福沢の見た米国はどこへ行ったのか?  (42 下村祥介)

「ピッツバーグの煙突」に関連して、たまたま日経新聞「風見鶏」欄に160年ほど前にアメリカをおとずれた福沢諭吉の米国感がで紹介されていたので概要をご紹介したい。

「諭吉がサンフランシスコに着いたのは日本を出て37日目だった。港に着くなり馬車が迎えに来て、まず休憩のためのホテルに招き入れられた。そこにサンフランシスコ市の要人が次々に現れ、さまざまな接待をしてくれた。日本人が魚を食べたり、風呂が好きなことを知っており、毎日魚が届けられ、風呂が沸かされたという。帰国に際して船の修理代を支払おうとしたが、何といっても受け取らなかった。ペリーの黒船来航により開国を迫られてから7年しかたっていなかったが、人々が対等な立場で議論し、協力して社会をよりよくしていこうとするこの国がすっかり好きになった福沢は、米国を『極楽世界』と評した。

今や米国第一を振りかざし、討論ではなくディールで相手をねじ伏せ、自らの意に沿わない大学からは留学生を追い出し、学問の自由にも露骨に介入しようとしている。世界があこがれた米国の時代は終わりの告げたのだろうか」と。

別の話になるが、日本製鉄によるUSスチール買収(投資?)問題も、日本の製鉄技術なしでは再建が難しいと流石のトランプも思い始めたのだろうか。交渉条件がかなり緩和してきているようだ。以下に日経新聞による解説を紹介する。

「USスチールは1960年代までは世界最大の鉄鋼メーカーだった。1980年代に日本に抜かれ、90年代には中国に抜かれた。経営危機のたびに政府が関税などの輸入規制で雇用や生産を守ることに終始し、技術革新は停滞したままだった。対して日鉄はトヨタ自動車など顧客の品質要求や電動化などの技術革新に合わせて成分を調整したり表面加工の技術を磨いてきた。高張力鋼板や電磁鋼板などの製造だ。鉄鋼業は操業技術で大きな違いが出る。日鉄は独自の操業技術を生かし、USスチールの既存設備も高級鋼の生産に生かせるとみている。」と。

(編集子)今日の報道で、USスチール社員との会話が紹介されていたが、インタビューされた男性が嘆いていわく、(18年代に設置された機械がまだ使われている。新日鉄が来ればこれも新しくなるだろうと思ってる)と。

先に安田君が嘆いていたように、短期の業績だけを追求する姿勢からは長期の投資に挑む姿勢はでてこない。パクスアメリカーナはついえた。パクスジャポニカの時代が夢ではなくなったね。経済や軍事の指標はあれこれあるが、以前にも本稿で触れたけれど、80年間、一人の若者も戦争で死なせたことのない国が存在する、というのは現実なのだから。

いま、この稿をアップしようとしているデスクの前に今朝の読売が1面で、”日鉄、完全子会社化へ” とUSS買収の決着を報じている。いろんなことが起き、いろんな議論が沸騰するだろうが、福沢時代の日米関係を思い起こせば、これは明治維新に匹敵する、歴史的な出来事のような気がする。KWVには何人も日鉄OBがおられる。もし彼らがまだ現役社員であったら、この事件をどう受け止めただろうか、ぜひとも聞かせてほしいものだが。

山本五十六と河井継之助  (44 安田耕太郎)

ブログ「ピッツバーグに煙突が何本あるか見てこい!」を大変面白く読ませて頂きました。

山本五十六の滞米(1919〜21年、ハーバード大学留学)から約50年後、今から57年前の1968年に初めてアメリカの土を踏んだ時、「こんな富んだ工業強国と戦争を始めるなんて日本は馬鹿のことをしたもんだ」と強く思ったものだ。今では rust state (錆びついた州)と呼ばれる中西部、特に製鉄生産の中心都市ピッツバーグの煙突の数に、山本が驚愕したのも頷ける。山本は経済のエネルギー源石油採掘・精製過程にも大いなる関心を示したと伝えられている。

だが、平家物語冒頭の一説「盛者必衰の理をあらはす。驕れる人も久しからず」の気配が漂う、今日のアメリカの困難の象徴的な一例としてrust satesの惨状!を、現在の我々は目の当たるにする。これもROE(Return on Equity)至上主義の経営のやり方の結果であろうと思っている。つまり企業の利益を株主資本(自己資本)で割った比率、要するに株主から提供を受けた資金を使って、企業がどれほどの富を生み出したかを測る指標である。
企業経営 ROE或いはROI (Ruturn on investment,投資対利益比率)を高めるための対策は大きく2つある。その第1は分子対策(当期利益向上)、すなわち経営効率向上を狙って事業の選択や集中、場合によってはリストラ(工場閉鎖、従業員解雇)による経費軽減を進めることにより企業全体としての利益率を引き上げることであり、その第2は分母対策すなわち自己株式の買い入れなどの方法により1株当たりの利益を濃縮することである。

