ナンカナイ会 夏の集まり

恒例の夏の集まりを8月23日、四谷で開催。今年の参加者は27名、現在の実働人数からいえば70%くらいという驚異的な出席率を記録した。献身的な運営を継続してくれている安東、翠川両兄に感謝。いつも通り、型通りの乾杯からは閉会まで、完全フリーの談笑、哄笑の2時間を楽しく過ごした。

 

2018 夏合宿のこと 続編

快晴、北ァの主峰の展望を満喫した1日だった

第9班(L.40河合)は乗鞍岳漫歩、36・37年が二人、主力は40年の騒々しくも愉快なメンツがそろった。例年通り浅海持参の豪華なケーキの差し入れがあったらしい。以下、河合の記録から抜粋。

肩の小屋に続く雪渓

7/22はバスで肩の小屋口まで上がり歩き始めたが、調査行の時より雪渓が少なくなっており、夏道を探すのに苦労はせず順調に進んだ。チングルマ、ヨツバシオガマなど花盛りだったが、それ以上名前がわからないのはいつものこと、あとからくる4班に任せることにしよう。今日は天気が良く、槍、穂高から薬師、笠など北アが近く、八ヶ岳や南アも遠くに望め、素晴らしい眺望であった。

肩の小屋からは渋滞気味の道を行くことになる。安易に3000㍍が楽しめるとあって、ちいさい子を連れた家族、若い人やツアー客など多くの人たちが楽しんでいた。その中で我々のような平均76歳が12人も歩いているのはやはり異色だった。頂上直下の急登の手前の朝日岳を巻いている所で 休憩をとり最後の登りに備えた。御嶽山が雲の合間に堂々とした山容を見せていた。ピークは30人ぐらいが満杯だが、代わる代わる上がってきて、文字通りの大渋滞。ちょっとふらつきを訴える人もいたが、ともかく全員、元気に登頂できた。お参りを済ませ、オレンジを食べたあと、大変おいしいチョコレートケーキが保冷剤付きで出てきて、皆で12等分の仕方で能書きを言い合い、賑やかなメンバーぶりは健在だった。

下りは足場が悪く、渋滞もあったので、少し時間がかかったが、コマクサの群落が道の両側に現れ、可憐できれい。肩の小屋から先は広い道路、不消ケ池がとても神秘的で良かった。予定した「富士見岳」はカットして、畳平に下り予約しておいたレストランで食事を摂ったが、券売り場で手間取ったり、平湯へのバスに並ばなくてはならないなど、時間がなくなってしまい、お花畑の散策は4人だけが行って、早々に引き返した。

かたや、北部の縦走ルートはだいぶ大変だった様子。

新穂高から笠・弓折をあるいた第10班(L.49  泉名)に参加したオスタ(46 石渡)のつぶやき…….

弓折から笠への稜線に雲が湧く…
 

たぶん、昨年、84歳?で、32年卒の伊澤さんが参加されたのが、夏合宿参加者の中で最年長の記録だと思いますが、私は、第1回(大雨で中止。私は家を出る直前に中止の連絡あり)から参加しております。

ずっと続けて参加しているのは、私1人かもしれません。あとどのくらい山へ行かれるかしら?3日目は、1920メートルを一気に下って、ヨレヨレでした….

新穂高にて出発前の集合

逆光の中でハッピーな一同

ハードな縦走組に対して ”信じられないほどの静かな魅力あふれるウオーキングだった” とリーダーが自賛したのが15班の平湯周辺漫歩。主題を ”体力的に不安がある人も安心な、山と平地ワンデルングの結合” としたこのプランは、さすが地元出身 ”信濃のチヤーチル” リーダー小林正衛の綿密な調査と準備の結実だったようだ。

大黒岳登山口にて

パーティは乗鞍大黒岳という人に知られていない展望台での眺望と高山植物を楽しむ(ほかには夫婦1組にしか会わなかったという)静かな山と、ガイドつきで乗鞍岳の知られざるエリア五色が原久手御越滝(くてみこしだき)なる秘境に涼を求めるという企画を組み合わせ、山から下りては(カミオカンデくらいしか知られていない)歴史ある神岡の街の見学など、2班の松本周辺ワンデルングと並んで今回の合宿のプランのなかでもきわだってユニークな企画だった。参加は長老船曳ドクトル夫妻他12名。

