鶴見川堤の朝と夕暮れ (34 小泉幾多郎)

天気の良い日に誘われ近くの新横浜付近の鶴見川堤を朝と夕方と散策しました。(撮影時刻 9:39と17:39)。

夕方は太陽が落ちるまで若干時間があったので、堤の草むらに腰掛け のんびりしていたら、老若男女が通る通る。自転車を走らせる人、ジョギングの人、颯爽と歩く人、杖を突きながらよぼよぼ歩く人等通る人は千差万別。コロナ騒動なんかどこ吹く風、あるいはコロナウイルスに負けない抗体作り?…の人たちが通り過ぎるのに見とれてしまったことでした。

改めてじっくり拝見、いい写真ですね。僕の好みとしては夕暮れの川面の夕映えが特に印象的です。

運動不足なので今日は調布駅まで、京王線にして4駅分、歩いてきました。50分、4.5キロ,8000歩少々。

 

20年3月 月いち高尾報告 (39 堀川義夫)

 

コロナウィルスの蔓延が懸念される中、3月の梅を見ようという企画を懸念しながら、募集をかけたところ意外にも当初は27名の参加申し込みがあり、びっくり仰天! 又、暖冬が続いたので梅は散ってしまったのでは? 等々不安材料が一杯の企画でした。ところが・・・

やはりコロナウィルスの為か、参加を止める人、当日、日にちを間違えた人、他のイベントが中止になり急遽参加したいという人・・・結局のところ参加者は18名になりましたが、楽しいワンデリングが出来ました。

当日は10時高尾駅北口に集合。そこから徒歩で小仏沢に沿った梅園を順番に訪れました。遊歩道梅園、関所跡にある関所梅園、めったに行かないであろう荒い梅園、天神梅園は真っ盛り、湯ノ花梅林は綺麗に咲いているものの中には入れず、道を歩きながらの観賞をして、今日のお楽しみの一つ、摺指(するさし)の峰尾豆腐屋で小休止。木綿豆腐、寄せ豆腐、生揚、におからドーナッツ。あっという間に18人で食べつくしてしまいました。岡沢さんの用意してくれた薬味、ポン酢が食欲を増しました。

 

天気は、ぽかぽか陽気で今年初めての20°C越えでTシャツで歩くのに丁度よく気持ちの良い日となりました。心配していた梅も木下沢梅園はまさに満開の見ごろで言うことは無し、残念なのはこれまたコロナウィルスの為に梅園内には入れず、簡易トイレなどもなく、広場は工事の資材置き場になっていて、道端でお弁当を開くというやや、艶消しの面もありました。

又、特筆すべきは、若い猪俣さん、品川さんと特別に川名さんのガールフレンド、小野さんが初めて参加されました。恒例のテングの打ち上げはやはりコロナウィルスを警戒してか、わずか9名の参加でした。

 

日 時 2020年3月11日(水)

参加者 中司、中司八恵子、後藤、翠川、高橋良子、小泉、椎名、菅谷、多田、町井、武鑓、相川、猪俣、品川、川名、小野、岡沢、堀川   以上18名

コロナウィルスの影響次第でどうなるかわかりませんが、これからの予定は下記のとおりです。
4月13日(月)、5月13日(水)、 6月3日(水)

”ホワイトハウスの主” 読みました (日本HP OB 五十嵐恵美)

今日は週に一度取っているWESTERN CIVILIZATIONのクラスがあったのですが自粛して特別にアップされたビデオを見ることにして欠席しました.  アンサンブル、ヨガも自粛.   時間はあるのですが、いろいろ何も手付かずで困ります.

ブログ拝読しました. そうですね「次のホワイトハウスの主がだれになるのかわからないが、世界の人たちがあこがれを持ち続けられる国に立ち戻ってほしいものだ」と結んでおられ、私もできればそう望みますが、現実的に、すでにアメリカ(また日本を含む世界のどこでも)古き良き時代に戻るのは難しいと思います. そして戻ってはいけないのではないかしら(?)とも思います.世界中に情報の流れるスピードと共に、価値観の変わるスピードが1991年にベルリンの壁が崩壊した時期を境に増々早くなり、Internetを通じて基本的には(宗教の違いはあっても)今の若い人たちの価値観の地域による差はあまりないのではないかと思います. ただし貧富の差による価値観の差は世界中共通してより大きくなっているのではないでしょうか. 依って政治がますますPOLARIZEする.情報がなければ一方的に与えられた情報を信じて戦争突入ということもあり得る(得た)わけですから、、、情報というものは良きにも働くし、また裏目にも出るということかもしれません.

