山荘のこと    (34 真木弓子)

何時もブログを楽しく拝読させて頂いております。今回は特に「60周年山荘祭」の投稿を懐かしく拝読致しました。
60年前は遥かに昔のように思えたり、つい5、6年位前の事にも思えたりで、
感無量でした。肝心な妹尾さんが天に召されてしまって、言葉はありません。
天国でショッペイと賑やかに飲みながら小屋の話しをしていた事でしょう!

当時から KWV部員として呑気に楽しく山行に参加しておりましたが、山荘建設が決まり、三国トンネルを歩いて浅貝に入り、男性部員が石運びをして戻ると、食当の私達女性陣が 確か?「お汁粉∨お味噌汁」を用意して クタクタにお疲れの方々に 今で云うところの「おもてなし」をした記憶が鮮明に思い出されます。私の記憶では「お汁粉」なのですが、違ったかな~?

後は小屋が無事完成して、地元や先輩の方々がご出席下さって、盛大な完成パーテーが開催されて、全員が大感激!私も涙が出た事を覚えています。
私は化粧け もなく三つ編みで、 矢張り昔々ですね。

(返信)  チンタさん:

暖かいメール、ありがとうございました。
そう,三つ編みでしたよね! いつもかぶっていらした帽子のこととか、椎名さんがからかっておられた ”土手のむこうをチンタが通る….それが何より証拠には……しょっぺが見えたり隠れたり.….” という替え歌を思い出しました。
高齢者の仲間入りしてもいつでも思い出を共有できる仲間がいる、ということの幸せをつくづく感じます。
(写真説明:浅貝夏合宿、前列は妹尾、”三つ編み”チンタ、森田、中列は平松、梅田(田崎)、後列に中司、高林。ほかはその後退部した仲間と思うが名前が思い出せない。平松さんじゃなくて森永さんみたいな気もするのだが)

60周年記念山荘祭―雑感

しばらく山荘祭からは遠ざかっていたが、60周年記念ということもあって久しぶりに浅貝へ行ってきた。”祭り”も楽しいが、60年前、建設の現場にいわせた年代の僕らにはやはり ”小屋” そのものに気持ちがむかう。前々日の午後湯沢で一緒になったOB10数人で好天の小屋に到着したとき、何よりも自分にずん、と響いてきたのは、庭に当然のように立っていた杉の巨木と、その前にあった白樺の樹がなくなっていたことだった。

倒壊の可能性と小屋の安全確保のため、やむをえず伐採する、という計画は何度も議論され、残念とは思いつつ了承していたことだが、現場に行って感じた空虚な気持ちは忘れられない。特にあの白樺は、いよいよ卒業という秋、同期で一夜を明かしたプランで、完全に泥酔した小林章悟(山荘代表)が半分泣きながらそのまわりをぐるぐるととめどなく廻って、大声で小屋への想いをつぶやいていた、あの情景がまだ目に浮かぶ。今は病床にあってコミュニケーションに問題のある彼には、むしろ知らせない方がいいのだろうが。

前日から入荘していた妹尾が”今燃えているたき火、その上にあるまるで大鍋みたいなものが、伐採した杉の言ってみれば”輪切り”だ、と教えてくれた。気持ちを押し隠して冗談にしたのか、なんだか自分たち世代の諦観というか、冷厳な時間の経過、ということを言おうとしていたのがわかって、胸にしみた。

時間の経過が燃えていくようだった

章悟の後を引き継いで山荘を担当したのは福永浩介だが、卒業後、OBの立場で山荘運営に携わった加藤清治も”白樺”に愛着をおぼえているひとりのようだ。

高校時代始めた山歩きを本格的に始められるとの希望を抱いてワンダーフォーゲル部に入りましが、入部早々に山小屋建設のワークキャンプが始まり、基礎の砂利を運ぶためにモッコを担いで、湯の沢の河原から雨の中を何度も往復。入部直後で山小屋建設に協力しているという思いはありませんでしたが、夏合宿で三国山に登り稜線から小屋の小さな赤い屋根が見えた時は皆で歓声をあげました。

 ホールの薪ストーブは燃えが悪く、二階まで煙が充満することも度々で小屋から帰ると体全体がイブくさくて弟達に臭いと文句を言われました。便所は水洗でなく汲み取り式でワークキャンプではいつも便所の汲み取りを担当しました。

 小屋が全焼したとき、知らせを受けて39年卒の小祝君と現地に急行しましたが、小屋は跡形もなく焼けおち、コンクリートの基礎だけを残して所々から煙が上がっていました。4年間春夏秋冬何度通ったことだろう、煙くて汚い小屋だったが小屋で過ごした日々を思い、深い喪失感を覚えたのを憶えております。小屋は2代目3代目となりましたが、細い白樺に囲まれた初代の山小屋に一番の愛着を感じております。