見落としてならないのは、アメリカの経営者は業績如何で莫大な収入増もあれば、逆に上手くいかねば直ぐ解雇の憂き目にも遭い、短期的にROE或いはROI業績向上を目指す傾向が強く、中長期的に必須な経営資源(人材、設備、研究開発ノウハウなど)を削減して即ち犠牲にして、短期的(経営者の任期内)な利益を稼ごうとする。将来性を犠牲にする近視眼的経営に陥るリスクが高い。特に工場、生産設備、研究開発人材に巨大な資本・経費を必要とする第二次産業製造業に於いては顕著にこの現象が見られる。且つ、製造業における品質管理、製造従事者の量的・質的低下の問題を抱え、厳しい状況に陥っている。かつてのピッツバーグの雄US Steelなどはその最たる好例ではないだろうか。第三次産業(情報通信・医薬/医療・教育・ナノ・金融業・外食産業・観光業など)では工場・設備などの固定資産への資本投資(即ち経費)が相対的に少ないので、アメリカが有する先進的且つ付加価値の高い企業経営能力と先進技術がが依然として発揮される産業分野ではあろう。

山本五十六は新潟県長岡市出身だが、幕末から明治維新期に活躍した長岡藩牧野家の重臣に河井継之助がいた。司馬遼太郎著「峠」は彼と長岡藩の運命に詳しい。河井は江戸への往来は隧道のない三国峠を通った。浅貝に泊まった(本陣であろう)との記述もある。三国峠には峠を越えた歴史上の人物が記されている標識が立っているが、河井継之助介の他、坂上田村麻呂、弘法大師、上杉謙信、伊能忠敬、良寛、小栗上野介、西園寺公望の名も見える。河井は戊辰戦争で幕府側に徹底抗戦し薩長の官軍との戦いで長岡から福島へ通じる村で戦死、享年41。生き残って明治維新以後の日本の発展に寄与して欲しかった逸材ではあった。

山本五十六は、戦場視察の際、暗号を傍受されソロモン諸島ブーゲンビリア島上空で搭乗機が撃墜された。1943年。享年59。日米両国、経済の地力の差は如何ともし難く物量面のみだけではなく、彼我の差は情報通信の面でも明らかであった。五十六は短期決戦に持ち込まねば、結果は彼には目に見えていたのだろう。聡明な五十六も継之助も負けるのは戦う前から分かっていたのだと思う。

(編集子)山本元帥戦死のきっかけは、現地で前線視察にむかった元帥搭乗機の目的地到着時間を打電した現地司令官の信号をアメリカ軍が傍受。これを知って現地米空軍司令官は、攻撃していいかどうかを大統領に問い合わせ、許可を得て戦闘機を迎撃にむかわせたという。なぜそうしたのか、はわからないが、考えられるのは元帥機を待ち伏せすれば撃墜はできるが日本の暗号を米軍は解読していることがわかってしまう、という懸念があって、最高司令官の判断を仰いだのだろう(もっともある本では現地の司令官は平文で送信したといわれている)。

ナチの暗号機エニグマの解読に成功した英国では、チャーチルは成功したことをドイツには知らせないことで逆手にとることを選び、ドイツ空軍の大規模空襲を察知しながらあえて防備をしなかった。その結果、たしかコヴェントリーだったと思うのだが街が大被害を受けることになった。戦争と政治の冷酷さを見せつけられる気がする。日本だったら、多分、起きなかったと思われる史実である。

神戸どうぶつ王国訪問  (大学クラスメート 飯田武昭)

麗らかな陽気に誘われて≪神戸どうぶつ王国(KOBE ANIMAL KINGDOM)≫へ5~6年前から2回目の訪問をしました。この動物園は象、キリンや猛獣は居らず、サファリパークでもない、至って平凡な小動物を出来るだけ自然の生態で見せる施設でゆったりと園内を回遊できます。

添付の写真は・フラミンゴ・なまけもの・プレーリードッグ・ビーバークリーク・Rocky Valley・シギの抱卵などで、セーブ劇にも関係のある小動物をピックアップしてみました。

直、写真が上手く撮れなかったですが水鳥の島には沢山の水鳥達が過ごしており、勿論オシドリも居ました。オシドリは雄雌が寄り添って泳ぐ景色は普通によく見ますが、ふと思い出したのは、≪人間でも仲の良い夫婦の事をオシドリ夫婦と例えることがありますが≫、実は、オシドリ雄雌(つがい)は、人間が思っているほどには特に仲が良い訳ではないと どこかで読んだ記憶があります。真偽のほどは分かりませんが・・・・。どなたかご存じですか?

この施設は神戸ポートライナーの「計算科学センター駅」の目の前にあり、過去には“スタップ細胞はあります!“で世間を驚かせた小保方晴子氏の理化学研究所と数年毎に世界的に話題になるスーパーコンピューター≪富岳≫の設備が近くにある興味深い場所でもあります。

ピッツバーグに煙突が何本あるか見てこい!

