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エーガ愛好会(58)  椿三十郎

椿三十郎“ リメイク版、というのを見た。覗いてみるだけのつもりだったが結局最後まで見ることになった。”リメイク“ が何を意味するのか、知りたくなったのが理由だ。

映画でも XXのリメイク という表現はよくお目にかかる。例によって使い方もあいまいだが、今までは二つの意味で使われてきたのだと思われる。すなわち、

  • 同じ題材の映画化だが、そのうちに代表作、と目される作品あるいは主演俳優がいるとき、“あのXX作品のリメイク” と宣伝する。小生得意の西部劇でいえば、史実として確認されているアリゾナ州はツームストーン、OKコラルでの撃ち合いを題材にした作品はいくつもあるが、バート・ランカスタの ”OK牧場の決闘” は ヘンリ・フォンダの ”荒野の決闘“ のリメイク、などという(注)。
  • ストーリーは同じだが、シチュエーションをがらりと変えた場合。イーストウッドの ペイルライダー がストーリーは100%同じだが、場所を陽光あふれるワイオミングから、(多分)冬近い、荒涼としたモンタナに、主人公を流れ者のカウボーイから過去のある聖職者に、主人公を慕う子役を少年から思春期の少女に、悪役を雰囲気のあるガンマンから殺人集団に代えた、”アラン・ラッドのシェーンのリメイク“ であるのは前作を見た人間ならすぐにわかる。

実は今回もこの二つに当てはまるのだろうと思っていたのだが、後で調べてみたら同じ脚本をそのまま使った、ということで納得したけれども、”俳優が違うだけであとは100%同じ“ というこれぞ 正真正銘の remake で、前作を見ていれば次に出てくるせりふまで予測ができる、というのはまさに驚きだった。

最後の三十郎対室戸半兵 衛のシーン、前作はまさに抜く手も見せず、という早業で、突き刺さった胸から鮮血がどっと噴き出すという、その撮影テクニックまで話題となったものだが、今回はかなりの時間のつばぜり合いがあって、三十郎があわやという瞬間があったりしたのだけが違いだった。前作はモノクロだったので、噴き出す鮮血がどすぐろく画面に漂って、血の匂いがするような気がしたのだが、今回のカラーでは同じ撮り方だったら刺激が強すぎて不快感にもなったかもしれない。今回は尋常?な一撃で最後になるのだが、三十郎は最後に相手を抱きかかえて刀をぬぐって弔うという、ここだけが違った。余計なことだが、その抱きかかえた半兵衛の体のどこにも傷跡も出血もなかったのはどういうわけか、疑問もあるが。

つまりこの2作品では、まったく同じシチュエーションで演技する俳優の演技そのものが直接に比較できたといえる。見る人によって評価は当然違うだろうが、小生の感覚では三十郎役は互角、室戸役では何といっても仲代の存在感が圧倒的だった。加山雄三対松山ケンイチもおなじく加山のほうが面白かった。最後に現れる城代家老は前作では伊藤雄之助のおかしみが記憶にあったので誰が出てくるか楽しみだったが、藤田まことの登場でなるほど、と思った。

リメイク、の話だが、こういう作品の作り方が今後もあるのか、あるとすれば何を再現してほしいか、それぞれに思いは違うだろうが、想像するだけでも面白いのではないか。

(注)この事件の数ある映画化のうち、一番史実に忠実なのは ジェイムズ・ガーナーがアープ役、敵役のアイク・クラントンを ロバート・ライアンが演じた ”墓石と決闘” だそうだ。このあたりにもリメイクの面白さがあるようだ。

わが ”青春” の歌のこと

高齢化社会の到来、などと他人ごとではなくて要は我々(どこまで含めるかはご判断に任せる)が良くも悪くも焦点であり争点である時代。こういう時期にKWV OB会を代表する知識人(もひとつ言えば小生が見た中で一番きれいなウエーデルンの名手)保屋野君が火をつけた 青春時代 論議である。


