八ヶ岳山麓だより その2

全国的な天候不順の今年は八ヶ岳山麓でも同じで、僕らが滞在したほぼ1ケ月の間、快晴の日は一日もなく、毎日が曇天と小雨模様の連続、何しろ甲斐駒が満足に見られたのはほんの2,3回にすぎず、やる気の出てこない夏があっという間に終わってしまった。一方で張り切って持ち込んだ本もあまり読まず”中級”をめざすはずのドイツ語の勉強もしなかった。天気のせいにしてはいけないのだが。

しかし今回は前から思っていたのだが、近くに拠点を持っているOB仲間との交流の機会があったのは嬉しかった。47年の吉田学夫妻とは3年ほど前、全くの偶然からハイキング中に出会い、昨年、拙宅に来てもらい今年は彼らの素晴らしいヒュッテにご招待を受け、同じワンダー夫婦の会話を大いに楽しむことができた。また42年の下村祥介君とは一昨年の夏合宿で同じパーティになってお互いが近隣であることを知ったので、これまた再会を企画していたのだが、今年、彼の音頭取りで”八ヶ岳山麓会”というのが企画された。第一回のことなので、蓼科にいる41年の久米夫妻、それとゴルフにやってきた40年の藍原、武鑓両君とが集まる手はずになっていたのだが、何と当日朝、僕の持病の食道炎が突如発病して誠に残念だが我々はドタキャンをさせてもらう羽目に陥ってしまった。誠にお恥ずかしく申し訳なかったが、大変楽しい時間だったと連絡をもらった。ぜひ、この輪が広がればいいと思う。

(下村君から)

昨日は藍原さん、武鑓さん、久米ご夫妻と梅蔵で昼食、 その後小生の原村山荘でワインなどで歓談。 楽しいひと時を過ごすことができました。 ジャイさんご夫妻のいらっしゃらないのが画竜点睛を欠くきらいが ありましたが、先輩・後輩、 同じ釜の飯を食った仲間で昔ばなしに盛り上がり朱夏を謳歌した次 第です。

(武鑓君から)

お会いできるのを楽しみにしておりましたのに残念でしたが、 残りの仲間で美味しいイタリアンと下村邸での楽しい一時を過ごさせてもらいました。
また、機会ありましたらよろしくお願いします。
逆流性食道炎は小生も胃手術の後遺症で時々なりますが、 辛い症状です。
お大事にして下さい。

(藍原君から)

「頑健」のイメージしかジャイさんにはありませんでしたが、神様の風がどんなふうに吹いたのでしょうか?

兎に角残念でした。私は後輩たちに囲まれてご機嫌で酒を飲ましていただきました。又の機会を期待しながら、早急のご快復を祈っております。

勝手に”八ヶ岳山麓”などと言っているが、ここでは北の蓼科山から南の権現岳までの連峰のいわば信州側に広がる地域を意味していて、佐久側はおおむね清里あたりまでが我々のゲビートにあたる。一番北にある蓼科温泉を中心とする歴史のある別荘地域には、32年の荻原先輩をはじめ、35年の徳生さん、46年の石渡(つまりオスタである)夫妻、それと同じ”蓼科”という文句を謳っているももの実はだいぶ離れたところになるのだが、三井の森、と呼ばれる高級別荘地に前記の下村君と久米君夫妻が、甲斐大泉、小泉につながるいわば新顔の地域に同じく前記吉田君、41年の佐川君夫妻とわれわれの家が点在する。ほかにもこの地域に拠点を持たれているOBがおられればぜひコンタクトができればうれしい。

”平成の大合併”までは高根(清里もその一部)、長坂、小淵沢、明野、などと言われていたこの地域は今や北杜市、とよばれるようになった。僕らの家はその西端、長野県との県境といっていい場所にある。先月書いたようにこのあたりは武田信玄(37年初田君によれば、この地では”信玄公”と言わなければならないそうだが)の信濃攻略の足場だった地域で、大河ドラマ”風林火山”の山本勘助を思い出すし、また”真田丸”のバックでもあるというわけで、ほぼ15年通ったおかげですっかり甲州の地びいきになってしまった。それと言わずもがなだが、山梨は日本におけるワインの産地であり、さらに塩尻あたりにかけては新しい感覚を持ったワイナリーがたくさんある。あまりむずかしいことはわからないのだが(田中新弥や浅海昭あたりは僕が酒を語ることすら笑い飛ばしてしまうのだ)、それでも最近名前の売れて来た地元の ”高級” ホテル”、”小淵沢リゾナーレ”の地元ワインの専門店でもっともらしい顔をするの楽しみも増えた。