第二次世界大戦をほんのわずかにせよ、体験した人は少なくなりつつある。当時小学1年生だった僕は外地にいたので、空襲の体験はないが、子供心にいくつかの出来事の聞きかじりはあり、中学生の間に関連した書物に関心を覚えて読み漁ったものだ。その中で、山本五十六元帥のこともいくつか知ることがあったが、米国駐在が長かった元帥は最後まで開戦に反対であり、連合艦隊司令長官に推され、対米戦の火ぶたを切る立場にたたされたとき、(1年や2年は暴れて御覧に入れるが、一刻も早く講和を実現してほしい)と言ったといわれている。

それまでの議論の中でも、米国の経済力を知らず単なる数字合わせや精神論に傾く軍部の人間に、 ”お前ら、一度ピッツバーグへ行って、製鉄所の煙突が何本あるか、数えてこい!” と吠えたそうだ。ピッツバーグはすなわち米国製鐵業界の中心地、もちろんUS スチールの本社があるところで、米国産業界の中核でもあった場所だ。

数日前の新聞で、トランプの例によって訳の分からない発言が伝えられ、新日鉄のUSスチール買収を認めるような意向とされた。その発言のなかで彼はUSSはアメリカの会社であり、ピッツバーグから動くことはあり得ない、と言った、とも伝えられている。これからどっちに転ぶかわからない話だが、ピッツバーグの煙突の数は減るんだろうか?

しかし、いずれにせよ、日本の企業がここまでやるようになるとは、栄光の連合艦隊司令長官も夢にも思わなかったことだろう。専門的な話をする知見は持ち合わせないが確かだと思うのは、ここまで栄光の米国製造業が追い詰められたのは、確かに外国企業との競争に敗れたからでもあるが、そのきっかけは短期の金儲けに目移りし、ITと金融に走り、さらにはITの発達によってグローバリゼ―ション時代が始まる、などという、象牙の塔の連中の、小生に言わせれば妄想とまではいかないまでも現実から乖離した発言が生み出した、製造業の衰退であることだろう。トランプの支持者の多くがかつての栄光ある米国製造業から追われた白人労働者だという現実がこれを裏書きするようだ。トランプの旗印、Make America Great    Again は、まさにピッツバーグに何本煙突を残すのか、ということに集約されるような気がする。

 

 

エーガ愛好会 (326) ロングライダーズ  (34 小泉幾多郎)

無法者ジェシー・ジェームスを描いた西部劇を最初に見たのは、未だ終戦直後の
「地獄への道1939」タイロン・パワー主演で、南軍のゲリラ隊に所属し、悪漢と雖も南部人ということで、その対象を銀行か鉄道会社に絞っていたこともあり人々は西部のロビンフッドと呼び喝采を送っていた。最後は史実に沿って仲間のフォード兄弟によって、殺されてしまうまでが、日本でも18本も公開されている。「地獄への道」の続編として、これは史実に反するが、兄フランク・ジェームスが、ジェームスの敵を討つ「地獄への逆襲1952」が、ヘンリー・フォンダ主演で作られている。

この「ロング・ライダーズ1980」も史実に沿った同様のストーリーだが、監督がウオルター・ヒルという男の世界にこだわり続ける監督だけに、男同士の激突が凄まじく描かれる。主犯になる元南軍カントレル・ゲリラ隊にいたジェシー・ジェームス(ジェームス・キーチ)とその兄のフランク(ステイシー・キーチ)。同じくゲリラの一員だったコール・ヤンガー(デビッド・キャラダイン)とジム・ヤンガー(ロバート・キャラダイン)やクレル・ミラー(ランディ・クエイド)とエド・ミラー(デニス・クエイド)といった画面での兄弟が実際の兄弟により演じられたことが、より真実味を帯びた演技に通じた。しかし俳優の名前は知っていても、画面での対面が少なく、最初は役名と顔が一致するまでに、時間がかかった。男の世界監督と雖もジェームス兄弟は母、妻、義理の息子を大切にしていた生活者として、ヤンガー兄弟は、やさぐれた生活ながら娼婦であっても女性を愛する姿をほんのりとは描いていた。コール・ヤンガーと娼婦ベル・スター(パメラ・リード)との関係が印象に残る程度。ジェームス兄弟の妻との関係は希薄で、母親の方が強く印象に残る。

ギター音楽が全面に流れていたのが印象的。音楽がギタリストのライ・クーダー
で、冒頭からトラディショナルなカントリー・ミュージックと自作曲が流れる。山頂付近を7頭の馬が並び歩き、近づくと揃いのグレーのダスターコートが銀行強盗、列車強盗にテンポよく進んで行く。酒場では、北軍の歌を止めさせ、南軍の歌に代えさせたり、口に紐をくわえてのナイフでの決闘など多彩なエピソードを挟みながら、クライマックスのミネソタ州ノースフィールドに侵入し、銀行を襲撃した。馬を連ねて町に入る場面から、一転町中の銃火を浴び、市中を逃げ回る羽目に陥ってしまった。
下馬した状態で、馬の手綱を持ちながらの銃撃、落馬後馬に引きずられる姿、屋根からスローで落ちるガンマン、馬ごとショーウインドーのガラスを破るシーン等々殆んどがスローモーション撮影で、サム・ペキンパー監督の「ワイルドバンチ1969」を踏襲した殺戮集団の最後だった。

