Fire and Fury

昨年、時々話を聞きに行っていた早稲田オープンカレッジでアメリカの大統領選の話があった。講師は何回か話を聞いたことのある若手の人で、当時クリントン圧勝という予想がひょっとすると外れるだろう、という議論であった。ただその時の対象は若者層に絶対的人気があった民主党のバー二―・サンダースの事で、トランプは泡沫候補として名前が出ただけだったし、僕もそう思っていた。

数日後、近くの本屋で関連した本の立ち読みをしていたら、1冊だけ、”誰も信じないだろうが今回はトランプが勝つ” と予想した本があった。その根拠として、トランプの婿クシュナーがキッシンジャーの家を訪問したことを報じたアメリカでのスクープ写真が載っていた。彼の論拠は”これでアメリカの全ユダヤ系ビジネスがトランプについた。これで、決まりだ”というのだった。信じがたいことだったが、事実になった。ラストベルト(Rust Belt)と呼ばれる地域で生活苦に悩んでいる白人労働者がトランプ支持者だということまでは知っていたが、ユダヤ系の億万長者層がどれだけの力を発揮したのかは僕らの理解を越えている。しかしこの本を読むと、そのことが実感される。

発行されたときにはトランプが著者(マイケル・ウオルフというジャーナリスト)を名誉棄損で訴えるらしいなどと言われたものだが、内容をそのまま信じるとすると、背筋が寒くなるような話ばかりである。われわれにその真偽のほどはわからないが、ひとつだけ事実だろうと思われるのは、トランプ自身、自分が当選するとは思っていなかったのだろうということだ。だから閣僚の人選にしても確たる考えもなく周囲のスタッフの言うことを聞いて決めたのだが、彼自身の信じる路線にあわない人間ばかりだったので、就任直後からの人事の混乱になり、政権に対する不信の拡大になったようだ。このあたりの真相や、今動きつつあるトランプ政権のありようなどについて、議論したり批判したりする知見も論拠も持ち合わせていない僕だが、この本を読み終わって感じたのは、トランプに先立つヨーロッパの混乱ぶりを考え併せて、ついに”大衆社会”が実現してしまったのだなあ、ということだった。そのことについて書く。

僕らが三田に進んで専攻課程を決めなければならなくなった時期、すなわち60年代初頭はまさに東西冷戦のさなかであり、経済学の分野においても資本主義対共産主義、というイデオロギー論争そのままに近代経済学(近経)とマルクス経済学(マル経)論争があり、技術論として数理経済学、などという分野も出てきていたころである。一方、僕らの日常生活に流れ込んできていた”アメリカ社会”については、せいぜいテレビドラマで垣間見る程度しかわからなかったが、高度に成長した社会の中で組織や権力の持つ暗黒面がそれとなく伝わっていた。

生まれつきあまのじゃく的性格が多分にあったためだろうか、経済学部の主流とされる流れよりもその底辺にありそうな問題に興味を覚えて僕はあえて社会思想というゼミを選択した。高校の時、”文化問題”という選択科目があって、ここでテキストとして使われたエリッヒ・フロムという社会学者の”人間における自由”という本、難しくて半分も理解できなかったのだが、この本を通じて人間が持つ不合理性、ということに漠然とした共感があった。アメリカだってソ連(当時)だって、ベルトコンベヤーの前で非人間的な作業をするのは同じ人間だろう。彼らにとっては資本主義か共産主義かなどというよりも、自分が失いつつある”人間における自由”の方が問題なのではないか。そういう問題意識だった。

幸か不幸か、ワンゲルというあまりにも人間的な部活動が自分の大半以上を占めるようになって、この問題意識も薄れがちだったのは当然だったが、それでも斜め読みを続けていたいくつかの本、例えばリースマンの”孤独なる群衆”だとか、オルテガの”大衆の反逆”などから、それとなく、機械文明の非情さと人間、という見方に傾斜していき、そこで”大衆社会”という概念を知り、僕の原点、と言えばおこがましいが考え方の基本になったフロムが専門の心理学の立場からこの大衆社会、という概念を論じていることを知った。

