三国山荘のこと (40 河合國尚)

三国山荘について  (39 小祝昌樹)

私も最近のKWVがジャンル別に分けたり、全員が集合しない合宿だったり、我々が考えていたワンダーフォーゲル活動とは大分違ってきていると感じています。しかし、今の学生が考えての上の活動ならばそれも時代かなと思います。

三国山荘は主として固定資産税や不動産取得税等の税金の問題から塾の所有名義にし、経費、管理はKWVで責任を持って行うということになっていると理解しています。山荘はあくまでも学生の部活動のためにあり、学生が主体的に運営するものと考えています。

とは言っても、Giさんがおっしゃる通り学生にその意識が薄く意義を感じていないのは困ったものだと心配しています。山荘の将来について三田会執行部が中心となり意識あるOBを集めて意見を聞くというのが良いかと思います。しかし決めるのはあくまでも学生であり、OBはサポートするという立場は守らねばなりません。

三田会の管理とする(実質すでにそうなっている感もあるが)、塾生に広く開放する、管理を外部業者に委託する等々突飛もない案も含め検討してみたらどうかと思います。

私にはこれといった解決策の持ち合わせもなく時間をかけるしかないかなと感じています。

山荘について   (37 菅谷国雄)

熊野古道歩き 別動隊 (47 水町敬)

三国山荘についての意見 (47 関谷誠)

ジャイ先輩ご提唱のKWV挙げての平成年代最後と思われる"国民的議論"に参戦させていただきます。

今までの「ふみあと」を読み返すと、山荘に絡む課題は、初代山荘建築以来60年にわり俎上にのぼっており、結論無き議論だと、はなから内心思うものの、敢えて、"国民的議論"の切っ掛けとして一言二言。

何はともあれ、三国山荘は"現役ありき"で存在するものだと言いたい。1970年の初代山荘焼失後の再建に現役として関わった一人である。当時、何人かの先輩から、開発された浅貝からもっと山奥に山小屋らしいものを作ったらどうか、浅貝はOBがOBの為に再建するとの話もあった。そんな中、オールシーズンでの利用を議論したか定かではないが、少なくとも、部員が140~50人がいた時代、春の五色での春合宿のスキーツアーに初心者でも参加し得る苗場でのスキー強化、積雪期登山の訓練の為の浅貝BH等々、大人数を収容出来、アクセスの良い浅貝に再建するとの結論だった。これもあくまで当時の"現役ありき"での判断だった記憶する。

1994年の現山荘新築にも、一OBとして関わったが、最大の議論は、現役が本当に三国山荘を必要としているかだった。当時、1年生だったW君の涙の訴えもあり、"現役ありき“での前提が新築しようとの結論だった。新山荘は、確かに、OBの使い勝手、快適さも考慮されたと思うが、何はともあれ"現役ありき"が大前提だった。

現4年の渡邊君の投稿で、山スキーなり雪山登山のBC地として山荘は今でも重要だと知って嬉しい限りである。幾ら部員数が減り、"ジャンル別ワンデルング"とかの活動になったとしても、渡邊君の様な"小舎バカ!"がいる限り"現役ありき"の山荘でなければならないと考え、サポートして行きたい。

とは言え、山荘維持の為の労力と費用は大変だ。現役にとり負の遺産とならないようにどうすれば良いか。具体的な回答はないが、小生の短絡的思考で言うと以下が考えられる。

現在のKWV三田会の資産は、山荘積立金を含め、約33百万円あるようだ。年間の必要経費は、「ふみあと」作成代等々を含め、約2.5百万円。この年間予算は、単純計算で、年5千円のOB会費を500人から徴収すれば賄える。今後、会費免除会員が増えたとしても、KWV最後の団塊である小生の47年卒が免除となる約10年後までは回して行けるだろう。今後、「ふみあと」の配布部数も確実に減るだろうし!

又、三国山荘を、今後、改築・新築することはあり得ないと考えるので、極端なことを言えば、KWV全財産を山荘の維持管理に回しても良いのではないか。そうすれば,今後、少なくとも十数年は何とかなるでしょう。

この先、2025年問題を控えており、小生の様な団塊世代が後期高齢者となり、国民の3人に1人が65歳上、10人に1人がボケ老人になるだろうとされており、恐らく、社会構造そのものがどうなるのか分からないでしょう、それこそ"不透明・不確実性の時代"を迎えるだろう。そんな中、今から、将来をとやかく言っても始まらないでしょう。なる様にしかならないでしょう!ケセラセラ!