ジェシーとフランク兄弟だけが逃げ去り、ヤンガー兄弟は捕えられた以外は死んだ。ミズリーへ戻ったジェシーはボブ(ニコラス・ゲスト)とチャーリー(クリストファー・ゲスト)に後ろから撃ち殺され、残された兄のフランクはジェシーの葬儀を理由に自首することで、強盗団は壊滅。埋葬のため列車で棺を運ぶ。

「エーガ愛好会123ジェシージェームスの暗殺2007」記載時、ジェシー・ジェームスの日本公開映画18作品を羅列したが、再度ジェシーの主演者も付加して掲載しておきます。

1「ジェシー・ジェームス1927フレッド・トムスン」             2「地獄への道1949タイロン・パワー」                  3「復讐の六連銃1941アラン・バクスタ                 」4「地獄への挑戦1949リード・ハードレー」                 5「平原の勇者1949ディル・ロバートソン                」      6「命知らずの男1950オーディ・マーフイ」                 7「無法一代1951マクドナルド・ケリー」                  8「荒野の三悪人1951ローレンス・ティアニー」               9「私刑される女1953ベン・クーパー」                  10「拳銃が掟だ1953リー・バン・クリーフ」                11「無法の王者ジェシー・ジェームス1957ロバート・ワグナー」       12「地獄の分れ道1957ヘンリー・ブランドン               13「腰抜け列車強盗1959ウエンデル・コリー」               14「ミネソタ大強盗団1972ロバート・デュバル」              15「ロング・ライダーズ1980ジェームス・キーチ」             16「ワイルド・ガンズ1994ロブ・ロウ」                   17「アメリカン・アウトロー2001コリン・ファレル」            18「ジェシー・ジェームスの暗殺2007」ブラッド・ピッド

(中司)小泉さん、このキャストにあるキャラダインは、あの ”駅馬車” で名演(とぼくはおもっているのですが)のジョン・キャラダインと関係があるんでしょうか?

(小泉) 「駅馬車」出演の賭博師ハットフィールドのジョン・キャラダインは、父親とのことです。子息連中は、コール・ヤンガー(デヴィッド・キャラダイン)、ジム・ヤンガー(ロバート・キャラダイン)本文に抜けてましたが、ボブ・ヤンガー(キース・キャラダイン)です。

”駅馬車“ で、放蕩をつくし旅のギャンブラーに落ちぶれた、もと南部の貴族が夫を尋ねて危険な旅に出た女性を知って義侠心と南部紳士のプライドから危険を承知で乗り込み、最後を遂げるニヒルな役をつとめたのがこの父キャラダインだ。子供たちの出来栄えはあの演技に匹敵したか?

今は昔の話―都電をおぼえていますか    (普通部OB 船津於菟彦)

小生は昭和26年に慶應義塾普通部に入学しました。当時普通部は天現寺にある慶應義塾幼稚舎の一部を借りていて、翌年秋に日吉の現在のところへ移転。従って当時中野に住んでいた居ましたので、中央線で信濃町まで行き、都電の7番品川行きに乗り、天現寺で下りて通いました。当時生徒は⑦⑧㉞番の都電で四谷三丁 目か信濃町方面からか中目黒からか、渋谷から通って居てので、それぞれ「御前何番族」というような感じで仲間が出来ていた。都電は無数に東京都内を駆け巡っていて、定期は路線区間をペンで書き、住んでいる住所に近ければ、四谷三丁目駅乗り替え、新宿駅まで行き青梅街道を走る電車で鍋屋横丁駅まで、買ったこともあります。料金はは同じ。一年半近く利用致しました。

⑦系統 四谷三丁目 – (信濃町線) – 北青山一丁目 – (広尾線) – 天現寺橋 – (古川線) – 古川橋 – (伊皿子線) – 泉岳寺 – (品川線) – 品川駅前
1967年12月10日より運転区間を四谷三丁目 – 泉岳寺間に短縮。
⑧系統 中目黒 – (中目黒線) – 渋谷橋 – (天現寺橋線) – 天現寺橋 – (古川線) – 赤羽橋 – (札の辻線) – 飯倉一丁目 – (六本木線) – 神谷町 – (虎ノ門線) – 桜田門 – (半蔵門線) – 日比谷公園 – (築地線) – 築地
㉞系統 渋谷駅前 – (天現寺橋線) – 天現寺橋 – (古川線) – 古川橋 – 金杉橋

都電の歴史は、明治44年に東京市が東京鉄道株式会社から路面電車事業を買収し、東京市電気局として開局したときに遡ります。
都電には、かつて文字通り“都民の足”として隆盛を誇った時代がありました。最盛期の昭和18年度には、一日平均193万人ものお客様が利用されました。系統も41系統を数え、都電が都内を縦横に走っていました。しかし、自動車交通量が増大していく流れの中で、軌道敷内への自動車乗り入れによる輸送効率の低下が顕著となり、昭和42年から昭和47年にかけて181kmもの路線の廃止を余儀なくされました。