さて、この”北杜市”のことだ。地元山梨の天気予報では、”大泉”という地名がつかわれている地域、JRでいえば小淵沢駅から小海線甲斐大泉駅のあたりは、はっきり言えば、見かけ、蓼科や諏訪、さらには富士見あたりに比べてもだいぶ ”ローカル” という感じをまぬかれない。僕らのいるのは”白樺平”という名前の一応 ”別荘” 地域だが、全域を見渡しても白樺はほとんど生えていない。むしろ”ミズナラ平”とすべきだ、と思っているのだが、バブル期に一攫千金を夢見た業者の誇大広告の典型だろうか。地図を見ると一応200戸近い名前があるのだが、その半分以上は売れたまま、中には持ち主と連絡が取れない、というものがあるようで、いわば買ったほうも転売目的の投資だったのだろう。そんなわけで、当然のことだが、蓼科などの大規模別荘地にあるセンター的な施設は全くないから、日常の買い物も当然として、外食するとなるとあちこちに点在する小さな店を探して歩くことになる。前記の”山麓会”は下村君の企画で、だいぶ蓼科に近い一角にある、かなり名の売れたイタリア料理店でやったのだが、長坂から小淵沢にかけては、何元かのそばやを除くと、安心して(というのは妙な言い方だが)食べられる場所はまずイタリアンが多い。和食の店もいくつかあるが、正直、甲州名物のほうとう料理をのぞくと鮮魚には恵まれない地域でもあり、15年通ってもほんの数回しか食べた記憶がない。中華も同じである。一昨年まで、日比谷発祥の中華料理の老舗があって、愛用していたのだが、去年から(どうも経営者が変わったらしい)すっかりその面影がなくなってしまったのは悲しい。

なぜイタリアンか。フレンチにくらべて日本人に相性のいいということもあるだろうが、多くの店が非常に若い人がやっていて、脱サラ組も相当いるところを見ると開業にあたってのバリアが低いのではないか。それだけに、結構出入りも激しい。数年前、近くにオープンした若い夫婦の店もいつの間にかなくなったし、やはり現実は厳しいのだろう。しかし例外もある。中央高速のインターに近いピザハウスは典型的な脱サラで、主人は必死の覚悟でイタリアへ勉強に行き、この地で開業したということだ。僕らも以前、この地を徘徊していたらしい横山美佐子のお墨付きがあったので、当初から愛用している。ドロシー・マローン(知らねえだろうなあ)によく似た、感じのいい奥さんとふたり、いつもキチンにいたものだが、大繁盛で数年前に増築し、いまではコックも3人ほどいるし、主人夫婦は一線を引いて悠遊の生活だ。大手の進出はないし、今では地元の大立者、という感じである。

こういう厳しい現実もあるが、このあたりにはこの15年間、全く同じたたずまいで、しかも我々が前を通ってもまず客らしきものをまずみたこともない、という店もある。また、飲食店ではなく、美術工芸関係の小さな店が多いのもこの辺の特色だろうが、そのような店、あるいはギャラリーという名を冠しているところも、およそどうやって商売になるんだろうかと他人事ながら心配させながら、いつ行っても堂々とオープンしているところも多い。このようなあり方と、一方では脱サラ大成功例を見るにつけ、一応は大企業と呼ばれた社会しか知らない僕には日本人のしたたかさを改めて教わる気持ちがする。

このあたりはあと3週間もすれば、すっかり秋になる。10月には紅葉も見事だが、メインの通りを外れて南側、釜無川近くの野良に出ると、”実りの秋”と日本の原点を実感させてくれる農村部のたたずまいが僕を呆然とさせる。その向こうに、甲斐駒、アサヨ、鳳凰、間に北岳、振り返れば編笠、権現。早ければ新雪もみられるかもしれない。夏が期待外れに終わっただけに、秋の日が待ち遠しい。

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