エーガ愛好会 (7) ”ビッグ・ケーヒル”のこと    (34 小泉幾多郎)

 ジョン・ウエイン(1907~1979)最晩年の作品。仕事一筋で家庭を顧みない連邦保安官ケーヒルとその17歳と11歳の息子との関係を軸に展開。ウエイン66歳の作品だから、親というよりも爺さんに見えてしまうが、時に過去の若々しい姿を彷彿とさせる場面もある。多忙から不在がちの親に反抗し、銀行強盗の仲間に加担した息子達を、その自主性を尊重しながらも反省させるまでを親の愛を示し好演している。自分自身も連邦保安官程でないにしても、仕事にかまけて、子供のことをないがしろにしてきたのではないかと反省してしまう。

 追手にコマンチインディアンを採用したり、そのインディアンの奥さんを侮辱した息子をウエインが馬から蹴落とす等70年代の西部劇らしき場面にも遭遇した。そのインディアン役のネビル・ブランドや悪党ながら若干人情味も見せるジョージ・ケネディ、主役級の息子二人ゲイリー・グライムズとグレイ・オブライエンと脇役も好演。御大ジョンウエインは、悪を憎み連邦保安官としての職務を全うする強い意志と息子達を愛する親の愛情を併せ持つ西部男の真骨頂を年齢を超越して見せてくれた。

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わが ”デューク” ことウエインが亡くなったのは1979年だが、その以前から癌にかかっていたことは公表されていた。一度、病床から復帰して、俺はビッグC(cancer のこと)に勝った!と言ったことが伝えられているが、結局、再発して不帰の客となった。全米で彼の回復を祈る声があったのはけだし当然かもしれない。ジョン・フォード映画の常連だったモーリン・オハラが全米に 何とかして、彼を救って! と呼びかけたのは有名だし、ロサンゼルス近郊、オレンジカウンティ空港は彼の死後、名前をジョン・ウエイン空港と改めたほど、まさに古き良きアメリカ、の象徴だった人物だ。彼の遺作となったのが ”ラスト・シューティスト”で、親友だったジェイムズ・スチュアート、それにローレン・バコールの共演だったが、見ているものにはすでに運命を知っている友人たちが、これが最後、と思って演じているのが感じられる、名作というか、形容しがたい映画だった。”ジョン・ウエインはなぜ死んだか” という本があるが、それによるとネバダの砂漠地帯で映画のロケに参加した俳優の多くが癌にかかり、ウエインもその一人だとしている。ウエイン西部劇で彼の良きわき役だったペドロ・アーメンダリスもその一人で、癌とわかって自殺したというし、科学的に証明可能なのかどうか知らないが、”駅馬車” から始まって彼の主演西部劇にはまずほとんどと言っていいくらい、砂漠が登場するのは事実だ。モニュメント・バレーだったら、癌にはならなかったのか、など思ったりするが、やはり駅馬車が疾駆するのは砂漠でなければならなかったと思う。一時、ジョン・ウエインの再来!などと騒がれたアレックス・コードによるリメイクの駅馬車はワイオミングの森林の中を駆け抜けたが、コード本人もその後不発だったし、やはり砂漠でなければなあ、などと思ったこともあったりした。小泉さんのご指摘通り、ウエイン晩年の作品ではあるけれども同じように老境にはいって作られた ”リオ・ブラボー” ”エルドラド” ”チザム” がいずれもユーモアあふれる、正統的勧善懲悪ガンプレイフィルムだったのに対し、”ケーヒル” には少し違ったトーンがあった。監督はアンドリュー・マクラグレン、アーメンダリスやハリイ・ケリー父子などとともにウエイン西部劇に欠かせなかった愉快な仲間、ヴィクター・マクラグレンの子供である。このあたり、父の親友のありようを知り尽くした演出だったのかもしれない。

 

Sneak Preview (5)  アーヘン、ヨーロッパ誕生  (44 安田耕太郎)

ヨーロッパに関して理解できない点があった。ローマ帝国の滅亡から現在の大陸の中核をなすフランス、ドイツ、イタリアがどのようにして形成されたのか、であった。解く鍵がアーヘンにあるのではないかと睨んだのだ。パリの北駅(Gare de Nord)からケルン行きの電車に乗ってアーヘンに向かった。

アーヘンAachenは鉱泉を意味する。古代ローマ時代から温泉保養地であったという。フランス語ではエクス・ラ・シャペルAix-la-Chapelle。Aixは水・鉱泉のこと。Chapelleは礼拝堂のこと。後述する大聖堂を指す言葉。「礼拝堂の泉」という名の町である。 

東西に分裂したローマ帝国の内、西ローマ帝国は5世紀末に滅亡。そのあとヨーロッパ全域を統一する勢力はすぐには現れなかった。統一したのがゲルマン民族の一つフランク王国であった。フランク王国は5世紀末にゲルマン人の部族フランク人によって建てられた王国で、最初の王朝メロヴィング家時代の732年にはトゥール・ポアティエ間の戦いでイスラム勢力を駆逐した。その後、子供の相続問題で衰退、代わって王朝の宰相であったピピン3世(Pippin III)がメロヴィング王朝を打倒して、自らカロリング王朝を創始して王国を支配。カロリングという名はピピンの父カール・マルテルからとった「カールの」という意味である。732年ポアティエの戦いでイスラム勢力に勝利した英雄がメロヴィング朝の宰相だったカール・マルテルである。

