うらやましい話

出版や書籍関係の方ならばあるいはご存知かもしれないが、装丁の専門家で平野甲賀という人物がいる。小生の小学校時代のクラスメートで、幼少のころから天才的な男だった。恩師も健在なクラス仲間で折あるごとに集まっていたうちの一人だが、数年前、突然、小豆島へ移住してしまった。さすが芸術家だなあ、ゴーギャンばりの余生を過ごすのか、とおもっていたが何年振りかでメールが届いた。そのHPを一読、やられたあ!という感じである。こういう老後もあるのだな、というご参考までに夫人からのメールを転載する。ぜひURLをご参照ありたし。彼の活動にご興味あらば、直接夫人あてご連絡ください。

From: 平野 公子 [mailto:haru@jazz.email.ne.jp]
Sent: Friday, December 1, 2017 11:01 PM
To: 早川 仁
Subject: 平野甲賀

 

毎度お騒がせです。

平野老人組 来年からの活動のお知らせ

モーションギャラリーのファンデイング始りました。
是非、お友達に広めていただければ有り難いです
よろしくお願いします。
https://motion-gallery.net/projects/sonofuneninotte_ba

近況です! (47 水町敬)

CLASH読みました (元日本HP 坂東正康)

CLASHとCRASHとCRUSHの意味の違いは、 とくに写真が、参考になりました。

「CLASH !」の投稿者は、ぼくよりもひと回り年上の、 あるグローバル企業における元上司ですが、彼の米国の原像は、 ぼくの眼には、「ジョン・F・ ケネディが大統領になったときの米国」と映りました。 ぼくにとっての米国とは、 テレビドラマを通じてやってきた華やかな米国というのもありまし たが、「ベトナム戦争の責任国としての米国」でした。 二人の原像は、けっこう違うとは、折々に感じていました。

最近の北朝鮮問題も、 朝鮮戦争は現在休戦中といった事情は別にして、ぼくにとっては、 米国による気に食わない外国への脅し、介入という、 ベトナム戦争の延長線上のできごとです。 イランやイラクやアフガニスタンと同じです。そういう意味では、 日米安保条約と日米地位協定が、 日本国憲法のスーパーセットになっている現状と本質的な構造は違 わない。 ペリーのころのクジラ脂ビジネスの食料基地としての日本がそのひ な形です。そういうスーパーセット構造を選択したので、 とりあえずは余裕ができ、デミングのQCブームの土壌が成立しま した。

デミングのQCブームに関してはぼくはたいした意見もないのです が、太平洋戦争中の「八紘一宇」や「非国民」 というもののサブセット的な雰囲気を、 業界や社内でなんとなく実感させてもらえたのが、 ぼくにとっては幸いでした。「八紘一宇」や「非国民」は、 日本では、間欠泉的に現れてきます。たとえば、4年前に発表され た「日本国憲法改正草案(現行憲法対照)自由民主党」には「 八紘一宇」と「非国民」という発想が強く漂っています。 聖徳太子の十七条憲法の第一条と明治憲法の一部と治安維持法が戻 って来たような草案です。フロムの「自由からの逃走」 はまだ生きているようです。

「CLASH !」という投稿記事を読みながらそんなことを考えていました。

CLASH !

ふた月ほど前、読売新聞の書評欄で”日米の衝突”という本のことが出ているのを見つけた。米国企業に籍を置いた日本人の一人として、この種の書にはどうしても目が行く。この本の原題が CLASH とあったので、早速グーグルで当たってみて、著者ウオルター・ラフィーバーという人が米国でも権威のあるバンクロフト賞を受賞したことを知った。

同時に、CLASHという単語が英語の知識啓蒙をしているホームページ (talking-english.net)に誘導してくれた。”衝突”を意味する語にCLASH、CRASH、CRUSHという発音だけでは日本人にはまず識別できないものが三つあり、その差がよくわからなかった。この悩みはどうも僕だけでないようで、このHPは三つの違いを、実に写真入りで解説してくれた。いわく、

CLASH は“ぶつかる”のだが、双方とも深い傷を負わない程度“であるとき

CRASH は”ぶつかって相手も自分も深く傷つく“とき

CRUSH は“ぶつかって相手を完全に押しつぶしてしまうとき

に使うのだそうで、以下の3枚の写真がそえてあった。実に明快な回答であった。

このHPで得た知識で判断すると、この本が扱っている主題がおぼろげながらわかり、それが勤務の間にいやというほど見聞きし、ある時は渦中にほうりこまれた”日米の衝突“のイメージのように思えてきて読書欲をそそられた。だが書評にあった翻訳を読むとなるとどうしても翻訳者の主観がはいってしまい、自分の感覚とずれることもあるような気がして、思い切ってアマゾンで原書を入手した。届いた本は予想以上に分厚く、多少知っていた歴史的事実もあって、思ったよりも楽だったがハードボイルドのように斜め読みもできず、今日(11月19日)までほぼ3月をかけて何とか読了。ほっとしてテレビをつけたら、真珠湾、文字通り”日米の衝突“(この場合はCRASHだったのだろうが)そのものをとりあげた”トラ・トラ・トラ”をやっているではないか。この映画を見るのは3度めになるのだが、読み終えた内容が心にしっかり残っている状況で最後まで見てしまった。そんなこともあって、映画評はともかく、僕がこの本をどう読んだか、ということを書いてみたい(日本語版は彩流社から出ているとのことである)。