久手御越滝に涼をもとめる

前編上梓後、記録、写真をお送りいただいた各位に改めてお礼申し上げる。また次の機会での再会を楽しみに。

 

 

 

2018 夏合宿のこと - 紹介を兼ねて

KWV三田会が再組織されてから、各種の行事が活発化していき、OB会夏合宿、というプランが1999年から始まった(その前年が第一回のはずだったが、雨天のため中止)。プラン地は雲の平、初代のリーダーは40年阿部康徳、参加人数は24人であった。以後、開催地は後立山、剣などなどで、当初は血気盛んな年代が自分たちの基準をあてはめてプランを作っていた傾向が強いが、OB会の高齢化がすすみ、より広い行動パターンが求められ、登山だけでなく史跡や街並みを歩くプランも加わって参加人数は増加してきている。100人を超えたのが2010年の青木鉱泉集中で、この時は鳳凰を中心とした山岳プランに八ヶ岳山麓の平地Wが付け加えられた。2014年の白馬周辺プランから毎回参加は100人を超え、今回は史上最大、139人の参加があった。

参加人数の増加とともに、高齢メンバーの比率は必然的に上がってくる。今回は特にのこの事実に注目して清宮CL(45)から特に安全な行動を呼びかける姿勢が明確にされたが、一方で卒業したての若手の参加があり、祖父祖母の世代から孫の世代まで、スリージェネレーションに及ぶワンダー一家の楽しさ、広さ、深さが実感された。シニアメンバと新世代メンバの写真を紹介しておこう。

第一班、34年卒がリード,最若手は40年の松枝。最下級生としてそれらしくふるまったかどうかは不明。Lは37 猪股。
左から30年の川上、渡辺、高田と28年の水上。涸沢から奥穂へ行ったはずだが報告では判然としなかった。そんなことより、よく来てくれた!

集中地は北アルプス南部の平湯温泉・平湯プリンスホテル(西武系ではない)で施設、対応、食事とも今までで最高の選択だったのではないか。過去多くの場合、夕食・親睦会の席がバイキング方式だったため、どうしても散漫になる傾向があったが、今回は大広間の純日本式宴会方式で、酒席となれば各代のメンバーが席を回って盃を交わし、談論風発、爆笑哄笑あいつぐ和やかな雰囲気の、夕食と切れ目のない楽しい親睦会になったが、考えてみると、わがKWVOB会、また夏合宿の真骨頂はこのことにつきるのではないか、と思ったことだった。

塾には伝統のある運動部が数多くあり、OB会組織も歴史を誇っているが、ワンダーほど縦のつながりが深い部は無い。体育会にいた近しい友人の話によると”勝負”にかかわる部では、どうしてもその年代の結果が後を引き、例えば優勝した代と成績の悪かった代には深いつながりができない。したがって同期の集まりはあっても、代を越えた付き合いというのはできないということだ。

小生が慶応高校時代、野球部がひさしぶりに甲子園に出たことがある。その1回戦で普通部時代、親しかったクラスメートのTが緊張のあまり3つエラーをして敗北してしまった。仲間内ではもちろんため息はあったがそのことが彼との付き合いに響くなどということは全くなかった。しかし彼はOB会で先輩に叱られ、いびられていつの間にかたたまれなくなり、そのまま部を去った。野球だけが人生のような純粋なやつだったが、そのショックのためだろうがいつの間にか僕らの前から姿を消してしまい、いまも消息は不明。このようなことは考えても見ないワンダーの年代を越えた”縦のつながり”は実に貴重なことなのだ。

もちろん新年会をはじめ多くの世代が集まる機会は多いが、終電の心配もせず、その気があれば夜を徹しても語り合い、歌いあえるこの合宿での親睦の機会は、いままで”ワンデルングのご苦労会”と位置付けられていたけれども、このような場そのものが夏合宿、分散ワンデルングはそのイントロと考えることもできよう。そうすることで、高齢化によって尻込みをしがちな年代の人も、BC直行という機会であれば,安心して参加されるのではないだろうか。

