スコットランドでの驚き
南からエディンバラの市街中心部へ入って目に飛び込んできた光景が忘れられない。切り立った岩山の上に要塞のようなエディンバラ城が聳えていた。
6世紀にケルト人が建てた砦が起源であるという。 旧市街も石造りの建物は中世の香り豊かで散策も楽しんだが、何と言ってもエディンバラ城であった。街から見上げても城内に入ってもその迫力と存在感に圧倒された。城全体が「キャッスル・ロックCastle Rock」と呼ばれる岩山の上にあるので、市内全体に加えて北海まで見渡すことが出来る眺望は「素晴しい」の一言だ。バグパイプを吹くタータンチェックのスカートを身に着けたおじさんも歓迎してくれる。いかにもスコットランドに来たな、という気持ちになる。
グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(United Kingdomイギリス)のカントリーのひとつであるスコットランドは1707年までは独立した王国であった。現在でも独立志向が強く政治的懸案事項となっている。
スコットランドに来て驚いたのは、スコットランド地元の民間市中銀行が発行するポンド紙幣が流通していたことだ。エリザベス女王の図柄のイングランド銀行(日銀に相当する中央銀行)発行のイギリス公式のポンド紙幣は勿論流通していて、両方が併存しているのにはびっくりした。これは連合王国に併合される1707年以前の独立国当時のまま造幣を維持していて、現在ではイギリス連合王国の一地方にもかかわらず昔のままスコットランド独自のポンド紙幣を発行し流通させているのである。ただし、スコットランド域外のイギリス国内では使用、両替が制限されているので、スコットランド域内で使い切るようにした。イギリス国外では使用は不可能であった。
このように旧来から流通する紙幣が数百年後の現在でも併存する不思議な現実が一例として示す通り、EU離脱か留まるかのブレグジット問題でもイギリス中央政府とスコットランドの民意は相違していて、微妙な国内問題を抱えているイギリスとスコットランドの関係である。
ちなみに、スコットランドの旧名はラテン語でカレドニアと称したのは既に述べた。南太平洋上の島ニューカレドニアは18世紀後半イギリス人探検家キャプテン・クックによって発見され、新しいスコットランドを意味するニューカレドニアと命名された。数十年後にはフランス海外領土となったが現在に至るまで名前は変わっていない。
エディンバラ城とエディンバラに大満足してスコットランドの奥地に向かった。
スコットランドはケルト人(Celtic)が住んでいた地域。ケルト語のひとつゲール語(Gaelic)を話す人達であった。ゲール語で湖(lake)をロホ(loch)という。よく知られたスコットランド民謡ロホ・ローモンド(Loch Lomond) はローモンド湖を歌った民謡。怪獣が出ると言われたネス湖は現地ではLoch Ness(ロホ・ネス)という。
そのスコットランドの中央部を真っ直ぐハイランド地方の首都インヴァネスを目指した。深い森の中を静かに進むといった移動中、ノルウェーに次いで二人目の女性運転の車をヒッチハイクした。中年の女性で道中の会話はなまりが強くよく聞き取れず、日本と中国の区別がはっきりとは分かってない印象を受けた。しかし、親切なヒッチハイクに助けられたのは間違いない。
次に男性二人連れの車に乗った。おやっと思うことがあった。二人の話す英語が全く分からない。方言が強く聞き取り難いのは想定済みであったが、それにしても全く分からない。二人に尋ねて解った。なんと古来より地元では使われているゲール語を話していたのだ。初めて耳にした言語だった。破裂音がするオランダ語のように聞こえた。英語とゲール語が公用語であるが、スコットランド人口5百20万人のうちゲール語を話すのは6万人強(100人に1人)で年々減っているという。情報としては知ってはいたが、まさか古来の現地語ゲール語をスコットランドで耳にするとは思わなかった。
