パレスチナ問題について―追補 (44 安田耕太郎)

掲題に関する興味深い記事(講談社が2010年より配信しているWebマガジン「現代ビジネス」)を読みました。全文を引用の上、ご紹介します。著者は堀有伸。1972年東京都生まれ。精神科医。東京大学医学部卒。大学病院勤務を経て、2012年から福島県南相馬市で精神医療に携わる。現在、ほりメンタルクリニック院長。

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(編集子)引用されている原文はかなり長文なので、小生が特に疑問に思っている背後の宗教に関する部分だけを借用、転載する。ご容認いただきたく。

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パレスチナ問題についての考えにくさは、知識の不足だけに尽きず、日本人にとって二つの水準で深層心理的な抵抗が働くことにも由来している。

一つは文化・宗教的なもので、中東情勢の抗争の中心にあるイスラエルのユダヤ教、パレスチナのイスラム教、それに濃厚にかかわる欧米諸国のキリスト教という巨大な一神教の論理と、日本人が自覚の乏しいままに従っている多神教の論理の差が大きすぎることに由来する。
もう一つは、「対米従属」と形容されるような立ち位置を、国際社会の中で日本が維持してきてことから来ている。

一神教的なものと多神教的なものの違い

一神教的なものと多神教的なものの違いは、軸となる時間感覚に明確に現れている。

一神教の信徒は、日常的な感覚を超越した存在があることを信じているし、その神の意志によって世界が成立したと考えている。そしてその意志を知り、それと一致した人生を送ることを理想としている。一つの意志が存在しているのだから、始まりがあり、目的である終わりが存在する。そこから、目的を目指して一方向的に進む直線的な時間感覚が生じる。

1日が24時間であるというような客観的に計測可能な近代的な時間は、一神教的な時間感覚の影響を受けた、始まりと終わりの区切りがある不自然な時間なのである。これは人間の経験としては、この次に述べる循環型の時間と比べて、どちらかと言えば無理をした経験の構造である。

一神教徒の時間感覚は、神の意志が目的に向かって展開していくことに本質がある。停滞や逆戻りがあったとしてもそれは人智を超えた神の計画によるものだから、信じる人にとっての反証とはならない。
近代化された一神教徒が露骨に主張することはないが、しかし根底にあるその時間意識が目指しているのは、他宗教を滅ぼして自らが奉じる神の意志が全世界であまねく実現することである。

そして、それぞれの宗教が歴史的な経緯から尊重するのが、エルサレムを中心としたイスラエルの地なのである。一神教徒たちが、この問題について簡単に妥協できないことを私たちは漠然と想像できるが、それを追体験して実感することは難しい。

直線的な進歩を想定する一神教的な時間と異なる、多神教的な時間の特徴を一言で表現するならば、それは「循環」である。朝が来て夜が来る。四季がくり返される。世代が変わっても、どの人も同じような人生を送る。ラディカルな変化は、進歩とみなされるものでも警戒される。多くの日本人の時間感覚は、こちらに近いのではないだろうか。

特定の意志の実現よりも、調和の中で時間が反復されることが優先される。一方でこの循環が停滞につながることも当然のようにありえる。世界中で各国が経済成長を続けた中で、日本は長く停滞にとらわれている。「そこそこの豊かさと幸せ」が続く限り、この循環型の時間の中に生きることの方を、日本人は深層心理の水準で強く望んでいるのかもしれない。

(編集子)引用された本論文のなかで、この最後のフレーズについては小生は異論を持っているので一言しておきたい。たしかに我が国が長期の停滞状況にあることは事実だし、それに対しての方策が急ぎ実施されなければならない、という点については完全に同意する。しかし、”そこそこの豊かさと幸せ” ということそれこそが実は一国の政治の要諦ではないのか。前にも別のところで述べたが、対米従属であろうと何であろうと、我が国は80年間、ただ一人の若者も戦場では失わずに済んでいる。我が国の政治家たちのありようを西欧諸国のリーダーたち、たとえばチャーチル、ケネディ、はたまた日本と同じ環境におかれたドイツを復興させたリーダーたちと比較すると、残念ながら見劣りがする、という感覚はある。しかしそれにもかかわらず、ほぼ1世紀におよぼうかという時間、この平和をたもってきたのはこのような ”どうも頼りない政治家” たちと ”対米従属” がもたらしたものだという事実は誰も否定できないだろう。その意味で、原文にいう日本人の深層心理は一神教のゆえに生じてきた(ウクライナーロシアのような露骨な国威争いは別として)現実を前にした人たちが実はそれとなく望んでいるものではないのか、と思ってしまうのだが。