大衆社会、とは、文字どおり、大衆、すなわち、エリートでないごくごく一般の人間が、確たるイデオロギーや哲学などを持たず、ただ数の論理で政治・社会・経済・文化を支配してしまうような社会、といえばいいだろうか。形の上ではギリシャ以来の民主主義、という形をとりながら、実情は論理や真実などよりも風評やプロパガンダによって物事が決まってしまう。フロムはドイツがヒットラーによって統一され、世界を支配するに至った過程が巧妙なプロパガンダ操作によって作られたのだと結論し、同じことが現代アメリカ社会において存在する。ヒトラーの宣伝に変わる要素がいろいろな手段を通じて行われている宣伝、ニュースのたぐいであるとした。

60年代、すなわちフロムが警鐘を鳴らした”マスコミュニケーション”の主体は書籍、ラジオ、テレビにとどまっていた。しかし現在、インターネットという技術によって、情報操作の程度は時間的、物量的、感覚的に60年代の比ではない。このことは日常、我々が漠然と知っていることである。そういう目で、今回のトランプ政権の成り立ちを見ると、その支持層がまさにかの国の一般大衆であり、マスメディアの利用(フェイクニュースという論理で自分に合わない論理を操作してしまうことを含めて)であり、そしてそれを支えて来た汎ユダヤ主義層の金であることはあきらかである。僕はこの本に書かれている多くのエピソードが真実であるのかどうかについてあまり興味はない。それよりも、トランプの行動論理や報告を読むよりも億万長者層をいかに取り込むかに腐心しているとする周囲の発言や証言に唖然としてしまう。

トランプが現在かかわっていること、たとえばイランの問題、朝鮮半島の問題、などなど、オバマの真逆を行く行動はひょっとするとアメリカ大衆から拍手喝采で迎えられてしまうかもしれない。そのとき彼は偉大な大統領のひとりになるのか。民主主義の真実のあり方を否定した結果として?

新歓W楽しそうでしたね  (36 後藤三郎)

翠川様、

今年も小屋での新人歓迎行事にお出かけくださり有難うございました。三角山からの写真も綺麗に撮れており雪が少ないのは少し異常ですが懐かしい展望を楽しみました。KWVも部員の数が増えて賑やかな感じで嬉しい限りですね。湯ノ沢からの登山道が山岳マラソンコースの一部になることで我々の活動が引き継がれることは有難いことですね。(私は山を走るスポーツは個人的にはあまり感心しませんが最近はTVでもマラソン登山が良く紹介されており一種の世界的な流行のようですね)いずれにせよご苦労様でした。

Who are we ?

この本の著者のサミュエル・ハンチントンは2008年12月、惜しまれながら亡くなったアメリカを代表する政治学者である。僕は勤務先の日米合弁企業で上級マネジメントに連なるようになった80年後半から90年くらいまで、それまでとは違ったレベルで日米間の意識・感覚のずれになやみ、ともすればインフェリオリティコンプレックスとでもいうべきものにとりつかれていた。その時期、名著”文明の衝突”が日本に紹介され、一読して納得し、激励されたものだ。

本著 Who are we? は 最近、”分断されるアメリカ“ というタイトルで集英社から鈴木主税氏の訳で改めて紹介された。今度、原著を読もうと思ったのは、サブタイトルに ”アメリカ人のアイデンティ“、とあったからだ。僕らは日常、アメリカ、ないしアメリカ人について、かなり固定的な、つまり時々変なこともするが、基本的には移民によって建設された高邁な理想を追求する頑固な善玉、というイメージを持ってきたと思うし、それがアメリカ人のありかた、つまりアイデンティではないかと勝手に思い込んできた。それが最近はトランプの一連の反動政策、それに対抗する一般の善良な人々、というわかりやすい構図になった。トランプ悪玉説と言い換えてもいいかもしれないし、僕自身、そう感じてきた。しかし、この本を読み終えた今、”おい、トランプさんよ、あんたのやり方は気に入らねえが、あんたの気持ちもわからんでもねえなあ“と感じるようになったようだ。そのことを書いてみたい。

