乱読報告ファイル (42)  血の収穫    (普通部OB 菅原勲)

どう言う切っ掛けがあったのか判然としないのだが、かれこれ60年振りにD.ハメットの処女作「血の収穫」(1929年。翻訳:田口俊樹)を再読した。

「血の収穫」を初めて読んだのは学生時代だったと思うのだが(蛇足だが、A.クリスティーの「アクロイド殺し」(1926年)にまんまと騙されたのもその頃だ)、探偵小説は、今でもそうだが、先ず殺人があって(それもたったの一人)、その犯人を見つけて大団円となるまでのお話しだ。

「血の収穫」では20人前後の人が殺し殺される。これが何よりも新鮮で極めて衝撃的だった。血で血を争う抗争で決着が付く、これこそが血の収穫と言うことなのだろう。その衝撃が余りにも大きく、今の今までその印象だけが続いて来た。ところが、今回、再読してみて「血の収穫」のなんと長閑で牧歌的なことか。確かに、ほぼ20人ほどが殺され、ギャングども(正確には、賭博場経営者、故買屋、密造酒屋など)の抗争で大量殺戮が行われて決着が付く。しかし、その殆どが、だれそれが殺されたと言う伝聞であって、殺しの直接描写は殆どない。気の抜けたビールとまでは行かないが、いささか拍子抜けで少々がっかり。その理由は、これが、遍在することの出来る三人称の物語ではなく、この物語の語り手が、一人称のコンチネンタル・オプ(コンチネンタル探偵社調査員)であるからに他ならない。これでは、いくら行動の人と言っても、同時に別の場所にいるわけには行かず、情報は専ら伝聞に頼らざるを得ない。そして、良く考えてみれば、この間に、例えば、ドン・ウィンズローの「犬の力」(2005年)を読んでしまっては、「血の収穫」がいかにも生ぬるい感が否めなくなるのも致し方あるまい。何故なら、「犬の力」は血みどろの麻薬戦争の話しだが、殺人の直接描写があり、それが酷くて誠に陰惨なのだ。この描写が余り頻繁に出て来ると、確かに心地よいものではい。勿論、その人数の多さも「血の収穫」の比ではなかったが。

ただ色々調べて見ると、「血の収穫」の影響にはただならぬものがある。それは、作家の筒井康隆が、いみじくも言っているように、「「血の収穫」のプロット(筋立て)は、あらゆる小説、映画、劇画に利用されており、その数は、おそらく百を下るまい」。例えば、黒沢明の「用心棒」(1961年)はご覧になった方も多いと思うが、黒沢が、「血の収穫」は「ほんとは断らなければいけないぐらい使ってるよね」と語ったのは有名な話しだ。また、クリント・イーストウッドの「荒野の用心棒」もその黒沢の「用心棒」、つまるところは「血の収穫」が原点であるようだ。つまり、荒廃した街に巣くう悪党たちの間を主人公が行き来し、互いに争わせて破滅に導くと言う筋書きは「血の収穫」が原点であり続けて来たことになる。最早、古典になったと言っても差し支えないだろう。

「血の収穫」読了後、直ちにハメットの2作目 デインの呪い」(1929年。翻訳:小鷹信光)を読み始めた。この小鷹がハメットの専門家であることも手伝って、その翻訳の良さは田口の比ではない。翻訳の良し悪しも読後の感想に大きな影響を与えている。もっとも、「血の収穫」は処女作、「デインの呪い」は第二作目と言う大きな違いがあるのかも知れない。

さて、ハードボイルドの始祖はハメット(1894年~1961年)だとばかり思っていたが、それは小生が知らなかっただけのことであって、どうやら然に非ず。解説者の吉野仁によれば、それは、私立探偵、レイス・ウィリアムズを主人公としたキャロル・ジョン・デイリー(1889年~1958年)だとのことだ。その短編こそ翻訳されているが、長編は未だに訳されていない。しかし、この件に深入りすると話しが長くなるので、それは別の機会に譲る。

それにしても、確かに、私立探偵が主人公なのだが、殺し合いが際立っている「血の収穫」が、果たして本来のハードボイルドなのかとなると、大きな疑問を抱かざるを得ない。それとも、ハメットと言えども、本格的なハードボイルドは、私立探偵サム・スペイドが初めて登場する「マルタの鷹」(1930年)を以って初めて言えることなのだろうか。

(編集子)

アクロイド殺人事件 でアッと思い、幻の女 でプロットに驚嘆し、Yの悲劇で 舌を巻き、それからHB, という同じコースをたどったものとして、スガチューの感覚というか意外性を感じたような書きぶりは納得できる。HBの創始者うんぬんについては小鷹だったか田中小実昌がデイリーにふれていたのを小生も思い出す。いわゆるブラックマスク派の本はまだ手に入るだろうか。この投稿に刺激されてアマゾンを探し、”犬の力” の中古を探し当てたので、それをすませてからスガチューに応えることにする。

今日も梅雨空、こういう日がHB耽読に向くのだが(薫風快晴、なんて日はやっぱりセーブゲキむきだな)。