本書は12の章に整理され、最後に結論として9ページの記述があり、76ページにおよぶ参考文献と18ページにわたって項目別の索引がついている。その前半はペリーの来航からはじまり明治維新をへて列強の一角に加わるまで、日本史の教科書にでてくる事実の確認になるのだが、当時の日本人が鎖国にかかわらず世界情勢や科学技術に関して広い知識を持っていたことや、ペリー一行が日本人を驚かそうとして持ち込んだ欧米の先進的な技術が、数年後の再来日の時点ではすでに日本人の手で複製されていたことに驚愕した、というような記述がある。当時の日本人エリートの高い知識・知性のレベルがそのあとに続く明治維新を可能にしたのだ、ということ、わずか半世紀でどうして日本が列強入りするまでの国になり得たのか、今まで理解できなかった疑問が氷解したような気がする。

この時点でのアメリカの立場は、天皇あてフィルモア大統領の親書にあるように、日本がアメリカ合衆国との間に自由な貿易を開始することを促すものだったそうだ。ところがそれから半世紀たった1989年、当時の国務長官ベイカーは,米国の対日政策は日本を内向き(inward-looking)の重商的な経済大国から外向き(outward-looking)で経済的政治的強国にさせ、アメリカと強固な同盟関係を結ばせることである“と言っている。この間、日米の間の立ち位置・関係は全く変わっていなかったのではないか、というのが著者がその結論の章で述べていることの一つであるし、それが本書のタイトルを”CLASH”とした理由ではないか、と思われる。

このような日米間の交流の始まりがそれからどのように展開していったのか、本書の中では数章を割いて述べている。西部の開拓がおわり、カリフォルニアの先にある太平洋に目を向けたアメリカが必要としたのは実は自国の製品のマーケットとしての中国であり、日本はそのためのいってみれば都合の良い出先として必要だっただけだのだ、ということが重要である。そのアメリカにとって予想外だったのが日本という国の成長の早さであって、明治維新後、日本は西欧技術をすごい速さで消化し発展させた。その技術的展開によって、それまでの技術・国力の水準では必要なかった資源が必要になり、それが日本国内には存在しなかった、ということが日本の眼を外部にむけさせた。その結果、当時の世界の行動原理であった帝国主義にのっとり進出の対象になったのが中国の資源であった。”外向き“にはなったのだが、その理由が中国、アジアを自国製品の市場としてとらえていたアメリカとは全く違った。中国を必要としながら二つの国が同床異夢を見ていたわけだ。その間の展開、中国での戦争、そして真珠湾にいたる過程はすでに僕らの知っている通りである。

しかし第二次大戦の終了、アメリカによる占領から今日までの展開については、(ああ、そういうことだったのか)と感じることが非常に多い。第九章から第十二章までの部分がそれで、僕が特に感銘をうけたというか、なるほど、と感じたことをいくつかあげる。

第十章には、The 1950s: The pivotal decade (転換期となった1950年代) という題がつけられていて、ポイントになる何人かの名前があげられる。いわゆる冷戦の初期で、アメリカ外交の立役者だったダレス国務長官の名前が出ているのは納得できるのだが、実にその次に”デミング”という名前があるのには本当に驚かされた。80年代から90年代にかけて、日本産業界を席捲した、かのQCブームの生みの親であり、僕自身、勤務先でその洗礼を受けたので名前はもちろんよく知っていたが、その人物が日米外交史に登場するのは一体なぜなのか。著者がここでデミングについて触れたのはその理論を実現する素地があるのは、米国企業ではなく日本企業であって、そのことが実はひいては埋めきれない日米の溝なのだ、と言いたいからのようだ。事実、デミングは米国産業界では異端と言っていい存在であって、結果的には日本だけが彼の議論の影響を受けた。それがなぜか、ということがこの本を読んで納得できた。我々はデミング中の数理的技法だけにとらわれているが、著者はデミングが主張したのは職場、グループが一体となって働き、個よりも集団のもつ知恵や士気の高揚によって生産性を上げることであり、数理的な技法はそのための共通の問題点やその解決方法を発見し共有することだったのだという。そしてそれが日本の文化(著者はたびたび wa=和 ということをあげている)になじみ、欧米との技術格差に対抗し得るすべとしての“品質”という武器になり、驚異の高度成長にむすびついたのだ、と主張する。著者はこの影響が朝鮮戦争によって国連軍の兵站基地となった日本にタイミングよく導入されたのだ、ともいう(この主張は多少誤解・誇張があるように思える)。もうひとつ日本経済が飛躍した大きな原因として keiretsu=系列 という概念の存在もくり返し出てくる。これもたしかにアメリカには存在しえないものであって、いずれも個人より帰属するグループを意識する日本伝統の文化のあらわれであり、それは形や程度こそ変わったものの、現在も厳然として存在している事は我々はよく知っている。このような差異に関連して、アメリカが唱えている資本主義と日本のそれが名前こそ同じであっても、政府や公的機関による調整の在り方などにおいて、決して同一の基盤に立っているものではない、ということも各所にでてくる。そしてそれがもたらす間隔は日米両国に今後もあり続けるだろう、というのが著者の結論のひとつであるようだ。