(保屋野)今日、ウオーキングの途中ベンチで一休みしている間、突然、昔の名曲が聴きたくなって、スマホで聴きました。、以下まさに青春時代の懐かしい名曲です。ボブ・ディランの「風に吹かれて」ピーター・ポール&マリーの「花は何処へ行った」ニール・セダカの「恋の片道切符」ポール・アンカの「ダイアナ」コニー・フランシスの「夢のデイト」トム・ジョーンズの「想い出のグリーングラス」・・・まだまだありますがキリがない。

上記は先日ご紹介した「木の葉の丘」と比べて、超有名な歌ばかりですが、後期高齢者になって聴いてもまだ楽しめるのはありがたいことです。ちなみに私の一番好きな歌は、カテリーナ・ヴァレンテの「そよ風と私~アンダルシア」です。

(中司)保屋野君の回想を読んで、ほのぼのと楽しくなったけれど、やはり 6年という時間の差を感じます。僕らが高校を終えるころは まさに プレスリーの全盛期でした。ケネディの大統領当選が卒業の年だったし、その後のベトナム戦争の膠着が米国の若者たちに大きな影響を与えたころです。その時に一世を風靡したというか、曲そのものも素晴らしかったがそういう青年の世界的な共感をよんだのがご指摘、PPMの Where have all the flowers gone だったわけですね。その間はテレビ放送の勃興期、米国のヒット曲の翻訳ものを歌うのが歌手のデビューになったころ、雪村いずみ、江利ちえみ、などなどの時代でしたし、一呼吸おいて、という感じで今度はビートルズが社会人2年目くらいだったでしょうか。

時代感覚は別として、いわゆるイージイリスニング分野で僕が気に入っていて、今でも新鮮な気持ちで聞くのが 白い恋人たち カナダの夕陽 それと、急にいま、思い出したけど八代亜紀の 舟歌 なんてよかったなあ。

(菅原)ちあき なおみの「喝采」が最高だよ。イヤー、こりゃー歌謡曲だったか。

(安田)保屋野さんの回想録とジャイさんのご返信を読んで、青春時代の想い出深い曲を挙げます。

プラターズ: オンリーユー(Only You)                    マイルス・デイビス: 死刑台のエレベーター                江利チエミ: ウスクダラとテネシーワルツ                 西田佐知子: コーヒールンバ                        キャロル・キング: タペストリー                     カテリーナ・ヴァレンテ: そよ風と私〜アンダルシア            ウエストサイド物語から「Tonight 」                   エルヴィス・プレスリー: (I can’t help falling in love)             プロコルム・ハルム: 青い影

ビートルズ、ボブ・ディラン、ジョーン・バエズ、PP&M、ブラザーズ・フォー、フランク・シナトラ、ポール・アンカ、ニール・セダカ、シュープリームズ・・・・、切りがありませんのでこの辺で。

(小田)皆様の青春の歌懐かしく読ませて頂きました。重なる曲もありますが私の場合は

Green Leaves Of Summer:
高校の時、クラスの男性がアメリカへ留学する時お別れに歌って行きました。その後、Green Sleeves, Greenfields 等聞くと関連して思い出しました。

More:
世界残酷物語と言う凄いタイトルの映画の曲のようですが、アンディ ウィリアムスのレコードを友達に貸したりしていました。

次はBeatlesの曲が続きますが…。
I Wan’na Hold Your Hand:
楽しい曲でBeatlesを好きになったきっかけ。

Yesterday:
音声学の授業で聴かされたりもしました。

And I Love Her:
Beatlesの中で好きな曲。

イタリア サンレモの曲懐かしいですね。その中では、ボビー ソロの”ほほにかかる涙”を適当なイタリア語で歌っていました。Elvisは青春時代ではなく、30過ぎてから大好きになり、Can’t Help Falling In Love は、ずっと欲しかった映画ようなオルゴールを、やっと7年位前、諏訪のオルゴール館で手に入れることが出来ました!