現在では、路線の大部分が専用軌道であること、代替バスを運行できる道路がないこと、沿線住民等の強い存続要望があったことなどにより、三ノ輪橋~早稲田間を走る都電荒川線のみを運行しています。しかし、C02も出さず走る都電にまた注目が集まってきているようです。のんびりとですが、バスより快適ですね。
営業キロはわずか12.2kmですが、令和5年度は一日平均約4万9千人のお客様にご利用し、地域に密着した交通機関として親しまれています。
都電荒川線の魅力を国内外に積極的にアピールし、更なる利用者の誘致、沿線地域の活性化に寄与していくため、外国人を含む観光客の方にも親しみやすい路線愛称を付けることとし、広く意見募集を行いました。その結果平成29年4月に愛称を「東京さくらトラム」に決定しました。

天現寺駅は車庫がありセンター的な役割を持っていました。広尾電車営業所・広尾電車車庫です。
• 1914年(大正3年)9月28日開設。廃止前は7、8、33、34系統の運行を担当していたが、第一次撤去で7、8系統、第四次撤去で33、34系統が廃止されたことで1969年(昭和44年)10月26日に廃止された。
• 跡地は都営広尾五丁目アパートとなっている。

当時はハンドルで運転し、紐の付いたベルでチンチンとならして走っていたのでチンチン電車とも言われました。これは飛鳥山公園に保存されている都電の運転席です。

東京さくらトラム 王子駅前駅 クラッシックな形の都電

東京さくらトラムは一部区間は昔のように道路を走るところもあるが殆どが専用路線に成って居ます。三ノ輪橋から早稲田まで 途中 サクラとパラが迎えてくれます。

こんなのんびりした旅も偶には如何。王子駅前駅〜三ノ輪橋駅の区間がサクラ・薔薇が綺麗です。写真は5月8日にあちこちで下りては撮影したモノです。

「とでんで一句 俳句(はいき)んぐ」より

都電待つ薔薇のひかりの中にゐて
電車降り路線のバラを見て帰る
チンチンに浮かぶあじさい友の笑み

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東京都電車(とうきょうとでんしゃ)は、東京都地方公営企業の設置等に関する条例[1]及び東京都電車条例[2]に基き東京都交通局)が経営する路面電車である。一般には都電(とでん)と呼称される。1972年以降は、荒川区三ノ輪橋停留場新宿区早稲田停留場を結ぶ12.2 kmのみが運行されている。

前身は1882年に開業した東京馬車鉄道で、1903年から1904年にかけて同社が路線を電化して誕生した東京電車鉄道、新規開業の東京市街鉄道東京電気鉄道の3社によって相次いで路面電車が建設された。その後3社は1909年に合併して東京鉄道となり、さらに1911年に当時の東京市が同社を買収して東京市電1943年東京都制施行によって都電となった。

最盛期(1955年頃)には営業キロ約213 km、40の運転系統を擁し一日約175万人が利用する日本最大の路面電車であったが、モータリゼーションの進展や帝都高速度交通営団(営団地下鉄)、東京都交通局の都営地下鉄の発達によって採算性が悪化していった。1967年に東京都交通局が財政再建団体に指定されると再建策の一環として1972年までに廃止されることになったが、残存区間は1974年荒川線として恒久的な存続が決定し今日に至っている。

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(編集子)小生は当時大森在だったので、品川から7番、の常連だった。この仲間にのち普通部ラグビー部を復活させ、自身はすばしこいセンターをつとめた大越康徳がいて、なんと、新幹線もなかった当時、熱海から通学していた。半年くらい前、電話を入れてみたが、夫人が逝去され、健康にも問題を抱えているとのことだった。好漢、回復を祈る。この復活ラグビー部フィフティーンのうち、現時点で連絡を取り合っているのは鈴木康三郎、神崎公伸だけになってしまった。


エーガ愛好会 (325)  アパッチ   (34 小泉幾多郎)

「アパッチ1954」は、バート・ランカスターが、ハロルド・ヘクトと独立プロダクションを作り、監督ロバート・アルドリッチと組んで製作主演した西部劇。

偉大なるアパッチの酋長ジェロニモが降伏した1886年に、ランカスター扮するジェロニモの配下のマサイは最後までアパッチの誇りを持つ最後の一人ということで戦い抜く。映画は、アパッチの酋長が降伏したが、マサイが騎兵隊と銃撃戦を交わすものの捕まり、列車の座席に、ジェロニモとマサイが並んで腰掛け、フロリダへ送られることになる場面から始まる。写真班によりシャッターの閃光が切られる度に、アパッチの部下たちが色めき立つところが面白かった。結局は、マサイが隙を逃さず、線路と車輪で手錠を切り、逃げ出すことになる。

これまでの西部劇が大自然の驚異、先住民の恐怖、悪漢との戦いという立ちはだかる困難を克服するというのが大きなテーマであり、その白人側からの先住民悪役仕立てから、その恐怖の対象たる先住民を白人側からでなく、先住民側から描いたところに、この映画の斬新性があった。最近に至り、先住民側から描いた西部劇も多く見られるが、この映画の製作当時では、「折れた矢1951デルマー・デイビス監督」位しか気が付かなかった。