カール・マルテルの孫、ピピンの子カール1世(大帝)の時代8世紀末には、イベリア半島、ブリテン島、イタリア半島南部を除く西ヨーロッパ全域を支配するに至る。カール大帝はフランク国王として40年間、西ローマ皇帝にも西暦800年に戴冠、死亡するまで15年間君臨した。初代神聖ローマ帝国皇帝とも見なされる。神聖ローマ帝国(Holy Roman Empire)は領土的に今日のドイツ+オーストリアと同じだ。これらの展開は日本の奈良時代から平安時代の幕開けとほぼ同時代になされた。カール大帝の後を継いだ息子の死後、残された三人の息子達(カール大帝の孫)はフランク王国を3分割相続した。9世紀半ばのことである。それが今日のフランス、ドイツ、イタリアと重なる領土であった。現在に至るヨーロッパの誕生だ。

カール大帝はアーヘンを首都と定め、古典ローマ、キリスト教、ゲルマン文化の融合を体現して中世以降のキリスト教ヨーロッパの太祖として扱われており「ヨーロッパの父」と呼ばれている。フランスとドイツ両国の始祖的英雄とみなされていることから、フランス風及びドイツ風呼び方を共に敢えて避けて、英語風に呼ばれることも多い。

英名はチャールズ大帝Charles the Great、フランス名はシャルルマーニュCharlemagne、ドイツ名はカール大帝Karl der Groβe。スペイン語ではカルロスCarlos。フランス語のシャルルマーニュのマーニュはMagne。ワインの大瓶マグナムMagnumと同じ語源。大きい、偉大な、という意味。 カール大帝は在任中にアーヘンにフランク王国の宮殿教会を建立、のち大聖堂に改築。当時アルプス以北では最大の大聖堂であり、北ヨーロッパで最古である。彼の墓所も大聖堂内にある。

ビザンチン様式を取り入れたモザイク画や「ガラスの礼拝堂」と言われるステンドグラスは壮絶な美しさであった。八角形の聖堂内部は建築様式、古さ、豪華さ、荘厳さなど他に類を見ない。中世には所蔵する聖遺物により、巡礼地ともなっていた。現在ユネスコ世界遺産は1030件あるが、1978年に最初の12件が登録された。アーヘン大聖堂はその内のひとつである。勿論、ドイツ最初。ドイツ語でKaiserdom皇帝の大聖堂ともいわれる。

 

政治的に重要なことは936年から1531年まで歴代30人以上の神聖ローマ帝国皇帝の戴冠式が執り行なわれていたことだ。最後の戴冠式を行ったのがカール5世、ハプスブルク家出身の神聖ローマ帝国皇帝としてスペインも統治した。オランダをもスペインの占領下に置いた。

ついでに、フランス名Charlesmagneのシャルルはチャールズ大帝と同じだということで誇り高き由緒ある名前。僕が訪れた1969年まで10年間大統領だったシャルル・ド・ゴールCharles de Gaulle(ゴールのチャールズ)は驚くべき名前だ。

ゴールGaule(フランス語)とはガリア(Galliaラテン語)即ちフランスのこと。ゴール=ガリア(フランス)のシャルル。言うなれば、現代フランスのシャルルマーニュということになる。彼は心の中ではそう思っていたのではないか?

現代に生まれたフランスの英雄としてアメリカにもイギリスにも伍していた、彼の姿が忘れられない。

話を少し前に戻すが、3分割して出来たフランスに相当する部分が西フランク王国であった。王国のカロリング朝支配も創設から200年ほど経った987年に断絶、王国もフランス王国と呼ばれるようになりユーグ・カペー(Huges Capet)によりカペー王朝が創設された。

そしてフランス革命まで800年間に亘り、フランス王国はカペー朝(dynastie des Capétiens)350年、ヴァロア朝(dynastie des Valois)250年、ブルボン朝(dynastie des Bourbons)200年と引き継がれていったが、断頭台の露と消えたブルボン王朝のルイ16世で終焉を迎えた。その後は短期間のナポレオン帝政から共和制に移行して現在に至っている。

フランク王国が三分割して出来た国家のひとつである神聖ローマ帝国(Holy Roman Empire)は、名前から判断するとどこの国か分からないが、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、北イタリアの一部に君臨した国家である。西ローマ帝国の後継国家を称した。首都はプラハ、ウィーン、レーゲンスブルグなどに置かれた。ナポレオンの登場によって1806年帝国は消滅した。

エーガ愛好会 (6) 新・若草物語見てきました  (34 真木弓子)

同期アサ会一の文武両道で優しい小泉さんがミーハーの私にお声をお掛け下さったお蔭で、映画に精通していらっしゃって、他のあらゆる分野にも造詣が深い皆様のブログを何時も感心しつつ楽しく拝読させて頂いております。

皆様のお蔭で家でのお籠り生活も飽きず、教養も増し? TV放映の映画も隈なく再見。殆ど忘れていた場面が多くて我ながら驚きでしたが 返って新鮮に見られたとも思います。その中でオルコット原作「若草物語」もこざいましたが、今「ストーリー.オブ.マイライフ」を上映中で、早速見て参りました。

「若草物語」は10代の個性的な可愛い4人姉妹で童話の様に清らかで画面も明るく懐かしく感じられましたが、今回のLITTLE  WOMENはジョーが大人になってから始まり、回想で子供時代があって、人生の重みが胸に響きました。最後はジョーがベストセラー作家になり大成功のハッピーエンド。オルコットの自叙伝映画で、先の若草物語とは監督の視点が違いますし、主役のジョーは「ジューン.アリスン」に対して「シャーシャ.ロ―ナン」、つい最近TVで見たので つい比べてしまいましたが、主役の違い同様に、当然ですが全く別の作品です。

画面も最初は暗くて ハッピーエンドでパッと明るくなりました。映画批評通りに見応えのある映画でした。内容の違い以外で面白かったのは、女優陣は皆それなりに綺麗で納得ですが、男優主役のローリー(ティモシー.シャラメ)はまるでアニメの美青年で中性的な年下の男の子 の感じ、化粧、髪型ばかりでなく骨格も違っているのかしら?私の知らない俳優ばかりですが、古い顔立ちのマーチ伯母のメリル.ストリーブ は流石!貫禄がありました。

以上、外出自由になってから初めて渋谷に出た序に見ましたので、小泉さんからのお勧めもあり、私も敬服する皆様にもしお役に立つならばと思いまして、アップさせて頂きます。4姉妹の描写はより個性的で意志力が感じられて◎。衣装も素敵で女性向きの映画かな?これからご覧になる方もいらっしゃると思いますので詳細は遠慮致しました。

矢張り映画館の大画面は良いですね~、渋谷東宝シネマズは入場席は半分だけですので、私の両隣は空き、前後も空いていて、安心して見る事が出来ました。
でも映画館は大変ですね。よし!又 映画館の為にも貢献せねば!