(金藤)ほほにかかる涙、ノノレタ 懐かしい曲です♪   1964年、私は中学生でした。歌詞の意味は分かっていませんでした。日本語で誰か歌っていましたね。︎あなたに愛されカンツォーネ、シャンソン、ビートルズがやってきて、フォーク・ソングもありました。

シャンソンが好きだった友人に誘われて、数回「銀巴里」に行きましたが、ずいぶん前に閉店しているようですね。 その頃の私には大人の世界だったと思います。私の青春の歌は何でしょう?

 

(編集子)ミッキー・小田の青春回顧をほんのりと読んでいたら、畏友船津於菟彦から ”青春とは” ということを書いたメールがきて、小生の ”青春時代” の写真を絶対アップしろ、と言ってきた。彼とは普通部時代からの長い友人つきあいでもあり、私的な内容でもあるのでためらいもあって、汗顔の至りだがその一部と写真をあえて掲載させていただく。そういえば彼が僕らのいう ”歌” を歌ったことが(そのことが本稿のタイトルなんだが)あったかどうか記憶にない。彼のクラシック音楽への傾倒は半端なものではなく、”運命” と ”皇帝” ぐらいしか知らない小生ごときには及びもつかないのだが。

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(船津)

「青春」それは「男」が「女」を「女」が「男」を意識するときのほんの僅かな期間のシャボン玉のような時期を言うのでは無いか。
君は何時もはにかんだようなそぶりで、我が道を進んでいた。慶應義塾高校の文化祭-日吉祭-を初めて女子校と合同で開催することとなった。あれは今から65年も前に遡る。”ハイスクールニュース-慶應義塾高校新聞-” の72号にあるが、日吉祭実行委員長に進んで(当人注:掲載の新聞記事をよく読んでもらえばわかるがやむを得ず、である)就任した。そして見事女子校との合同日吉祭を華々しく開催に成功した。これは君の「青春」の総てだ。
語るべくもなくシャボン玉のような淡い「女」と「男」の物語だ。ファイアーストームの赤い光の中で君は満足げに後夜祭のフォークダンスを楽しんでいた。
宝塚好きな女子高校グループとの淡い交流もあったし、宝塚へ数人で見に行き京都などをそぞろ歩いたものだ。
これが「青春」。ほんのほんの短いシャボン玉が青空に浮かんでいたような時間だったね。もう時間は戻らないし同じ事は二度出来ない。そんな充実した君の「青春」が羨ましい。

 

26日 - 大山へ行ってきました  (39 堀川義夫)

昨日3月26日は、久しぶりの月いち高尾を開催予定でしたが、コロナの感染が止まらない状況を考えて、中止にしました。しかしながら、少人数で行くには問題ないので、ハイキングをお勧めしていました。と言う、言い訳は如何でも良いことなのですが、私は、岡沢君と二人で大山に行くことにしました。天気は上々、大山バス停に9;30に到着して、ケーブルを利用しないで、大山登山名物の石段に挑戦しました。先月の白馬のスキーから帰った翌日に軽いぎっくり腰を患い、リハビリをしていたのですが・・・少し早いかなとは思いつつ背中、腰にテーピングをして出かけました。途中、天気が急変してあられが降ったりしましたが、大山寺、阿夫利神社そして頂上へ。頂上直下では高尾の仲間から開催していれば二十数人が集まっていたのに・・・中止したにもかかわらず、何時ものように10時頃に7名が集まってきて皆で昼飯を食べているんだとの電話を頂きました。

下山はヤビツ峠経由蓑毛に向かいました。楽しい尾根歩きですが、下りはやはり腰に響きます。慎重にゆっくり下山しましたが、結構腰に来ました。でも、3時に無事蓑毛に到着です。

新しいニュースとしてはヤビツ峠のバス停上に「ヤビツ峠レストハウス」出来ました。結構立派な建物で、秦野市が作り業者に運営委託するそうです。何もなかったところですが、バスの待合には最適ですね。3月28日から営業するそうです。

この時期、丹沢周辺はミツマタの花が咲き楽しませてくれますが、知らなかったのですが蓑毛到着10分程度のところにミツマタの大群生地がありました。すごいです。初めてでこんなところがあるんだ!と感激でした。