経済的な面での議論のほかに、(やっぱり、なあ)と思ってしまうのが、人種差別問題である。ウッドロー・ウイルソンは国際連盟の提案者として、その主張は人道的であり平和第一の人格者であると教わってきたが、彼自身は米国金融界の中国市場進出欲を代弁し、かつ日本人に対する反感が非常に強い人物であったとされる。日米開戦時の大統領だったルーズベルトは芯からの排日主義者で、日本にまず手を出させればアメリカの正義が定まる、ということを考えていて、真珠湾攻撃も事前にわかっていたにもかかわらずあえて攻撃をさせたとされている(このことは “トラ、トラ、トラ”にも出てくる)。また近年、正式な国としての謝罪はあったというものの、戦時中、日本人だけが強制収容された事実、公民権運動までつづいた(いまでもなくなったとは言えぬ)黒人などへの差別、また理由は違うかもしれないが最近の移民問題など、わが国では理解できない問題が依然存在する。

また前に見たように、中国の存在が日米共通の問題であることは変わっていないが、この本を読むと、米国指導層の対中国観が揺れ動いていることもよくわかる。ただその動きの底流にあるのは、やはり対決姿勢であって、その理由は依然共産主義に対する反感、恐怖であり、日本との間に存在する“間隔”とは異質のものであろう。その意味で、日本と米国のCLASHは今後もありつづけるであろうが、中国米国の間のそれはCRASHに変貌する危険を持っている、といえるのだろうか。

以上のこととは別に、改めて意識したのが、米国によって占領され、武装解除された日本が、平和主義国家として再生(多少ひっかかることはあるが)しつつあった50-70年代、米ソ冷戦のただなかで、日本の地理的位置から(アジアのことはアジア人同士で戦わせよ)という思想のもとで日本を再武装させようという、まったくもって身勝手な議論があったことである。憲法論議もいろいろあるが、この理不尽な要求を歴代の内閣がいかに苦労してやめさせ、そのエネルギーを経済再生にむけてきたか、という過程はおぼろげながら理解していたつもりだが、この本はそれを実に鮮やかに解説してくれた。佐藤栄作がなぜノーベル平和賞をもらったのか、その理由も初めて分かった気がする。

今、日本はこれまでたどってきた道の、歴史的転換点にいる。そしてその最大の焦点が依然として中国問題であることは、ペリーが来航して開国を迫った時以来、日米間に存在してきた事実であり、歴史のアイロニーであると思わざるを得ない。願わくば日中関係がCRASHにならないことを祈ろう。

PS

やけに言葉にこだわるようだが、昨日、書店で一時有名になったハンチントンの”文明の衝突“の新装版が並んでいるのを見つけ、そのタイトルが CLASH であることに気が付いた。ずいぶん以前に読んだのでよく内容を覚えていないが、今回新たに学んだ知識によれば、これは CRASH であるべきではないか ? 残念ながらハンチントン氏に聞くわけにもいかないのだが。

 

粗古希団塊軍団 熊野を往く (47 関谷誠)

 

和歌山・御坊出身の田端の企画、案内で世界遺産の「熊野古道」を歩こうとの話が6年前、飲み会の席で持ち上がり、腰が重かった田端もその気になってくれたが、2011年9月の紀伊半島を襲った台風12号での甚大な被害の影響でこのプランはポシャってしまった。

今般、KWV卒業45周年記念イベントとして改めて企画され、前世の罪を浄めてくれる「熊野速玉大社」、現世の縁を結んでくれる「熊野那智大社」と、来世を救済してくれる「熊野本宮大社」の熊野三山を巡れば、過去、現在、未来の安寧を得られるとされ、神々が住む癒しと蘇りの聖地「熊野」に、それなりに脛に何らかの傷を持ちながらもそれなりに前向きな未来志向の47会同期22名が集結した。

