ハードボイルドから冒険小説へ

数えてもう20年は前になるが,ハヤカワから”冒険スパイ小説ハンドブック”というのが出た。なんでこんなものを持っているのかというと、推理小説からハードボイルドというものに寄り道をしてみて、その親戚筋にあたる冒険小説に興味を持ったからである。少年少女向け冒険小説というのはまず誰でも一冊や2冊は読んだだろうし、ロビンソン・クルーソーや十五少年漂流記などに興奮した記憶もあるはずだ。しかしそろそろ還暦(当時の話である、念のため)になろうかという人間が冒険小説なんてものよりもっと読むべきものがあるだろう、それでいいか。純文学に憧れながらそれを果たせなかったという引け目のような感情に何かの理論的支柱(大げさかな)が欲しかったということだった。ありていに言えばいい年をして冒険小説に入れ込むための言い訳である。

このハンドブックの初めのほうで、評論家の関口苑生氏は冒険ということを定義して、”リスクを冒し、肉体と精神のせめぎあいによる個人的な危険の連続という興奮の中で自らを成就すること”と言い、冒険小説の主要なテーマは ”成熟した男でさえさらにもう一回り成長し自己を獲得していく過程” である、と書いている。これを読んで安心した。俺にとってのドストエフスキーって言えるんじゃないか。ま、よし、という感じである。

さてこの本の中で、関口は”アメリカ人が冒険小説を書こうとするとハードボイルドになってしまい、イギリス人がハードボイルドを書こうとすると冒険小説になってしまうという説がある、とも言っている。関口の定義によるとこの両者はなにか相対峙するもののようにも思われるのだが、この本に収められている欧米の作家一覧表にレン・デントンという作家があり、そのサブタイトルが ”ハメット、チャンドラーの衣鉢をつぐ英国製ハードボイルド” となっている。僕も1,2冊デントンは読んだ記憶があるのだが、しっくりせずに該当部分を開いてみたら、”作風についていうと(注:ル・カレに比べてという文脈である)…..アメリカのハードボイルド派の影響が濃いデントンは、まったく新しい時代の語法で…..われわれ同時代に生きるものの内的リズムにぴったりあった世界を創造した”とあり、執筆者は稲葉明雄氏であった。稲葉はチャンドラーの短編など、数多くのHB小説の翻訳家として名高い人物であるから、この発言は文体に注目したプロの発言と解すべきだろう。またこのハンドブックに網羅されている欧米の小説群の中には、誰もがHBと考えるであろう作品は一点も選ばれていない。やはり、関口のいう冒険小説の定義と一致する部分が多いとはいえ、専門の人たちから言っても、この間にはやはり一線を画すものがあるのだろう。

ま、理屈はともかく、ハードボイルドミステリの大枠をなぞった僕に次の分野として”冒険小説”への開眼というのはしごく当たり前の展開であった。そのきっかけはジャック・ヒギンズの ”鷲は舞い降りた”である。このあと、ハヤカワ文庫を探し回り(中古品も多くあり、古いものもたやすく入手できた)、結果として20冊を超えるヒギンズものを読んでしまった。またこの”鷲”に刺激されて第二次大戦秘話的なものに猛烈な興味がわき、アリステア・マクリーン(”女王陛下のユリシーズ号” ”ナヴアロンの要塞”),ケン・フォレット(”針の眼” ”レベッカへの鍵” ほか)や、これらの本のあとがきなどを参考に、結果的にはみな英国人の作品になってしまったが、第二次大戦ものばかりを読んでいた。またこの乱読の結果として、まともな歴史書も読みたいと思い、英語の勉強もかねてかなりの大著に挑戦した。ノルマンディ上陸作戦については Anthony Beevor  の”D-Day”, それに続いた北アフリカ作戦は Rick Atkinson “An Army at Dawn”  と同じ著者による ”The day of battle”, John Randall  “The last gentleman of the SAS” の4冊、日本の敗戦については John Dower の Embracing Defiat”, David Pilling “Bending Adversity” の2冊であり、僕の第二次大戦についての理解はこの”冒険”によって大分深まった気がする。

話がずれた。一番読み込んだヒギンズ について多少ふれておきたい。彼は”鷲”で大成功を収めるまでの苦労 時代にはほかに3つのペンネームでいろいろな小説を書いているが、大別すると第二次大戦秘話もの、アイルランド独立動乱もの、昨今多いイスラムテロもの、そのほかのものに分けられる。このうち、最近5,6年に書かれたもの、特に”大統領の娘”以降のものはただ単に金儲けとしか思えない駄作が多いのは残念で、特に売れ筋の作家が良くやる手法だが助手的な人物を使い連名で出しているものなどはタイトルばかり大げさなだけで読むに値しない。金儲けに目が行ったら万事終わりかな、と思ってしまうものばかりだ。