オリバー君の娘

オリバーの娘、といってもエーガの話ではない。

足掛け6年位になるだろうか、ほぼ毎週、英会話のレッスンをしてくれているロンドン生まれの好青年 オリバー・ワトソン君にお嬢さんができた。勿論、大変な喜びようだ。彼の父君がちょうど小生と同じ年だそうで、こちらも何だか父親代わりみたいな気持ちになっていて、英語を習う見返り(?)にわがヤマト民族のことをいろいろと教えている間柄でもある。夫人にはまだお会いする機会がないが、デザイン関係の仕事を持っておられるらしい。この教室(GABA)のインストラクタには、日本人と結婚している人が多い。これからの時代、これからのいわば地球俯瞰型生活のなかで、こうして国を越え、文化の違いにとまどいながら理解しあっていく家族が増えていくのは素晴らしい事ではないだろうか。僕の勝手な想像だが、英国と日本、という二つの国にはそれとなく文化的な要素のところで近いものを持っているのではないか、と思ってきた。この一組の夫婦から新しい時代の種がまかれた。彼が得意になって見せてくれた写真、娘さんの髪は漆黒、生後1週間だというのに ふさふさ という形容詞を使いたくなるような日本髪、であった。

彼の喜びようが55年前、自分が感じた歓喜の感情を思い出させ(父親がわり、と勝手な思い込みもあって)、ちいさな記念品に、わが子誕生の朝に書いた、例によって詩まがいのものをそえた。夫人がどう翻訳してくれるか、申し訳ないが楽しみである。誕生後のレッスンで、名前をどうするのだ、と聞いたら、英語のパスポートには Alyssa 、日本語では ありさ としたい。ただ日本語をかなにするか漢字がいいか、と聞かれたので、僕は漢字がいいと思う、と答えた。かなはやさしいし、読み間違えがない。しかし漢字には意味がある。それが大事なのでは、というのが理由だった。結果として、長女は 有里彩 ちゃん。彩のある(埼玉は彩の国と言っている)ふるさとをもつ娘。何と素晴らしい命名だろうか。この三つの文字を選ばれた夫人のセンスには脱帽である。オリバーはいずれ、国籍を選ぶ時期がきたら、どちらを第一にするか、本人に決めさせる、と言っている。その時期、小生はたぶん、この現世にはあばよ、と言っているだろうが、わが有里彩ちゃんに栄光あれ!

 

 

 

娘よ。

おさなき生命萌え出づるあさ

阿佐ヶ谷の空は おだやかなりき。

霜月にはあれど

ドアより垣間見たる雲は やわらかにして

朝 まだき

うす黄金色に光り居れリ。

このあさ

ふるさと東京は

気温 9.3  湿度 83

しじまをぬらしたる時雨おさまり

いと おだやかなりき。

 

娘よ。

人の親となりたる日

健やかにまどろめる母を置きて

父は街へ出でたり。

日 土曜なれば

道は人にあふれたり。

そのとき

高らかに笑い交わしつ一群の少女父がそばをすぎ

わかき香り

埃せる街をきよめたれば

卒然と心のうちに 父は叫び居れり。

 

われに娘あり

我が娘 また きよらかに生きんと。

 

娘よ。

愚鈍なる父は今こそ悟りたり。

いのちこそは尊きもの

いのちこそはうつくしきものなりと。

 

娘よ。

晩秋の空はすでに暮れ

病室に灯の入りたれば

わかき父とわかき母は

しづかに手とりあい

汝れが名前を語りき。

 

娘よ!

いまいちど

父は心に叫びき。

われに娘あり

わが娘またきよらかに生きんと。

エーガ愛好会 (5)”めまい” みました  (44 安田耕太郎)

Giさんと同じ疑問が沸きました。殺された妻の顔は一度も画面に登場しません。まさか彼女までキムと瓜二つではないでしょう。スチュアートが殺人と断定していたかは、僕には疑問です。彼女が転落したあと、落ちる現場は勿論見ずに、転落地点に人が集まっている時には裏口から逃げるように立ち去っています。自分に容疑をかけられるのを回避したのだと思います。好きな人を失って(と思って)、虚ろに街を徘徊していてキムに瓜二つの女性に遭遇した、と思いました。
この辺の曖昧さは承知の上で、ヒッチコックは既にカラクリを観客に早くから知らせておいて、知らないスチュアートに何が起きるのかハラハラドキドキさせます。サスペンスは英語suspend(サスペンド=宙づり))に由来しているとのこと。精神的に宙ぶらりんになっていて、不安感やハラハラ感を持っている状態のこと。サスペンスはミステリーと違い、謎解きはない。サスペンスは感情(エモーション)を揺り動かすことが絶対的要素、だとヒッチコックは言っています。「めまい」の場合、スチュアートのハラハラ感に観客を同化させ、感情移入させることこそがサスペンスの核だと、言わんばかりです。映像的にサスペンス感を増幅したのが、高所恐怖症のスチュアートが教会の階段を上る時めまいを起こすシーン。俗に「めまいショット」と呼ばれた技法。カメラを後ろに引きながら、同時にズームアップすることで、被写体(この場合、映ってはいないがスチュアート)の位置は変わらないのに、背景だけが遠ざかっていき、めまいを起こしたような感覚に陥らせた。実際のシーンは、階段に似せた模型を作って横に置き、カメラは水平方向に移動させズームアップしたそうです。映画で観たその場面の階段は本物でなく模型です。被写体(人間)は全く映らないので模型でも問題なし。この様なトリックを使ったそうです。仏監督トリュフォーとの対談でサスペンスの神髄と手法について語り合っているのを読んだことがあります。