先発隊のSL伊川、熊倉夫婦、古泉、山本、金沢から舛田、小倉から水町は、11/6、十津川温泉から小辺路を「熊野本宮大社」に抜け、11/8、本隊と合流。

本隊は、東京から空路でL田端、大谷、小野田、鈴木、早川、林、吉田夫婦、岡谷から今井;陸路大阪から奥本、金森、後藤;それに山口から関谷の面々。

風来坊の岩崎は何処を彷徨って来たのか、11/8、川湯の宿で合流。それに、未だ現役で活動中の名古屋の那波は、11/9、南紀勝浦での宴会に駆け付けて来た。又、残念ながら、直前に、母親が入院の内藤は参加出来ず。何やかんやワンダーの中では若手と云われる粗古希・団塊世代22名参加でのプランだった。

11/8(水) 雨

本隊は、10時過ぎ、JR白浜駅にて集結、マイクロバスにて熊野参詣道・中辺路の起点となる「滝尻王子宮」に参拝し、プランの安全を祈願。

昼前、先発隊7名と熊野本宮大社近くのバス停で合流。舛田ガリメはここから帰金沢。

39年卒堀川先輩に紹介していただいた、富山・高岡出身、熊野在住25年の語り部ガイドの番留京子さんとも落ち合い、道の駅「熊野古道本宮」での昼食後、コース説明を受けた。

12:45 小雨の中、スタート地点の「発心門王子」社殿に関谷が一行を代表し、先頭で二礼二拍一礼の作法で恭しく神々に挨拶した後、番留ガイドが吹くホラ貝に導かれ「熊野古道」中辺路の域に踏み入れた。

道端に点在する江戸時代からのお地蔵さんの由来等々を番留さんから説明を受け、ご利益あるように拝みながら、「水吞王子」を経て、14:15 「伏拝王子」の茶屋にて温泉水で濾したコーヒーで一本。

道中ではスペイン人、アメリカ人、オーストリア人等々に出会うが、何と外国人参詣者の多いこと!恐らくSNSでこの神秘的なパワースポットが取り上げられているのだろう。茶屋で出会ったスペイン人は、スペインのサンチアゴ巡礼路には多くの日本人が来ているよと笑っていた。それもそうだ!

幻想的な杉林の中、所々、江戸時代に敷かれた石畳を踏みしめながら、ガイドさんも苦笑していたが、この人数となると健脚組、だらだら歩き組、おしゃべり優先組等々のグループにばらけてしまい、ポイントポイントで人数点呼しながら、16:00、7kmの行程を踏破し、「熊野本宮大社」を参詣した。「熊野本宮大社」は、杉木立が生い茂る静かな森にあり、古式ゆかしき雰囲気を漂わせているが、明治22年(1889)の熊野川の大洪水で流失を免れた社殿をそのまま移設したものとの事。元々は、10分程の熊野川の中州に日本一高い大鳥居(33.9m)をくぐった先の「大斎原」の旧社地にあった。平安時代の上皇法皇をはじめ江戸時代に至っての庶民の熊野詣はこの大斎原を目指したものだった。かつての社地があった石祠の前にたたずむと神妙な気持ちになったのはなぜだろうか。

この夜の宿は、これも堀川先輩から紹介いただいた川湯温泉の民宿「立石」。観光協会のパンフには「心のこもったサービスと、料理のおいしい民宿」とあったが、その通りで、恐らく家族経営と思われるが、気持ちの良い女将さんのもてなしとアユの天ぷらをはじめとするテーブル一杯の心のこもった料理は美味かった。それを同期の小嶋が米沢から送ってくれた銘酒・東光と、地元和歌山の黒牛でワイワイガヤガヤの宴会となった。川原を掘ると熱い湯が湧き出すとの事で、酔い覚ましに川原の露天風呂を堪能。

11/9(木) 晴れ

8:30 前夜、入浴に行こうとして、迂闊にも転倒、足を打撲したO君は、朝食を食べたら突如回復(!)、離脱することなく全員で旅を続行。宿の女将に見送られ、一路、新宮・那智勝浦を目指し、熊野川沿いを南下。途中のさつき公園で平成23年の紀伊半島大水害時、熊野川氾濫の最高水位リメンバー塔を見上げて一同自然の脅威に改めて畏怖の念に打たれた。

9:30 538段の石段を登りつめ、熊野の神々が最初に降臨した聖地と伝えられている「神倉神社」を参拝、しめ縄で巻かれた巨大な「ゴトビキ岩」に両手を添え新たなパワーを貰った。「熊野速玉大社」に向かう途中、清流・古座川の名水を72時間かけて製氷したかき氷の「仲氷店」に立ち寄る。有名人も多く訪れ、TVでもたびたび紹介されているようだが、食べてもキーンとならず、柚子の変種との「じゃばら汁」と自家製シロップのかき氷は何とも言えなかった。この氷でのバーボン・オンザロックは最高だろうな!