山荘と言えば、その裏に続いている通称三角尾根。2年夏の合宿前に実施された ”あの” リーダー養成で雨の中を半分眠りながらキタノイリ沢へ降りた、強烈な経験が忘れらないし、卒業1年目、児玉博が仙の倉で遭難したとき、小屋で待ち合わせていた同期の仲間たちが遺体を引き下ろしたのもこの尾根だった。多くの仲間が引退したあと、妹尾のアイデアでKWVのプレートを付けたときには、出発点の”三角”にその第一番目のプレートに児玉の名前を記した。それ以来、”三角”は同期の仲間にとって一種のシンボル的な存在になった。

国境稜線、三角頂上

児玉と小学校以来の親友の翠川などは浅貝へ行けば必ず三角を往復する。あの稜線の出っ張りから、児玉の最後の場所が遠望できるからではないか、と僕は思っているのだが、それを口に出す勇気はなお持ち合わせていない。

僕自身の三角尾根での自慢は3月春、田中新弥がリーダ―を務めたBHで、スキーを担ぎ上げ、平標頂上から滑り出し、この尾根を降りたことである。まだ今の夏路でさえ満足になかった藪と灌木の中を、滑るというよりスキーをわっぱ代わりにしたようなものだが、KWVに残る記録としては、平標から小屋まで、ともかく全ルート。、スキー滑降した、という意味ではおそらくはじめてだと内心思っているのだが自信はない。

児玉が亡くなった翌々年だったと思うのだが、児玉の遭難現場へお参りに行こうと、荒木床平さんや酒井征蔵さんたちとこの尾根を登り始めたが強烈な暴風雨にあって、その手前で引き返したのも僕には忘れられない記憶である。あれが、結果として ”しょっぺいさん” との最後の山になってしまったからだ。

少し時間が経過して、国境稜線に避難小屋を作ることに携わった。経過はいろいろあったが、いちにち、越路避難小屋の完成に伴う行事に何人かが川古から稜線へ駆けあがることになった。あいにく、台風がやってきて大雨が必然の深い谷に入るという、常識では考えられない行動を与儀なくされたことがあった。幸い同行してくれた佐藤団長のいわばマタギの知恵と技術によって事故に至らず無事帰荘できたが、小屋で待機していた僕ら何人かには戦々恐々の半日であった。この時、フィアンセを連れて小屋へ来て活躍したのが斎藤伸介。雨降って地が固まったのか、ほほえましいカプルができたのもこれまた小屋の徳であろうか。

僕が会社時代、同僚やらスキー仲間を何回か 初代小屋 へ連れて行ったことがあるが、毎回大好評だった。”ジャイさん、このシュラフのへりが偉く硬いけどこれでいいんですか?” ”え? ああすまん、それ、忘年会の時のげろが固まったままなんだ” “ギャー、ケイオーって野蛮なのね!”などといった楽しい時間があった。そのときに同行したスキーの名手であり、何を隠そう小生のblog挑戦を支えていてくれる大師匠、菅井康二君はこう書いてきた。

blogの山荘内部の写真を拝見しましたが私が泊めて頂いた時とは様変わりしており洒落た雰囲気で明らかに違う建物だということが分かりました。

山荘へ行った回数もそれほど多くない僕ですら、こういう思い出はいろいろあるのだから、小屋に足しげく通った仲間たちには、いろんな ”初代” 小屋の記憶は強烈なはずだ。ぜひ思い出を投稿してもらえればありがたい。

 

漢詩ぶらぶら―中秋の月にちなんで (36 坂野純一)

異常に暑かった今年の夏もそろそろ終わり、秋の気配も感じられるこの頃、漢詩では、月、菊、雁、霜、秋風、紅葉、などを材料とするものが多い。中秋の名月にちなんで、月を詠んだいくつかを紹介したい。阿倍仲麻呂は奈良時代の遣唐留学生、養老一年(西暦717年)吉備真備らとともに唐に渡り、玄宗皇帝に仕えた。天平勝宝五年(753年)帰国を許され鑑真和上とともに1月15日明州から帰国の途に就いた。この日はちょうど満月で「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」の歌を詠んだと言われる。これを英国人アーサー・ウエイリー(大英博物館に勤め語学の天才とも言われ「源氏物語」英訳でも知られる)が訳したものをまず紹介する。

Across the field of heaven                           

Casting my gaze I wonder

Whether over the hills of Mikasa also,

That is by Kasuga,

The moon has risen.

