八ヶ岳山麓から  その1

僕のブログの記念すべき第一号発信を八ヶ岳南山麓にあるセカンドハウスで書いている

一応 ”別荘地”なるもののじっこに2002年に建てた小屋だ。場所は北杜市小淵沢。別荘、というイメージが定着した箱根とか蓼科とか軽井沢とかいった土地柄ではないし、大手の企業がやっている大規模・ハイクラス志向のものでもない。それまで聞いたこともなかった小さな不動産会社がひらいた場所なのだが、一応のインフラはあるし、管理も行き届いているので、僕ら夫婦が目的としている”二か所定住”スタイルを貫くに不満はない。しかしなにより気に入っているのは、家の文字通り真ん前を”棒道”が通っていて、その向こうが秋深まればゴージャスな紅葉がみごとな、深い原生林になっていることだ。

棒道、というのは武田信玄が信濃攻略のために作った軍用道路と言われていて(近年の研究では信玄以前に存在した道だ、という説もある)、現在の地名でいえば穴山あたりを起点にして長野県和田峠まで、三本のルートがあった、というのだが、現時点でその痕跡が明瞭で保護されているのはそのうちの”上の棒道”の部分である。穴山は武田勝頼が築いた新府城のあったところで(中央線に新府駅がある)このあたりが起点というのはうなづける説であるが、この”上の棒道”の核心部は小海線甲斐小泉駅近くの小荒間という集落から始まり、小淵沢カントリクラブの敷地をかすめて小淵沢インターからくる道路の下をくぐり、通称 ”鉢巻道路”と呼ばれる八ヶ岳周遊道路を原村へむかう途中で消える。小荒間から山道に入り、標高差でほぼ100メートル、最後のピッチを登ったところで拙宅の前に飛び出すということになっている。ハイキングシーズンにはハイカーが言ってみれば軒先を歩いていくので、別荘管理規定がなければコーヒースタンドでもやれば小遣いくらいは出るかもしれない。コースは地元の管理が行き届いていて、快適であるし、中ほどにはきれいな、小さな流れが2本ある。古いガイドブックで権現あるいは編笠への案内を探すと小泉から棒道をたどるのが標準になっているので、ベテランの登山家には知られたルートだったのだろう。名著”北八ツ彷徨”で知られる山口耀久氏の続編”北八ツ挽歌”にも一部、棒道のことが出てくる。

卒業して2年で結婚して、そのあと2年は夫婦で結構山を歩いた。その間に、村井純一郎(37年卒)とひょんなことから付き合いが再開し、彼の勧めで北八ツに足を運ぶことが増えた。子育て期に入ると、多少ひけめを感じながら、単独でもいろんなルートを歩いたが、なかでも当時の高見石小屋の雰囲気が好きだった(今の高見石にはあの頃のロマンはまったくないのだが)。それに比べて南八ツは夫婦で真教寺尾根から赤岳のラッシュをやったことがあるだけで、全く縁はなく、特にその南を限る権現岳は一度行ってみたいところだった。会社をひいて2年たち、2001年9月の初週、翠川幹夫、深谷勝、中島英次、岡秀雄、安東静雄に我々夫婦というメンバーで小淵沢地内の観音平から編笠へ上り、ついでに西岳を回って青年小屋へ泊まり、翌日、権現へ行くという旅を楽しんだ。考えてみるとこの時のメンバーとは現役時代、合宿などをのぞくと一般プランでは全く顔を合わせたことがなかった。30年を超える時間を経過してそれに気が付くというのものんきなものだが、この時の仲間が現在”月いち高尾”の中心になってほぼ毎月顔を合わせているのもなにかの因縁だろうか。

重要なのは、このワンデルングによって、僕ら夫婦が小淵沢、という土地を知った、ということである。そしてその後の経過がすでに記憶から抜け落ちてしまっているのだが、ある日、口の達者な営業マンに連れられて、たしか小雨が降っていたと思うのだが、今の場所を見に来た。まだほとんど家もない、原野といっていいくらいの場所だった。清水の舞台から飛び降りる、といえば言い尽くされた表現だが、そんな気持ちで契約した理由の一つは、この場所が”棒道”という歴史ロマンに隣り合っている、ということだった。信玄軍団の侍たちが歩いた道がそこにある。ローマを訪ねたとき、”シーザーが歩いた石畳を俺は今歩いている!”と興奮したものだったが、同じような、不思議なたかまりがあった。

契約を決意する前の3月に、八方尾根の帰りだったような気がするのだが、この場所へ来てみたとき、膝を没する新雪が森をうずめていた。尾崎喜八の文章に、同じように雪に埋もれた、友人が作った小屋の入口へ、”僕もいつの日か、襟巻をはためかせてここへ滑り込むだろう”というような一節があった。襟巻がキルティングに変わったにせよ、その日が来年には来る!という気持ちが湧いてきて、決意をさらに固めたものだった。

その後12年を経ているが、あの時のような積雪があったことは一度もない。何冬かして、悔しくて土地の人に聞いてみたら、あの時はとてつもない大雪だったがあんなことはもうないね、といわれてなんとも悔しい思いをした。

とにかく、棒道と編笠・権現。この二つに出会わなければ僕らはこの好ましい土地に来ることはなかった。満州から引き揚げ、以来の東京育ちのゆえ、故郷、というものを持たない僕には、このあたりの人と人情、ちょっと歩けば文字通り日本農村の原点、というようなたたずまいは心のフルサト、とでもいうべきものになりつつある。これからも花鳥風月を楽しむ、というような高尚な気持ちにはならないだろうが、デッキに座ってミズナラの林を過ぎていく風の音をききながらジントニックをすする、程度の恰好はつけながら、第二の故郷の時間をすごすつもりだ。

(幸い、このあたりには佐川久義(41年)夫妻、下村祥介(42年)、吉田学(47年)夫妻などの諸君が拠点を持っているし、少し離れるが蓼科には荻原年(32年)、徳生勇二(35年)両先輩を始め、久米吉之助夫妻、石渡美知江(46年)君らがいる。この夏には下村君の肝いりで第一回八ヶ岳山麓会、なるものをやろうということになっていて、そのような意味でもKWVの絆が固められる楽しみもある。)

 

編笠と権現

編笠と

権現のあいだに

雲がかかっている

 

夏の終わりの雲だ

 

あの稜線を駆け上がった心臓の鼓動は

まだ

どこかに新しいのだが

今の心は

どうしてもそこへ行かない

 

夏の終わりの雲だ

 

それでは、また。

 

 

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