しかしヒギンズの第二次大戦秘話ものには傑作が多い。中でも気に入っているのは”狐たちの夜”、”脱出航路” で前者はストーリーが面白く後者は敵味方を超えた人間味のある物語であることが気に入っている。そのほかの中から選ぶと、およそ専門家の評判にはならないのだが、”廃墟の東”と 初期の作品であるが”サンタマリア特命隊”である。両作とも主人公の孤独が心に染み入るように感じられ、数あるヒギンズの作品の中で僕流の”ハードボイルド”と言える傑作だと思っている。

ヒギンズの延長としてはデズモンド・バグリー、ハモンド・イネスなど、背景やストーリーはいろいろだが、これぞ”冒険小説”、という気にさせる作品をいろいろ読んだ。時間的な感覚がなくなっているのだが、僕の読んだ順番でいうとこの次あたりに ”アメリカ人の書いた冒険小説” が現われ始めた。次回はそのことについて書く。

 

 

 

 

“ハードボイルド”文学について(その2)

さきにふれた大藪の”野獣死すべし”の中に、主人公の伊達邦彦が書いた大学の卒業論文は”ハメット―チャンドラーーマクドナルド派に於けるストイシズムの研究”だったということになっていて、大藪の作家としての原点はやはりこのあたりにあったのかと思っていたのだが、”冒険小説論”で知られる評論家の北上次郎は大藪の作品ををハードボイルドとして紹介したのが間違いで、彼の作品は冒険小説とよばれるべきだ、と論じていることを知った。このあたりの論議は専門家の間でもいろいろあるようだ。ともかく、伊達がどういう論文を書いたのか知る由もないが、僕の考える”ハードボイルド文学”とはどんなものか、自分自身の整理のために今まで書いたことからまとめてみると、結局二つの点に要約できると思う。

第一に、話を紡ぐ主人公が(その意味では一人称で書かれたもののほうがわかりやすい)自身で確立した人生観・価値観を持ち、すべての行動をその基準(昨今のビジネス用語でいうコード・オブ・コンダクトと言ってもいい)に則って自分のやり方にあくまで固執しつつ、目的を完遂することが主題であり、その実現のためには社会通念とか伝統とかそのほかのしがらみを切り捨てて顧みない、ローンウルフであること、そしてそのことに誇りを持っていることが要求される。

第二に、文体というかスタイルは簡潔であり直截的でありながら、その中に一匹狼でありつづけなければならない主人公がそのことゆえに感じる孤独とロマンチシズムがはさまれていなければならない。つまり自分が孤独であるがゆえに、他人に対して、敵味方とか正義とか愛情とかの、いわば本質的値観や感情ではなく、一個の人間として(最近習い覚えた言葉を使えば)実存的な共感を覚えさせるものがあることだ。

この二つの点に焦点を当てれば、”ハードボイルド”という分野の題材というかストーリーは別にミステリである必要はなく、冒険小説というジャンルに入るものや、一般の読みものであってもかまわないことになる。ただ、ものの順序としてミステリの”御三家”についていえば、僕の好みはやはり全体(この場合清水俊二の翻訳)に流れる雰囲気から”長いお別れ”がどうしても第一に来るのだが、そのほかの作品となるとマクドナルドのものに共感する部分が多い。それは彼の中期以降の作品がまさに僕らの知っているアメリカの病巣ともいうべき部分に的を絞っているからで、そこには絵空事ではない現実感があるからだろう。多くの長編のなかでは、”縞馬模様の霊柩車(The Zebra-striped Hearse)”,”寒気(The Chill)”,”ウイチヤリー家の女(The Wycherly Womon)”の三篇が特に気に入っている。

さて、この”御三家”の跡を継ぐのは誰か、ということについては専門の文学者をはじめ多くの議論があるようだ。一時はジェイムズ・クラムリ―(”酔いどれの誇り”など)やジョージ・ペレケーノスなどという名前がよく出てきたが、一般に知られたという意味ではロバート・パーカーではないだろうか。翻訳は長編はほぼ全編がそろい、”スペンサー(主人公の名前)シリーズ”と銘打って素敵な装丁でまとまって刊行されている。この”スペンサー”シリーズが”御三家”と違う第一の点は主戦場がボストンであり、全編、かなり知的な会話がちりばめられ、しかもサブキャラクターとして”ホーク”という黒人を配して人種問題にも言及があったり、しかも主人公のロマンチシズム志向を失っていない、といった点で多くの読者を獲得したのだと思う。パーカー自身もチャンドラーに私淑していて、チャンドラーが未完でのこした原稿を書き継いで”プードルスプリングス物語”という長編にまとめ上げている。この中では、マーロウが長年のロマンスにピリオドを打つ、というおまけまで添えられているのも彼のチャンドラーに対する敬意とでも言えるかもしれない。