結局、26日に出かけた - 予期せずして 分散月いち の顛末

ひさびさの 月いち高尾 が3月26日に予定されていたが、やはり環境が定まらず、かつ20人を超える申し込みがあったりして(お国の方針に反する大人数の会合!)、堀川君の英断により中止になった。みんな、一応納得したようだったが、せっかく予定したんだし、”4人以下マスク着用密なし” ならいいんだろ、とふてくされて同期3人、いつもどおり10時に高尾山口に集合したら、なんでえ、なんでえ、猪俣夫妻ぷらす町井かをる、というグループが登場、出かけようかと思っていたら今度は相川正汎が ”どうせひまなんでふらりと” とやってきた。都合7人、相川とみどりは意地を張って歩き、残り5人はケーブル、以後は結果として3班に分かれて山頂広場で落ちあう、という結果になった。

俺たちがこうならホリがどっかにいるはず、と電話したら、いた、いた! 歩いてる途中とかで、はあはあの息遣いの返答はなんと大山、岡沢君とのコンビでこれも ”折角予定したんだから”ワンデルング であった。ほかにも保屋野・安田パーティという予定もあったようだが、この組は予定を早めたようで、当日は現れず。我々は先週、オクガタ同伴であるいたという吉牟田のアイデアで山頂からの下り道途中から4号路へ出るというコースを歩いた。

久しぶりだったので、本来ならば天狗へ行くところだが、ぐっとこらえて有喜堂で汁粉をすすって解散。此処に先日一人で立ち寄った時には,雛祭り人形が飾ってあって、季節感を味わったのだが、今回は雛人形が桜の花になっていて、またまた結構なもんだ、と思った(のだが、よせばいいのにこれは造花だ、などと心ない発言もあった)。いいじゃねえか、要はキモチの問題よ、と写真は撮ってきた。寅さんのいうとおり おめえ、それをいっちゃあおしめえよ ということがあるものだ。

 

エーガ愛好会(57)   ”地獄への道” カラー版! (34 小泉幾多郎)

日本公開された当時は、どういう訳か?米本国ではカラーなのに、日本へはモノクロという時代があったのだ。このエーガのほか、「モホークの太鼓1939」「西部魂1941」「スイングの少女1948」。終戦まもなくで、まだろくに食べ物もない時代ではあったが、馬鹿にされた気がしたし、折角のカラーがモノクロで上映されてどれだけ経済的に得になったのか、未だにわからない。その後日曜映画劇場でカラーで放映されたらしいが、小生は今回初めてカラー版を観たことになる。

実在の無法者ジェシー・ジェームスを描いたものは、この後日本で公開されただけで10数本あるとのこと。流石西部のロビンフットと言われただけのことはある。南北戦争直後のミズーリ州、セントルイス・ミッドランド鉄道が、鉄道建設のため力ずくで土地を安い値段で買い上げ、それに憤慨したフランクとジェシーの兄弟が列車強盗となり、最期ノースフィールド銀行襲撃に失敗、仲間のボブ・フォードの裏切りで射たれるまでの物語。

ジェシーに扮するのはタイロン・パワーで、新聞社主の姪ジー(ナンシー・ケリー)と愛し合い結婚、悪の道と愛との板挟みの悩みながらの捻じ曲げられた生き方をありきたりのヒーローに留まらない役どころを演じきったと言える。ヘンリー・フォンダが兄フランクを、ランドルフ・スコットが、ジーに恋心を抱きながらも、ジェシーを助ける保安官を演じるが、二人とも若さに溢れる時代、主人公になるべき二人が、これだけの役では、観ている方があまりにも欲求不満に駆られたのだった。そのほかにも脇を締める人たちが・・・鉄道会社に雇われ、農民たちやジェームス家の土地を安く買い上げるブライアン・ドンレヴィは落日の決闘1946」で悪役トランバスに扮し、ヴァージニアンに向かって「陽が落ちるまでに町を出ろ」の名言を吐いた。ジェシーに自首すれば、数年の刑で済むと騙し、保安官や判事を馘にし、判決を死刑にする鉄道会社社長は、{駅馬車1939」のウイスキー商人で、最初にアパッチの矢で倒されたドナルド・ミーク。同じ「駅馬車」で女性の護衛を買ってでる賭博師のジョン・キャラダインは、特赦と賞金に眼がくらみ、丸腰のジェシーを背後から射ったボブ・フォードに扮した。