ハンチントンはある国民のアイデンティは、人種、居住する環境によって生まれる固有の文化、歴史、それとそういうものの結果生まれる民族性(ethnicity)、宗教、などによって決定されるとし、アメリカが特殊なのは、国の成り立ちがこのような要素に欠けていたからだという。アメリカ合衆国は、当時の高度の欧州文明を背負いながら、宗教的な理由によって移住してきた人々によって、いわばきわめて人工的に作られた。つまり固有の文化、歴史、民族という概念を持たないままに出現した。その結果、人々を結びつけるものが宗教しかなかった、ということが、世界にもまれな、きわめて宗教的な国を作った。そして、その後増加した移民(最近まではヨーロッパ人だけだったことに注目)の間の最大公約数が建国の過程から、英国文化とプロテスタント(Anglo-Protestant)の伝統的倫理観にならざるを得なかった。それが今までの米国人のアイデンティであった、というのだ。

へえ、と思うのだが、原著の末尾に著者は、たぶん結論としたかったのだろうが、ひとつのグラフを記載している。例によって意識調査の結果だが、横軸に神の存在を信じるか、その程度はどのくらいか、という指標を、縦軸に自分の国に対する愛国心がどのくらい高いかを原点を極小に取って、世界各国の反応の組み合わせをプロットしたものである。グラフはきれいな右上がりの形になり、右上隅にアメリカ、ポーランド、アイルランドがかたまって示され、この三か国では政治と宗教が濃密な関係にあることを示す。これに対して左下隅、つまり宗教と国民の意識にはほとんど関係がない、と考えるグループがあり、わが日本はここに位置する。これは感覚的に多くの人が納得するだろうが、面白いことにこの固まりにいるのがスエーデン、デンマークなどの北欧福祉国家、ベルギー、ドイツ、フランスなどのいわば欧州先進国と目される国々である。結果としていえば、問題含みとはいえ、アメリカ人の多くは、依然 Anglo-Protestantism の信奉者だということなのだろう。一方、わが国をはじめ欧州先進国の国民が自国に誇りを持っていない、ということにはならない。換言すればこれらの国民には宗教以外に確固たるアイデンティがある、という証左であろう。いい例が中国である。神について関心がないのは当然として(宗教の自由がない国だから)、国そのものに対する誇りは異常に高い。現在の政治路線がどうなのか、疑問はあるにせよ、ひとつの事実としては認めなければなるまい。

宗教にあまり関心のないわれわれには直感的に理解しにくいことだが、プロテスタント、すなわちキリスト教の主流であったカソリック派の世俗化・腐敗に”プロテスト”すなわち反抗した人々は実践において勤勉であり、高度な倫理を貴ぶ精神を持っていて、それが現在の資本主義の発展に結びついたと言われる。無限に近い資源と土地に恵まれた新興国家が資本主義の権化となったのはその結果であり(注1)、その現実の前に、欧州からの移民たちがアメリカという国の持つ信条(American Creed)に疑問を持つことは少なかったのだ、というのがハンチントンの前提となっている主張である。アメリカの信条、とは、トマス・ジェファーソンなどの“建国の父(Founding fathers)たちが起草した独立宣言と米国憲法で宣言された一連のことを指す。