僕が自分で探した、というと自慢めくが、最も気に入っているのがスティーブ・ハミルトン(Steve Hamilton)という作家である。デビュー作 ”A Cold Day in Paradise”は”氷の闇を越えて”というタイトルで翻訳されているが、これがまた見事な出来栄えですっかり気に入ってしまい、同じ翻訳者(越前敏弥)のシリーズを読了した後、アマゾンで手に入る原本をすべて読み直した。彼の文体は平易で読みやすいが、そのほかにも物語の舞台が今度はミシガン州パラダイスという街(架空ではなく実際にあることは地図で確認した。とにかく冬は猛烈に厳しいところのようだ。パラダイス、といっても天国ではないのだがこの辺がアメリカ人のユーモア感覚だろうか)。”御三家”シリーズで慣れてしまったカリフォルニアとは全く違う社会環境であることや、パーカーの場合の黒人に対して地元の先住民族との交流や協力がたびたび登場するのも面白いところだろうか。ハミルトンの出発は元警官のアレックス・マクナイトのシリーズで、これは僕の定義するハードボイルドの範疇にはいる佳作ばかりだが、最近は別のニック・メイスンシリーズというのが始まった。だがこちらのほうはむしろクライム・ノベルというべきではないかと思っていて、ストーリーは面白いがマクナイトものには及ばない。

文体、と言ってもまずは翻訳書の話だが、その雰囲気で気に入ったのがサム・リーブス(Sam Reaves)である。彼の場合は翻訳者(小林宏明)の案なのか早川書房の案なのか、原題とは全く関係のない、一見すると女性向ロマンではないかと錯覚するようなタイトルがついている。いわく、”雨のやまない夜”だとか”過ぎゆく夏の別れ”などといった具合である。ネットにファンの書き込みがあるが、主人公のマクリーシュは今にいうハケンである、という意見もあるように私立探偵とか警官とかではなく、一人のロマンチストの運転手が活躍する。本国ではさほどヒットしなかったようで、アマゾンで原書を探しても初期のものはぼろぼろの中古しか入手はできていないが、僕の好みに合ったシリーズである。

ハミルトンがミシガンの田舎を舞台にしているといったが、一転してワイオミングの自然の中で展開するシリーズがある。作家の名前はC.J.ボックス、主人公は野生動物の保護官ということになっていて、大自然の中で素朴に生きているアメリカ人の社会がパーカーなどとは全く違ったものであることがよくわかる。僕がひそかにあこがれている米国中西部の、まっとうなアメリカ人が描かれていることも、もちろんストーリーの見事さもあるけれども愛読する理由でもある。

ここまで紹介した作品や作家は、”ハードボイルドミステリ”の定義に当てはまる要素をしっかりもっているのだが、その要素の中で特に”現場を歩き足で解決する”という部分に特化すれば、何といっても、かつてテレビ普及の初期に人気番組だった”87分署”シリーズのエド・マクベインにとどめを刺すようだ。テレビで主人公キャレラ刑事を演じたロバート・ランシングの特異な顔つきを覚えているむきもあるのではないか。ニューヨーク市警をモデルにしたという架空の町での話だが、人種問題や階級意識の問題など、マクドナルドのところでもふれたが現在のアメリカ社会の暗黒部の話が毎回出てくる。だが主人公にはローンウルフ的なイメージがなく、分署の組織が動く、という点と結果的にはいかにもアメリカ的な解決が多いのが物足りない。

アメリカの話ばかりになったが、日本の作家ではどうだろうか。先駆者ということになっている大藪についてはすでに述べた。出版業界では大藪の売り出しで味を占めたのか、以後、”ハードボイルド小説””ハードボイルドタッチ”などという宣伝文句がしょっちゅう目に留まるようになった。この分野に目される人も大沢在昌とか逢坂剛とか沢山いるわけだが、僕の好みは北方謙三にとどめをさす。どこかで北方が書いていたことだが、本人は純文学志向であったのだが或る時友人からハードボイルド、という分野を聞き、”読んでみたら、なんだこれなら俺にも書けると思って書き始めた”、のだそうだ。最近は”三国志”をはじめとして中国古典のリライトなどが多く(というか多すぎて)流行作家的な存在になってしまっているが、”弔鐘はるかなり”とか”二人だけの勲章”とか、暗いトーンでまとまった中編もいろいろ読んだ。70年代の学生運動とその熱狂から醒めた人物像が主人公のものが多く(本人もそのひとり)、同時代を生きたものとしてある種の郷愁を感じるものが多いが、僕には”さらば荒野”で始まり”再びの荒野”で終わる、という”ブラディドールシリーズ”が一番いい。全10冊がすべて独立した主人公で完結する物語になっていて、彼らの背負っている人生の負の遺産の重みを感じる佳作ぞろいである。純文学から転身した北方は明らかにハードボイルド作品で”文体の持つ意味を意識しているようで、独特の短い文節を矢継ぎ早に並べる書き方もそのひとつの試みなのだろう。

この”ハードボイルドタッチの文体”を日本語で表す、というのはプロであっても苦労するようだ。すこし軽妙過ぎて僕の好みではないのだが、”リンゴオ・キッドの休日”とか〝サムライノングラータ”などを書いた矢作俊彦・司城志朗にはその試みがあきらかにある。北方が文体そのものに挑戦しているのに対し、彼らは特にチャンドラーものに多い,大げさな形容詞句を発明することで味を出そうとしているようだ。