全国熊野神社の総本宮である「熊野速玉大社」では神主から説明を受ける。覚えているのは、樹齢約千年と云われる境内の梛(ナギ)の巨木の葉は切れないので縁結び、夫婦仲等にご利益ありとの事。勿論、そのご利益をとお守りを求めた!

昼飯にこの地の名物、高菜の浅漬で包んだにぎりの入った「めはり寿司」を勝浦で受け取りに行く途中、古泉ギッコが、予定には入っていなかった世界遺産の「補陀洛山寺」に寄りたいと。ネットを検索していたら、「日本人の心を揺さぶる云々」とあったので是非寄って見たいとのことで。これが何と驚きだった。

「補陀洛」とはサンスクリット語で観音浄土を意味するようだが、日本人ではあろうが、正に、サンスクリットのインド系ではなかろうかと思える様な目つきをした寺の管理人が、浄土を求めた修行僧侶であった渡海上人の話を熱っぽく語ってくれた。史料が全く残っていないので、伝承・推測でしかないようだが、生きながらに南海の観音浄土を目指し、平安時代から江戸期まで、20数回にわたり、寺の住僧達が、釘付けされた狭い箱舟に閉じ込まれ、那智の海岸から送り出されたとのこと。

又、本堂には平安後期の作と伝えられる高さ1.9mの千手千眼観世音菩薩の木造立像が厳重な金庫の中に納められおり、渡海上人の話を神妙に聞いた我々に対する特別の計らいとかで、金庫を開け、拝観させてもらった。いずれは国宝に指定される模様の重要文化財。サプライズ訪問となったこの寺は、正に、我々の心を揺さぶったのは事実だ!

昼食後、「那智大社」の参詣道である「大門坂」の杉木立に包まれた石段を行くと、突然、ほら貝の音色で迎えられた。番留さんの仲間の山伏だった。たまたま打ち合わせがあったので、我々の参詣を知り、出迎えたとの事。小生のボケの始まりか!話はうろ覚えだが、この山伏の関係者のどなたかが慶応山岳部で槍の慶応尾根由来の一人だったとか。

日本一の落差を誇る那智の滝をご神体とし、命の根源である水を敬う「熊野大社」と、隣り合わせの観音信仰の中心的霊場でもある「那智山西岸渡寺」、それに「那智の滝」そのもの、いずれも世界遺産、を参拝して今回の行動プランを終えた。

2日間にわたり行動を共にしてくれた番留さんと、大門坂の駐車場で、名残りを惜しみながら別れ、南紀勝浦温泉の「ホテル一の滝」へ。名古屋から駆け付けた那波も合流し、JR南紀勝浦駅近くのマグロ専門の郷土料理店「桂城」で二日目の大宴会。この店を探すのに駅周辺をうろうろしてしまい、アカズが女学生に尋ねたところ、なんと偶然にも、「私の家です」とのこと。学校帰りの「桂城」の高三のお嬢さんだった!「桂城」では、吉本で修業したのではと思える様な口達者な板前の、店先での「マグロ解体ショー」のアトラクションもあり、解体したばかりのマグロを肴に盛り上がった。来年、知り合って50年と粗古希を記念し、何処かでの再会を約して解散。

11/10(金) 晴れ

大阪3人組の奥本、金森、後藤は、早朝の特急で、帰阪。本隊は、JR紀伊勝浦駅で、三々五々、それぞれの目的地に向かった。今回リーダーの田端は故郷の御坊に寄って帰ると。ギッコは串本から自転車を借りて潮岬灯台を見てくるとか。タクは一人で懲りずに又何処かを放浪するとかで消えた。那波は名古屋へ、それにクマ・アカズも名古屋の息子一家に寄ってからと。水町ピンスケは関空からタダ券で東京へ。その他帰京組と関谷は、白浜の新鮮魚の「とれとれ市場」で土産を買い出し、白浜空港から東京へ。

KWV47年卒で三田会費納入の実質会員36名中、22名が参加した今回の卒業45周年記念「熊野古道」ワンデルングを無事終えた。熊野各聖地のパワースポットで新たな活力・知力を充電、那智の延命水を各々がそれなりの延命年数の願いを込め何杯かを飲み、夜な夜な学生時代に戻ったかのように飲み食い、語り合った我々は、これからの人生も(を)大いにエンジョイしようと各人が期することが出来たプランだった。皆、ありがとう。

なお、先発隊の行動記録は別掲する。

 

11月 月いち高尾  (39 岡沢晴彦)

紅葉見損ないの話    (39 堀川)