ハンチントンがこの本で書こうとしたのは、このアイデンティが失われつつある、という危機感であり、その原因として挙げているのが、大別すると、いわゆるグローバリゼーションのもたらしたエリート層と一般大衆の間の懸隔、テキサス、アリゾナなど南西部におけるメキシコ人およびフロリダにおけるキューバ人の急増(本書では Hispanization という用語を使っている)、冷戦の終結によってアメリカに対する勢力がなくなったことと、それに代わる脅威として現れたイスラム民族の影響、ということになるだろう。第一と第三の影響については、比較的我々にも理解しやすいのだが、第二のラテンアメリカ人の問題についてはあまり知られていないのではないだろうか。この本はいろいろな団体によって行われた世論調査の結果をふんだんに使って客観性を高めようとしているが、数多くの数字のなかで、驚異的なものがあった。著者は2008年に逝去しているので、数字はすでに10年以上古いのだが、メキシコと国境を接する州にある20の大都市のうち、サンディエゴとユマをのぞいて、メキシコ人の人口比率は50%以上、10市以上でその比率は60ないし80%になっているという。メキシコの貧困層が南西部の労働力不足を補ってきたところまではよかったのだが、出生率が極めて高く、加えて不法入国も後を絶たず人口が増加の一途をたどっていること、メキシコには現在の米国南西部は戦争によって奪われたものだから、メキシコ人が帰っていくのは当然とする感情があること、さらに大きな問題はメキシコ人は法律によって両国の市民権を持ち、所得の大半がアメリカで消費されず本国に送金されてしまうこと、などが大きな問題であるとされる。

さらに衝撃的なのはマイアミのキューバ化である。メキシコからの移住が主として労働階級であるのに対し、キューバからの移民はかつてカストロ政権からの脱出者だったことから、高度に教育を受けたプロフェッショナルであり、フロリダに脱出定着後徐々に勢力を得た結果、いまや市長をはじめとした要職のほとんどがキューバからの移住者だということである。この人たちも同様に二重の市民権を持ち、本国から米国への圧力を働きかけられる立場にいることから、米国の議員は彼らの票をあてにした活動をせざるを得ない。メキシコからの圧力にくわえて、アメリカの南米化、というのが現在のアメリカにとってとんでもない課題なのだ、ということを初めて知ることができた。ここまで来て、トランプの”メキシコの壁”政策が単純至極な人種差別ではないことがわかってきた気がするのだ。

このような混乱の現実を前に、ハンチントンが提出した課題、すなわち、アメリカ合衆国がそのアイデンティを確立するための方策にはグローバル主義者やビジネスエリート層の唱える世界主義か、再び世界最大最強の国として他をリードする立場をとるか(ここで原著は帝国主義という用語を使っている)、あるいは一国主義(ナショナリズム)の三択が示される。わが親愛なるトランプ氏がいずれにすべきか、踏み迷っているのがその現実なのだろう。

 

ほかにも、この本を読んで、なるほど、とひざを打つことが多かった。国民としてのアイデンティ、などということは当たり前すぎて日本人には考えにくい話題なのだが、今のアメリカの混乱ぶりを知るにつけ、また安全保障に関してはその支援を頼らざるを得ない現実のもとで、もっとこの国を知らなければならない、ということを改めて感じた。

 

注1 マックス・ウエーバー プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

第22回ゴルフ大会記録

現在の形でのOB会が組織されて間もなく ”100人ゴルフ!”という掛け声も勇ましく開催されたKWVゴルフ大会は今回で22回目となった。夷隅CCから武蔵CCと開催地も変わり、22回目の今回は先年に続き府中CCでの挙行となった。参加人数は55名、最年長は32年の荻原、中村両先輩、最年少は51年の斎藤君で、年度別では37年が11名、47年が6名と世話役の菅谷、伊川両君のメンツを確保。かつて何かといえば最大人数を誇った36年も5名と減少し、41年の7名に席を譲った形となったのも、20年を超える歴史のわざであろうか。部外者として34年の椎名夫人壽子さんも参加されちゃっかりご夫婦にて賞品獲得。優勝は別稿のとおり学年ただ一人の参加であった佐藤充良君で主な成績は下記のとおりである。

優勝     佐藤充良 (48)  準優勝 矢部精一  (37)

3位     鈴木孝  (41)  4位  伊川望   (47)

BG     矢部精一 (37)  BB  小祝昌樹  (39)

BM     椎名亨  (34)

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KWVゴルフ大会 MYゴルフ史に残る満開の桜のもとでの優勝!

