読売朝刊のシリーズ記事 ”食堂のおばあちゃん” の欄外 ”ソウルフード”というコラムに出た記事である。失礼ながら小生この記事がフィーチャーしているJOY君なる青年については全く無知なのだが、群馬の、しかも僕らには縁の深い土地の出身と知って親近感を覚えたので記事に目を通し、懐かしい事件を思い出した。
KWV三国山荘が完成しても、国道17号線三国トンネルがまだ掘削中のころ。山荘へ入るには湯沢経由は敬遠され、もっぱら上越線後閑からバスで法師温泉の手前まで入り、三国峠を越えるのがルートだったころだ。工事未完でもトンネルを通過することはできたが、例によって壁の奥には工事の犠牲者(がいたのかどうかもわからないままに)が埋められている、なんて怪談もあり、同期の大塚文雄などは一人で来たもののどうしても気味が悪く、峠を歩いて越えた、なんて話があったころのことだ。なんでだったかはすっかり忘れたが、こういう三国通いも初期の帰京の途次、後閑まで来て、駅前の、その後しばらく我々のたまり場になった渋谷のおばさんが経営する食堂へ入ろうとしたとき、駅前に うじんま焼 という広告看板を見つけた。一緒にいたのが美濃孝俊だったか、中島英次だったのかあやふやだが、へえ、これ、なんだ?と訳が分からず、渋谷のおばさんに大笑いされたことがあった。当時、僕らの常識としては横書きは左から、というのが当たり前だったが、戦前からの習慣で右から書く人もたくさんいたわけで、この看板が右書きで、そのうえ、焼まんじゅう が、まんじう と書かれていたのだ。
目にした記事の中で、紹介者としてJOY君は焼きまんじゅうをなつかしみ、わが故郷のソウルフードである、と書いている。故郷、というものを持たない僕の感傷は彼とは違っていて当たり前だが、このことを思い出させてくれたこの記事で、あの頃の上州への幾度かの旅、というと大げさかもしれないが、就職した後も勤務場所の工場が八高線北八王子の駅前であったこともあって、ことこととあの遅い八高線で夜遅く、何度も後閑は渋谷のおばさんの店に出入りしたこととか、あのころ高崎の鳥めしはたしかまだ90円だったな、とか、学割で後閑までいくらだったか、とか、いつの帰りだったか、中妻哲雄が席にいすわって調子っぱずれの歌を歌い続けて、高校時代後輩だったという安東静雄が迷惑そうに聞かされていたこともあったな、とか、はたまた、理由は忘れたが2年上の妹尾さんに駅でこっぴどく怒られたな、とか、そんな甘酸っぱい記憶だ。
うじんま焼き、がどんな味なのか、申し訳ないがまだ食べていない。この次はぜひ探してみるよ、JOY君。故郷の味を知らない俺の ”ソウルフード” になるかどうか、わからないけど。
PS と書いたものの、ソウルフード、という最近流行りだした用語の意味を僕は正しく理解していないかもしれない、誤用かもしれない、と気が付いた.識者のご意見を伺いたい。