ジャイさん!!!
一丁平にはもみじがほとんどないと言ったんですよ!!
細田小屋辺りがもみじ台と称して一番あるところです。

堀川兄
日本語、難しいなあ。そう聞こえたんだけどなあ。
でも細田小屋も同様でした。というか、 紅葉の具合がおかしいようで、きれいなのは1, 2本しかありませんでした。
誤報、申し訳なし。

お三方へ  (36  高橋良子)

9日はご一緒に楽しい一日を過ごさせて頂き有難うございました。
ロングロング・ワンデルングの一日でしたが、少しは往時の小仏峠 を偲ぶこともでき面白かったです。さいごに私の大転倒あり・・教訓 歩くのと走るのとでは大違い!歳を考えよ!
昨日から左頬に縦長の青みが出現、切られの与佐ならぬ切られのお ヨシでございます。 外出には当分マスク着用。
その他は身体に以上ありませんのでご心配なく。

秋の小仏峠越え

”月いち高尾”も初めて足掛け8年になり、一般ルートはすべて、くりかえし、歩いたことになるが、旧甲州街道から小仏峠を越えて相模側に下るというクラシックコースだけは経験がなかった。夏の八ヶ岳山麓生活もほとんど毎日が雨、10月に企画していた菅谷君たちとのゴルフは近親の不幸のため中止、そのあと連日の雨に加えて夫婦そろって風邪をこじらせるという始末で運動不足だったので、この際,月例とは別に峠越えをしたいと思い、近場の暇人に声をかけて11月9日、好天の高尾山口に集合した。したのだが、なんと、駅前はまさに人の渦!小学校の遠足まであってさすがに秋の高尾山、の面目躍如だった。当初はちゃんと甲州街道を辿ってJR高尾から歩くつもりだったのだが、堀川君から一丁平の紅葉がきれいななず、とのサジェストがあり正面コースにしたのだがこの始末。内心、ケーブルでもいいか、と思っていたのがムリと分かり、加えて、なんと翠川が”今日はしっかり山道を歩く”と言い出したので、人気の少ない稲荷尾根ー3号路出会―細田小屋ー一丁平を経て小仏峠へ降り、相模湖へ出た。さすがに往時は往還に馬や駕籠が通っただけあって、幅も広く、この日は完全に我々だけで誰にも会わず、落ち葉を踏みしだきながら、いい散歩だった。甲州街道へ出たその瞬間にバスが到着、あわてた良子が転倒するハプニングはあったものの、ショートトリップを満喫。

紅葉なんてねえじゃなえか!早く天狗へ行こうぜ!

久しぶりだったので、結構応えたが相模湖からJRで高尾、天狗の生ビールだけは欠かさずに終了した。しかしながら、なんと一丁平には紅葉なんか、なかった!(もっとも良子の哀願にほだされて城山は巻いてしまったので、山頂までの間がどうだったかはわからない。

山麓の案内所の女性からやはり今年は天候のせいか不順なようです、とは言われていたが、今号は色鮮やかな翠川フォトで満載にする予定だったのが、残念。来週あたりがいいらしいが,月例まで、どうかなあ、という感じもする。当日のルート選択は結構難しいかもしれないが、いろはの森を降りるのもひとつの可能性かもしれない(あまり広葉樹はなかったような記憶もあるが。

 

冒険小説への招待

”アメリカ人が冒険小説を書くとハードボイルドになる”ということがいわれるが、これが単に文体とかスタイルのことをさすのか、作品の本質をいうのかはよくわからない。ただ、島国として常に海洋と向き合ってきた単一民族イギリス人と、内陸開拓に邁進した多民族国家のアメリカ人とでは、”冒険”ということの本質が大きく異なっていた(きた)のではないだろうか。いろいろな理屈を考えて美化をしてみても、双方とも弱肉強食、他民族の征服の結果今日があることに相違はない。ただ確固とした社会通念と階級社会が存在し,騎士道精神というものを誇りとするイギリス人にとっては、その”冒険”の結果を単に物質的な利益のみならず大英帝国の威厳ということに帰結させる意識が常にあったように思えるのに対し、先住民族を殺戮することによって得られる物質的利益のみが、ありとあらゆる背景を背負ってこの国にやって来た異文化人をつなぐ唯一の共通項であったアメリカ人の”冒険”とでは、社会的、文化的な背景が大きく違ったのではないだろうか。