                          佐藤充良(48年)

3月30日、名門府中CCでの54名の大コンペで、図らずも優勝してしまいました。朝方は風のためやや寒かったのですが昼過ぎは半袖でもできるほどの絶好のゴルフ日和となりました。加えて18ホールすべてで見事な桜に囲まれたコースは、ゴルフもいいけど酒盛りを始めたくなるほどでした。

しかし、リタイアして参加できるようになっての初参加での優勝であることや、世間的には充分にシニアなのに、当日は54名中下からかぞえて3番目の若手?の私が並み居る諸先輩をさしおいて優勝するのは、若干空気が読めないヤツ感があるかもしれませんが、ここは素直に私のゴルフ史を飾る快挙として大いに喜びたいと思います。 私の計算によれば、当日の参加者(60代~80代)の平均年齢は約75歳、そしてその54名の平均スコアは107.5ストロークで、なかなかの成績でした。何と元気過ぎる集団でしょう!驚きです。

素晴らしい舞台を用意していただいた菅谷先輩、見事な運営をしていただいたリーダーの久米先輩、サブリーダーの加藤(37年)鈴木(47年)両先輩と事務局長の伊川先輩、そして一緒にプレーした田端(47年)、大谷(47年)両先輩と齋藤さん(51年)に感謝します。

来年は幹事の一員として参加者に満足していただけるよう一生懸命努めます。引き続き府中CCでの開催の予定ですが、今回参加されなかった方もぜひ仲間とともに春を満喫し、若さを爆発させませんか!

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楽しませてもらいました!

                         椎名 亨 (34年)

 

KWVゴルフ会青年団     (51 斎藤邦彦)

「定年後 田舎に帰れば 青年団」という川柳を聞いたことがあります。今回のKWVゴルフ会では私(51年卒)が「青年団」のなかでも2番目に若いという立ち位置で、錚々たる諸先輩方のお仲間に入れていただき感謝しております。このコンペが大好きで毎年楽しみにしています。

最初に参加したのは5年前でそのころは清澄CCで開催されていました。かつては「百人会」と呼ばれたこの大会は私にとってさすがに敷居が高く、その年の私の参加姿勢は「トーチカ(ザリガニ)作戦(恐る恐る前進して近寄り、危険を察知すると腰を引いて一気に退却する。)」というものでした。

その際ご一緒させて頂いたのが30年卒の宮本雅司さんでした。ラウンド中からいろいろお話しいただきましたが、驚いたことに宮本先輩は私の職場の女性社員と同じ小唄の先生に習われていること、私の以前の職場で扱っていた印刷用紙の調達の紙問屋の会長でいらっしゃることなどが分かり、会話が大いに盛り上がりリラックスした雰囲気のなかで一日を楽しむことが出来ました。(さらには20年以上の先輩に都内まで車で送って頂きました。恐縮しました。)

なんと私はその日のコンペで準優勝し、翌年の幹事団の一員を仰せつかることになりました。この頃から世話役として本格的に参加するようになったと思います。翌年は予期せぬ4月の大雪でゴルフ場がクローズ、2年続けて準備会を開催しました。39年卒の榊原リーダーを中心とした準備会では様々な情報を頂くことが出来、OB活動に理解を深めるのに大いに役立ちました。

その後もこの大会は参加のつど多くの先輩方から退職後の生活等に関する助言を頂く良い機会となり、退職すれば「黄金の時代」が始まるなどと激励されてきました。また今回は41年卒の久米さんから岡山朝日高校の先輩の41年卒の佐藤さんを紹介していただきました。40年卒の武鑓さんも出席されていたので同じ高校の卒業生が3人も参加していたことになります。郷土を愛する私にとって非常にうれしいことです。

今年の大会は41年卒の久米リーダーのもと47年卒業の鈴木さんが幹事団の中心を果たされご伊川さんをはじめご同期の先輩方が5人参加されました。さらに48年の佐藤さんが優勝されるなど「青年団の活躍」が際立ってきたように思います。まだまだゴルフ好きの「青年団OB」の方はたくさんおられ「黄金の時代」を迎えられていると思います。より幅広い世代の参加で多様性の豊富な大会になるよう声を掛け合っていきたいと考えています。