ジェロニモを継いだ族長サントス(ポール・ギルフォイル)は白人から与えられたウイスキーで魂を抜かれ。もはや聖地を奪回する意思を失っている。サントスの娘ナリンリ(ジーン・ピータース)とは、マサイと恋人関係にあり、二人は遁走を続ける。セントルイスでは白人の文明社会に圧倒され。また郊外ではチェロキー族が白人社会に同化し、畑を作り、穀物を得、冬を飢えないことも知る。
その後マサイとナリンリの間の胎内に子供が出来る。チェロキーに貰ったトウモロコシの種で畑を作る。しかしナリンリが盗んだ洋服等で、居所が判明し、騎兵隊が二人を取り囲むようになってしまった。撃ち合いが続いた後。子供の産声が聞こえた。騎兵隊の司令官が叫んだ。「撃ち方やめ!」アパッチがが初めて畑を作った!数の上では、勝ち目などあるわけないが、今まで戦士として戦ってきた最後の戦士マサイとの共存への意志が白人側に見え隠れして終演。

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アパッチ(Apache)は、北アメリカ南西部に居住していた6つの文化的に関連のあるアメリカ・インディアン部族の総称。いずれも南部アサバスカ語系の言語を話す。現代の用語では、類縁にあるナバホ族は含まない。「アパッチ」という名は、ズニ族の言葉で「アパチェ=敵」を意味し、それを聞いたフランス人によって広まった。

乾燥した灼熱の岩山を好んで根城にし、その襲撃方法も地形を利用した山岳ゲリラというべきものだった。また、彼らは健脚で知られ、馬は移動手段というよりむしろ食料だった。戦士たちは口に水を含んで山々を駆け巡り、戻ってきたときに口の中の水が減っていれば失格とする厳しい訓練を積んだ。こうして灼熱の中で水を見ても無視できるほどの忍耐力と持久力を身につけていた。伝統的に好戦的で、領土に入りこむ異民族を襲撃した。南西部での彼らの抵抗による入植者数人の死者は、東部では情報操作されて数百人の死者となって大げさに伝えられ、白人達を怖れさせ、残虐な部族として語り継がれている。

現在、アパッチはアリゾナ州ニューメキシコ州オクラホマ州の特別保留地に居住し、その数は5000から6000とされている。

(飯田)主演のバート・ランカスターは、この映画の出演当時は 代表作「真紅の盗賊」「地上より永遠に」「バラの刺青」「空中ブランコ」「OK牧場の決闘」などに、立て続けに出演していて、俳優として最も脂の乗り切っていた時代だったと思います。
従って、この作品でも製作者ハロルド・ヘクトと組んでヘクト・ランカスター・プロという独立プロダクションで自分の思い通りの映画を製作したかったのでしょう。まあ、表現は悪いが、バート・ランカスターのやや半開きの口元が、役どころのアパッチ族のマサイという戦士役に結構ぴったり合った熱演と言えるし、マサイの恋人ナリンリ役の美女ジーン・ピータースが、珍しくアパッチ族という役に扮し力演するのが楽しめました。

(編集子)セーブ劇の聖典、”駅馬車” は当時普及し始めた電信の急報が ”ジェロニモ!” という単語を最後に途切れるところから始まる。これが暗示するのは先住民族の蜂起であり、その中を突っ切ろうとする駅馬車の旅がぶつかるであろう危険を浮かび上がらせる。実に効果的なトップシーンだった。この不気味なイントロは一発の銃声とともに大写しになる若き日のジョン・ウエインの登場で一気に躍動的な場面に移って行く。何度見ても心躍らせるエーガだ。

乱読報告ファイル (48)赤ひげ診療譚  (普通部OB 菅原勲)

「赤ひげ診療譚」(著者:山本周五郎。新潮文庫。1959年)。

先だって、砂原浩太郎の「夜露がたり」、西条奈加の「四色の藍」(よしきのあい)、を読んだ。いずれも時代小説だが、大変、面白くなかった、特に、「四色の藍」は途轍もなく酷かった。と落胆していたところに、誠に気障な言い方をすれば、突如として天啓の如く、久し振りに、山本周五郎が出現した。

小生の山本作品に対する拙い読書歴を披露すると、「寝ぼけ署長」、「楡の木は残った」、「五辨の椿」(なお、これは、コーネル・ウールリッチの処女作「黒衣の花嫁」の内容と可なり酷似しているが、今は、それを云々する場ではない。蛇足だが、ジャイ大兄お気に入りの「幻の女」の作者、ウィリアム・アイリッシュは、このウールリッチの別名だ)、「青べか物語」、「さぶ」、「町奉行日記」と言ったところで、その内、最も面白かったのは「青べか物語」(1959年)だ。現在の千葉県浦安市が舞台で(勿論、ディズニー・ランドなど、影も形もない)、昭和初期、山本がまだ貧窮に喘いでいた頃の自伝的な小説だ。

そこで、これまで読んでいなかった中で、真っ先に取り付いたのが、この「赤ひげ診療譚」と言うわけだ。期待に違わず、滅茶苦茶、面白かった。久し振りに小説の醍醐味を味わった。

確かに、赤ひげこと新出去定(にいできょじょう)の診療譚と言えないこともないのだが、この小説は、寧ろ、ドイツ語で言うところのビルドゥングス・ロマン(Bildungsroman)、有る青年(保本登)の成長物語と言った方が正鵠を射ているのではないだろうか。