”大西部”の征服が終わり、太平洋に顔を向ける時代になっても、銃のみが共通言語であり、金銭的成功のみが社会的地位を決めるという文化、その結果として人々の間に生まれた一種のニヒリズムはアメリカ社会にそのまま残っただろう。このような社会にあって、”冒険”とは国の威光とか騎士道精神などといったものは無用の、常に実利を求めることに他ならなかったはずだ。この大変動の結果に生まれた西部の諸都市、特にゴールドラッシュの中心であったサンフランシスコ周辺において、それまでの汎欧州的文学に対抗して、いわば無頼の匂いをただよわせる”ブラックマスク派”の文学が生まれ、ハードボイルドへ展開していったのはそういう意味で当然だったように思えるし、そのような環境の中ではここで議論する意味での”冒険”ということに価値を見出す機会もなかなか生まれなかっただろう。そのあたりが識者をして”アメリカ人に冒険小説は書けない”といわしめたのではないか、というのが僕の論点である。

知識不足と論理の飛躍を承知でいうと、このような環境に一石を投じたのは、僕らの時代では”レッド・オクトーバーを追え”だったのではないか。アメリカが世界をリードしている軍事技術をテーマとする、という発想がこの後から続々と新しい作家作品をもたらしたことに間違いはない。ヨットを操ってひとり大海に挑む、という発想から、軍という巨大組織が活動する大規模なオペレーションの中での個人の物語、というあざやかな展開の中に、”アメリカ人の冒険”が位置づけられたのだ。トム・クランシーの軍事オタクぶりには多少抵抗もあって、この本を読んだ直後、仕事仲間の一人が米海軍で潜水艦の艦長だったことを知り、この話はどこまで信用できるのかたずねたことがある。詳しいことは忘れてしまったが、彼はある一点をのぞいてはクランシーの話は全く誤りがない、これは本物だ、と保証してくれた。それで一気にクランシーファンになってライアンものを次々に読んだ。クランシー作品は何本も映画になったが、やはり”レッド・オクトーバー”が一番躍動感があって面白かった。ライアンが少しハンサムすぎたのが難だが、007とは大違いの重厚さがあふれたショーン・コネリーもよかったし、サブキャラクターではスコット・グレンが印象に残っている。

前述した北上次郎は、現代の冒険小説作家は”70年の壁”というものを経験したのだという。米ソの対立が激しかった時代はそれを中心とした物語や人物造形(典型的な例が007シリーズ)ができたのだが、それがなくなった後の設定が非常に難しくなった、ということを指すらしい。クランシーが作り出した軍事技術もの、というのがもしかするとその”壁”を破壊したともいえるのかもしれない。

クランシーの成功のあとの大きな転換点として、ステファン・ハンターのボブ・スワッガーのシリーズが出て来た。退役したスナイパーの個人中心の話であり、軍事ものとは思えない心理描写も優れて、僕の定義による”ハードボイルド”に数えてもいいくらいのものだ。ただこれもやはり第一作が一番よく、最近の作品は無理してシリーズ化しているせいか、あまり感心するものがない。映画”極大射程”は原作に忠実だが、主演のマーク・ウォルバーグのアクションばかりが目立ちすぎな感じがして、僕のイメージする冷静なスワガーではなかったように思われる。銃器に関する描写は精緻でそれだけでもマニアには歓迎されたのではないか。

相前後していろんな軍事もの、FBI・CIAものなど、かなり乱読した結果、現在のお気に入りはリー・チャイルドの”ジャック・リーチャー”シリーズである。第一作”キリングフロアー”に引き続き、”アウトロー”など、このシリーズは現時点までで合計13冊だが、すべて原文で読んだ。文体論議になってしまうが、原文で読めた理由は”わかりやすい英語で書かれている”の一点に尽き、実は僕が”ポケットブックを3万ページ読む”

という”冒険”に乗り出すきっかけになった。その後、翻訳があまりでてこないが、そのうち2作が映画化されていてトム・クルーズの当たり役になるのではないかと思っている。

”軍事もの”のとなりにあるのがスパイもの、謀略ものといえる。007シリーズはあまりにも娯楽的で、”冒険小説”に入れるのはどうかと思われるが、フォーサイズの”ジャッカルの日”や”戦争の犬たち”、映画も素晴らしかった”オデッサファイル”も面白かった。相前後するころに流行ったのがロバート・ラドラムだが、何しろ筋立てが複雑で登場人物を理解するのが大仕事だった。複雑な割には僕にはジェイソン・ボーンシリーズ以外、あまり印象に残るものはないのだが、このシリーズは映画化したものもマット・デイモンがはまり役で楽しく見た。最近はデイモンが変わってしまって残念だが。

軍事もの、スパイものなど、大組織を背景にした作品とは違って、アメリカ人好みの一匹狼的人物が登場するのがデヴィッド・バルダッチのシリーズであるが、あまり翻訳を見かけない気がする。ほかには最近はマーク・グリーニーの”グレイマン・シリーズ”というのが人気のようだ。大組織が出てくるのは同じだし主人公がその組織に追われるという設定はラドラムのボーンシリーズに似ているが、どうも二番煎じの感を免れず、あまり気に入ってはいない。