盛唐の代表的な山水詩人「王維」に「竹里館」という五言絶句がある。

獨坐幽篁裏  独り幽篁の裏に座し

弾琴復長嘯  弾琴 復た 長嘯

深林人不知  深林 人知らず

名月来相照  名月 来りて相照らす

夏目漱石は「草枕」に東洋詩人の代表的な境地としてこの詩をあげ「汽車、権利、義務、道徳、礼儀で疲れ果てたのち、凡てを忘却してぐっすりねこむような功徳である。」と言った。此のような境地に憧れるのが良いのか、もっと違う道があるのか、考えさせられるようにも思われるのだが。先に紹介した李白にもいくつもの月を読んだ詩がある。

峨眉山月帆輪秋  峨眉山月 半輪の秋

影入平羌江水流  影は平羌 江水に入って流る

夜発清渓向三峡  夜 清渓を発して 三峡に向かう

思君不見下渝州  君を思えども見えず 渝州に下る

此詩を作ったのは李白二十代の半ば。以降長い遍歴の旅が続く。

長安一片月  長安 一片の月

万戸擣衣声  万戸 衣を擣(う)つの声

秋風吹不尽  秋風 吹いて尽きず

総是玉関情  総べて是れ 玉関の情

何日平胡虜  何れの日か 胡虜を平らげて

良人罷遠征  良人 遠征を罷めん

もう一つ、静思夜という詩を挙げておこう

牀前看月光  牀前 月光を看る

疑是池上霜  疑うらくは 是れ地上の霜かと

挙頭望山月  頭を挙げて山月を望み

低頭思故郷  頭を低(た)れて故郷を思う

漢詩の最盛期,詩仙と呼ばれた杜甫にも「月夜」と題する詩がある。

今夜鄜州月  今夜 鄜州の月

閨中只独看  閨中 只独り看ん

遥憐小児女  遥かに憐れむ 小児女の

未解憶長安  未だ長安を憶うを解せざるを

香霧雲鬟湿  香霧 雲鬟(うんかん)湿(うるお)い

清輝玉臂寒  清輝(せいき)玉臂(ぎょくひ)寒からん

何時倚虚幌  何れの時か虚幌(きょこう)に倚(よ)り

双照涙痕乾  双び照らされて涙痕(るいこん)乾かん

さて 平安時代の日本文学に最も大きな影響を与えた詩人白居易(楽天)に「八月十五日夜禁中獨直対月憶元九」がある。

銀臺金闕夕沈沈  銀台 金闕 夕べに沈沈たり

獨宿相思在翰林  独り宿して相い思いて翰林に在り

三五夜中新月色  三五夜中 新月の色 

二千里外故人心  二千里外 故人の心

渚宮東面煙波冷  渚宮の東面 煙波冷ややかに

浴殿西頭鐘漏深  浴殿の西頭 鐘漏(しょうろう)深し

猶恐清光不同見  猶(た)だ恐る 清光の同(とも)に見ざるを

江陵卑湿足秋陰  江陵は卑湿にして秋陰足らん

アンダーライン部分(三五夜中新月色 二千里外故人心)は平安朝の文人の心を捉えたようで、紫式部の「源氏物語」にも引用されている。須磨の巻の中で

月いと花やかにさし出でたるに、今夜は十五夜なりけり、と(源氏の君の)おぼし出でて、殿上の御遊び恋しう、所々ながめ給ふらむかし、思いやり給うにつけても、月の顔のみ、まぼられ給う。二千里の外の故人の心」と誦(ずん)じ給える。例の、涙も止められず

なお この句は、藤原公任(きんとう)撰の「和漢朗詠集」にも採られさらに広く知られるようになった。まだまだ数多くの名吟があるが、次の機会に譲る。

レッド・リヴァー(Red River) の話  (と円熟期オールドワンダラーズの近影)

Old Wanderers 練習風景

9月2日、赤坂の カントリーハウス で、カントリー好きを集めてやってきたKWV  仲間のバンド ”Wandering 80’s” のライブがあった。バンドマスターは35年卒徳生勇二、ほかに同期の森永正幹、36年の田中新弥、それと ”準”34年卒横山隆雄というメンバーに、客員でその道では名高いピアニストとドラマーを加えての活動はすでに10年を超える。腕がどうかの論評は差し控えるが、いつ参加しても楽しい。今回は場所的な制限でワンゲル関係者は大幅に制限されてしまったが、できることならまた、沢山集まれる機会があればうれしいと思うのだが。

さてその場で、”ゲスト” (てえのもだいぶ身が引けるが) として栗田敦子、後藤三郎に小生が歌わせていただく光栄に浴し、小生は Red Rivr Valley を選んだ。この Red River について、最近面白い経験をしたので紹介をしたい。

