乱読報告ファイル  (25) 居眠り磐根江戸双紙

この本のことが話題になっていることはだいぶ以前から承知はしていたが、万事、流行には反発することにしている生来の天邪鬼気質が邪魔して、最近まで見向きもしなかった。ところが偶然にテレビで山本耕史出演の番組に出合ったのがきっかけで文春文庫版を本屋で手にしてみた。ただ全51冊、と言う分量に多少腰が引けていたら、スガチューから、51冊、なんて三日三晩で読めらあ、とけしかけられて(考えてみるとミステリーというものを吹き込まれたのもこの男なのだ)読み始めたのだが、本心、どこまで続くかと不安でもあった。しかし始めて見るとまさにはめられて、そのほか積んである本には見向きもせず、昨晩、51冊目 旅立ちの朝 を読了した。これで気になっていたポケットブックのほうに戻れそうだ。

これまで、いわゆるシリーズ物にはまった経験は、たとえばロバート・パーカーのスペンサーものとか、北方謙三のブラディドールとかはたまたスー・グラフトンのキンジー・ミルホーンシリーズとか結構あった。これらの場合はまず当初目に触れた1冊が気に入って次のを待つ、という時間的ずれがあったのだが、今回はすでに全巻が本屋に並んでから読む気を起こしたので、週に2回は立ち読みに出かけると常に存在が眼に入って、はい、つぎ! とせかされるような気分だった。そのことがほかの本には目もくれず、といったペースを生み出したのかもしれない。

このシリーズの魅力はなんだろうか。

第一に、全体を通じて感じられる、日本人らしさというか、表現は変だが清潔さ、みたいなものだ。主人公はやはりスーパーマンではあるのだが、いつも堅苦しさを持ち続けこの話の背景の時代にはすでに崩れかけていた武士の在り方を追いかける、昨今の小説ではおよそはやらないテーマだからだ。作品が扱う爛熟した江戸時代の社会が、ある意味では現在の表面は派手だが中には耐えきれない逼塞感があるような日本を思い出させて、人々が求めようとしている生き方を暗示するからではないだろうか。ミステリではいわゆる本格物は非現実的だからハードボイルドがあるのだ、などとうそぶいている人間にしては殊勝かつ自己矛盾的な言い方ではあるのだが。

第二はシリーズ物につきものの、主人公以外のいろいろな登場人物や背景に対する親近感が絶えず感じられるストーリーであるからだろう。”どてらの金兵衛さん” などはテレビ番組で好演の小松政夫のイメージがすっかり定着していくのがいい。ほかのシリーズ、たとえばスペンサーにしても北方にしてもストーリーは面白いがバイプレイヤーについての書き込みがあまりない(その点、グラフトンのABCシリーズはよくできている)。また江戸(この本が描く江戸が発展拡大して東京になった、などは決して思えない)というたぐいまれな文化や人間関係が、今となっては一種の羨望さえ抱かせるように書き込まれていることがあるだろう。

第三には、これは作家としては当たり前といえばそれまでだが、時代検証が行き届き、江戸の地理地名が詳細に書き込まれていて、現在と比べてみる楽しみがある。当時、水路がこれほど発達していたとは知らなかったので、日本橋さえ埋め立ててしまった東京の、ある種の貧困を感じさせる。また頻繁に当時の食べ物の描写も懐かしさを引き立てることが多い。この本に出てくる献立に郷愁を感じられるのも小生たちの時代までなのだろうが、(明治は遠くなりにけり)という言葉が浮かぶ。

ま、今晩は金曜日、とりあえず、読了した満足感と開放感みたいなもの、スガチューにどうだ、と言ってやりたい気持ち、そんなものを感じながら時代劇専門チャンネルで磐根くんとおこんちゃんにお目にかかろう。