ここまで書いてきて、大変な事を書き忘れたことに気がついた。冒険小説論議がまた後戻りするのだが、”これぞハードボイルド”と言わせる二人の事である。一人は冒頭に名前だけ触れておいたがジヨージ・ペレケーノス、もうひとりはごく最近あらわれたジョン・サンドロリーニ(John Sandrolini)という人である。ペレケーノスのほうはかなり登場は古くて、翻訳されたものも沢山あるが、サンドロリーニのほうは第一作が”愛しき女に最後の一杯を”というえらく長いタイトルで出ている。

現題は  One for our baby といたって短いのだが、翻訳者のほれこみようがうかがえる気がする。 第二作はまだ翻訳を見かけないが、”My kind of town” で、同じ主人公の設定である。この2冊はアマゾンで原本を入手して一気に読んでしまった。ただリー・チャイルドの場合と違って、イディオムやスラングが多く,週1度通っている英会話スクールへ持ち込んでインストラクタを質問攻めにしたこともあった。物語の設定としてあのフランク・シナトラがサブキャラクタで登場するのはご愛敬だが、まさにチャンドラーを彷彿させる傑作だと確信して、次を心待ちにしている。実に素晴らしい。

話を戻す。僕が読んだ”アメリカ人の書いた冒険小説”はここにあげたほかは伝奇ものめいたものが多いクライブ・カスラーくらいで、ほかにもミステリー系はたくさんあるのだが、ストーリーの面白さといった表面は別にして、印象に残るという意味では、”冒険小説”というジャンルに関する限り、”イギリスもの”に太刀打ちできるような作品にはまだ出会っていない。一番初めに仮説をたてたわけだが、やはりアメリカという文化に”冒険”というテーマはしっくりこないようだ。したがって僕の乱読リストにもイギリス人によるものが圧倒的に多い。先回書いたことと重複するが僕の遍歴を書く。

 

まず、大御所とでもいうべきなのがアリステア・マクリーン、かの”女王陛下のユリシーズ号”の著者である。これはHBミステリにおける”長いお別れ”に匹敵する、冒険小説の古典的傑作であり、翻訳もすばらしく、冒険小説というジャンルを離れても特記されるべき傑作だと思っている。映画にもなった”ナヴァロンの要塞”と”荒鷲の要塞”も同じ第二次大戦ものだが、”八点鐘の鳴るとき””黄金のランデブー”のような、本来の海洋冒険ものもある。

マクリーンと並び評されるのがデズモンド・バグリーで数多くの作品が日本でも広く紹介されてきた。中でも僕のお気に入りは”敵”と”ゴールデン・キール”、それと”バハマ・クライシス”。特にあとの2冊は爽快さを満喫できる、本来の”冒険小説”で、きざってみれば、デッキチェアでジントニックなどやりながら読むのに楽しい部類である。

日本のややハイブラウな(と自称している)読者に人気があるのがギャビン・ライアル、特に”深夜プラスワン”が、”ユリシーズ”と肩を並べる傑作だといわれている。ほかにも”ちがった空”とか”もっとも危険なゲーム”など多くの翻訳がでているがどうも爽快感にかけるようで、あまり僕の好みとは言えない。

筋書はともかく、本流ともいうべき大自然相手のスケールの大きいものはハモンド・イネスにとどめをさす。うるさいことを言わずにただイギリス流冒険小説、と言えばこの人の作品になるのではないか。”銀塊の海””大氷原の嵐””失われた火山島””蒼い氷壁”など、代表作のタイトルを並べるだけでも作風の想像はつく。ただ僕の読んだのは”メリーディア号の遭難”〝特命艦メデュ―サ”の2冊だけであるのであまり多くを語る資格はない。

イギリス伝統の海洋小説といえば英国海軍の伝統に関する”ホーンブロワ―シリーズ”とかそのほかのものが有名だが、僕は全く読んでいない。この系列かどうかわからないが、さすがブリティッシュネイビーと名高い国だけあって、第二次大戦ものにしても圧倒的に海軍さんのものが多い。ニコラス・モンサラットのThe Cruel Sea という大作は感動的だった。

余計なことかもしれないが、ここに挙げた作品は多くがだいぶ年期が入っているので新刊を買うのは難しいけれども、ブックオフで探すとハヤカワ文庫の中古本がたくさんあり、同好の仲間がいるんだなあと妙なところで嬉しくなる。大体100円前後で買えるし、是非お勧めしたい。原本に挑戦する場合はやはりアマゾンが便利だが、新宿高島屋に隣接する紀伊国屋書店は今までの新宿通りの店に比べてずっと在庫も種類も多いようで、立ち読みの楽しみが増えた。読書の秋を迎えて、”年甲斐もなく”冒険小説にカタルシスを見出す仲間が増えることを希望する。