キム・ノヴァクについて。予定していた女優が妊娠で無理となり、代わりに抜擢されたそうです。ヒッチコック好みの金髪ではなかったそうです。あれだけ人気のあったマリリン・モンローですら使っていません。妖艶・セクシー過ぎるのが理由のようでした。確かにお気に入りは、グレース・ケリー、バーグマン、ティッピ・ヘドレン(鳥、マーニー)、エヴァ・マリー・セイント(北北西に進路を取れ、「波止場」で助演女優オスカー)などの気品あるブロンドだった様です。グレースはモナコへ嫁いで去られ、バーグマンはロッセリーニ監督に持ち去られ、ヒッチコックは落ち込んだそうです。
ノヴァクの東欧白人らしい雰囲気はこの映画にとても合っていたと思います。アップにしたプラチナブロンドに仕立ての良いグレーのテーラードスーツはとても似合うのがこの映画で分かりました。

エーガ愛好会 (4) ”めまい” のこと

“めまい” は編集子にはちと特別なエーガである。この映画を見たのが自分にとって生まれて初めての”デート“ だったからである。相手は水原八恵子、すなわち現在のオクガタである(だから今、こうして書けるのだが)。場所は確か日比谷映画だったと思うが、当時あのあたりに洋画専門のロードショー館が固まっていたから、ひょとすると有楽座だったかもしれない。なんとかキミマロのセリフではないがあれから40年(プラス)、再び隣り合ってみることになったが、昼飯のときのシャルドネが効いてきて、5分くらい眠ってしまったのはこの40年プラスの時の功(?)かもしれない。1週前は ”知り過ぎた男“ だったから、2週続けてヒチコックものを見た事になるが、記憶は断片的で、改めて時間の魔力を感じた事だった。しかし、今回は一つ、疑問を持つことになった。

“めまい”のストーリーの中心は妻を殺そうとする夫が友人の刑事(ジェイムズ・スチュアート)に妻の監視を依頼するのだが、その時には本人ではなく違う女性(キム・ノヴァク)を妻と思いこませ、あたかもキムが自殺したようにみせかけておいて妻を高い塔から突き落とす、というトリックである。スチュアートが疑われることはないのだが、自分に過失があったように思いこみ悩む。その後、街でキムに酷似した女性を見つけ、トリックを見破ることになるのだが、今回おかしいなとおもったのは、スチュアートは殺された人妻の本当の顔は知らないわけだから、もし死体の検証に立ち会っていれば、あきらかにキムが偽物であることはすぐわかったはずである(判別できないほど顔がつぶれていたのなら別だが)。しかし映画の中では彼が死体確認に立ち会う場面はない。

それと、いつ、どうしてスチュアートが(自殺ではなく殺人ではないか?)という疑問を抱くようになったのかが映画の場面では定かではない。街で(サンフランシスコという大都会の中で)偶然キムに再会し、解決へもっていくというのは不自然だから、意識して探していたに違いない。このことは再会以後のスチュアートの行動が確たるステップ(事件当日と同じ服、髪型にさせて現場へ連れていき動揺させる)で導かれることから明白である。僕が今回抱いた疑問は、“なぜ死体確認に、現場にいた現職の刑事が立ち会わなかったのか?” とうことである。どなたか、この疑問にお答えいただけないだろうか?

(菅原)小生、お気に入りのキム・ノヴァクに60年振りに再会しました。キレイだけど、超ダイコンですね。従って(これって、また、独断と偏見か)、ヒッチコックは二度とノヴァクを使っていません。しかし、小生、大不覚をとりました。今のいままで、「めまい」はヒッチコックのものだとばかり思っていたら、タイトルにボワロー=ナルスジャクの「死者の中から」が原作とあるじゃないですか。シモーヌ・シニョレが出たコワーイ「悪魔のような女」の原作者です。

ヒッチコックは、映画が始まって暫くしてから、用もないのに門の前を左から右に過りました(これが彼の役どころ)。それにしても、60年前、外出するに際し、日本でもそうだったんでしょうが、米国では帽子を被り、上下おなじ色のスーツを着用し、靴はフローシャムだったかどうか。今なら、さしずめ、野球帽、ティーシャツ、ジーパン、ナイキの厚底靴と言ったところですかね。そう言えば、ヒッチコックは「知り過ぎていた男」でも、スチュワートがソフトを頭に乗せていたのに、今回も帽子なし。ヒッチコックの売りって禿頭であることなんですか。

(金藤)「めまい」観ました。子供の頃に観たヒッチコックの印象しかないのにわざわざ書くのも恐縮ですが、今日の「めまい」は私の印象の中のヒッチコック映画と、ストーリーの展開が違うような気がしました。 原作者が他にいたのですね。ヒッチコックがどこに出て来るか、見るのを忘れていました。 もっと注意深く観なくては・・・それでは、皆さま、めまいと熱中症にお気をつけてお過ごしください!