要は、三国山荘は"現役ありき"で、当面、考えたらどうでしょうか。現状の現役活動に対し、ああせい、こうせいと多くは望まないが、"現役ありき"の三国山荘として主体的に動いてもらいたい。性格は異なるが、遭難対策委員会の様に、現役主体の活動に、OBが、適宜、経験を生かしてのサポート役になれればと思う。

12月高尾月例W (39 堀川義夫)

今月の月いち高尾は、12月の恒例となった野外料理メインのワンデリングで、22名(当日キャンセル2名)参加。新顔は47年の関谷、伊川両君でした。

12月21日(木)、例によって高尾登山口駅に午前10時集合。人数も予定では24名となり、野外料理の関係もあり6名づつ4班に編成して各班ごとに我らが秘密の会場へと向かい、堀川は鍋釜、卓上コンロ、食材等々で15㎏超となり、一人ケーブルカーで会場へ向かう。早い班は11時半ごろ目的地に到着、時間のある方は荷物を置いて薬王院、高尾山頂上へ。ゆっくり組は料理の準備等々、12時30分からの開始に合わせて個々に気持ちの良い冬の高尾を楽しみました。

今日の食材は,女川から直送してもらった4㎏のカキを様々なメニューで食べる「カキづくし」と川名さんの手打ちうどん、

牡蠣のアヒージョ

焼き牡蠣
恒例クリスマスケーキ

他に西澤さん提供の下仁田ネギ、吉牟田さんのゆず、良子さんの虎屋の羊羹、卓上コンロ5台、土鍋とコッフェル等々、山の中とは思えない食材、火器、鍋釜が揃いました。この辺の皆さんの食に対する執念は凄いものです!!

生牡蠣とめかぶ
牡蠣と春菊のソテー

適度の酒と適度の運動で心地よい時間を過ごすことが出来ました。野外料理を食べつくし満足の体で何時もの天狗飯店へ。天狗飯店ではさすがに食べるメニューは少なくしましたが、飲物は普段通り。途中、大塚さんが飛び込んできて一層盛り上がりました。最後はジャイさんが用意してくれたクリスマスケーキとコーヒーで総仕上げ。完了!

 

忘年ゴルフレポート (47 伊川望)

スタート前、舌戦開始。
去る12月5日に恒例の「忘年ゴルフ」が快晴の府中カントリーで開催されました。

36年組vs.37年組の対抗戦に端を発し、戦に疲れた両陣営が和解の意を込めて「親睦忘年ゴルフ」へと変遷したとか。噂がうわさを呼び、匂いを嗅ぎつけたゴルフ好き28名が参加。

晩秋とは思えない穏やかな日、青空に映える紅葉が目を楽しませてくれます。練習グリーン上でもお喋りの輪が広がります。8時30分、OUT,IN に分かれてスタート、競技ならびに壮絶なる舌戦の開始。

41年組集合!

我々は相対的に若手中心のパーティ(47田端、51斉藤、52安藤&47伊川)。

目を見張るようなナイスショット、目を覆うようなミスショット、バーディ有り、ダブルスコア有りと賑やかなゴルフです。お互いの好プレイを讃え合い、珍プレイに笑い転げるなど絶え間のない会話。

やっと最終ホールまでこぎつけた時には疲労感が!

後続の37年組に「いやぁ疲れました」と告白した私に、「全然疲れとらん、天気が良いからもう1ラウンドやりたい!」とのお言葉が。皆さまお若い!

年代を超えての初プレイを楽しんだ一日でした。終了後の懇親会で「来年はもっと声をかけて盛大に忘年ゴルフを楽しもうよ!」との提案がございました。来年の開催に向けて微力ではございますがお手伝いさせていただきます。

私のスコア?忘却の彼方に消え去っております・

アサ会忘年山行  (37 小泉幾多郎)

三国山荘についての提案

少し前に越冬プランの案内を頂戴した。最後に雪の山荘へいったのがいつだったか、現役のスキー合宿へコーチに何人かで行ったのが5年くらい前だろうか。OB,現役が一緒に冬を過ごすという企画ができ、一番盛んだったのがたぶん僕らが卒業した年から数年の事だった。まだあの初代の小屋で、煙いストーブ越しに”ボク、猪股です”とヤブが恥ずかしそうに自己紹介したのが何となく記憶にあるし、僕の愛唱歌の一つ”知床旅情”を石井(小倉〉悠子君から習ったのも越冬の時だった。彼女のあまりにも早い他界が改めて悔しく思われるのも、それが越冬という特別な環境でのことだったからかもしれない。その小屋について投稿してくれた現役渡辺君から、時代は変わっても小屋を愛する仲間がいることを知らされてしみじみと嬉しかった。