これは、長編と言っても八つの短編/エピソードから成り立っている。例えば、保本は、狂女を患者にしたり、その狂女から殺されそうになったり、手術を見て失神したり、一方の赤ひげは無料奉仕なのだが、富めるものからは診察料をふんだくる(これは、義賊ロビン・フッドか)、などなど。

保本は将来を約束されたエリート青年医師だが、長崎に遊学して最新のオランダ医学を学び、将来は幕府の御目見医の地位さえ保証されていた。ところが、「小石川養生所」と言う「患者は蚤と虱のたかった、腫物だらけの、臭くて蒙昧な貧民」であり、「給与は最低」、「昼夜のべつなく赤ひげにこき使われる」場所に、強制的に送り込まれる。ところが、それに不本意な彼は、養生所の決められた制服を着用しないなど、色々な点で、赤ひげに激しく反抗する。しかし、上記のエピソードによって展開される様々な出来事に関わって行くことで、彼の想像を遥かに越えた人間の感情や心理の明暗、表裏を知り、人間として大きく成長して行く。

最後は、1年の見習い勤務が終了し、晴れて御目見医となることになるのだが、保本は、ここに止まることを決意し、赤ひげから、「おまえはばかなやつだ」、「先生のおかげです」、「ばかなやつだ。若気でそんなことを言っているが、いまに後悔するぞ」、「お許しが出たのですね」。「きっといまに後悔するぞ」、「ためしてみましょう、有り難うございました」で、赤ひげはゆっくりと、保本の部屋を出て行く。

ただし、この文庫本に致命的な汚点が一つある。解説の手前で、純文学作家の辻邦生が、得々と「山本周五郎論」を開陳している。しかし、これが途轍もなく酷いもので、抽象論に終始し、何遍読んでも辻の意図することが皆目わからない。山本は、こんな意味の分からない抽象論を、最も忌み嫌っていたのではないか。

これを機に、未読の「天地靜大」(幕末の激浪の中に生きた小藩の若者群像)、「栄花物語」(老中田沼意次父子を時代の先覚者として描く)などを読んで見ようと思っている。

なお、これは「赤ひげ」の題名で映画化されており(1965年)、監督は黒沢明、赤ひげに三船敏郎、保本に加山雄三など。小生は見ていないが、これを見た山本は、「原作より素晴らしい」と賞賛したと伝えられている。

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山本 周五郎は、日本の小説家。本名:清水 三十六。質店の徒弟、雑誌記者などを経て文壇に登場。庶民の立場から武士の苦衷や市井人の哀感を描いた時代小説、歴史小説を書いた.

代表作 ”樅ノ木は残った” ”ながい坂” ”さぶ” などがよく知られている。

 

(河瀬)『赤ひげ』の映画は見ていませんが、私は1970年卒業後研修医の時、「白い巨頭」事件をきっかけに慶應医学部で民主化学生運動が勃発しました。そのため研修どころか給料なし、食事なし、部屋なし、トイレの道具部屋を占拠して勉強したり、夜患者を見るのにストレッチャーで寝たりしました。そのお陰で「赤ひげ」の保本に近い経験をしました。

その経験で困っている立場の患者の気持ちがよくわかりましたので、26年後に教授になり研修制度改革委員長になった時、「研修医は疑似患者になる」研修を提案しましたが、事務の反対で実現しませんでした。
 『医師は皆そのような経験をすべき』と考えています。
(編集子)小生は山本の作品は 樅ノ木は残った と ながい坂 の2冊しかよんでいないが、樅ノ木 は亡兄が勤務先で複雑な人間関係や大企業特有の出世競争に翻弄されていたころこの本を読み、感ずることがあった、といったのを覚えていて、だいぶ後になるが同じようなシチュエーションで読んだ。ながい坂、のほうはそういう背景もなく、あっさりと読んでしまった。河瀬兄のような忠実な読者ではないようだ。

(’本題と関係ないが、スガチューの指摘した ウールリッチ=アイリッシュの件は了解。これもまた奇妙なタイミングだが、彼のメールを読む数日前、ウールリッチ名で発表した Phantom Laday (邦名:幻の女)を読み終えたところだった。次はアイリッシュ名義のどれかにしようか、それとも未見の 黒衣の花嫁、にもしようかと考え中。)

最近、よく眠れてる?    (普通部OB 篠原幸人)

テレビで最近睡眠に関するニュースが多くないですか? 日本人の平均睡眠時間は約7時間。これは諸外国に比べると少し短いようです。そのせいかJRなどの乗ると、座っている人は全員 スマホをいじっているか寝ているか。まあ目の前に高齢者などが立った時に狸寝入りをきめこむ若人もいるけどね。

不眠には入眠障害(寝つきが悪い)と、頻回に目が覚めるもの(途中覚醒)があります。

皆さんは寝つきは良いですか? 夜中に何回ぐらい排尿で起きるかな? 私も最近以前よりは寝つきが悪くなりました。但し、夜中には1回 眼が覚めるか、全然起きないかのどちらかですね。夕食時にビールや水分をたくさん飲んだ時以外は、夜中は起きないことが多いですね。しかしこれは例外的で、70歳を過ぎたら1-2回夜中に排尿で起きるのは普通かな。これは余り心配しなくていいでしょう。排尿の後、またすぐグッスリ眠れるならば。