夫婦でゴルフを楽しんでいます (41 久米行子)

3月30日、府中CCにて第22回KWVゴルフ大会に参加しました。スタート時は快晴ながら風を冷たく感じるような花冷えの天気でした。しかし、満開の桜が素晴らしくて幸せな気分になりました。キャディさんによると約3000本の桜があるということでした。下手なゴルフは置いておいて桜を多いに楽しんだ一日でした。

思い返しますと以前、夷隅CCでKWV100人ゴルフが開催されていた頃が私がゴルフを始めた時期でした。我が亭主殿は会社の付き合いもあり随分昔からゴルフを始めていたと思います。私はその頃はテニスに夢中でゴルフなど汗をかかないのはスポーツではないなどと思っていましたがテニス仲間が徐々にゴルフにスタンスを移し始め、それに伴い私もゴルフを始めました。50歳に突入する頃でした。始めるなら個人レッスンに行った方が良いと主人に勧められてレッスンに嫌々通っていました。それも今は昔の話で私も主人も大の練習嫌い、出たとこ勝負というゴルフです。主人はもともとアプローチとパッティングなど小技が上手で私は1Wが一番得意というよりアイアンが苦手なのです。

友人夫妻とラウンドしたりしますとご主人があれやこれやとうるさく指導をしていることがありますが大体最後は喧嘩になります。主人がそれを知ってか知らずか、もう少しアドヴァイスしてくれてもいいんじゃあないのと思う位一切助言はしてくれません。でも結局それがいいのかと思います。夫婦で楽しくラウンドする為にはお互いのプレーについて色々と干渉しない方が円満に進むようです。東富士CCに入って随分二人でラウンドしました。ゴルフに関しては全く主人とは勝負にならないので勝った負けたがないので気楽なものです。でも最近はレディスから打ってたまに主人をオヴアードライブすると秘かにほくそえんでおります。

夫婦で同じ趣味があるというのは楽しい事です。主人にとっては、昼とアフターゴルフで心置きなくアルコールを飲んで帰りの車の運転を私に任せるというのが私をゴルフに誘い込んだ主たる理由だったような気もしております。 昨日から始まったマスターズ、二人で松山英樹を応援しております。

JIJIのこと  補遺 1 (47 関谷誠)

スナック JIJI のこと

3月31日という日にちは日本の社会慣習上、特別な日である。学期の終わり、決算の締めの日、など、一つの事柄の終わりを示す区切りという意味を持っている。僕らも数え切れない多くの3月31日の想いを持ってきているはずだ。

ここでもう一つ、その ”特別な日” のことを書く。2009年3月31日である。僕らがOBになってからの ”部室” であった、スナック JIJI がその灯を落とした日だ。このことについて新たに書く代わりに、同期の文集、”ナンカナイ会 そのふみあと” に記載したコラムを転載する。この日以降、OBに加わった諸君に JIJI が果たしてくれた意味を実感してもらうことができないのが誠に残念であるが。

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            スナック・ジジ

銀座の灯が青春の象徴だったという人間は沢山いるだろう。町並みは変わり、”いちこし”も”ジュリアン・ソレル”も”スイス”もなくなってしまったったとはいえ、今なお古き良き時代の思い出は我々とともにある。

その銀座に住吉康子が店を持ったのは1983年6月9日、名前はスナック・ジジ。女子高時代演劇部にいた彼女は演じた役の名前がそのままニックネームとなり、友人たちの間では本名をとっさに思い出せないのがいるほど、親しまれた名前であった。

この店の誕生には、1年上の”マックス”こと畠山先輩の強い勧めがあった。彼女はこれに先立って、友人に請われ横浜、都橋の近くで”こけし”というスナックをマネージしていたことがある。ヨコハマ、というきらびやかなイメージとはかけはなれた、どちらかと言えばうら寂しい一角だったが、六郷沿いに住んでいた小林章悟が私設応援団長的にひろくワンダー仲間によびかけ、仲間が集うこともたびたびで、荒木ショッペイ夫妻もよく訪れていた。ここへ来た畠山が、”ジジ、おまえ、銀座に出ろ”と強く勧めたのだという。