インヴァネス(Inverness)はスコットランド北部の行政区割りでハイランド地区随一の町で事実上の首都。これに対してローランド地方の首都はエディンバラだ。北国の静まり返った町だった。インヴァネスは「ネス川の河口」を意味する。北にあるといっても北欧のオスロ、ストックホルム、ヘルシンキより南に位置している。しかし、より人里離れた感じがした。冬は日照も少なく雨も多く寒い気候の下、人々はどんな生活をしているのかと想像した。多分スコッチウイスキーが手助けしているに違いないと思った。
ユースホステルに泊まり暮れるのが遅い静かな町を散策した翌日、町の中心部からヒッチハイク開始、10キロほど南に行くとネス湖に達する。幅は2キロと狭く35キロの細長い湖の湖岸に沿って延びた道を南下した。岸辺に廃墟になった城があり、村や人家にはほとんど出くわさなかった。勿論、ネス湖には怪獣はいないが、いても不思議でない暗い神秘的な雰囲気は充分味わえた。スコットランド(ブリテン島も)には高山はなく1000メートルを少し超えるのが最高峰。寒さと風で樹々も育たず丘陵は緑の背の低い草木に覆われていた。やたら放牧された羊の数が目立つ。やがてスコットランド民謡「ロッホ・ローモンド」で知られたスコットランド最大のローモンド湖(Loch Lomond)に着いた。
スコットランドは北海道をもっと過疎にした自然がそのまま残されていて、面積は北海道より小さく一周するのは存外早かった。人口は北海道より少し多い。最大の都市グラスゴーに一泊後、ロンドンへ戻るべく南下ルートを選んだ。スコットランドを離れるに当たってスコッチとして有名なウイスキーについてひとこと。
中世の終わり近く薬酒として修道院が独占的に製造していたが、16世紀宗教改革が起こり、ヘンリー8世によるイギリス国教会設立もあって修道院は解散させられた。その結果、修道院から蒸留技術が農家など民間に広まった。独特の香りを産む泥炭(ピート)の生産も豊富で、権力側は酒税収を当てにするようになる。自然な成り行きだ。製造者は奥地であるハイランド地方(Highland)や西海岸の沖合ヘブリディーズ諸島(Hebrides)へ製造場所を移し、理不尽な税取り立てから逃れるため、さらにアングラで密造した時期もあったのだ。スコッチウイスキーの製造がハイランド地方や、西海岸の沖合アイラ島(Islay)を含むヘブリディーズ諸島などの辺鄙なまたは田舎地域に集まった理由である。
大麦麦芽のみを使用したウイスキーが「モルトウイスキー」。そして「シングル」が意味するのは単一の醸造所で造られたウイスキーをボトリングしたものだ。つまり、一つの醸造所で造られた「モルトウイスキー」だけを瓶詰めしたのが「シングルモルトウイスキー」。
ハイランド地方東北部インヴェネスの東50キロの所にはスペイ川(River Spey)に沿って世界最大の醸造地域スペイサイド(Speyside)がある。スペイ川の流域は綺麗な湧水に恵まれ、周辺はピートの生産地でウイスキー生産にはうってつけの場所。スコットランドのモルトウイスキー醸造所の半数近い50を超える醸造所があり、まさにウイスキー産業のメッカだ。このスペイサイドは長年モルトウイスキー密造酒エリアだった。現在まで続くグレンリベットが最初に政府から公認された醸造所となった。ということは、それから税金を払いだしたということ。1824年のこと。
彼らの醸造所とシングルモルトウイスキーは特別に定冠詞がついて「The Glenlivet」という。さらに同じスペイサイドに醸造所を構えるシングルモルトウイスキーのロールスロイスと称されるザ・マッカランも「The Macallan」という。 創立は1824年で酒税を納める政府公認醸造所第2号となった。ウイスキーに「The」が付くのはこの二つのみだ。あまたのスコッチウイスキーの中にあって特別な存在なのだ。政府に公認されて酒税を納めていたこれらの先駆者は密造を続けていた他の醸造所からは当初白い目でみられていたという。
ちなみにスコッチウイスキーにはグレン(Glen)の名を冠した銘柄が目立つ。
The Glenlivet以外にも、グレンモーレンジィ(Glenmorangie)、グレンフィディック(Glenfiddich)などいくつもある。Glenはスコットランドの現地語ゲール語で谷、渓谷の意味。ザ・グレンリベットは「リベット川の谷」、グレンモーレンジィは「静寂の谷」、グレンフィディックは「鹿の谷」を意味する。