数週間前、何の気なしにテレビをつけたら、ジョン・ウエインの代表作とされる ”赤い河” をやっていた。原題は Red River。ウエインの脂の乗り切った時代の非常にすっきりした、これぞ西部劇、というやつで、当時(1948年)、売り出し中のモンゴメリ・クリフトが初めて西部劇に出演したという意味でも知られる映画である。僕も映画館でももちろん見たし、その後何回もテレビで見る機会があったのだが、今回、終わり近くになって、バックに流れるテーマ曲が、僕のもう一つの愛唱歌である My Rifle my pony and me  (これもウエインの代表作といわれる リオ・ブラボーの挿入曲)と同じことに気がついた。そこで終わった後、何もあるまいがダメモト、とおもいながらグーグルに ”Red River, My Rifle and Me” と入れてみたら、なんと!一発でアメリカ人の女性が同じ質問をしていて、その道の専門の人が明確に答えをだしているではないか。この広い世界で同じ経験をした人がいるということもうれしかったが、この解説によると、この2本は主演ジョン・ウエイン、監督ハワード・ホークス、音楽ディミトリ・ティオムキンという共通点があり、1959年に作った ”リオ・ブラボー”にティオムキンが原曲をそのまま使ったのだそうだ。ちくしょうめ。

この時、思い出したのだが、だいぶ前、やはりテレビで、本当に残念ながらタイトルを忘れてしまったのだが、やはり西部劇のラストに近い酒場のシーンで演奏されていたのが Red River Valley だったことを思い出した。そうなると次なる疑問は、”赤い河” の Red River と Red River Valley は同じものか?ということになる。はたまたウイキペディアで調べてみてこういうことが分かった。

1.北アメリカ大陸に Red River という河は2本存在する。うち1本はミネソタ、ノースダコタのあたりから始まり、北上してカナダを流れる。この流域には開拓初期、レッドリバー植民地という地域があった。2本目はテキサス、オクラホマにまたがるミシシッピーの支流である。

2.西部開拓時代、牛肉は主として中部諸州から提供され、テキサス牛(ロングホーンと呼ばれる種類)はまだ流通していなかった。一方、大陸横断鉄道が徐々に伸び、カンサスあたりまで敷設されるようになり、ジェシー・チザムによってテキサス南部からカンサスまでのトレイルが開かれた。この道をたどって、テキサスの牛をカンサスまで運ぶという冒険がはじまった。

3.映画 ”Red River” はこのチザムトレイル開拓史をベースにした物語であり、その脚本のベースになった記録もあるのでこのような話は史実として裏書される(これによって成功者となったチザムを主人公にした単純明快勧善懲悪なウエイン作品が”チザム”(1970年)である)。

うんぬん。

それでは俺の ”Red River Valley” はどうなる? まだ資料は見つからないが、単に作詞者の創造した地名でないとすれば、どうも雰囲気は1本目のほう、つまり初期の英国植民基地のほうが合うような気がする。ジョン・ウエインは僕のごひいき俳優NO.1ではあるけれど、どう見ても come and sit by my side if you love me などとめんどくさいことはしないで、それじゃあばよ、と格好つけて馬を駆っていってしまうだろうという気がするからである。何方か、博識の方のご意見を頂戴したい。

 

カール・ブッセのこと      (36 高橋良子)

私がこの  ”山のあなたの” を知ったのは、小学校6年生のときでした。
当時私は新宿に住んでいましたが、家の近くにバラック建ての小さな教会があり毎日曜日、こども学級が開かれていて私も通っていました。そこの牧師さんの家に私より2、3歳年長、大変利発で驚くほど物知りのお嬢さんがいて、私に「山のかなたの空遠く・・・」を教えてくれたのです。私は魔法に掛けられたようになって、この詩を覚えました。こども心にも心地良い感触というか、希望みたいなものを感じたのでしょうね。早速、仲良しともだちと交換し合って いたノートに、この覚えたての詩を綴りました。われながら、なんとスノッブだったことでしょう。

今では、上田敏の名訳も忘れ去られた感があり、私宅にある岩波文庫”ドイツ名詩選” には、残念ながらカール・ブッセの名前はありません。
私の想い出ノートから外せない詩がもう一つあります。ワーズワースの「村のかじや」という詩です。これは姉が購読していたザラザラ紙の「少女クラブ」に、挿絵つきで載っていたものです。この雑誌、長いこと大切にしていたのですが、どうも処分してしまったようで残念です。

山のあなたの空遠く

(この夏、現地で写真を撮るつもりをしていたが天候体調ともに不良だったので次回に挿入することにした)

