乱読報告ファイル (75) 谷崎 金と銀を読んだ (普通部OB 菅原勲)

谷崎純一郎 ”金と銀”を読む。

谷崎は、1965年に亡くなっているから、この本については少々の説明が必要だろう。 先ず、これは、探偵小説編と銘打たれている内の一冊で、この他に、横溝正史「死仮面」、

甲賀三郎「盲目の目撃者」、夢野久作「暗黒公使」、小栗虫太郎「女人果」、佐藤春夫「更生記」などがある。しかし、小生は、この谷崎を含め、これらの本を読んだことは全くない。

そこで、「金と銀」なのだが、以下、五つの短編から成り立っている(括弧は、発表年)。しかし、結論から先に言ってしまえば、これら全ては、殺人が発生し、それを探偵役の人物が論理的な推理を働かせて解決する経過を主眼とした物語と言う探偵小説の定義からは相当程度、逸脱している。何故なら、この内、相手を殺し損ねて痴呆状態にした例(「金と銀」)、

殺人にまで至った例(「或る少年の怯れ」)があるだけなのだ。

確かに、探偵小説ではないのだが、さりとて、犯罪小説なのか、はたまた、フランス語で言うノワールなのか、何とも名状し難い。むしろ人間の底の底の底まで見つめた、極めて独特な谷崎にしか描けない、それこそ谷崎独自の世界なのではないかとの思いを強くする。そして、普通は、本を読んで気持ちが浄化される、所謂、カタルシスがあるのだが、そんなものなども微塵もない。ただ残るのは、人間、この不可解な生き物が浮かび上がって来るだけだ。従って、小生も好まないが、万人むきの内容とは到底言い難い。

小生の谷崎に対する読書歴は極めて貧弱で、有名な「細雪」は最初の1頁で早期途中棄権(実は、川本三郎に、「「細雪」とその時代」(2020年)と言う著書があって、そちらの方が読み易かったことから、すっかり読んだ気持ちになってしまった)、さりとて、完走した「刺青」は全く印象に残っていない。ただし、大変、面白かったのは、谷崎の明治時代の自身と日本橋を描いた「幼少時代」(1955年)、それに、谷崎家の女中の変遷を描いた「台所太平記」の二つだ。ただし、これらは谷崎にとっては余技であって、巷間、云われる独特の谷崎の世界とは全くの別物だ。従って、小生は、谷崎の読み手としては落第だし、これ以上、谷崎の本を読む気持ちも毛頭湧いてこないと思われる。

ただし、ここで一言断っておきたいことがある。それは、谷崎の文章だ。1920年前後だから、ほぼ100年も前の作品となるのだが、改行が少ないけれど、意外にも非常に読み易い。別に、旧仮名遣いから新仮名遣いにした旨を断っているわけではないので、地の文のままと思われる。

ここで、以下、夫々の内容について、簡単に触れておこう。

「金と銀」(1918年)。両人共に絵描きである銀程度の男が金の男の才能に激しく嫉妬し、殺し損ねて痴呆にしてしまう。

「AとBの話」(1921年)。これが、話しとしては、一番、面白かった。同年齢の従兄同士である、全くの善人(A)と全くの悪人(B)との相克。Aは全くの善人であるが故に、厳しい窮境にあるBである悪人を救うため、Bの要求通りAの作品をB名義で発表することを許す。逆に、善人のAはその作品の発表の機会がなくなったことから窮境に陥る。

「友田と松永の話」(1926年)。松永が、松永自身となり、そして、別人とも見紛う友田になりすます一人二役の話しで、これは極めて平凡だった。

「青塚氏の話」(1926年)。惚れ込んだ女優の人形を三十体以上抱えて毎日を過ごす異常変態者(本文には名前は出て来ないが、それが青野氏)の話し。

「或る少年の怯れ」(1919年)。兄嫁を殺害した兄が、そう疑っている自分にも兄からそうされるのではないかとの惧れを描く。

谷崎は文豪と言われているようだが、結局のところ小生とは全く縁がない存在だ。今は朝井まかてであり、物故した作家であれば山崎豊子、獅子文六あたりが小生には、正にぴったりと来る。