エーガ愛好会 (327)  荒野のガンマン  (34 小泉幾多郎)

「荒野のガンマン1961」は、西部劇に新生面を開き、独特の映像美を演出してきたサム・ペキンパー監督の第一作。主演にジョン・フォード監督が、「リオ・グランデの砦」等に女優として好んで使ってからほぼ10年後のモーリン・オハラ、まだまだ魅力たっぷり、しかもイントロを見て驚いた。字幕と共に、女性の歌が聞こえる・・・愛の夢を見る私、でも夜明けが訪れる。愛を失った私が目覚めるだけ・・・まさかモーリン・オハラの声とは思われない素晴らしい声だったが、song by Marlin Skiles & Chales R Fitzsimons sung by Maureen O’haraとクレジットされていた.

西部劇たる男の主人公は、名前からして常識的な西部劇世界を拒否する逆転世界を想像させるイエロー・レッグという名前の男で、ブライアン・キースが扮する。この男南北戦争で右肩に弾を受けたままにしておいたため、右手が思うように動かず拳銃もライフルもうまく撃てない。しかもかって頭の皮を剥がされそうになり、額に傷が醜く残っており、いつも帽子を脱がずにいる。酒場で助けた首吊り損ないの中年ガンマンのターク(チル・ウイルス)、その相棒ビリー(スティーヴ・コクラン)と偶々教会に来ていたキット(モーリン・オハラ)が知り合うことに。タークはイエロー・ドッグが、額に傷をつけられ、ずっと狙っていた男で、長い間先住民の奴隷を買い集め自分の軍隊を作り南部の独立国再建を妄想する男。キットは結婚してすぐに夫を亡くした子持ちの未亡人でダンスホールで働いていて、町の女性からは不貞の子を産んだと陰口を叩かれている。

男3人は食うことの一番の手軽な方策とばかり、銀行強盗を計画するも、其処で覆面した銀行強盗に直面し、銃撃戦となり、思いもかけないイエローの正義の銃弾は、利き腕が動かず、銀行強盗ではなく、近くにいたキットの息子を射殺してしまったのだ。流石に責任を感じたイエローに対し、キットは子供の遺体は夫の墓のある現在はゴーストタウンになっているシリンゴという場所に埋めると主張する。シリンゴまでにはアパッチの出没する危険な地点もあるが、イエローは、経緯から決死行をせざるを得なくなり、キットに横恋慕しているビリーと仲間の
タークも同行するも、ビリーのキットに対する暴力的扱いによる対立から別れ、イエローとキットの二人だけの旅へ。途中、アパッチの酔いどれの大騒ぎ等もありながら、シリンゴのキットの夫のお墓に辿り着き、無事子供を埋葬する。

子供の遺体だけの運びとは信じないタークとビリーが再びやって来て対決することになるが、信じられないことだが、ビリーはタークに射殺され、そのタークはイエローに素手で倒される。思いがけぬことに、銀行強盗の追手の保安官以下メンバー7人が現れ、タークは逮捕された。イエローは、メンバーの牧師に、キットの子息埋葬の祈祷を依頼する。

最後にモーリン・オハラの歌が鳴り響く・・・軍隊を作るんだ、先住民の奴隷を買い集めて。今は目覚めても寂しい夜明けはない。私の心は満ち足りているか。愛を夢見ていた孤独な私。寂しい夜明けは過去のこと。愛を失った私はもうそこにはいない。

(飯田)この映画は10数年前にも当時の衛星映画劇場で観ていますが、ニューシネマと呼ばれた製作スタイルのサム・ペキンパー初の映画監督作品です。

主演はジャイ大兄のお好きなモーリン・オハラを中心に、ブライアン・キース、スティーブ・コクラン、チル・ウイリスの荒くれ3人男が、いわくありげの役を演じます。全編を流れるソロ・ギターの調べと大きなサボテンの生えた砂漠地帯がメキシコとの国境に近い雰囲気を高めています。

モーリン・オハラはジョン・フォード作品の「わが谷は緑なりき」(1941年)、「リオグランデの砦」(1950年)、「静かなる男」(1952年)、「長い灰色の線」(1955年)、「荒鷲の翼」(1956年)と全ての作品を私も好きですが、ジョン・フォードを離れてのこの作品「荒野のガンマン」での彼女の評価はどうなのでしょうか? 私は映画のストーリーはあまり好かないですが(特に最愛の幼い息子を殺された母親が、その射手を好きになるという展開などに無理があり)、モーリン・オハラ自身の容姿や演技は十分良かったと思っています。

(編集子)自分の初恋―というのか、例えば小学校で隣のハナコちゃんて、いたよな、位の昔をふと思い出して、わざわざ昔の場所を尋ねてみて、そのハナコがなんと泣きわめく子供を背中に背負ってとぼとぼ歩いているの見つける、なんて話はよくある。エーガの例ならばさしずめ 舞踏会の手帖、だろうか。飯田から(モーリン・オハラだぜ)とわざわざ知らせてもらって、録画しておいたものを見た。率直な感想は、これは俺にとっては ”舞踏会の手帖” だった。結論を言えば、オハラはやはりフォード作品でなければならない、ということだった。

飯田解説によればこれはかの アメリカンニューシネマに数えられる作品なのだという。この一連の作品のテーマや製作技法などというものについて語る資格は僕にはない。またそのカテゴリだとされる作品についても、見たのは限られている。そのなかで、本稿にも何回か書いたが、僕に衝撃を与えたのは バニシングポイント だった。ニューシネマ群の共通のテーマが(当時の)現代アメリカ文化に対する反抗であり、その結果がもたらす不条理感である、とすれば、この作品のもつ雰囲気は絶対的なものとして記憶にある。

それではこの作品(いつもはわき役でしか見ないブライアン・キースを見て驚いた)が、このニューシネマ的な感覚で作られていたのか、と言えばそうは思えない。バニシングポイントの衝撃的なラスト、絶対的な死に向かって夕陽の中を爆走するジーン・バリーの顔に浮かんでいた微笑、そういう衝撃もない。西部劇が持つべき要素(と僕は思うのだが)である善悪を超越した爽快感、もなかったし、娯楽性も感じなかった。

どうも今朝は寝起きがよくなかった気がする。飯田兄、申し訳ない。