「自粛行動」に関して私が思いつく米国と日本の違いは、日本人は世の中のために自粛でき(やはり日本人は基本的にはお行儀が良いのでしょう)、アメリカ人は自分のために自粛する傾向があると思います. 今回、スタンフォード大学医学部の教授がCOVID-19に感染したニュースが出た次の日に大学が授業をすべてオンラインに変え(これは大学側が感染源になる可能性の責任を案じての自粛)、又あちらこちらのプライベートの集まりも自粛され、カリフォルニアの「自粛行動」は(現在でも続いていますが)非常に早かったと思います.そういう意味では北海道知事の休校に関する決定の速さは見事でしたね.それから台湾の水際対策の速さにも脱帽しました.やはり台湾は常日頃中国の脅威と戦っているのでしょう.

”83歳 初めての山登り” 鑑賞 (34 小泉幾多郎)

今年は新春早々から映画館で珍しくも3本も鑑賞したが、わが同期のアサ会にも映画好き、特に女性軍の映画通が多く、最近でも、コロちゃん(西川加耶子さん)やチンタ(真木弓子)さんから、映画の推薦があった。

コロちゃんからは、「男と女人生最良の日」。1966年の「男と女」の続編。「あのシャララ、ダバダバダという音楽、古い画面を度々写しながら老いた男女86歳と89歳。なんということないけれどゆったり楽しかった。誰かがクロードルルーシュの自己満足と批評していたけれど私は満足でした」との推奨。だが、残念ながら見逃してしまった。

チンタさんからは「イーディ、83歳はじめての山登り」。「リアル83歳で、長年夫に仕えたイーデイが一人になって昔からの夢の山に登るという話で、私とは真逆、の人生ですが考えさせられた・・・。」との推奨。言われるように83歳で初めての山登りと学生時代から山に登り続けている我々とは真逆の人生と言えるが、この歳になってみると山登りに初めても最後もなく、登る意欲があるか否かになってきたことが痛感させられたのだった。この映画のこと、言われるまで知らなかったが、横浜・東京で、上映館は銀座のチネチッタのみ。原名「Edie Never too late」。画面では、83歳で夫の介護から解放されたある日、馴染みの食堂で、「追加注文には遅い?」と聞いた時の店員のの応えが 「Never too late」。その言葉を聞いたイーディの何とも言えぬ表情!父が生前スコットランドのスイルベン山に登ろうと言われた夢を実現しようとの決意をした瞬間となったのだ。同年輩となり、昨年は同じ歳の会社の同僚の死、12月には山仲間の同僚、足立、丸橋両君を失い、今年に入っても、同年のいとこが亡くなり、ヤクルトファンから親近感を持っていたひまわりに対して月見草にたとえたぼやき節の野村克也氏も亡くなったが同じ歳。こういう時期を迎えても、Never too lateは本当かしら?と疑問符が付くのだが、まあ本当のことだと信じて、巷はコロナウイルス騒ぎの中に、この映画を観たことが、生きる糧になることを!

映画は、山に登るまでの経緯が少々長く感じ、早く初めて見るスコットランドの
山々を観たい衝動に駆られた。スコットランドの山はさっぱりわからないが、このスイルベンは標高723mと大したことないが、湿原の荒野にほぼ垂直に切り立っているらしい。ロンドンから夜行列車でスコットランドのインバネス駅まで行きバスか車で。偶々知り合ったのが登山用品店勤務の若者の車に乗ることに。父が使っていた古いラジウス等の山道具に対し、新しい道具との対比も語られる。その若者がガイドも出来る幸運にも恵まれたり、雨中遭難寸前に駆け込んだ山小屋の番人が一言も発しなかったことに違和感を覚えたが、初めての山登りに誘った父親が遭難寸前の娘を救ったということを言いたいらしい。ボートで湖を渡ったりしながら、無事山頂に辿り着き、素晴らしい景観を眺めるところで終わるが、人を寄せ付けない意固地な老人が山に登ることで過酷な自然と向き合い、今まで自らが築き上げ、暮らしてきた自己の破壊を経て自分の未来を切り開いたということを描いたようだ。明るく希望に満ちたこれからの人生を頑張れ!と言いたいが、これからの残された人生、介護施設を拒否し、娘と喧嘩別れをしたままでは、どういうことになるのか。山での経験を活かし、楽しい後世を生きて行って欲しいと望むばかり。同年齢の我々も同じ。