小淵沢にある山荘の2階から甲斐駒が正面に見える。1ブロックあるいた角から編笠も見えたのだが、間にある樹が生い茂って見えなくなってしまった。出来た当初には2階から自分で降りてこられなかった孫娘が大学へ行くだけの時間が経過したことを改めて感じる。車で5分ほど降りると素晴らしい展望の開ける場所があって、鋸、甲斐駒、鳳凰、北岳,御坂から富士山、振り向けば南八つ北部の主峰群まで見通すことができる。自分で歩いたことのある山山を前にして、いろいろな思い出だの、友達のことなどがよみがえってくるのは誰でも同じだろう。

だが、正面に見える茅が岳火山群から目を転じて金峰の方を見たときだけ、一種違った情念がわく。決まって、”山のあなたの空遠く” という有名な詩が思い出されるのだ。金峰の山頂はたしか3回踏んでいるはずだが、ここに限って,ワンデルングの思い出などは置き去りにしてこの文句が浮かんでくるのは自分でも不思議で仕方がない。目の前の鳳凰や茅があまりに近いのに、金峰ははるかに遠く、そこにつながっていく大きな傾斜がいつでも一種薄紫のような色合いで見えるからかもしれないが、目の前の山々が(現実には無理になっているとはいえ)なお、”登る”という行為につながるのに、金峰へつながる地形は ”旅をする” というある種のロマンとでもいうか、そういう感情を引き起こすようだ。

”山のあなたに” というあまりにも有名な詩をどこでいつ覚えたのか記憶にないし、情けないことに作者の名前も明確には知らなかった。旧制高校に在学した兄たちの年代の人はある種の常識というか教養としてドイツロマン派や英国詩人の事などに詳しかったから、僕と大違いの堅物だった兄の影響だったのだろう。3年の時、”ふみあと”の八甲田合宿特集号の巻頭文に詩とも何ともつかないものを書かせてもらった。その後、たしか三国山荘でだったと思うが、皆から敬愛されていたダンちゃんこと山戸先輩がこれをみて ”なんだかカール・ブッセみたいな事を書くやつがいるな” と言われた。その時には ”俺が書きました” とはとても言えず、笑ってごまかしたのだが、このドイツ詩人の名前だけは憶えていた。山戸さんは考えてみたら兄とたぶん同じように旧制高校時代の教養をお持ちだったのだと懐かしく思い出される。

金峰を見て何度かこの詩を思い出し、グーグルで調べてみて、初めて作者がブッセだったことを知り、またこの訳詩が高校の国語の時間に出て来た〝海潮音”上田敏のものと初めて知った。悪のりついでに原文を調べてみて、それがわずか37語の短いものだったのに驚いた。3年ほど前、認知症予防には語学が第一、とホームドクタにいわれたこともあってドイツ語の勉強を始めた僕でも、この原文の中に知らない単語はふたつしかなかった。ドイツ語が幅を利かせていたという旧制高校の学生には覚えやすかったに違いない。

この二つの単語の中の verweinten 、辞書で引くと ”泣きはらした” となっている。直訳すれば ”泣きはらした目とともに帰って来た”、それが上田訳で ”涙さしぐみかえりきぬ” となる。四行目の ”なお遠く” を僕は 出だしの行と同じだとばかり思っていた。原文を見ると1行めの 〝遠く” が ”weit”  という形容詞1個なのに、この行は2個、つまり ”weit, weit”  と繰り返されていて、これが ”山のあなたの” ”山のあなたになお” との違いである。これが詩人というものか、と改めて感服する。

金峰を眺めたときに沸く情感とこれがどうむすびつくのか、説明すべくもないが、まだこの詩をご存知ない、と方のために上田訳を書いておく。読まれたら、この文体から、僕の ”対金峰心理”の分析をお聞かせいただければありがたい。

 

山のあなたの 空遠く    ”幸い” 住むと 人のいう

噫(ああ)われひとと 尋(と)めゆきて 涙さしぐみ 帰りきぬ

山のあなたに なお遠く   ”幸い” 住むと 人のいう

Uber den Bergen,
weit zu wandern, sagen die Leute,
wohnt das Gluck.
Ach, und ich ging,
im Schwarme der andern,
kam mit verweinten Augen zuruck.
Uber den Bergen,
weit, weit daruben, sagen die Leute
wohnt das Gluck.