住吉はいろいろな友人を通じて、塾体育会のOBたちに知己が多く、そのひとりだった野球部OBの増田先輩(1957年卒)からの紹介で、ホテル日航に近いあの店の権利を得て、スナックとして開業した。バーテンも置かないから、当然カクテルなぞというものとは無縁、、カウンター1本しかないせせこましい造り、住吉本人だって世にいう”銀座マダム”とはかけはなれて不愛想。それでも、ここは開業以来、”慶応”、それもどちらかと言えば”体育会(この場合はKWVも含めてだが)OB”,の何とも居心地抜群の、理想の止まり木でありつづけた。

何しろ、店の場所がよかった。都心オフィス勤めの人間にして見れば、”帰りがけに銀座でちょっと飲む”プライドを持つことができたし、古びたドアを開けて入れば、先ず5割の確率でワンダー仲間がいた。あれ、今日は誰もいないか、と思って奥を見れば、何年何十年ぶりかで見る高校、中学時代の仲間が、これまた5割くらいのヒットレートでにやにやしているという、まさに”おれたちケイオー”の場所だったのだ。

KWVで同期以外の常連、といっても枚挙にいとまがないが、なんといっても2年上、34年卒の三ツ本和彦がダントツだったのは、先ず誰もが納得する事実だろうし、後輩連では41年の田中透、44年の浅野三郎、45年の島哲郎などの名が浮かぶ。同期の仲間は当然としても、後輩年代でも ”それじゃ、ジジで”と云うのが決まりだった。

われわれの”部室”であった”スナック・ジジ”は、2009年3月31日、その”銀座の灯”を落とした。

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           JIJIのこと

長崎紀行

先般”タウンウオーク”の企画でも書いたが、日本も知らないところばかりである。残された時間に、どれだけの街を尋ねられるかわからないが、まずは近代史の原点たる長崎へ行ってみようということに夫婦一致、珍しく直ちに準備にかかり、この14日から2泊3日の旅を試みた。

風頭公園に建つ竜馬像

長崎、と言ってもそこに抱くイメージは人によってずいぶん違うだろう。すべての国民共通の意識は原爆被害の聖地ということとしても、クリスチャンにとっては伝来時点からの殉教者の地、食通にとっては独特の料理や食材であり、はたまた思案橋ブルースから前川清まで数多いだろう。僕の場合は徹底して明治維新とのかかわりあいである。高校時代に日本史を選択しなかった僕の歴史知識はまず90%が司馬遼太郎の小説からのものだから、”竜馬がゆく”と”坂の上の雲“と”燃えよ剣“と”翔ぶが如く”、この4編がメインテキストであり、単発の作品なら“酔って候”に描かれたわき役ともいうべき人物像や、後日譚としての”峠”なんかも入ってくる。映像で言えばこれは何と言っても栗塚旭の”新選組血風録“に尽きる(新選組!も面白かったがすこし座興にすぎる感じがした)。

だから親しんできた遼太郎文学にたいして僕なりの意識を確定する、けじめをつける?、ということも今回の目的だった。オヤエの興味は当然とはいえ、大聖堂だったり本場ちゃんぽんだったりグラバー邸だったはずであるが、ま、3日間、ほぼ8割は足で歩いた旅だった(中心部には路面電車もあるのだが、端から端まで歩いても、高尾山二往復くらいのアルバイトであろうか)。

今考えてみて、これは夫婦一致した見解なのだが、長崎は “優しい” 街、というのが今回得たイメージである。第一に街路がほかの街のように碁盤目という感覚が全くなく、縦横斜めに優雅に伸び、坂がたくさんあって、それこそ ”坂の上”に何があるかと思わせる。ほんのりした夢がある。清潔である。それとなにより人が優しい。それも観光地ずれした人工的な優しさでなく、ほのぼのとした会話ができる人たちばかりだったのがなんとも嬉しかった。