”犯罪現場での話”の拡張をしていくと、最近では大掛かりな組織、つまりCIAとか軍とかFBIなどといったものをバックにした話が多くなってきた。この辺になると、本題の”ハードボイルド”と”冒険小説”との境目がよくわからなくなってくる。冒険小説とは何か。このあとに僕の冒険小説遍歴について書いてみたい。

八ヶ岳山麓だより その2

全国的な天候不順の今年は八ヶ岳山麓でも同じで、僕らが滞在したほぼ1ケ月の間、快晴の日は一日もなく、毎日が曇天と小雨模様の連続、何しろ甲斐駒が満足に見られたのはほんの2,3回にすぎず、やる気の出てこない夏があっという間に終わってしまった。一方で張り切って持ち込んだ本もあまり読まず”中級”をめざすはずのドイツ語の勉強もしなかった。天気のせいにしてはいけないのだが。

しかし今回は前から思っていたのだが、近くに拠点を持っているOB仲間との交流の機会があったのは嬉しかった。47年の吉田学夫妻とは3年ほど前、全くの偶然からハイキング中に出会い、昨年、拙宅に来てもらい今年は彼らの素晴らしいヒュッテにご招待を受け、同じワンダー夫婦の会話を大いに楽しむことができた。また42年の下村祥介君とは一昨年の夏合宿で同じパーティになってお互いが近隣であることを知ったので、これまた再会を企画していたのだが、今年、彼の音頭取りで”八ヶ岳山麓会”というのが企画された。第一回のことなので、蓼科にいる41年の久米夫妻、それとゴルフにやってきた40年の藍原、武鑓両君とが集まる手はずになっていたのだが、何と当日朝、僕の持病の食道炎が突如発病して誠に残念だが我々はドタキャンをさせてもらう羽目に陥ってしまった。誠にお恥ずかしく申し訳なかったが、大変楽しい時間だったと連絡をもらった。ぜひ、この輪が広がればいいと思う。

(下村君から)

昨日は藍原さん、武鑓さん、久米ご夫妻と梅蔵で昼食、 その後小生の原村山荘でワインなどで歓談。 楽しいひと時を過ごすことができました。 ジャイさんご夫妻のいらっしゃらないのが画竜点睛を欠くきらいが ありましたが、先輩・後輩、 同じ釜の飯を食った仲間で昔ばなしに盛り上がり朱夏を謳歌した次 第です。

(武鑓君から)

お会いできるのを楽しみにしておりましたのに残念でしたが、 残りの仲間で美味しいイタリアンと下村邸での楽しい一時を過ごさせてもらいました。
また、機会ありましたらよろしくお願いします。
逆流性食道炎は小生も胃手術の後遺症で時々なりますが、 辛い症状です。
お大事にして下さい。

(藍原君から)

「頑健」のイメージしかジャイさんにはありませんでしたが、神様の風がどんなふうに吹いたのでしょうか?

兎に角残念でした。私は後輩たちに囲まれてご機嫌で酒を飲ましていただきました。又の機会を期待しながら、早急のご快復を祈っております。

勝手に”八ヶ岳山麓”などと言っているが、ここでは北の蓼科山から南の権現岳までの連峰のいわば信州側に広がる地域を意味していて、佐久側はおおむね清里あたりまでが我々のゲビートにあたる。一番北にある蓼科温泉を中心とする歴史のある別荘地域には、32年の荻原先輩をはじめ、35年の徳生さん、46年の石渡(つまりオスタである)夫妻、それと同じ”蓼科”という文句を謳っているももの実はだいぶ離れたところになるのだが、三井の森、と呼ばれる高級別荘地に前記の下村君と久米君夫妻が、甲斐大泉、小泉につながるいわば新顔の地域に同じく前記吉田君、41年の佐川君夫妻とわれわれの家が点在する。ほかにもこの地域に拠点を持たれているOBがおられればぜひコンタクトができればうれしい。

”平成の大合併”までは高根(清里もその一部)、長坂、小淵沢、明野、などと言われていたこの地域は今や北杜市、とよばれるようになった。僕らの家はその西端、長野県との県境といっていい場所にある。先月書いたようにこのあたりは武田信玄(37年初田君によれば、この地では”信玄公”と言わなければならないそうだが)の信濃攻略の足場だった地域で、大河ドラマ”風林火山”の山本勘助を思い出すし、また”真田丸”のバックでもあるというわけで、ほぼ15年通ったおかげですっかり甲州の地びいきになってしまった。それと言わずもがなだが、山梨は日本におけるワインの産地であり、さらに塩尻あたりにかけては新しい感覚を持ったワイナリーがたくさんある。あまりむずかしいことはわからないのだが(田中新弥や浅海昭あたりは僕が酒を語ることすら笑い飛ばしてしまうのだ)、それでも最近名前の売れて来た地元の ”高級” ホテル”、”小淵沢リゾナーレ”の地元ワインの専門店でもっともらしい顔をするの楽しみも増えた。