 

ウインストン・チャーチル という映画

映画の詳細より前に、日本人スタッフ(辻一弘氏)が主演者(ゲイリー・オルドマン)の特殊メイクでオスカーを受賞したことが話題になった映画である。そのことはともかく、率直に言って、素晴らしい映画だった。ぜひ、DVDでもユーチューブでもいいが、ご覧いただきたいものである。

世界的危機を救ったという史実に基づいた、いわばセミドキュメンタリと言ってもいい映画では、だいぶ以前、ケヴィン・コスナーが主演して、ケネディ大統領が(当時)ソ連のフルシチョフ首相とわたりあい、核戦争の勃発を防いだ事実を取り上げた 13デイズ と言う大作があった。こちらは米政府内の対立やケネディ兄弟に対する反感、両国スパイの活動からキューバへの先制攻撃にまつわる悲劇、海上封鎖行動の緊張など、いかにもハリウッドらしい大仕掛けなものだったが、本作は1940年5月、本性を現し始めたナチドイツにどう対抗するのか、ドーバー海峡一つ隔てるだけの英国は確実視されるナチの攻撃にどう対応すべきかをめぐる英国議会での混乱が、結局チャーチルの主導によっておさまり挙国体制が出来上がるまで、5月9日から28日までの間の出来事の記録である。

原作はこのほぼ3週間を DARKEST HOUR  というタイトルで書いたニュージーランド生まれのライターのものである(なぜhourと単数なのかがよくわからないが)。この作品は史実の描写というよりもウインストン・チャーチルという偉人というかある意味では奇人の行動とその演説のありようを専門的な見地から描いたものである。したがって映画そのものは徹底的にチャーチル個人とクレメンタイン夫人、何人かの秘書群、などを中心に、政敵チェンバレン、ハリファクスなどとの対決、支援者であった国王とのやりとりなど、全シーンのおそらく90%は室内での撮影になっている。

これを通して感じるのは、前に述べたケネディが徹頭徹尾、冷静かつ論理的な対処をしたのに対し、チャーチルの武器はすべてが情熱と若いころ常軌を逸するほどの読書で鍛えた歴史観であり、それが、政治家や軍人などよりも、そういう教養などを持ち得ない一般大衆の堅固な支持につながったという対照的な歴史の流れである。”大衆の国、開かれた国”というイメージで見がちなアメリカが一部エリートの献身によって救われたのに対し、紳士の国貴族の国英国を支えたのが、一般大衆のチャーチルへの信頼だった、という事実が実に興味ふかい。原作に記載されている、当時の新聞の漫画を載せておこう。下のキャプションには All behind you, Winston と書かれている(いまの日本、”晋三さん、俺っちがついてるぜえ” などということは夢にも起きないだろう。残念だが)。

この原作については稿を改めて書こうと思うが、この時期の英国対ナチ・ドイツという構図はなにか現在の北朝鮮対アメリカ、という状況に似ていないか。残念なことに、ヒトラーの代役はぴったりだが、チャーチル役がどうみても雄弁家でもなければ歴史認識などほとんど持ってなさそうな不動産成金だ、ということが僕らの不運なのかもしれない。

もう一つ加えておくと、チャーチルは英国の絶対的不利を救うため、米国大統領ルーズベルトに参戦を呼びかけるが、選挙公約に縛られている米国は表立って動くことができない。この縛りを解き放ち、米国が晴れて対ナチ戦に参加できることになったただ一つの理由が1941年12月8日、日本海軍による真珠湾攻撃であった。歴史の転換をもたらした日本政府の決断、これが不運だったのか幸運だったのか、だれにも判断はできないだろうが。

(チャーチルが国王ジョージ6世の信認を得る場面。6世は兄エドワード8世がシンプソン夫人との結婚のため退位したため王位に就いた人物である)

 

原尞 ”それまでの明日” を読んだ

原尞の再新作ミステリ “それまでの明日” を読んだ。デビュー作 ”そして夜は甦る“ で独特の文体にひかれて、短編集は除いてこれまで発表された作品は全部読んできた。

原という人はジャズピアニストとしても知る人ぞ知る存在であるようだがよくは知らない。大学では純文学専攻、チャンドラーに傾倒しハードボイルドミステリを書き始めたと紹介されている。本書も是非お勧めしたいので筋を明かすわけにはいかないが、男のストイックな思いを軸に意外性というミステリの黄金律をはずさない、まさにハードボイルド、と呼べる読みごたえは保証する。早川書房版、1800円。 

ハードボイルド文学とは何か、ということはほかのところでも触れた。その一つの要素は作品の文体にあるとされる。専門家によれば、その源流はヘミングウエイにあり、さらにその延長線上にチャンドラーやマクドナルドやそのほかの作品がうんぬんということになるのだが、英文学の専門家でもない素人にわかるわけがない。英語で読んでみてもわからない以上、翻訳を比較することしかないので、同じ ”長いお別れ“ でも清水俊二か村上春樹か、という議論になってしまう。その点、日本人が書いたものなら文体という要素については自分の解釈をすることができる。

原の文体はひとことでいえば生硬である。特に会話の部分はどうも不自然と思われる部分もある。チャンドラーやマクドナルドの原文を苦労しながら読んでみると、チャンドラーの会話部分は多少の古めかしさがあるが、僕らとほぼ同世代のマクドナルドの会話体は、現代風に、生き生きした感じが読み取れると思っているので、なお、原の文体のことが気にかかる。しかしこの固い、ぎこちなさが全編を通して一つの雰囲気を醸し出す。それが僕の気に入っている点でもある。 