(中司―金藤)めまい がおわるとすぐ 新選組血風録。今日は夕方まで忙しい。

Sneak Preview (4) (44 安田耕太郎)

スコットランドでの驚き

南からエディンバラの市街中心部へ入って目に飛び込んできた光景が忘れられない。切り立った岩山の上に要塞のようなエディンバラ城が聳えていた。

6世紀にケルト人が建てた砦が起源であるという。 旧市街も石造りの建物は中世の香り豊かで散策も楽しんだが、何と言ってもエディンバラ城であった。街から見上げても城内に入ってもその迫力と存在感に圧倒された。城全体が「キャッスル・ロックCastle Rock」と呼ばれる岩山の上にあるので、市内全体に加えて北海まで見渡すことが出来る眺望は「素晴しい」の一言だ。バグパイプを吹くタータンチェックのスカートを身に着けたおじさんも歓迎してくれる。いかにもスコットランドに来たな、という気持ちになる。

グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(United Kingdomイギリス)のカントリーのひとつであるスコットランドは1707年までは独立した王国であった。現在でも独立志向が強く政治的懸案事項となっている。

スコットランドに来て驚いたのは、スコットランド地元の民間市中銀行が発行するポンド紙幣が流通していたことだ。エリザベス女王の図柄のイングランド銀行(日銀に相当する中央銀行)発行のイギリス公式のポンド紙幣は勿論流通していて、両方が併存しているのにはびっくりした。これは連合王国に併合される1707年以前の独立国当時のまま造幣を維持していて、現在ではイギリス連合王国の一地方にもかかわらず昔のままスコットランド独自のポンド紙幣を発行し流通させているのである。ただし、スコットランド域外のイギリス国内では使用、両替が制限されているので、スコットランド域内で使い切るようにした。イギリス国外では使用は不可能であった。

このように旧来から流通する紙幣が数百年後の現在でも併存する不思議な現実が一例として示す通り、EU離脱か留まるかのブレグジット問題でもイギリス中央政府とスコットランドの民意は相違していて、微妙な国内問題を抱えているイギリスとスコットランドの関係である。

ちなみに、スコットランドの旧名はラテン語でカレドニアと称したのは既に述べた。南太平洋上の島ニューカレドニアは18世紀後半イギリス人探検家キャプテン・クックによって発見され、新しいスコットランドを意味するニューカレドニアと命名された。数十年後にはフランス海外領土となったが現在に至るまで名前は変わっていない。

エディンバラ城とエディンバラに大満足してスコットランドの奥地に向かった。

 

スコットランドはケルト人(Celtic)が住んでいた地域。ケルト語のひとつゲール語(Gaelic)を話す人達であった。ゲール語で湖(lake)をロホ(loch)という。よく知られたスコットランド民謡ロホ・ローモンド(Loch Lomond) はローモンド湖を歌った民謡。怪獣が出ると言われたネス湖は現地ではLoch Ness(ロホ・ネス)という。

そのスコットランドの中央部を真っ直ぐハイランド地方の首都インヴァネスを目指した。深い森の中を静かに進むといった移動中、ノルウェーに次いで二人目の女性運転の車をヒッチハイクした。中年の女性で道中の会話はなまりが強くよく聞き取れず、日本と中国の区別がはっきりとは分かってない印象を受けた。しかし、親切なヒッチハイクに助けられたのは間違いない。

次に男性二人連れの車に乗った。おやっと思うことがあった。二人の話す英語が全く分からない。方言が強く聞き取り難いのは想定済みであったが、それにしても全く分からない。二人に尋ねて解った。なんと古来より地元では使われているゲール語を話していたのだ。初めて耳にした言語だった。破裂音がするオランダ語のように聞こえた。英語とゲール語が公用語であるが、スコットランド人口5百20万人のうちゲール語を話すのは6万人強(100人に1人)で年々減っているという。情報としては知ってはいたが、まさか古来の現地語ゲール語をスコットランドで耳にするとは思わなかった。

 

インヴァネス(Inverness)はスコットランド北部の行政区割りでハイランド地区随一の町で事実上の首都。これに対してローランド地方の首都はエディンバラだ。北国の静まり返った町だった。インヴァネスは「ネス川の河口」を意味する。北にあるといっても北欧のオスロ、ストックホルム、ヘルシンキより南に位置している。しかし、より人里離れた感じがした。冬は日照も少なく雨も多く寒い気候の下、人々はどんな生活をしているのかと想像した。多分スコッチウイスキーが手助けしているに違いないと思った。

ユースホステルに泊まり暮れるのが遅い静かな町を散策した翌日、町の中心部からヒッチハイク開始、10キロほど南に行くとネス湖に達する。幅は2キロと狭く35キロの細長い湖の湖岸に沿って延びた道を南下した。岸辺に廃墟になった城があり、村や人家にはほとんど出くわさなかった。勿論、ネス湖には怪獣はいないが、いても不思議でない暗い神秘的な雰囲気は充分味わえた。スコットランド(ブリテン島も)には高山はなく1000メートルを少し超えるのが最高峰。寒さと風で樹々も育たず丘陵は緑の背の低い草木に覆われていた。やたら放牧された羊の数が目立つ。やがてスコットランド民謡「ロッホ・ローモンド」で知られたスコットランド最大のローモンド湖(Loch Lomond)に着いた。

スコットランドは北海道をもっと過疎にした自然がそのまま残されていて、面積は北海道より小さく一周するのは存外早かった。人口は北海道より少し多い。最大の都市グラスゴーに一泊後、ロンドンへ戻るべく南下ルートを選んだ。スコットランドを離れるに当たってスコッチとして有名なウイスキーについてひとこと。

中世の終わり近く薬酒として修道院が独占的に製造していたが、16世紀宗教改革が起こり、ヘンリー8世によるイギリス国教会設立もあって修道院は解散させられた。その結果、修道院から蒸留技術が農家など民間に広まった。独特の香りを産む泥炭(ピート)の生産も豊富で、権力側は酒税収を当てにするようになる。自然な成り行きだ。製造者は奥地であるハイランド地方(Highland)や西海岸の沖合ヘブリディーズ諸島(Hebrides)へ製造場所を移し、理不尽な税取り立てから逃れるため、さらにアングラで密造した時期もあったのだ。スコッチウイスキーの製造がハイランド地方や、西海岸の沖合アイラ島(Islay)を含むヘブリディーズ諸島などの辺鄙なまたは田舎地域に集まった理由である。