だが渡辺君の文章を拝見して、うれしさと一緒に僕が漠然と感じて来たことが指摘されているのを見つけ、ここしばらくなんとなくわだかまってきたことが杞憂ではないと思われてきた。彼が指摘したように、純粋に小屋を愛する部員が減少してきたこと、というか、減少せざるを得ない現実のことである。僕らが現役の頃の部員の数の多さは、今考えれば一時的なものであったと思えるが、その時には、そのままの状況が続くであろうこととして、誰も疑っていなかった。また、活動の基本は可能な限り、多くの人間が多くの機会を得て活動することにあり、一般プランはともかく、合宿は全員が集う機会であった。日頃はあまり同行する機会がなくても、できるだけ多くの仲間と時間を共有することが当然だったからだ。このような基本的な思想と人数の多さ、そのために生じる安全性の確保、といったことから、”夢”や”あこがれ”とともに皆が集える場所、として山荘が最大公約数として存在したのだといえる。

しかし渡辺君が明らかにしたように、この原則はすでに絶対的過去のものである。原因の一つは部員の絶対数の減少であり、もう一つ、我々が夢想だにしなかった部活動の基本思想の変化である。その結果として、現役部員が山荘を利用する機会は激減した。特に後者、すなわち現在の部活動の基本となっている”ジャンル別”方式がその主な原因であろう。すなわち我々の時代に ”ワンデルングそのもの” でもあり得た山荘というものを意識しない”ジャンル”があり、山荘には山荘祭とか飲み会の場所としての意味しか持ちえない部員が多数存在するということである。現役の活動は時代や社会環境を反映するものであり、その結果山荘がもはや活動の中核になりえないということは認めたくはないが理解はできる。OBにも山荘に対する意識の差が出てくるのは当然だし、高齢化とともにその傾向はますます強くなる。このことは冷厳な事実として受け止めるべきで、いたずらに山荘離れを嘆いても致し方のないことである。

だが、山荘の維持には労力と費用がかかる。”山荘”が常に意識の上部構造にあった時代は何があっても人手を集めることは可能だった。我々多人数世代が卒業しても、その流れはOBに受け継がれ、少し前まで、”新道プロジェクト” や ”あじさい班” などの形で存続していた。しかしその現実はOB主体、というよりも一部OBだけの活動であって、現役の参画はないに等しかった。費用の方も、年の経過や浅貝部落の変貌とともに増えこそすれ減らないし、部とOB会の負担は継続する。このことはすでにOB会においてもいろいろな検討がされてきたし、各種のシミュレーションも公開されてきた。だがOBにも会費免除が増え、その収入の先細りはすでに現実のものであるのに、その現実に明確な対策が論じられているようには思えない(僕の認識が間違っていれば謝らなければならないが)。

僕が恐れているのは、このまま推移すれば、わが三国山荘はそのまま、現役にとって、利用価値も少なく費用だけがかさむ、負の遺産となってしまうことだ。36年代は衆知のように最大の人数を擁したが、すでに卒業時のメンバーの四分の一は鬼籍にはいってしまった。OBの数も急速に減少に向かっているのだ。ここ辺りで、山荘をどうすべきか、真剣な議論が必要なのではないか。我々をはじめ、小屋に特別以上の感情を持つ人が多数おられるのはよく承知しているが、センチメントと決別して、山荘の永続性を考えるべき時にいる、と僕は確信する。

僕らが慶応高校時代、スキーシーズンになると赤倉にあった医学部の山荘に泊めてもらうのが常だった。風呂と蚕棚ベッド、薪ストーブだったが食事も出してくれ、大学生の先輩が数人、当番で常駐してなにかと指導してくれた。一緒に近くの旅館に神戸女学院の生徒がいると知って窓の外まで行って大声で歌を歌ったり、積雪をかき分けてゲレンデを作ったりした思い出もある。しかしヒュッテには厳然とした”慶応大学医学部”の権威と雰囲気があった。このような形で、三国山荘を維持していくことはできないか、というのが僕の提案である。