この ”ハードボイルドのエレメント“ である”文体”にこだわったのだろうと思われる工夫が、日本でのHBの先駆者とされる北方謙三の、特に初期の代表作に顕著だ。 ”体言止め“ がやたらと出てくるのである。たしかに緊迫感、スピード感は伝わってくるのだが、一方、全体の雰囲気がまとまってこないように感じる。たびたびいうのだが、小生のお気に入り、清水俊二訳 ”長いお別れ“ がもつ雰囲気とは際立って違ってしまう。逆に北方作品に比べてむしろぎこちないともいえる原の文体には、ともかく何か”雰囲気“がある。 ぜひ、一読をお勧めするゆえんでもある。 

もう一つ、僕が原ファンである理由は、主人公沢崎が活躍する場に西新宿のあたりがとても多いことだ。サラリーマン生活の中期にかなり長い時間を西新宿で過ごした僕には、その場所の雰囲気がよくわかるし、(あ、あそこだ)と思うこともときどきある。古手の文人や呑み助の伝説にあふれるゴールデン街とか、歌舞伎町とかいう場所とはまたちがった、ある種のなつかしい疎外感(意味をなさない合成語だとはおもうが)がある地域である。独特の文化を持ち続けている新宿という街の中に取り残された、金持ちでもなくヤクザにもなり得ない、ごく普通の程度の倫理観と生活観をもちあわせる人間がそれとなく群れ集まっている地域だ。その中で語られる犯罪という非日常なできごと、それが原の紡ぐ ”ハードボイルド“ な雰囲気だ。チャンドラーの世界が今ではどちらかといえばセピア色の30-40年代の話であり、マクドナルドの作品の多くが現代アメリカのパワーエリートの暗黒面の話というようにある意味、隔絶した設定なのにくらべて、ごくそこらにあり得る話なのだ。 

沢崎、という探偵のシリーズものだから、常連のサブキャラクタがいる。新宿署の錦織警部や暴力団清和会のやくざ橋爪や相良など、いずれも沢崎とは敵対しつつも共存する、という位置づけである。一方、マーロウを庇護してくれるバーニー・オールズやタガート検事のような人物は出てこないしロマンスめいた存在もない。そのことがもうひとつ、原の作品のもつ、つきはなした雰囲気に関係しているかもしれない。 

本人がそう言っているのか、出版社の販売促進戦略なのか知らないが、原の作品は ”長いお別れ“へのオマージュである、と本の帯にかかれている。そういえば、この作品の前に書かれた ”さらば長き眠り“の途中にこういう文章が出てきたのを思い出した。 

・・・私は“さよなら”という言葉をうまく言えたためしなど一度もないのだった。そんなことを適切なときに言える人間とはどういう人間のことだろう。 

いうまでもなく、これは “長いお別れ” の有名な一節を意識しているにちがいなかろう。 

No way has yet been invented to say good-bye to them

・・・警官にさよならを言う方法はまだ発明されていない (山本楡美子訳)                                                                                                

マーロウはかつての親友と思っていたレノックスが立ち去っていく足音を聞き、堪え切れなくなって呼び戻そうとする自分を抑える。それが ”長いお別れ“ なのだ。沢崎にとっては遠のく足音というようなロマンはなく、ただ、電話が切れる、という物理現象で終わってしまう。それが現代の別れ、なのだろうか。 

俺たちの別れ、はいつ、くるだろうか。

 

ウイチのこと   (47 熊倉晴男)

ウイチが私の現役時代の初リーダープラン(妙高―火打―焼山―雨飾山縦走)に参加してくれた縁からか 卒業後も、私たちがフランスから帰国してからも、一緒に山にいく機会が一番多かったと思います。

彼と一緒した山行が気になってわかる範囲で記録を見ましたが、残雪の涸沢や
春の会津駒ケ岳(山スキーの我々は桧枝岐から。スキーがからっきし駄目だったウイチが三岩岳からの縦走で山頂でばったり)、沢山の沢登り(焚火が好きだった。)など随分一緒に行ったんだなあと改めて思い出しました。

最後の彼との山行は 2004年10月尾瀬至仏山に奥利根側の狩小屋沢から遡行したものでした。その1か月前の9月には山荘祭接続で 苗場山の棒沢に行ったのですが、今思えば既に病の影響だったでしょう(拡大性心筋症)神楽峰からの下山時にほとんどふらふらになってしまい、同行した竹内君と肩を貸すようにして和田小屋に夜中の21時ごろ降りてきたことがありました。狩小屋沢は無理だから止めておけと言ったのですが、どうしてもリベンジだと言って聞かなかったのを覚えています。この山行は何事もなく無事下山したのですが、これが彼と一緒の最後の山行になってしまいました。