大麦麦芽のみを使用したウイスキーが「モルトウイスキー」。そして「シングル」が意味するのは単一の醸造所で造られたウイスキーをボトリングしたものだ。つまり、一つの醸造所で造られた「モルトウイスキー」だけを瓶詰めしたのが「シングルモルトウイスキー」。

ハイランド地方東北部インヴェネスの東50キロの所にはスペイ川(River Spey)に沿って世界最大の醸造地域スペイサイド(Speyside)がある。スペイ川の流域は綺麗な湧水に恵まれ、周辺はピートの生産地でウイスキー生産にはうってつけの場所。スコットランドのモルトウイスキー醸造所の半数近い50を超える醸造所があり、まさにウイスキー産業のメッカだ。このスペイサイドは長年モルトウイスキー密造酒エリアだった。現在まで続くグレンリベットが最初に政府から公認された醸造所となった。ということは、それから税金を払いだしたということ。1824年のこと。

彼らの醸造所とシングルモルトウイスキーは特別に定冠詞がついて「The Glenlivet」という。さらに同じスペイサイドに醸造所を構えるシングルモルトウイスキーのロールスロイスと称されるザ・マッカランも「The Macallan」という。 創立は1824年で酒税を納める政府公認醸造所第2号となった。ウイスキーに「The」が付くのはこの二つのみだ。あまたのスコッチウイスキーの中にあって特別な存在なのだ。政府に公認されて酒税を納めていたこれらの先駆者は密造を続けていた他の醸造所からは当初白い目でみられていたという。

ちなみにスコッチウイスキーにはグレン(Glen)の名を冠した銘柄が目立つ。

The Glenlivet以外にも、グレンモーレンジィ(Glenmorangie)、グレンフィディック(Glenfiddich)などいくつもある。Glenはスコットランドの現地語ゲール語で谷、渓谷の意味。ザ・グレンリベットは「リベット川の谷」、グレンモーレンジィは「静寂の谷」、グレンフィディックは「鹿の谷」を意味する。

 

 

そろそろ表へ出よう! (39 堀川義夫)

昨日(6月12日)、鎌倉のアジサイ見学に行ってきました。梅雨入りでしたが夏日となり空は真夏の様に入道雲も発生、明月院は満開!長谷寺はほぼ満開の状況で楽しい一日でした。

明月院 それなりの混雑の中、鑑賞者は100%マスク着用で真っ盛りの明月院ブルーを楽しみました。

7月の月いち高尾は梅雨を吹き飛ばして、ぜひ皆さんで高尾に行きましょう!!7月8日水です。

珍しい沙羅双樹の花

明月院から炎天下を葛原岡神社⇒銭洗弁天⇒佐助稲荷神社⇒カフェテラス樹ガーデン⇒大仏⇒長谷寺へハイキング。汗びっしょり。途中の洒落た樹ガーデンでキーマカレーと生ビールで寛ぐ。

 

 

長谷寺のアジサイ

明月院とは趣の違うアジサイの路は、今年はコロナの為か現時点で神奈川県民限定で往復はがきで事前申し込みが必要。特別拝観料は「かながわコロナ医療・福祉応援基金」寄付され、1日1000人までの入場とのこと。細かいことは抜きに、満開に近い素晴らしいアジサイを楽しみました。

 

明月院とは異なり様々な種類のアジサイを見ることが出来ます。

(37 菅谷)茶毒蛾の後遺症は如何かな?

普通は治るのに最低1週間は罹ると聞いていましたが早くも鎌倉でアジサイ見物とは、貴兄も休まない御仁ですな!明月院も長谷寺も絶好のタイミング、写真が素晴らしい。

神奈川県民限定とは羨ましい限り、私はせいぜい高幡不動のアジサイで我慢することにします。府中街道沿いの妙楽寺も結構お薦めです。

(43 猪股)素晴らしい紫陽花見事ですね。とても綺麗に
撮れています。ありがとうございます。

家に閉じこもっていないで、外に出ようとのことですが、体調イマイチなこともあり、今ひとつ、怯む気持ちがあります。そんなことで、STEP3に緩和されましたが、まだ疑心暗鬼です。

7月から活動を始め、月一高尾から参加させていただこうと考えています。

(36 後藤)見事なアジサイの写真ありがとう。我が家の庭のものとは全く違い品の良さを感じます。アジサイは本当に季節の花として気持ちを豊かにさせてくれます。次回の高尾を楽しみにしています。

(39 三嶋)菅谷さんの仰る「妙楽寺」は川崎の多摩区長尾 でしょうか? 地元ではアジサイ寺として有名です。先週もウオーキングで行ってきました。

この近くの 「枡形山」 もお勧めですよ。エッ それ何処?  生田緑地の 最高峰(84m)です。行かれた方も多いでしょうが、展望台からは 都心を始め 天気が良いと男体山も望め、 アジサイ、菖蒲 も盛りでした。
広い敷地の中には 日本民家園、岡本太郎美術館、科学館 もあり のんびりと楽しめます。コロナ騒動のお陰で 私は良さを再発見しました。
(38 町井)自然豊かなところにお住まいで羨ましいのですが、嫌な虫の被害もあるのですね。お気の毒でした。

でも、良くおなりになって鎌倉にいらっしゃったのは羨ましい!神奈川県民限定で、東京から行ってはいけないのでしょ。NHKのニュースで長谷寺の紫陽花を映していましたが、貴方の写真の方がずーっと美しく、素晴らしいです。7月8日、楽しみにしておりますが、自粛生活で2キロ太りましたので、歩けるかしら?