さて、この”北杜市”のことだ。地元山梨の天気予報では、”大泉”という地名がつかわれている地域、JRでいえば小淵沢駅から小海線甲斐大泉駅のあたりは、はっきり言えば、見かけ、蓼科や諏訪、さらには富士見あたりに比べてもだいぶ ”ローカル” という感じをまぬかれない。僕らのいるのは”白樺平”という名前の一応 ”別荘” 地域だが、全域を見渡しても白樺はほとんど生えていない。むしろ”ミズナラ平”とすべきだ、と思っているのだが、バブル期に一攫千金を夢見た業者の誇大広告の典型だろうか。地図を見ると一応200戸近い名前があるのだが、その半分以上は売れたまま、中には持ち主と連絡が取れない、というものがあるようで、いわば買ったほうも転売目的の投資だったのだろう。そんなわけで、当然のことだが、蓼科などの大規模別荘地にあるセンター的な施設は全くないから、日常の買い物も当然として、外食するとなるとあちこちに点在する小さな店を探して歩くことになる。前記の”山麓会”は下村君の企画で、だいぶ蓼科に近い一角にある、かなり名の売れたイタリア料理店でやったのだが、長坂から小淵沢にかけては、何元かのそばやを除くと、安心して(というのは妙な言い方だが)食べられる場所はまずイタリアンが多い。和食の店もいくつかあるが、正直、甲州名物のほうとう料理をのぞくと鮮魚には恵まれない地域でもあり、15年通ってもほんの数回しか食べた記憶がない。中華も同じである。一昨年まで、日比谷発祥の中華料理の老舗があって、愛用していたのだが、去年から(どうも経営者が変わったらしい)すっかりその面影がなくなってしまったのは悲しい。

なぜイタリアンか。フレンチにくらべて日本人に相性のいいということもあるだろうが、多くの店が非常に若い人がやっていて、脱サラ組も相当いるところを見ると開業にあたってのバリアが低いのではないか。それだけに、結構出入りも激しい。数年前、近くにオープンした若い夫婦の店もいつの間にかなくなったし、やはり現実は厳しいのだろう。しかし例外もある。中央高速のインターに近いピザハウスは典型的な脱サラで、主人は必死の覚悟でイタリアへ勉強に行き、この地で開業したということだ。僕らも以前、この地を徘徊していたらしい横山美佐子のお墨付きがあったので、当初から愛用している。ドロシー・マローン(知らねえだろうなあ)によく似た、感じのいい奥さんとふたり、いつもキチンにいたものだが、大繁盛で数年前に増築し、いまではコックも3人ほどいるし、主人夫婦は一線を引いて悠遊の生活だ。大手の進出はないし、今では地元の大立者、という感じである。

こういう厳しい現実もあるが、このあたりにはこの15年間、全く同じたたずまいで、しかも我々が前を通ってもまず客らしきものをまずみたこともない、という店もある。また、飲食店ではなく、美術工芸関係の小さな店が多いのもこの辺の特色だろうが、そのような店、あるいはギャラリーという名を冠しているところも、およそどうやって商売になるんだろうかと他人事ながら心配させながら、いつ行っても堂々とオープンしているところも多い。このようなあり方と、一方では脱サラ大成功例を見るにつけ、一応は大企業と呼ばれた社会しか知らない僕には日本人のしたたかさを改めて教わる気持ちがする。

このあたりはあと3週間もすれば、すっかり秋になる。10月には紅葉も見事だが、メインの通りを外れて南側、釜無川近くの野良に出ると、”実りの秋”と日本の原点を実感させてくれる農村部のたたずまいが僕を呆然とさせる。その向こうに、甲斐駒、アサヨ、鳳凰、間に北岳、振り返れば編笠、権現。早ければ新雪もみられるかもしれない。夏が期待外れに終わっただけに、秋の日が待ち遠しい。

グレン・キャンベルのこと                 

(菅井康二)

グレン・キャンベル追悼をご自身の米国(カリフォルニア) 滞在経験に照らして書かれた記事を非常に興味深く拝読しました。 Giさんとは15年という年齢差もあり当時の米国の事情というか 空気感は知る由もないのですが、アメリカが変わった( 古き良きアメリカが喪失)ことをボブ・ ケネディー暗殺事件が象徴しているというのは納得できます。

その容貌からも歌声からも明らかな善人を感じさせるグレンが歌う 失恋歌であるBy the time I get to Phoenixに漂う哀感は単に個人的なハートブレイクだけでは なく当時のアメリカの世情も反映されたものであることがGiさん の文章で良く分りました。この曲は元々はジョニー・ リヴァースが創唱しましたが、作詞・作曲したジミー・ウェッブ( ”Wichita Lineman”も彼の作品)の才能も大したものだと感じます。