始めに紹介した猪股グループはテーマを修業僧の業績に絞ってその足跡を尋ねたが、同じく”平地ワンデルング”の第二班(L.38 岡田)の行動範囲は塩尻から松本平と広範囲にわたっている。略図にあるように、範囲も広いが対象もいろいろで、まさにワンデルングの王道?なのかもしれない。メンバーの写真はホテル前でのスナップ。

昨年、中央アルプスで多くの参加があった高山植物を堪能する旅は乗鞍・位ヶ原で実施、好評であった。今後もこの種のプランは継続されるだろうが、昨年にくらべて好天に恵まれ、いろいろと知識の向上があったものと期待される。このプランの中心である吉田(44)がこれぞ!と推奨したコバイケイソウのアップを載せておこう。メンバーは昨年のプランが縁で高山植物に開眼?した人のリピートもあったし、今後、合宿の編成ではこのような企画が中核になっていくような気がする。分散プランは上記3本のほか12本でうち乗鞍周辺が4本、上高地・焼岳周辺2本、穂高周辺3本、笠ヶ岳と北部縦走が3本、という内容であった。詳細は各班の記録あるいは今後製作されるはずのホームページにゆずり、ここでは参加されなかった人たちのためにいくつかの集合写真を紹介しておく。経年変化?のため即座に人物の特定が難しいこともあるかもしれないのは計算済みである。

ふーん、何を聞いても知ってやがるなあ

コバイケイソウに始まり現在植物博士を自任する吉田の詳細な説明に感嘆しているのが4班。いつもは何かとうるさい36年組も沈黙しているようである。

同じ地域だが中の湯から焼岳へまわった第8班はリーダー小野田(47)の人柄もありまじめに予定を消化したようだ。その歓喜の山頂での集合写真を送ってくれたので紹介しておこう。

焼岳山頂。快晴。仲間。

西穂稜線へ出た7班(L.47伊川)は36年組を除き予定通り独標を制覇。日曜日でもあり人の多さにへきえきした形であった。

西穂丸山の7班メンバー稜線からメンバーを祝福してくれた笠ヶ岳の雄姿をトップにのせておいた。上高地から西穂まで、と欲張った第5班(L.43 猪股)も人込みと暑さでペースが上がらなかったようだ。

槍穂を映す鏡池で、これぞsatisfaction !

第9班(L.43酒井)は新穂高から双六を縦走。西穂組とは合い向かう形で槍・穂高の展望を満喫した。鏡池での集合写真を紹介しておこう。

BC地で愉快な夜を過ごし、月曜日朝現地解散。ミーティングの最後は例年通りのエールと古き友でエンドとなった。毎回注意しているのだが、われわれの歌う ”古き友” が正調ではない、として啓蒙につとめてきた寺田捨巳の努力は依然、実を結んでいない。

最後に話題を一つ。第一回から今回まで、全合宿参加というカネモトかキヌガサかという記録を46年の石渡美知江が保持している。前人未踏、理論上再現不可能の偉業である。おスタ、まだまだ!

平湯プリンスホテルで全員集合写真。

本稿作成に当たっては、いろいろな方にお願いして写真のご提供をいただいた。厚く御礼申し上げる。なお、この後、さらに写真や感想などおよせいただければ、続編を作成したいと思っているので、ご連絡をお待ちする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

展覧会ワンデルングしてます   (34 小泉幾太郎)

平年より22日も早い梅雨明けの暑さの後は、台風一過後は本土を縦断する豪雨やらで、自然との係わりもなく、80過ぎのアサ会の仲間と一部新聞社の無料チケットを利用しての絵画展示会を漫遊している。

4月、横浜美術館の英国テートコレクションよりのNUDE展。ロダンの大理石彫刻接吻をはじめ、19世紀後半のヴィクトリア朝の神話画や歴史画から現代の身体表現まで西洋美術200年にわたる裸体表現は日本の浮世絵の生活風俗の一断面としてのイメージとは異なる理想的裸体画のオンパレード。