”なじみ” ということ

晴れた木曜日、久しぶりに床屋へ行ってきた。いまや 床屋 という名前そのものが準死語のようになってきているのだが、場所は京王線聖蹟桜ヶ丘。今はいっぱしの町並みになってはいるが、引っ越し当時は新興地、というか未開地というか、多摩ニュータウンもまだ完成していなかったころ、聖蹟桜ヶ丘、なんていっても ? と思われた時代である。1966年、まわりはまだ空き地ばかりの電鉄ビジネスのはじっこに引っ越した。頭金は父親に泣きつき、何年だったか忘れたが超長期ローンを組むという典型的なスタイルだった。

なにしろ2年前までは原生林だった斜面だ、自然豊かと言えば聞こえはいいが、突然隣家から絹を裂くような悲鳴、しとやかに見えたあの若奥様が 蛇がでたあ! と絶叫したり、雨戸を繰り出せばヤスデがべったりはりつき、冬ともなれば娘が拾ってきた子犬の水鉢が凍る寒さ、家の窓からは多摩川越しに立川の灯が見えたころの話である。引っ越し騒動の直後、どこか床屋くらいあるだろうと駅までの間の田んぼの中に見つけたのが小山理容店。いまでは バーバー小山、なんで取り澄ましてるが、”桜が丘” なんて電鉄会社のキャッチコピーなどは糞くらえ、ここは関戸で隣は連光寺、おめえはどっから来たが知らんが俺はここの生まれで何が悪い、子供のころからハサミ一本でやってきたバリバリのおやじさんの職人気質にほれこんで、それ以来半世紀を超えて、この間ほかの店で行ったのは滞米中の1年間のブランクと、現在の場所に越したとき、近くの店(床屋、なんていうわけがない、なんだかよくわからないカタカナ名前の店)へやむに已まれぬ事情で飛び込んだ1回しかない。

現店主の2代目通称よっちゃんによれば、小生は淵野辺から2時間かけてくる人に次いで遠距離来客リストの2番目であるらしい。数年前まで、埼玉からかよってきた常連がおられたらしいがここの所見えないよし。先代のころは若い衆の見習いを5人もかかえていようかという盛況だったが、昨今の美容だか理容だかわからないカタカナビジネスのご時勢だ、長男の3代目たかちゃんと、女性客に対応するたかちゃん夫人の3人のこじんまりした店。黙って座れば何も言わずに半世紀間変わらぬ髪型にしあげてくれる、先代譲りの多摩弁が愉快な職人肌よっちゃんとの雑談の時間が素晴らしく楽しい。まさにわれ昭和を愛す、という雰囲気の横溢する店である。

桜が丘にはもう一つ、今でも時々顔を出す、このような場所には珍しい本格的なバー UNKNOWN  がある。数えて20年前、開業したての店にぶらりと入ってみてすっかり気に入り、引っ越すまで、ほぼ毎週金曜日には顔を出すようになった。近くに勤務していたサラリーマンやら受験前の大学生やら、顔なじみができ、”金曜日には桜が丘の知性が集まる” などと冗談を言っていたのがなつかしい。微醺を帯びて裏の坂道を自宅まで10分、鼻唄交じりの背中によく月をみることのあった、あの時間もまた、なつかしい。一度、府中でのワンダーOB会ゴルフの帰り、48年卒の佐藤君や51年卒斎藤君を紹介し、酒にかけてはチョーうるさい佐藤も絶賛した店だ。こういう場所のことを なじみの店、というのだろうな、とふと考えた。

