(小泉)岩山を背景に幌馬車隊の行進を描くタイトルバックの後、酒場の大きなドア、よれよれのシャツのディーン・マーティンがウイスキーを飲む無法者クロード・エーキンスを羨ましそうに見つめる。気付いたエーキンスが金貨を痰壺に投げ込む。マーティンが拾おうとすると、痰壺を蹴飛ばし、ライフル片手に、シェリフのジョン・ウエインが登場、銃身一振りでエーキンスを逮捕。物語は、この導入部から始まり、逮捕者エーキンスの兄ジョン・ラッセル一味との戦いとなる。
そもそもハワード・ホークス監督は「真昼の決闘1952」への反発から、この映画のアイデアを得たと言われる。土地の所有権や町の支配権をめぐって拳銃がものをいった、いわばガンファイターの時代の西部劇の代表作と言える。「真昼の決闘」のように、誰一人協力しようとせず、苦悩しながら、恐怖におびえながらも、責任感で持って迎え撃つことになったのと違い、同様な背景に、アル中の保安官補ディーン・マーティン、足の悪いよたよたの老助手ウオルター・ブレナン、若い小僧っ子リッキー・ネルソンの三人の半端な男たちに助けさせ、逆に血湧き肉躍る豪快なイキのいい映画を作ったのだ。アメリカには、建国の理想である独立自尊、孤立しても戦うヒーロー賛歌というイメージがあり、ウエインは、すごい悪漢どもの中で、危機に陥っても、そうであればあるほど楽しくてしょうがない顔をして活躍していた。
最初のほか、見せ場が多くて紹介しきれない。難関を男の友情によって乗り越える場面では、アル中のマーティンが震える手で煙草を巻けないで、イラつくところへウエインが巻いた煙草を差し出してやる。丸腰のウエインが三人の敵に襲われ、リッキーの機転で、 アンジー・ディッキンソンが窓に植木鉢を投げつけ、その音に驚いた敵をやつける場面は、立てかけてあった銃をウエインに放り、受け止めたると同時に引き金を引く。クライマックスは、捕われたマーティンと逮捕者エーキンスとの交換での射ち合い、ブレナンも加わり、ダイナマイトを爆発させ降参させる。最後は、ディッキンソンの黒いタイツに絡んだお色気場面も。
音楽が「真昼の決闘」のディオトリー・ティオムキン。「OK牧場の決闘」「アラモ」「ローハイド」「ジャイアンツ」等一世を風靡したヒット曲だが、カントリー・ウエスタンでない全てが雄渾壮大な曲だ。弟を留置された兄ラッセルが宣戦布告を合図する「皆殺しの歌」は風雲急を告げた。マーティンとネルソンの二人が出演していて歌わない法はない。シェリフの事務所で、ネルソンがギターを弾きながら、ブレナンもハーモニカで参加、マーティンとデュエットで「ライフルと愛馬」、続いてネルソンのソロで、「シンディ・シンディ」。
(小田)小泉様が詳しくお書きになっていましたように、ジョン ウエインを中心に、(Everybody loves somebody sometimeの唄の)ディーンマーチン、ちょっと愉快なウオルター ブレナン、若々しいリッキー ネルソンが仲良く歌ったり、ユーモアを交え、助け合いながら闘う、楽しく観ていられた西部劇でした。スタイルも抜群な網タイツ姿のアンジー ディキンソンの実生活での再婚相手は、いろいろなヒット曲を作ったバート バカラックと知り驚きました。
(相川)保安官ジョン・ウェインは町の見回りにいつもライフルを持ち歩いていまき、町から逃げる一味を遠くから射撃したり、通リを隔てた最後の銃撃戦にライフルは威力を発揮していました。リッキー・ネルソンが、ジョン・ウェインのピンチを救うシーン ガラスの割れる音の一瞬の隙に敵を打ち抜くとなると どうしても 拳銃(コルト系短銃)の世界となります。
西部劇は好きだけど ジョン・ウェインはどうも と言う人も中には いるようです。その理由を問うと、図体も大きいが態度もでかい。淀川長治氏がジョン・ウェイン、ジョン・ウェイン、と言い過ぎていた。そして彼には決闘場面が少ない と挙げていました。インデイアンとの集団銃撃戦のイメージが強いようです。駅馬車の窓から身を乗り出してライフル(ウインチェスター)を構える若き姿にしびれた人も多いのでは。ジョン・ウエインに扱いにくいライフルが似合うのは、彼が長身だったから。どうも と言う人のイチオシは 先日放映の「捜索者」でした。一皮むけたジョンウェインでした。
・味のある演技を見せてくれたウオルター・ブレナン
4人目の保安官役。歳だからって牢番にしやがって といいたげでした。
独特の歯抜けのしゃべり方は、若い時撮影中に 馬に蹴られて歯を殆ど失ったため、らしい。230本の映画に出演した名バイプレーヤーで、アカデミー助演男優賞を3回取ったのは彼だけとのこと。受賞は1930年代。 出演時間は少なくても存在感がありますね。
西部劇には凄みのある悪役と共にこういったひょうきん役もいるといいですね。「ローハイド」のウィッシュボン爺さんを思い出しました。 「ウイッシュボン」と言えば新宿にウェスタンバーがありましたね。
(編集子)この映画の封切りが1959年、つまり小生大学3年在学中。いつ、どこで、だれと観たか、まったく記憶にない。三田から有楽町映画街へ、3人もそろえばタクシーを飛ばして行っていたころだったのだが。
ウエインの西部劇も後期にはいると、フォードの詩的な雰囲気を持ったものから小泉さんが指摘されているように娯楽性の高い作品が増えてくるがその先陣を切ったのがこれだろう。何回か書いたが、エル・ドラド、チザム、エルダー兄弟、などなどがこの系列だ。なかでも チザム はジョン・チザムという実在の人物と、”リンカーン・ウオー”とまで言われた開拓者間の大規模な抗争、悪名高いビリー・ザ・キッドと最後には彼を射殺したシェリフ、パット・ギャレットというこれも実在の人物を組み合わせた作品で娯楽性も当然だがそういう史実との対応が面白かった。しかしこのリオ・ブラボーは徹底した娯楽作品として作られていて、そういう意味ではあっけらかんと楽しめばいいものだ……….と言ってはいけないのだ。なぜか。ディーン・マーティンが ライフルと愛馬 をうたった作品だからである。この歌をワンダーの世界に持ち込んだのは僕らの2年下、林裕(ウクレレ)で、何となく小生がほれ込んで(歌にである!)、”持ち歌”にさせてもらったという歴史?がある。歌そのものはもちろんだが、キャンプサイトで飯盒の焚き具合を気にしながら夕暮れを楽しむ、といった雰囲気を持った歌詞が気に入ったからだ。そんな時を過ごすことがこれからもあるのだろうか?