フランク・シナトラはこの曲を “the greatest torch song ever written.”と絶賛しカバーした録音を残していますが、 グレンの若々しい歌に比べるとジャズ・ フレーヴァーのある落ち着いた大人のバラードになっています。 グレンの歌はついこの間のほろ苦い失恋という雰囲気ですが、 シナトラのそれはかなり昔の追憶という感があり比較して聞いてみ るとなかなか面白いです。

(菅井君は塾工学部計測科卒、HP時代の仲間でPCに関してのプロです。今回の小生の暴挙?の面倒をみてくれています)

By the time I get to Phoenix

8月10日、朝の読売新聞がグレン・キャンベルの訃報を伝えた。1937年生まれ、ということだから僕と同い年である。新聞記事では”カントリーソングの大御所”、と書かれていたが、僕にはそういうありきたりの形容詞には収まり切れない、特別の感情がある。

1967年、生まれて初めてアメリカの土を踏み、2週間モーテルでの仮住まいのあと、新聞広告で探し当てたデュープレックス、日本でいう二軒長屋に落ち着き、船便で送った家財道具が何とか届いて、どうやら生活が始まったちょうどそのころ、あの, By the time I get to Phoenix を聞いた。初めて聞いたのがラジオだったのかテレビだったのか、今では記憶がないが、とにかく心にしみるメロディーだった。この曲があっという間に大ヒットし、一躍有名になって、ラジオの定番になっていた大きなシリーズ番組(エド・サリバンショウだったか?)でキャスタが夏休みのあいだ、その代理に彼が抜擢されたことを覚えている。

実はカントリーソング、という用語が何を指すのか、僕にはよくわかっていない。昔からカウボーイソングとかウエスタンミュージックと呼ばれていたものと、ヒルビリーとかブルーグラスとよばれるアパラチアの鉱山地帯からグレートスモ―キー山脈のあたりの人々の歌、その代表がいうまでもなくハンク・ウイリアムズなのだろうが、そういういわばアメリカ人の演歌、といえばいいのだろうか。それはもちろんカリフォルニアでも人々の愛好するものだが、ジャズでもウエストコーストジャズ、というのが独立したジャンルで扱われるように、この”カントリー”にもそのような、いわばシティ感覚でとらえたものがあって、キャンベルはその文脈のなかにあらわれるもののように思える。

アメリカ到着早々に月賦で買った車はとにかく金がなかったからエアコンもつけなかったが、さすがにラジオはあったので、まもなくKEEN,というラジオ局があるのを知った。アナウンサがKEEN,というコールサインを ”キーン”と発音して”Radio KEEN, 24 hours country music station”とアナウンスしていたから、車に乗ればまずこのチャネルがつけっぱなしになった。この局では当時、バック・オウエンスの曲をよく流していた。今考えるといわゆるベイカーズフィールドサウンド、という奴だったのだろうが、やはり素人の耳にも伝統的なカントリーとはどこか違う、都会的なセンスが感じられた。だが、キャンベルの”フェニックス”には、そのほかのいろんな曲にはない、うまい形容詞がみつからないのだが、ほんのりとしたぬくみ、カントリソング定番の失恋話をテーマとしながら、それを超えた人々の間の共感というようなものがあるように僕には感じられた。

住み始めた長屋にはちいさな裏庭があったが、右隣が学校の敷地でプラタナスの樹とクリンプ塀で仕切られていた。その塀の上をつたってリスがよく現れた。東京では考えられない環境であったが、異国で初めて迎える深い秋の日差しの下に醸し出される平和な時間に、憂愁を帯びたあの”フェニックス”のメロディがピッタリ調和していた。あの歌詞には、常に何かを追い求めて動き続けるアメリカ人の、いわば業とでもいえる人生観と、一方ではその中にしみこんでいかざるを得ない一種の諦観と、最後にそれを自分の事だけでなく、(おお、お前もそうだったのかい、こっちへ来なよ)というような仲間意識、つまり、良き、懐かしきアメリカ人の、というのが、いい過ぎならばカリフォルニア人の、感覚がにじんでいるのだと思われる。

当時はアメリカ自体がベトナム戦争で疲弊し、特に僕の住んでいたサンフランシスコ周辺は反戦運動の聖地であったわけだから、そういうメランコリックな雰囲気もいつの日か失われるのでは、という予感があった。果たしてある朝、ロバート・ケネディ暗殺の報が飛び込んできて、会社でも異様な緊張感が感じられた事を覚えている。この事件を境に、アメリカの変質が始まった。その後、仕事を辞めるまで、カリフォルニアは常に僕のそばに意識されていたが、”フェニックス”を聞きながらに感じていた、あの秋の日の、よきアメリカは戻ってこなかった。いま自分が人生の黄昏にかかろうとするときに、ほんのりと思い出されるものが僕らが垣間見ることができた、good old Americaの中での時間であり、グレン・キャンベルなのである。だから、僕は”恋のフェニックス”などというまったく馬鹿げた、おざなりの日本語タイトルは気に入らない。というより憎悪を感じる。僕にとって、グレン・キャンベルのこの曲は、あくまで、By the time I get to Phoenix でなければならない。