このジェシーを中盤で若干暴徒化するものの、無法者ながら正当化している。逆に鉄道会社の無法に立ち向かう正義とさえ感じる。冒頭からドンレヴィの暴力により、母親が殺されることから、街の酒場で、ドンレヴィを倒し、お尋ね者になるが、本来正当なる決闘と見做されるものだろう。ただジェシーを正当化するのに全力を注いだことから、鉄道会社の横暴が目に余り過ぎとも言える。
全般的に、ジェシーとジーとの恋愛、妻を愛する一児の父親としての葛藤が話の中核を成し、愛の擦違いといった心情が強調されていることから、ジェシーの義賊としての精神的疲弊や堕落のきっかけまでが描かれているところが西部劇らしくないが、活劇面でも、列車強盗での馬の疾走シーンやノースフィールド銀行襲撃での歯切れのいい射ち合い、馬と一緒に、ショーウインドーをぶち破るシーン、断崖から馬もろとも水中に身を投ずるロングショット等のアクションシーンも素晴らしかった。

(編集子)ひさしぶりにブライアン・ドンレヴィの悪役ぶりを見た。小泉解説に少し付け加えると、前にも本稿で書いたが ”大平原” での憎たらしさもさることながら、なんと言っても徹底した演技で見るものを圧倒してしまうのがクーパーと共演の ボージェスト だと思っている(本作品で公開年のオスカー助演男優賞にノミネートされたそうだ)。この映画にふれる人があまりいないのが残念だが、良き日の大英帝国を背景にして、活動場面は砂漠に展開するフランス外人部隊という組み合わせが実によくできている。若き日のスーザン・ヘイワードが出るこの作品はもっと評価されてもいいと思うのだが。本題に戻れば、やっぱりタイロン・パワーてのは顔だけの人だったなあ、と思わせるエーガだった。若いころのランドルフ・スコットも懐かしい顔である。

(余計なことだが ボージェストのDVDはアマゾンで新品980円(在庫1枚)、中古100円、ゲーリー・クーパー大全集(全10作品)1675円)に収録されているとのこと)。

春の訪れ ‐ 八ヶ岳南麓     (42 下村祥介)

 

ジャイ様:昨日は鬱憤ばらしに北杜市の神代桜を見に行ってきました。遠景は鳳凰三山です。少し気が安らぎました。

下村兄:ここへも暫く行っていません。そろそろ水抜きをしないといけない季節になってきましたね。次回の小渕カントリがいつになるかなあ

(ウイキペディア)神代桜は、山梨県北杜市武川町山高の実相寺境内にあるエドヒガンザクラの老木である。国指定の天然記念物であり、天然記念物としての名称は山高神代ザクラである。樹齢は1800年とも2000年ともいわれ、日本五大桜または三大巨桜の1つであり、1922年10月12日に国の天然記念物に、1990年6月に新日本名木百選に指定された。

古き良き時代のエーガ (3)     (普通部OB 船津於菟彦)

