかき氷の「仲氷店」に立ち寄る。有名人も多く訪れ、TVでもたびたび紹介されているようだが、食べてもキーンとならず、柚子の変種との「じゃばら汁」と自家製シロップのかき氷は何とも言えなかった。この氷でのバーボン・オンザロックは最高だろうな!
全国熊野神社の総本宮である「熊野速玉大社」では神主から説明を受ける。覚えているのは、樹齢約千年と云われる境内の梛(ナギ)の巨木の葉は切れないので縁結び、夫婦仲等にご利益ありとの事。勿論、そのご利益をとお守りを求めた!
昼飯にこの地の名物、高菜の浅漬で包んだにぎりの入った「めはり寿司」を勝浦で受け取りに行く途中、古泉ギッコが、予定には入っていなかった世界遺産の「補陀洛山寺」に寄りたいと。ネットを検索していたら、「日本人の心を揺さぶる云々」とあったので是非寄って見たいとのことで。これが何と驚きだった。
「補陀洛」とはサンスクリット語で観音浄土を意味するようだが、日本人ではあろうが、正に、サンスクリットのインド系ではなかろうかと思える様な目つきをした寺の管理人が、浄土を求めた修行僧侶であった渡海上人の話を熱っぽく語ってくれた。史料が全く残っていないので、伝承・推測でしかないようだが、生きながらに南海の観音浄土を目指し、平安時代から江戸期まで、20数回にわたり、寺の住僧達が、釘付けされた狭い箱舟に閉じ込まれ、那智の海岸から送り出されたとのこと。
又、本堂には平安後期の作と伝えられる高さ1.9mの千手千眼観世音菩薩の木造立像が厳重な金庫の中に納められおり、渡海上人の話を神妙に聞いた我々に対する特別の計らいとかで、金庫を開け、拝観させてもらった。いずれは国宝に指定される模様の重要文化財。サプライズ訪問となったこの寺は、正に、我々の心を揺さぶったのは事実だ!
昼食後、「那智大社」の参詣道である「大門坂」の杉木立に包まれた石段を行くと、突然、ほら貝の音色で迎えられた。番留さんの仲間の山伏だった。たまたま打ち合わせがあったので、我々の参詣を知り、出迎えたとの事。小生のボケの始まりか!話はうろ覚えだが、この山伏の関係者のどなたかが慶応山岳部で槍の慶応尾根由来の一人だったとか。
日本一の落差を誇る那智の滝をご神体とし、命の根源である水を敬う「熊野大社」と、隣り合わせの観音信仰の中心的霊場でもある「那智山西岸渡寺」、それに「那智の滝」そのもの、いずれも世界遺産、を参拝して今回の行動プランを終えた。
2日間にわたり行動を共にしてくれた番留さんと、大門坂の駐車場で、名残りを惜しみながら別れ、南紀勝浦温泉の「ホテル一の滝」へ。名古屋から駆け付けた那波も合流し、JR南紀勝浦駅近くのマグロ専門の郷土料理店「桂城」で二日目の大宴会。この店を探すのに駅周辺をうろうろしてしまい、アカズが女学生に尋ねたところ、なんと偶然にも、「私の家です」とのこと。学校帰りの「桂城」の高三のお嬢さんだった!「桂城」では、吉本で修業したのではと思える様な口達者な板前の、店先での「マグロ解体ショー」のアトラクションもあり、解体したばかりのマグロを肴に盛り上がった。来年、知り合って50年と粗古希を記念し、何処かでの再会を約して解散。
11/10(金) 晴れ
大阪3人組の奥本、金森、後藤は、早朝の特急で、帰阪。本隊は、JR紀伊勝浦駅で、三々五々、それぞれの目的地に向かった。今回リーダーの田端は故郷の御坊に寄って帰ると。ギッコは串本から自転車を借りて潮岬灯台を見てくるとか。タクは一人で懲りずに又何処かを放浪するとかで消えた。那波は名古屋へ、それにクマ・アカズも名古屋の息子一家に寄ってからと。水町ピンスケは関空からタダ券で東京へ。その他帰京組と関谷は、白浜の新鮮魚の「とれとれ市場」で土産を買い出し、白浜空港から東京へ。
KWV47年卒で三田会費納入の実質会員36名中、22名が参加した今回の卒業45周年記念「熊野古道」ワンデルングを無事終えた。熊野各聖地のパワースポットで新たな活力・知力を充電、那智の延命水を各々がそれなりの延命年数の願いを込め何杯かを飲み、夜な夜な学生時代に戻ったかのように飲み食い、語り合った我々は、これからの人生も(を)大いにエンジョイしようと各人が期することが出来たプランだった。皆、ありがとう。
なお、先発隊の行動記録は別掲する。