だいぶ前の本稿で喫茶店のことをいくつか書いたが、そのほとんどは休業してしまい、昔からのなじみ、と言える古い店は新橋の ウエスト と新宿の ローレル だけになってしまった。店といういわばハードウエアがあるだけではとても馴染み、とは言えない。これからあと何年、勝手なことを言っていられるのかわからないが、新しいなじみ、なんでできるんだろうか。帰途、買い物を頼まれて新宿は伊勢丹まで足を延ばした。サラリーマン時代、背広を買うと言えばここにきめていたから、なじみ、といえなくもないか、と思いながら中へ入ったら、正面の新しいキャッチコピーが目に入った。まさにこれが俺の考えていたことなのかなあ、と偶然に驚きながら、そこはスマホの簡便さで(映画館での撮影は犯罪だそうだが大丈夫かなあ、などととまどいつつ)失敬してきた。

片山勇氏がどういう方なのか勉強不足で存じ上げないが、これは気にいった。字が小さいので特に気に入った部分を接写してみたのが下の1枚である。

小生こと事情があって、終の棲家、ときめていた桜が丘から現在の地へ越してきて10年になる。前の家とは立地構造が違うので、玄関を開ければ隣近所の方々と気楽に顔が合う、とても住み心地のいい場所で、隣人にも恵まれている。子供好きの僕にはありがたいのが、小学生の子供たちが気楽に挨拶していくことである。彼らが成人したとき、そういえばあそこに頑固なおじさん、いたよなあ、などと思い出してくれるだろうか。これって、”なじみ” っていうのかしらん。

20年2月 月いち高尾  (39 堀川義夫)

 

令和2年の初めての月いち高尾は、1月が悪天候で中止になった為、今年は高尾以外の番外編を織り込みたいと昨年からお話していましたが、いきなり番外編の企画になってしまいました。

私が運営をするようになって初めて高尾から離れての企画は、KWV以外の唯一人だけメンバーである川名慶彦さんのご協力を得て、高麗山と大磯の町散策そして川名さんの手作りによる器で、手作りの大理石の石臼で挽いたそば粉を川名さん自らが打ってそれを頂くという贅沢でユニークな企画となりました。

当日は、平塚駅集合でしたが小田急線の事故でバタつきがあり、菅谷さん、武鑓さんが定刻に間に合わず、高麗山へは不参加、残りの17名で向かいました。天候は曇り、気温はハイキングに丁度良い気候でした。思ったより時間がかかりましたが、高麗山から湘南平へと軽めのハイキングで湘南平からは富士山、大島などの展望を楽しむことが出来ました。大磯町への下りは意外にきつく、予想外に時間がかかりましたが20分遅れで川名さんのアトリエに着くことが出来ました。

島崎藤村旧邸

 

菅谷さん、武鑓さんが合流できたあと、総勢18名を二手に分けて、A班は川名邸でおそばを楽しみ、B班は大磯町のボランティアガイドの案内で旧島崎藤村邸の見学、俳諧道場として300年続く鳴立庵、新島襄終焉の地、地福寺など由緒ある大磯町の散策を楽しみました。

 

鳴立庵の静寂

 

1時30分に入れ替わってB班がおそば、A班が観光に行くということで楽しい時を過ごすことが出来ました。

川名さん自作の器も素晴らしく、蕎麦は絶品で細麺と太麺の2種類を打って下さり思わずうなってしましました。そば師匠の菅谷さんも絶賛でした。

 

川名君自慢のそば!

15時に岡さんが現地に赴きセッティングして下さった、駅前の喫茶店風月で全員集合、打ち上げをして解散。ちょっと、歩行時間の判断を誤り、皆様にせわしい思いをさせてしましました。お詫びします。

地福寺の桜

 

 

日 時 2020年2月12日(水)

参加者 後藤、岡、高橋、椎名、菅谷、杉本、町井、三嶋、蔦谷、立川、武鑓、久米、久米行子、中川、関谷、川名、藍原、岡沢、堀川   以上19名

(47 関谷)

 川名さん 御礼が遅れてしまいましたが先日は大変ご馳走になりました。貴兄作のうつわ、陶器で堪能した二種類の蕎麦、天ぷら等々何とも言えませんでした。ありがとうございました。庭木の剪定、必要あらば駆け付けますよ!