この不眠は心筋梗塞や脳卒中発症と関係があることが医学的にはほぼ常識化しており、最近では心不全やアルツハイマー病になる確率も高いことが分かってきました。もっとも毎日9時間以上寝るのも認知機能障害には問題という報告もあります。7-8時間の睡眠が皆さんのお年では最適かな。子供さんはもっと寝ていいと思いますが。

「睡眠時無呼吸症候群(SAS)」って聴いたことありますよね。睡眠中、大イビキをかき、良く観察すると途中で息が数十秒ぐらい止まる方、パートナーにそれを指摘されたら、是非呼吸器の専門家に相談してください。これも不眠の原因の一つです。舌根が睡眠中に喉に落ち込み易かったり 肥満やあごの形・扁桃腺の肥大など原因は様々ですが、一般的にこれらの方は血液が固まりやすい傾向があり、脳や心臓の血管が詰まる可能性が高いのです。

じゃ、眠れなかったり、一晩に3-4回以上も起きてしまうのはどうしたら良いかって?

一度、懇意の主治医に相談することでしょうね。SASならCPAPという装具をつけて良く成った方が沢山います。SASもなく、頻尿のみで起きる方は、まず泌尿器科で前立腺や女性の場合は膀胱などに異常がないか診てもらってください。テレビで宣伝している漢方薬は夜間頻尿には効かない人も多いようですが。SASや膀胱・前立腺にも異常がない場合、医師は睡眠薬を勧めるかもしれません。しかしこれも考え物です。従来の睡眠薬の多くは、無理に脳の機能を抑え込んで眠らせるものもが多く(これは一寸誤解を招く表現ですが,分かりやすく表現しました)長期使用は認知機能を抑えてしまうとも言われています。すなわち、ボケやすくなるわけです。最近、オレキシン受容体拮抗薬という新薬が出てきました。これはそのような有害事象は出にくいと言われていますから、かかりつけ医から従来型の睡眠薬を長期に貰っている人は良く相談してください。

まあ、寝酒として強めのアルコールをほんの少量飲むのはアリかもしれませんね。しかしビールやお湯割りをたくさん飲めば、また排尿で起きてしまいますよ。

「眠れなければ我慢して眠らなければいい、眠って死んだ方はいるが眠れないで死んだ方はいないよ」と時々、冗談で神経質な患者さんには申し上げますが、実は非常に稀なスローウィールス感染症という病気(もう過去の病気だと忘れられている狂牛病もその一つです)の中に「致死性家族性不眠症」という病気もあります。これはホントに眠れないで死んでしまう病気ですが、この病気は非常に稀で、私が20年以上前に日本の第1例目を米国雑誌に発表して以来、まだ日本からは2例目が出ていないくらい稀有な病気ですから心配はいりません。

そんなことより、長く続けた昔からの睡眠薬から脱皮できず。新しい薬を渡されても、効かないと自分で決めこんで、古くからの薬にこだわる人のことが心配です。年をとると意固地になる人が多いからね。

 

台北に行ってきました  (大学クラスメート 飯田武昭)

台湾(台北)に数日間ですが行ってきました。

元々は2020年4月に予定していた台湾旅行ですが、コロナ禍で出発直前に予約をキャンセルした分を、今回は約半分の日程で台北のみ気楽に行きました。

台湾の中興の祖の蒋介石を祀る中正紀念堂、忠烈詞(辛亥革命や対日抗戦で命を落とした英霊を祀る)の衛兵交代、超高層建築物「台北101」(2004年築)は509m、101階で3年間だけ世界一の高さだった、戦前まで50年間にわたり日本が統治していた当時からの建物の総統府などと、まるでバイクレース?と見紛うほどの通勤手段のバイクの多さや市内あちこちでの夜市で、庶民の生活を感じました。

一度は行ってみたかった「千と千尋の神かくし」の舞台に似ているとの評判になった急な坂道の途中にある9份の「阿妹茶楼」(あめおちゃ)での冷たいお茶のセットは、飲み水が切れかかっていた喉には、抜群に美味しく味わえました。

西門駅周辺はまるで、渋谷のスクランブル交差点と新宿の歌舞伎町辺りを超小型にしたような若者の賑わいがありました。

(菅原)飯田 さん、誰かさん、この国を盗もうとしてるんですよ。一国二制度なんて香港を見れば紛いもの。台湾は何とかこのまま居続けて欲しい。小生、30年ほど前に2/3回台湾に行きました。良いところでした。

(安田)お元気な足腰と好奇心+興味、何よりです。ご感想ありがとうございます。九份の写真、素敵です。何より感嘆するのは親日的な温かな対応、世界に名を馳せる絶品の小籠包のレストラン鼎泰豊(ディンタイフォン)、安全・安心な社会、日本的遺産(料理・街並み・言葉・新幹線など、後藤新平の功績大)、中部の山岳地帯(九州より小さい面積に3000mを超える高峰が269座、富士山より高い峰7座)。現在の民主主義体制が存続するのを願わずにはおれません。