私の記憶が曖昧なので、実は先ほどフルマキに電話して確認しましたが、ウイチが亡くなったのは2008年8月11日(フルマキも言っていたのですが、どういう奇遇かこの日は後に“山の日”になったのですね。)

もうすでに10年の月日が経ってしまったのですね。“ウイチとのこと”というと、 この2004年までの楽しかった山行とともに、その後の4年間(病の発症、家族との別れ、山仲間との繋がりを自ら断っていた4年間)のことがどうしても忘れられないのです。

山荘や上越の山の帰り、車で環八の大原の交差点辺りを通るたびに、ここらへんにウイチが一人でいるはずだと何度も逡巡したのを思い出します。
4,5年前に フルマキから聞いた高知の彼の墓参りも行ってきたのですが、昔の記録や写真を見て、またまた彼のことを懐かしく思い出しています。

メールアドレス:izc01144@nifty.com

あいつどうしてる? 新道開発団後日談 5(44 浅野治史)

今、「ふるさと八千代」で妻と二人、きたる千秋楽までを「楽しく、おだやかに!!」をモットーに過ごしております。

オスカーパークゴルフ公園でのツーショットです

楽しいKWVの先輩、後輩の想い出に浸るプランへの参加も体力的に不可能となる日もいずれ来ます。地元の所属サークル①コーラス 2組(年4回の演奏会) ②歌声 3組(年2回の演奏会) ③カラオケ 2組 ③フオークダンス 1組 ④習字 1組(年2回の展示会)の運営をお手伝いしています。又、昨年に八千代三田会に入会させて頂きました。

さて、KWVの思い出は今となっては楽しい思い出ばかりなので一つ一つ書いたら一冊の本になってしまいそうです。ご存知の方もおられますが、山を歩きながら「歌い続ける男、ハルチカ」の山の歌は全てKWVで教わり、みんなで歌った歌です。慶應義塾の歌は幼稚舎から大学までで覚えた歌です。歌って歩いていると、学生のその時代にタイムスリップ致します。

東京生まれ東京育ちの私は、昭和44年に塾・KWVを卒業して平成3年まで、会社の地方回りでKWVに失礼致しておりました。そんな私を稲包山新道・開発隊に同期のドンタが誘ってくれて平成10年頃貫通まで、海の日を含む数日間、雨の中、風の中、真夏の太陽の真下でもくもくと草刈を頑張りました。ただ黙々と!!。テント生活を学生以来経験しました。とにかく勢いのある仲間と同じ目的で汗を流すのは楽しいことでした。(「楽しい!!」と言ってお叱りを受けたこともありました) 夕立の豪雨で増水した河を命がけで渡渉して帰山荘したこと。私が崖から落下した時、先輩に受け止めて頂いたこと。いずれにしろ厳しくも優しい先輩・同輩・後輩にKWVのОBとして認知して頂けたのはこのプランでした。

このような厳しい開拓プランで汗だくになった山荘で、皆さんのお許しを得て俳句会を4~5回開かせて頂きました。僭越ですが、私が宗匠を務めさせて頂きました。575、季語必入、季重ね禁止の三つを原則ルールで作品を1人2句以上書いて頂き、皆さんの公表の多い順に、20句程度選出し、僭越ながら私の感想を述べさせて頂きました。川柳、字余り、字足らず、季重ね等々、原則破りの句がポンポン飛び出す楽しい会でした。「季重ね」を指摘させて頂き、「俺の美感センスの歌だ。文句あるか!!。」とお叱りを受けたこともありました。目に青葉、山ホトトギス、初ガツオ⇒山口素堂の3つの気重ね名句もありますしね。

又、言うまでもなく、隙を見つけると山の歌を歌い続けました。いずれにせよ、下記の私のKWV・OB時代への参加は稲包山新道からスタート致しました。

1. 三田会   ①春秋の日帰りプラン②山荘祭④三国山荘の雪下ろし⑤慶應義塾150周年・大分~三田リレーワンデリング⑥ KWV80周年・京都ワンデリング&パーティー 等々

2. 44閑人会 ①三田会の連絡要員②夏合宿③「三国山荘44の木」の植樹(故人橋口氏) ④忘年会他イベント⑤お花見⑥山菜採り(三国山荘ベース) 等々

以上を素晴らしい先輩、後輩の皆さんと楽しんでおり、楽しみました。これからも皆さん!!。ピンピンコロリまでご一緒に楽しく明るく遊んで下さい。よろしくお願い致します。