意気込んで行った ”半日高尾” だが、予想外のユカイな出来事をもたらした。その報告である。
(中司ー児井)憂さ晴らしに高尾山へ散歩に行ってきました。行ったことがおありかどうかわからないが、ここはもともと信仰の場所であり、その参道には杉並木保全のための寄付金(1口3000円)をした人の名前が1年間掲示されます(もっとも1万円以上だそうだ)。一番奥が一番の高額寄付者で、これはご存じ北島三郎ですが、行き帰りに何となく名前を見ています。今日、まったく偶然に添付写真の名前を見つけました。珍しいご苗字なんで、なんとなく。
(児井-中司)貴信拝承。小生にとっては貴重な情報を貰い、有難う。これも何かの「縁」ですね。当人は小生の従弟とその妻(我が親父の弟の倅)に当たります。母校市川学園の後輩で同窓会の集まりとか共通の兒井家の墓の墓参の折とかに時々顔を合わせたりしていました。ここ数年はコロナの所為で墓参も儘ならず、忸怩たる思いでおりましたので、貴報告で大切なことを思い出すことが出来ました。今後とも貴兄との「縁」を大事にしながら、どうぞよろしく。
(中司ー児井)まさか、と思っていましたがいや、びっくりです!そうですか、貴兄とは初対面の時からなにか通じあうような気持ちがあったと思いますが、縁がある、ってのはこういうことのようですね。ご一統様、ご健康をいのります。ところで児井、という姓はどのあたりが発祥なのでしょうか、ご存じですか。
中司というのもあまりないのですが、壇之浦で敗れた平家の下級武士の末裔だという事までは祖母に聞いていました。
祖母が実はこの中司(明治維新で士族であったそうです)の生き残りで、男子がいなかったため、山形の有泉家に嫁し、次男の清つまり小生の父親が姓を継いだのだそうです。なんで、どうして、まだ新幹線もないころ、山口のこれまた片隅
(周防大島の安下庄というところ)から山形なんぞと縁があったのか(山形といえば米沢の版図のはずですが、会津の味方ではなかったのか、とすると長州の家との縁組が何でできたのか、謎だらけです)、まではわかりません。
(児井ー中司)貴信確と拝受。兒井家の発祥は金沢前田家の家臣だった様です。当時当地では「濃い」・「薄い」の「薄井」姓が本命で、そこから転じて「兒井」姓が生まれた様です。現在では兒の字が当用漢字から外され「児」の字を使っております。(戸籍上では旧漢字の兒井で登記されています) 余談ですが昔役所に登録の際、筆の誤りで臼の下に足が生えてしまったのではないかと親父から冗談交じりに聞いています(笑い)。何れにせよ極めて稀な姓で、貴ブログ仲間の保屋野さんの調べでは、「児井」姓は全国で20人(市川に10人、他関東に10人)の由。これまた余談ですが、小生出生の折、当時陸軍士官であった親父(英義)が「皇軍堂々正義の士」と謳って、「正義/まさよし」と命名した旨アルバムに記載されていました。当時の世相を振り返るとともに正義には聊か未熟な自分に恥じらいを否めません。
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