さよなら、そしてありがとう、グレン。

 

 

 

 

八ヶ岳山麓から  その1

僕のブログの記念すべき第一号発信を八ヶ岳南山麓にあるセカンドハウスで書いている

一応 ”別荘地”なるもののじっこに2002年に建てた小屋だ。場所は北杜市小淵沢。別荘、というイメージが定着した箱根とか蓼科とか軽井沢とかいった土地柄ではないし、大手の企業がやっている大規模・ハイクラス志向のものでもない。それまで聞いたこともなかった小さな不動産会社がひらいた場所なのだが、一応のインフラはあるし、管理も行き届いているので、僕ら夫婦が目的としている”二か所定住”スタイルを貫くに不満はない。しかしなにより気に入っているのは、家の文字通り真ん前を”棒道”が通っていて、その向こうが秋深まればゴージャスな紅葉がみごとな、深い原生林になっていることだ。

棒道、というのは武田信玄が信濃攻略のために作った軍用道路と言われていて(近年の研究では信玄以前に存在した道だ、という説もある)、現在の地名でいえば穴山あたりを起点にして長野県和田峠まで、三本のルートがあった、というのだが、現時点でその痕跡が明瞭で保護されているのはそのうちの”上の棒道”の部分である。穴山は武田勝頼が築いた新府城のあったところで(中央線に新府駅がある)このあたりが起点というのはうなづける説であるが、この”上の棒道”の核心部は小海線甲斐小泉駅近くの小荒間という集落から始まり、小淵沢カントリクラブの敷地をかすめて小淵沢インターからくる道路の下をくぐり、通称 ”鉢巻道路”と呼ばれる八ヶ岳周遊道路を原村へむかう途中で消える。小荒間から山道に入り、標高差でほぼ100メートル、最後のピッチを登ったところで拙宅の前に飛び出すということになっている。ハイキングシーズンにはハイカーが言ってみれば軒先を歩いていくので、別荘管理規定がなければコーヒースタンドでもやれば小遣いくらいは出るかもしれない。コースは地元の管理が行き届いていて、快適であるし、中ほどにはきれいな、小さな流れが2本ある。古いガイドブックで権現あるいは編笠への案内を探すと小泉から棒道をたどるのが標準になっているので、ベテランの登山家には知られたルートだったのだろう。名著”北八ツ彷徨”で知られる山口耀久氏の続編”北八ツ挽歌”にも一部、棒道のことが出てくる。

卒業して2年で結婚して、そのあと2年は夫婦で結構山を歩いた。その間に、村井純一郎(37年卒)とひょんなことから付き合いが再開し、彼の勧めで北八ツに足を運ぶことが増えた。子育て期に入ると、多少ひけめを感じながら、単独でもいろんなルートを歩いたが、なかでも当時の高見石小屋の雰囲気が好きだった(今の高見石にはあの頃のロマンはまったくないのだが)。それに比べて南八ツは夫婦で真教寺尾根から赤岳のラッシュをやったことがあるだけで、全く縁はなく、特にその南を限る権現岳は一度行ってみたいところだった。会社をひいて2年たち、2001年9月の初週、翠川幹夫、深谷勝、中島英次、岡秀雄、安東静雄に我々夫婦というメンバーで小淵沢地内の観音平から編笠へ上り、ついでに西岳を回って青年小屋へ泊まり、翌日、権現へ行くという旅を楽しんだ。考えてみるとこの時のメンバーとは現役時代、合宿などをのぞくと一般プランでは全く顔を合わせたことがなかった。30年を超える時間を経過してそれに気が付くというのものんきなものだが、この時の仲間が現在”月いち高尾”の中心になってほぼ毎月顔を合わせているのもなにかの因縁だろうか。

重要なのは、このワンデルングによって、僕ら夫婦が小淵沢、という土地を知った、ということである。そしてその後の経過がすでに記憶から抜け落ちてしまっているのだが、ある日、口の達者な営業マンに連れられて、たしか小雨が降っていたと思うのだが、今の場所を見に来た。まだほとんど家もない、原野といっていいくらいの場所だった。清水の舞台から飛び降りる、といえば言い尽くされた表現だが、そんな気持ちで契約した理由の一つは、この場所が”棒道”という歴史ロマンに隣り合っている、ということだった。信玄軍団の侍たちが歩いた道がそこにある。ローマを訪ねたとき、”シーザーが歩いた石畳を俺は今歩いている!”と興奮したものだったが、同じような、不思議なたかまりがあった。

契約を決意する前の3月に、八方尾根の帰りだったような気がするのだが、この場所へ来てみたとき、膝を没する新雪が森をうずめていた。尾崎喜八の文章に、同じように雪に埋もれた、友人が作った小屋の入口へ、”僕もいつの日か、襟巻をはためかせてここへ滑り込むだろう”というような一節があった。襟巻がキルティングに変わったにせよ、その日が来年には来る!という気持ちが湧いてきて、決意をさらに固めたものだった。