あれは大学一年の体育実習でスキーを選択したため、蔵王へスキーに行きました。「体育実習」のことは全然覚えて居ませんが、山形駅前の本屋でこの本「オードリー・ヘップバー 映画ストリー増刊号」を定価100円で買い大事に保管していることと、帰りの汽車の中で憧れの女性と仲よく見たことなどがありありと浮かんできます。「麗しの恋人」そして忘れ得ぬ「麗しのオードリー」のことども。
先ずは『ローマの休日』(原題:Roman Holiday)は、1953年製作のアメリカ映画。主演はグレゴリー・ペックとオードリー・ヘプバーン。ウィリアム・ワイラーが製作・監督した。
イタリアのローマを表敬訪問した某国の王女と、彼女が滞在先から飛び出し一人でローマ市内に出たとき知り合った新聞記者との1日の恋を描いている。トレヴィの泉や真実の口などローマの名だたる観光スポットが登場する。ローマ観光宣伝映画。
新聞記者をグレゴリー・ペック、王女をオードリー・ヘプバーンが演じている。当時新人だったヘプバーンは、本作により1953年のアカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞した。このほか衣裳のイーディス・ヘッドが「最優秀衣裳デザイン賞」を、脚本のイアン・マクレラン・ハンターが「最優秀原案賞」をそれぞれ受賞している。そして日本製のライター型カメラ。これにはカメラ少年病みつき。そして当時の新聞記者が持って居たスピグラ。まぃつったなぁ。1954年4月公開(日比谷映画)
この頃の映画の女性の服装デザイン担当はイーディス・ヘッド!これが数々の素晴らしいデザインの洋服を登場させる。女子校との合同校内新聞「ジャミネーター」イディス・ヘッド」と映画の女性デザイナーのことを書いた記憶がある。懐かしいなぁ。
そして『麗しのサブリナ』(原題: Sabrina)は、1954年に公開されたアメリカ合衆国のロマンティック・コメディ。サミュエル・テイラーの戯曲『麗しのサブリナ』をビリー・ワイルダー監督が映画化した。『ローマの休日』に続くオードリー・ヘプバーンのヒット作。1954年9月日本公開(日比谷映画劇場)。
このおとぎ話のようなお話の中で巴里から帰って来たときのジバンシィーのデザインのオードリーの洋服の素晴らしさ。以来オードリーヘップバーンはジバンシィーの洋服を何時もまとうことになる。もう綺麗・麗しい。
ダメ押し『パリの恋人』( Funny Face)は、1957年のアメリカ合衆国のロマンティック・コメディのミュージカル映画。主演はオードリー・ヘプバーンとフレッド・アステア。ヘプバーンは本作が初めてのミュージカル映画。監督は『恋愛準決勝戦』でアステアと組んだスタンリー・ドーネン。ドーネンは、後に『シャレード』と『いつも2人で』でもヘプバーンと組んだ。1957年9月公開{スカラ座)。フレット・アステアと組んで、ミュージカルとファッションの映画でした。オードリーヘップバーンの最盛期でしたね。衣装は例によってイーディス・ヘッド、ユベール・ド・ジバンシィでした。もう素敵。
後年、オードリーヘップバーンのお墓がスイス・レマン湖のほとりトロシュナ村にあるのだが、ジュネーブへは通信関係の展示会で二度ほど訪れたが遂に行かれずで、モントールのホテルから山を見て手お合わせた。ご冥福を。
因みに映画のパンフレットはに保管していますが。当時早朝割引とか学割が在り何と150円でした。指定席350円。 映画って良いなぁ !

”時代劇チャンネル” 読みました  (大学クラスメート 飯田武昭)

「時代劇チャンネルを見て思うこと」を読ませてもらいました。

私も400年に亘る江戸時代の泰平から育った江戸文化が今日の日本人の芸術文化娯楽の基本にある気がするし、貴兄の感じておられる傑出した英君(ローマ帝国の皇帝アウグストス、ハプスブルグ家、徳川幕府など)が国を統治してくれる時代がもし来たら、それは大変良い時代が来る気がしますが、問題は人間(日本人に限らず)が、一度、他の文化、進化した文明を知ってしまい、知識や情報を得てしまうと、それ以前には意識が戻らないと思う点です。

コンピューター時代の急速な技術進歩や世界中の情報が瞬時に伝わる現代。確かに日本人に限っても、封建制度の江戸時代と文明開化後の明治以降と太平洋戦争後の民主国家と考えると、人民の幸福度は江戸時代の方が現在より上かも知れないと私もいつも思います。

但し、現在の方がハッキリと良くなっていると思われる点は平均寿命が80歳を超えている点などです。江戸時代は平均寿命が20歳~30歳若かったとなると今でも人生は短か過ぎると思っている私などはもっと短かったら何も楽しめないと、詰まらぬ雑念に惑わされてしまいます。