“襲われた幌馬車” と 麻生発言

”襲われた幌馬車” は懐かしき西部劇のひとつで一昨日、BS3番での放映があった。まず、小泉幾多郎西部劇論から。

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 6月5日西部劇「襲われた幌馬車」が放映されたことでの感想。
1956年製作。大分昔に観たので殆んど忘れていた。リチャード・ウイドマーク主演。「悪の花園」「ゴーストタウンの決闘」「ワーロック」等、ゲーリ-・クーパー、ロバート・テイラー、ヘンリー・フォンダという名だたる俳優との共演で損な役回りが多かったが、これは「六番目の男(1956)ジョンスタージェス監督作品」と同様、完全なる主演者なので気持ちよさそうに演じていた。 冒頭、ライフル銃を構えたウイドマークが、川越しに狙いをつけ、一人を射殺する。その後3人と打ち合い、二人を殺す。連中の胸にバッチが見える。悪役ウイドマークかと思いきや、後で判るのだが、コマンチ族インディアンの妻と子を殺された
敵を討ったのだった。しかし最後の一人に捕まり、縛られたまま馬で引っ張られる等残虐行為を受けるが、モルモン教徒らしき幌馬車の一団と同行することになる。胸バッチの残虐行為は同行してもやまず、それがコマンチと勘違いしたのか、コマンチと同居してきたからなのか、よくわからなかったが、最近白人警察官が黒人を地面に押さえつけて殺害という事件を彷彿とさせた。
幌馬車を率いるリーダーの先妻がインディアンでその娘と白人の後妻の娘との葛藤とかもあり、人種問題も提起される。監督はあの歴史上はじめてインディアン側から描いた西部劇と言われた「折れた矢」の監督デルマー・デイヴィスである。その後アパッチ族の攻撃をウイドマークの戦略で無事切り抜け、最後は軍事裁判での将軍による大岡裁定で、めでたしめでたし。 ウイドマークのインディアンに似た風貌で、出来る限りセリフの少ない、またストイックな流れるようなアクション等主人公にぴったりと合ったこと、ロケ地が、アリゾナ州セドナのオーククリーク渓谷で、カセドラルロックといわれる聳え立つ赤い絶壁の岩山等がいつも背景に眺めることが出来、楽しむことが出来た
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小泉論評にもあるが、この映画で人種差別の問題が提起された。よくあるテーマなのだが、編集子が特に興味を持ったのは、小泉さんが ”大岡裁き” とかかれている裁判でのウイドマークの発言である。裁判長のもと将軍が、たぶん、経験の浅い将校に率いられた陸軍の小部隊がウイドマークの活躍で救われたことに対して恩義もあったのだろう、殺人の動機について、斟酌したいという気持ちを示したのに対し、ウイドマークはあえて自分ははっきり意識して、冷血に(cold  blooded) 殺人をしたのだから、縛り首で結構だ、と明言する。驚いた将軍との間で展開された議論で、ウイドマークは 将軍は南北戦争で大勢の敵を cold blooded で殺したではないか、と詰問する。将軍はそれは同胞を守るためだったのだ、だから合法だ、と答えるのだが、同胞とは何か、それは南軍、北軍などと言う前に同じアメリカ人のことではないのか。そのアメリカ人にコマンチ族ははいらないのか。法とは何だ。白人に法があるようにコマンチにも法がある。自分たちが勝手に作った法律だけを言うのは間違っているではないか。この展開に将軍も困ってしまい、結果としてウイドマークを彼に好意を持つ女性と彼を慕う少年に預ける、ということでハピーエンドになるのである。
映画の背景としてその将軍が南北戦争に参戦していたということになっているのだから、1867-8年、日本で言えば明治維新のころの話だろう。それから150年以上、4世代くらいまえのことだが、いまなお、米国は人種差別問題で解決を見いだせていないようだ。これはこのまま、単一民族、単一文化の日本ではどうしても理解できない歴史の汚点として残っていくのか。
そこへ今、全米で問題になっている暴力事件である。これのきっかけとなった警官の行為は、たぶん白人相手ならしなかっただろうと思っていたのだが、その後いくつかのニューズ画面で、白人の老人や女性に対して警官が警棒で女性を殴る、デモを利用した商店の略奪が黒人だけの犯行ではない、など、日本では想像もできない行為が報道されるのを見ると、これは単に人種差別だけの問題ではなく、アメリカ人全体の成熟度、一言でいえば民度、の問題なのではないかと思わざるを得ない。
民度、という単語の専門的な定義は知らないが、ここでは生活水準とか、教育程度だけの問題だけではない、個人と社会とのかかわりあいを含んで使っている。つまり、自己の尊厳、ということと同じ次元で、公徳心、公共精神、おもいやり、といったことだ。このことを先日、英会話のレッスンで説明したら、英国人のインストラクタはそれを SOCIAL OBEDIENCE という用語で理解した。その時はなるほど、と思ったのだが、OBEDIENCE には服従とか、何か強制されている、というニュアンスがある。これに加えて彼は、日本社会の根本にある SHAME という感覚、”恥の文化”( “菊と刀” のルース・ベネディクトがこう名づけたように覚えているが定かではない)が機能しているからだ、と言う。
たしかにわれわれは ”人様に迷惑をかけるのは恥” というしつけを、学校教育よりも早くから、家庭のなかでされてきた(少なくとも昭和人には。話が飛ぶが、昨今はこういうことまで学校の責任だとする風潮があるのは誠に残念)。この伏線が、たとえば東日本大震災の時にはいかんなく発揮されて、前回もどこかで触れたと思うが、救援にかけつけてくれた米軍指揮官を感動させたし、なによりもそれが顕著に表れたのが、今回のコロナ騒動での国民全体の行動だったと思うのだ。
例によって”日本モデル” には安倍首相の政治宣伝らしきニオイが漂っているのはたしかであるが、少なくとも今までは日本でのコロナ封じ込めの成功が欧州の人には理解できず、なにか統計上の問題があるのではとか単なる幸運なのだという論議が盛んである。山中博士のいうファクターエックスが特定できるのを僕らは待つしかないが、一つだけ確かなのは今回の騒動が科学的問題であると同時に社会の成熟度の問題でもあるということだ。”マスクをする“ ことが、発生はともかく蔓延を防ぐために有効なのは、懐疑的だったWHOも認めたようだが,”する” ”しない” は科学上の課題ではなく、個人の公共意識の問題である。ロックダウンもせず(もっともできなかったのは憲法上の問題でもあるようだが)、個人の意識と自制に頼った今回の政府対策が効果を上げたのは、何といっても、そういう意味での日本人、日本社会の民度の高さを立証したのだと思ってきた。
”日本モデル” があやしいものなのでは、あるいは単なる幸運なので、政府の対応が功を奏したのではない、もっと(また例によって)欧米のような科学的対応をしなければならない”という論調がある。原因追及のために世界と強調していくのはもちろんんそうあるべきだが、例えば、昨日報道されたフランスの例にあるように、”人混みを避ける“ ”マスクをするのが効果的だ” と公的に認めてもなおかつ、実行しない人間が多すぎるため、外出証明書の携帯とか、高額な罰金とか、そういうものがないと実行がむずかしい、という現実は一体何なんだろうか。”欧州のように” 論者がその文化の中心と崇め奉るフランスはパリの現実はどう考えたらいいのか。いくらワインの銘柄にくわしくともソルボンヌを出ていようとも、”人様に迷惑をかけない” 意識がなければ現実の社会で正義は成立しない。そういう意味で今回のコロナ対応の多くは、 ”恥の文化” であろうと SOCIAL OBEDIENCEだろうとかまわないが、日本の民度の高さ、文化の表れとして評価すべきものだと信じてきた。
そこへ、数日前の読売新聞は麻生副首相の発言として、”外国から日本だけ特別な薬を持ってるんじゃないか” などという問い合わせがある。それに対して日本の民度の高さのためだ、と言ってやったらその後そういう話はなくなった” という報道があった。小生、このおじさんはどうも好感が持てない政治家のひとりなのだが、今回の発言に限っては、タロー,よく言ってくれた、という感じを持った。だからといって現政権がいい、と言ってるわけじゃないんだが。