その後12年を経ているが、あの時のような積雪があったことは一度もない。何冬かして、悔しくて土地の人に聞いてみたら、あの時はとてつもない大雪だったがあんなことはもうないね、といわれてなんとも悔しい思いをした。

とにかく、棒道と編笠・権現。この二つに出会わなければ僕らはこの好ましい土地に来ることはなかった。満州から引き揚げ、以来の東京育ちのゆえ、故郷、というものを持たない僕には、このあたりの人と人情、ちょっと歩けば文字通り日本農村の原点、というようなたたずまいは心のフルサト、とでもいうべきものになりつつある。これからも花鳥風月を楽しむ、というような高尚な気持ちにはならないだろうが、デッキに座ってミズナラの林を過ぎていく風の音をききながらジントニックをすする、程度の恰好はつけながら、第二の故郷の時間をすごすつもりだ。

(幸い、このあたりには佐川久義(41年)夫妻、下村祥介(42年)、吉田学(47年)夫妻などの諸君が拠点を持っているし、少し離れるが蓼科には荻原年(32年)、徳生勇二(35年)両先輩を始め、久米吉之助夫妻、石渡美知江(46年)君らがいる。この夏には下村君の肝いりで第一回八ヶ岳山麓会、なるものをやろうということになっていて、そのような意味でもKWVの絆が固められる楽しみもある。)

 

編笠と権現

編笠と

権現のあいだに

雲がかかっている

 

夏の終わりの雲だ

 

あの稜線を駆け上がった心臓の鼓動は

まだ

どこかに新しいのだが

今の心は

どうしてもそこへ行かない

 

夏の終わりの雲だ

 

それでは、また。

 

 

ブログを開設しました

僕もとうとう、数えで80歳になりました。会社を辞めたのが1999年10月31日ですから、”無職”生活もほぼ20年ということです。

勤務していたヒューレット・パッカードを辞める、といったとき、多くの部下から、”ジャイさん、これからどうするんですか?”という質問を受けました。役員定年まで2年を残してやめるということから、どこかほかの外資系会社へいくのだろうと想像していた人がほとんどだったようです。今後一切仕事はしない、俺には学生時代からの素晴らしい友達が山ほどいるから、これからはやつらとの再会を楽しみたいから辞めるむんだ、と言ったとき、彼らの一致した反応はまさに羨望そのものだったと思います。

日本の社会においては仕事を離れた翌日から、どんなに社会的地位を持とうと高給を食んでいようと、人間関係の喪失に悩む人が数多くいます。僕にとって一番身近な例が父親でした。サラリーマンとしてはいわば人臣位を極め、いわゆる財界人として日向に居続けた人でしたが、母に先立たれ、最終的に引退後、しばらくは部下の人たちも訪ねてはくれたようですがそれもいつしか絶え、訪れる友人もなくまさに落魄、というべき晩年を過ごしていました。それを見ていたので、俺は違う道を歩く、という気持ちが強かったのです。僕には数え切れないほどの、時としては命を預けあったことさえある、強い絆で結ばれた友人がある、ということがその支えでした。しかも幸運なことに、KWVではOB会が活性化され、そのおかげで後輩の諸君とも親しくなることができてその輪はひろがりましたした。勤務していたHP社も米国会社にしてはOBを大事にする気風があった(今は疑問だが)し、慶應には三田会の伝統があり、高校や普通部時代、さらには小学校時代の恩師やクラス仲間とも交流を続けています。本当に恵まれた環境だとつくづく感じます。

しかし20年という時間の経過は残酷です。仲間の幾人かはこの間に鬼籍にはいり、自分の足も時としてはよろめくようになりました。これから後何年、元気でいられるかわかりませんが、その間、この輪を保ち、できることなら広げたい。仲間たちの消息を伝え、自分のありようやら意見やらをできることなら共有して、この輪を保っていきたい。そんなこともあって、思い切ってブログ、とやらを始めることにしました。

ただ、”ブログ”というシステム本来の、いわば不特定多数の人たちとの交流、ということは目的としませんので、本件のご案内は慶応義塾大学ワンダーフォーゲル部(KWV)OB会、会社時代の親しい友人の方々、学生時代からの長い付き合いの方々に限らせていただき、コメントやサイトへのご投稿はサイト直接ではなくメールで小生あて頂戴することにしました。ただサイトの目的上、公開掲載すべきか、ごく個人的な交信とするかは僕のほうで判断、選択させていただきますのでご容赦ください。

ま、あと何回続くか、自分でもよくわからないのですが、これが自分にとって開いた社会への窓、と考えています。原則(狙い)として月2回程度、更新をしたいと思っています。よろしくお付き合いいただければ幸甚であります。

今回の冒険?を理解し、初心者をあきらめずにご指導いただいているHP社時代からの畏友、菅井康二くんに改めて感謝いたします。