貴兄の提起されたテーマは確かに議論に値する面白いと思います。又、集まれる時が来たら御高説を拝聴しながら色々な意見を交換したいものです。

(編集子)江戸、ということで、ずいぶん以前、月いち高尾仲間の高橋良子から、”一度読んでみなさいよ”といわれたまま 積ん読 になっていた、三流の維新一流の江戸 という本をやっと読んだ。原田伊織 という人の名前だけはなんとなく知っていたが、読んだのは初めてで、後半に詳しく書かれている 江戸文化 全般の紹介で新たな眼が開かれたような気持ちになった。聞くところでは原田氏の明治維新三部作、なるものがあるとのことで、通読してみる気になった。原田氏が国民的な支持を受けている一般的維新論に対するアンチテーゼとして挙げている 坂の上の雲 の愛読者である小生には、昨今の流行語でいえば 相当深い 正当性バイアス がかかっているので、どこまで原田理論に納得するか、スリリングな期待を持っている。

エーガ愛好会 (56) 2001年 宇宙の旅 (44 安田耕太郎)

先日、松島菜々子がナビゲーターを務めるNHKの1時間番組アナザーストーリーズ「 “2001年宇宙の旅”  未来への扉は開かれた」を観た。私たちが気になるあの事件の裏には、かならず、もう一つの物語がある、とのうたい文句で、SF映画の金字塔「2001年宇宙の旅」をとりあげた。

AI(人口知能HALと命名)の暴走、人工冬眠、地球外生命との接触・・・・・半世紀前、まだ人類が月に到達する前になぜ未来を予見できたのか?そして不思議な、或いは難解なエンディングの意味するところは?鬼才スタンリー・キューブリックと共同原作者のイギリス人SF小説の巨匠アーサー・C.クラークの二人の天才(奇人・変人・狂人でもある)が思い描いた夢と衝突の真相が番組では明らかになる。共同作業を始めた時、キューブリック36歳、「恐るべき子供」とクラークに称され、クラーク47歳は仲間から「うぬぼれ屋」とあだ名されていた。

「宇宙は無限に広がっているのに人類が唯一の知性を持った生命だと考えるのは傲慢で寂しいことだ」と考える二人は、地球外生命の存在に対する好奇心を共有し、奇跡の共同作業をすることになったが、それは挑戦と衝突の共同作業であった。1977年「未知との遭遇」を作ったスティーブン・スティルバーグは、「2001年宇宙の旅」は初めて人々を宇宙へ連れて行った映画だと絶賛した。

番組では今日では当たり前のコンピューター・グラフィクスの無い時代の映像化と美術創作の創造性と斬新さには目を見張った。未知の存在である宇宙人をどう表現するかは激論の対象となった難問であった。結論は宇宙人そのものを登場させる代わりに彼らが創った遺物「モノリス」をみせ、映画を観る人々の想像に任せることとなった。

生存する出演者たち、映画製作に携わった技術者たちのインタービューを交え、キューブリックの妥協を許さない徹底した完璧主義に翻弄された映画製作現場の状況があぶり出されていた。クラークはSF小説家らしく小説と同じように説明して描いて未知なる世界を描こうとするのに対して、キューブリックは説明を省き映像で観る人々の想像に委ねる方法を採用する。両者の意見が異なり、衝突して映画製作は終わるがキューブリックの路線で完結したのは勿論であった。

50年を経て現実がようやく映画の追いついた今、人類の未知なる旅は続いている。「2001年宇宙の旅」に触発されて惑星科学者になり、現在、研究陣の中枢を担っている人たちが沢山いる。彼らは異口同音に言います、「未知なる新世界を初めて見る時の気持ちに勝るものはありません」、と。

ー2015年、太陽系で地球から最も遠い位置に存在する冥王星に近づいた探索機がその星の地表の写真を撮って送るという人類初めての快挙を成し遂げた。冥王星は地球から39億Km(地球の直径の37万倍)離れていて、探索機は近づくのに9年かかる遠距離に位置する。彼らは撮られた写真に写る地形にキューブリックとクラークの名前を付ける。「2001年宇宙の旅」がもたらした影響が今なお続いており、今後も引き続いていくことだろう。