維新前夜のありようが見つかるかと長州山口を初めて訪れたとき、第一印象として思い浮かべたのは ”山紫水明“ という一句だったが、そのわりに人々には硬質な感じがあり、萩はなんだか人を寄せ付けないような感じがしたし、高知はぼくには明るすぎた。開国当時の歴史をたどるとすればあとは鹿児島と会津若松にはどうしても行かなければならないが、そこはどんな印象を持っているだろうか。土方歳三終焉の地、函館・五稜郭は如何。

今回の第一の目的は坂本龍馬がかの“海援隊”を組織した、”亀山社中”の建物であった。オリジナルそのものではないが、発見された古い図面をもとに忠実に古材を使って再生された、ま、今の感覚で言えば4LDKサイズだろうか。上がってみて愕然とし、かつ感激したのは、竜馬が盟友中岡慎太郎とともに刺客に襲われ、絶命した京都近江屋から伝えられたという屏風と掛け軸があり、そこに飛び散った竜馬の血痕がはっきりと残されていたことだ。あえてしなかったが、手で血痕にふれることすらできた。これはまさに時空を超えた衝撃だった。

最後の日に余った時間をぶらぶら歩いていたら、蘭学者高島秋帆の自宅跡、というのに遭遇した。オランダから砲学を学び、日本での製造に成功、多くの若者が西洋の近代武器を学ぶ礎をつくりながら無実の罪に問われ、12年間蟄居させられた。もしこのブランクがなければ、近代化はもっと早く進んでいたのではといわれた人物である。

現地へ行くまでは、ま、お定まりの古い家と何かの遺品くらいだろうと思って行ってみたのだが、予想に反して、そこは空き地だった。春日の下の、ただの空き地。広さはおそらく三百坪くらいか、古くからの低い石垣に囲まれ、井戸の跡が数か所、ほかに礎と思しきものが散在しているだけ。むろん幾つかの説明板はあったが、まさにそれだけ。

高島秋帆邸の椿

なかほどにある石塀を回ってみたら、庭のはしに深紅の椿がただ1本、みごとな花を惜しげもなく落としていた。もちろん樹齢から言って当時のものではないが逆に昔に向きあった現代の魂が何かを問おうとして果たせない、その悔しさを吐露しているようで、見ているうちに息苦しくなってきた。この空き地が空き地であるからこそ持ち得る、歴史をつくりながらその結実をわがものとしえなかった人間の恨み、悲しさを表す雰囲気をそのまま、長く伝えて行ってほしいと思ったことだった。椿が散った後、夏草は何を語るだろうか。

原爆記念館は初日に訪れた。ここも広島とは違った、静かな、優しい雰囲気を持ち、ただ、祈りに徹した雰囲気であった。広島を訪れたときに誰しもが持つはずの、戦争への怒り、といういわば外向的な感情よりも、人間の持つ悲劇性を静かになだめよう、という内向的な感じがあった。浦上(爆心地)に存在する数多くのキリシタンの足跡がそのような感じをさらに強くさせるのだろうが。

グラバー邸や出島も一応訪れたし、ちゃんぽんも皿うどんも名物海鮮料理も食べた。カステラも文明堂だの福砂屋なぞは二級品ですよ、と地元の人が言っているブランドをまとめてを買い込む。。。。つもりだったがなんせ高いのに閉口。しかし、確かに上品で甘すぎず、うまいものだった。グラバー邸のあたりは出島がオランダ人専用から解放され、外国人特に英国人が居住した地域であり、いくつかの面白い発見があった。

本邦初ボウリングアレ
グラバー邸近くで発見

そんなわけで、観光旅行そのものも満喫できたが、僕には明治維新の背後にあった事柄を改めて感じなおさせた旅だった。今月からはじめたタウンウオークだが、もし、その延長プランがゆるされるものなら、再度、仲間とともに訪れてみたいと思わせる、いい旅だった。帰りは羽田から調布までのほうが長崎―羽田のフライトより長かったが。

思案橋ブルースを歌ったのが西田佐知子と思い出すまで時間がかかった。