 堀川さん  これからも「月いち高尾」の色々な企画を楽しみにしております。3月は都合が付きませんが、4月は参加の予定です。取り急ぎ、と云うか、遅ればせながら御礼まで。

(36 岡)今回のW.では川名さんの蕎麦には驚きました、こんなに美味しい蕎麦は初めての感じでした。今回は時間が少なかったのでガイドは駅の周辺のみでお粗末な案内でした。

前回は大磯の市内もだいぶ歩いたので主な観光場所はしっかりと通っています、最後に夕食を大磯の確りした料理屋で立派な美味しい魚料理でしたが、今回は昼食がメインの一つでしたから、夕方電車で帰る前の一杯でしたので、間に合わせの駅前喫茶店(貸し切り)でのビール中心での飲み会でしたがコーヒー・ケーキの人も来てくれて何時もと違う楽しさもあったかと思います。

岡あちゃんなじみの店で打ち上げ

(川名)堀川さん レポートありがとうございます。みなさんに手打ち蕎麦を振る舞うことができてよかったです。3月も参加できたらよろしくお願いします。

(36 翠川)湘南方面へのワンデルングのご報告拝読しました。ありがとうございます。
数年前(14年前の2014年5月)に高麗山→湘南平→こゆるい浜→旧吉田邸→大磯を歩いたことを思い出しました。
今後も(月イチ高尾の名称に拘らず)リーダーのご判断で活動範囲を広げられることを期待しています。

(36 中司)今回は残念ながら参加できませんでしたが、堀川さんご心配の ”高尾” の名前へのご心配は無用と思います(因縁の ”消灯山” も高尾山域と言えないことはありませんが、それが意地になってる理由でなければいいのですが)。

外国語を学ぶということ (7)   (YHP OB 上南健次)

こういう時代もあったのだと懐かしく読ませて頂きました。

アメリカ生まれ(1935年)の日本育ち(5歳から22歳)のケンは兄、姉(すでにアメリカでの通学経験あり)と違い英語との対面は中学での I am Tom Brown で始まる“Let’s learn English” で周りの人となんら変わりはなかったです。

大きな変化が訪れたのは1958年に徴兵され、日本語は一切無い、完全な英語社会に放り込まれ、半年を過ぎたころに “俺は日本人だ、間違って当たり前だ“ の境地に至って・・、からどんどん前向きに対処し、どんどん会話力が付きました。

日本人は中学から10年近く何らかの形で英語とのお付き合いがあり学んだ単語の数は充分ですので、後は四の五の言わず、単語の羅列で可能な限り早く“日本人だから間違って当たり前”、“お前は日本語は話せないだろう”の境地に入り込めれればしめたものです。

Ken

(編集子注)

上南さん、というのも多少照れるのだが、愛称 ”けんさん” はYHP (現日本HP) 創立時の入社第一号、小生会社時代の親友のひとりである。創立2年目から日本駐在の米人スタッフが増えたため、担当領域にとどまらずバイリンガルの能力を発揮して日米間のコミュニケーションに欠かせない存在になった。専門領域ならともかく、当時まだ力のあった労働組合との交渉など、日本人でさえ苦労する ”腹芸” の場で、労使の橋渡しをする場面など小生も陪席することがあり、その見事な通訳にただ感嘆したものであった。

本稿 ”外国語を学ぶということ” の初めに紹介し、”そこをなんとか” は翻訳できないよ、と教えてくれた人物とは彼のことである。外国 (もっとも本人がその時米国籍をすでに持っていたのかどうかは知らない)の軍隊という特殊社会を経験し、なまじっかな留学生やら企業の駐在員などとは次元の違う環境で体得した、だれだったか語学の権威が言っていた “斬れる英語” とはこういうものだろうな、とあこがれたものだった。

僕らの時代、YHPには単なるゼニカネや成績を越えて、合弁会社という場を得て、なんらかのかたちで日米の懸け橋になろう、という暗黙の了解が全社員の間にあったような気がするし、そういう意味からも英語を学ぼう、というモチベーションがあったのだろう。YHPから日本HPへと変身した時点でできた社史のタイトルがその意気をあらわしているようだ。