月いちメンバー 家を出始める   (39 堀川義夫  43 下村祥介)

(堀川)そろそろ、「メンバー家に籠る」から名前を変更して行きたいと考えています。

寺家ふるさと村は概ね田植えが終了しました。

蛍は未だ出てきて楽しませてくれますが・・・もうすぐ見れなくなります。

来年までさようなら!蛍の光だけお楽しみください。携帯ではこのくらいしか表現できません。

昨日(6月4日)、1月以来の高尾山に行ってきました。稲荷山コースを10時45分に登り始め、1時間15分で久しぶりに高尾山頂上に到着です。

登山道入り口にはこんな看板がありました。

三嶋さん情報の山岳団体からのガイドラインをイラスト化したものです。物好きにも試しにマスクをして登ってみようと思いマスクを付けなおして登山開始しました。これって、結構きついですね。結構暑かったのですが、風があったので何とかなりましたが、急登では頭が痛くなり、ふらつきが出ました。これって、多分酸欠状態になったのではと思いましたが、最後の230段の階段も一気に登り頂上に到着しました。

 

山頂付近の茶屋は、営業していました。唯、食堂内は密にならないように、カウター越しの対話にはビニールカーテンが設置されているようでした、山頂の込み具合は結構な人出で予想以上でした。

途中、アナグマの子供(体長20㎝位)遭遇しました。なぜこんなところに子供のアライグマがいるのかわかりませんが、全然人馴れしているのか怖がらず這いずり回っていました。

 

下山は薬王院に参拝して、安全登山の祈願、月いち高尾の発展、コロナ撲滅等々色々とお願い事をし、1号路を歩いて駅に向かいましたが、途中気が変わり金毘羅堂から以前に行った「ろくざん亭」の脇を通て高尾の駅へ。

ついでのことに、てんぐ飯店に寄り生ビールを1杯飲んで帰路につきました。テングにはおかみさんがいて、皆さんの再来を待っていますとのメッセージを頂きました。

(下村)

おはようございます。お元気でお過ごしのことと存じます。小生の方も夫婦ともども元気でやっております。

さて(若干罪悪感を感じつつ)3か月ぶりに原村に様子を見に行って参りました。陽光に新緑がキラキラと光り、蓮華つつじが満開で久しぶりに心が洗われた感じです。 6月1日から開場とのことで蓼科の三井の森ゴルフ場も見て参りました。受付フロントは透明のアクリル板で囲ってあり、ロビーやロッカールームではマスク着用、風呂はなし、グリーン上のピンは刺したまま触らないこと、バンカーレーキは無しで足でならすことなど、まだ制約が多い状態でした。

新緑の頃に山麓会コンペを開催と考えておりましたが、このような状況に鑑みてもう少し様子を見たいと考えております。自粛解除後の感染者数も漸増気味であり、慎重を期したいと思いご了承いただきたくよろしくお願い申し上げます。

(編集子注)”山麓会” は下村君の尽力でできた、八ヶ岳南麓(明快な定義はないが、ま、硬いこと言うな)にセカンドハウスがあったりして付き合いのあるメンバーの会で、一昨年秋からゴルフもメニューに加わった。まったくのフリーの愉快な集まりである。ご興味のある方は下村君あてご連絡ありたい。

PS:堀川兄、出てきたのはアナグマ、それともアライグマ?