世話人やコックを常駐させることはできないだろうが、厨房に手を加えトイレと洗面台を改修すれば、安価に泊まれる、自炊可能な場所ができる。大学のゼミの合宿とか、塾職員の研修とかを目的とした施設として、塾に山荘の一元維持管理を要請する(財務上はもともと塾のものなので管理面をいわば”返還”することになる)。KWV関係者の利用には、費用や日程(たとえば合宿とか山荘祭などでの独占使用)など、いくつかの優遇措置を条件として明確にする一方、或る時期にはKWVから小屋番を常駐させる、といった協力は当然のこととしてだ。

再来年には改元があり、憲法改正も視野にはいっている日本の大きな転換点をのぞんで、我々も新たな決意をするときではないだろうか。本稿がきっかけとなって、OB各位、現役諸君を含んだ、政治の用語でいえば ”国民的議論” が展開されることを希望する。公開の目的のご意見ご批判は小生あてメールで頂戴できれば本ブログに転載するので、それをひとつの材料として議論が深まり、しかるべき過程をへて新体制の速やかな実現につながれば嬉しい。

 

 

 

多摩ニュータウン創設の頃 (37 初田正俊)

ことしの12月、寒さが続く師走としては珍しい暖かい晴天の1日、多摩丘陵の「府中カントリークラブ」でワンゲルの仲間とゴルフを楽しんだ。府中カントリーは昭和34年(1959年)戦後多摩丘陵に最初にできた老舗コースだけに、落ち着いた雰囲気で手入れも行き届いている。

「今日はいけるかな」。久しぶりのゴルフに勇んでOUT1番ティーに立つ。ドライバーをおもいきって振ると球は見事な左カーブを描いて崖下の白杭を越え池の中へ消えていった。こんな調子でこの日も18ホールを終えるとお約束どおりの“ライオンズクラブ”(110以上)入りとあいなった。

というわけでゴルフの話はこの程度でご勘弁いただき、コースの外側に見え隠れする「多摩ニュータウン」の思い出話に切り替えることにしたい。今の府中カントリーは多摩ニュータウンの住宅やマンション、オフィスビルに取り囲まれているが、昭和40年のはじめ頃まで多摩丘陵といえば東京近辺にある小学校の遠足の定番コースだった。

昭和30年代の高度経済成長を背景として、東京への人口集中が加速、東京圏で働く人の住宅不足や生活環境が悪化してきた。東京都心から近い緑地としてい親しまれてきた多摩丘陵も京王線に沿った八王子や日野市の丘陵地帯が次々と宅地化され、虫食い状態の乱開発が進んでいった。

このままでは、丘陵全体がまとまりのない市街地になるのを防ごうと東京都は昭和39年(1964年)5月、多摩市を中心に八王子、町田、稲城市にまたがる多摩丘陵約3000㌶を生活環境の整った人口33万人、日本最大のニュータウン計画を決定した。実際の建設は日本住宅公団(現在の都市再生機構)が担当、昭和43年頃から大量のブルドーザーやパワーシャベルが投入され丘陵を削っての宅地造成が始まった。

そして46年3月、永山地区で公団住宅の第一次入居が始まった。その頃新聞社で東京都庁を担当していたので、多摩ニュータウンは誕生の時から取材を続けてきた。今でも忘れられないのは、3月26日209戸の第一陣の入居風景である。この日は朝から春一番の南風が吹き、引っ越し荷物を満載したトラックが土ぼこりを巻き上げながら次々に新築の公団住宅に到着した。

当時はまだ京王線も小田急線も開通しておらず、トラックの行列は遠く甲州街道方向から関戸橋を渡ってやってきた。しかも入居を急いだため、住宅各棟への取り付け道路はまだ舗装が間に合わず、トラックが巻き上げる砂塵が新築住宅を覆っていた。 翌日の新聞各紙には「多摩ニュータウン入居始まる 砂塵の中、引っ越し第一陣」」の見出しが大きな写真付きで載っていた。「これはまるで西部劇の幌馬車隊の到着だね」。当日取材に集まった報道陣が皮肉ると、ある公団幹部は「50年後を見てくださいよ」と息巻いた。

50年後まで生きていないと思ったが、あの日から46年を経た今日、ニュータウンの中心地、大企業の本社ビルや高層マンションが林立する多摩センター地区を眺めなが、隣接する府中カントリークラブでゴルフを楽しんでいる。“19番ホール”は多摩センター駅地下のすし屋である。店内は勤め帰りのサラリーマンで大賑わい。半世紀前の幌馬車隊の光景からは想像できない新都心になっていた。