5月、東京都美術館でのプーシキン美術館展は17~20世紀フランス近代の風景画の流れを満喫。

6月、国立新美術館のルーヴル美術館肖像画展、古代から19世紀まで肖像の傑作が集結した。エジプトの棺に由来するマスクから始まり、記憶、記念する、権力の誇示、イメージの伝達のための肖像。権力の顔ではナポレオンコーナーがデスマスクを含む5作品が目立った。古代ローマの皇帝から古今の君主像、華麗な女性像から子供の肖像まで幅広い階級の肖像画の変遷を展開してくれた。
西洋美術館でのミケランジェロと理想の身体展、ミケランジェロ初期の傑作、洗礼者ヨハネを8歳祖子供の姿で表した若き洗礼者ヨハネ像と壮年期の傑作、片足に重心を置いて身体のひねりを出すポーズのダヴィテ=アポロ像が呼び物。古代とルネッサンスを比較しての子供と青年、アスリートと戦士といった男性美と理想の身体のオンパレードは貧弱なる身体の劣等感を今更ながら再認識させられてしまった。古代彫刻の傑作ラオコーンと二人の息子が大蛇に取り殺されるラオコーン像のみ撮影可となっていたので撮ってきた。

世界報道写真展2018、ここ2~3年東京都写真美術館ヘ来ているが、毎年のように、戦闘に巻き込まれた市民や廃墟と化す街を捉えた写真が多く、日本の平和の有難味を感じてしまう。

以上、感想というより。絵画展の羅列になってしまったようだ。こういうタウンウオークもあるよ、ということで同期の連中の現状報告を兼ねて。

谷根千  ー 同期タウンウオーク第三回報告

今回は最近有名になってきた 谷根千 の一部を歩いた。台東区の広報はそのパンフレットで次のように述べている。

谷根千とは台東区 ”谷中”、文京区”根津” ”千駄木” の頭の文字を取った造語です。3つの地域とその界隈に広がる、下町情緒あふれる街並みが残る地域で、特に ”谷中” は ”美しい日本の歴史的風土100選” にも選ばれています。由緒溢れる寺社や名所旧跡、ひとつひとつに名前のついて親しみやすい坂が多いのがこの地域の特徴の一つであると言えるでしょう。

翠川幹夫曰

滝野川区(現北区)西ヶ原で生まれ(と言っても小学校に入学する戦中は長野県に疎開しており、戦後は上中里→駒込と移り住んだので西ヶ原での記憶は殆どない)、会社退職まで駒込に住んでいた者として、この辺りは心の古里であります。奇跡的に空襲を免れ、明治時代からの建物も多く残っていることで、その多くの人達が先祖代々住んでいる奇跡の街なんだと思います。
昼食で蕎麦を食べたお店の前の通り(よみせ通り商店街と言うらしいが)は谷田川と言う西ヶ原を水源として上野の不忍池に流れ込んでいた川の暗渠で、父母達が幼少の明治時代には西ヶ原では子供達が泳いでいた由です。
今回訪れた森鴎外記念館、朝倉彫塑館などの主人公は私などが会社でやっと課長になるかどうかと言う年齢で歴史に残る偉業を既に成し遂げていたと言うことに改めて明治人は若くして立派の人が多かったんだと感じさせられました(NHKのピコちゃんに「ボ~ッと生きてんじゃねえよ」と叱られます)。

堀野達男曰:

上野桜木町で生まれ、寛永寺幼稚園、根岸小・中学から都立白鷗高校に進み勉学に励んだ??私にとって根岸、上野、谷中は守備範囲。 あれから70数年!変わり行く都心の中でも昔の風情を残す谷・根・千はこれから行く機会も減ることで是非参加したかった。根津駅から東大に向かって4~5分の所に住んでいる高齢の姉達が土地・建物を売却して介護付き老人ホームに入居することになった。

不動産業者との売却活動、48年前の相続時に登記漏れした私道の登記で九段下の法務局に日参、来週から売買契約の実行、引っ越しをサポート中。男一人となった今、昔のものは引き取りを「No」と言えず段ボール箱が幾つ来るか戦々恐々!収納場所は無いぞ!岡さんが言っていた年取ってからの引っ越しは大変だぞを只今体験中!それにしても女性は物が多すぎる。そんなに持って行ってホームに収納出来るの?

堀野からはほかにもいろいろアドバイスをもらったが本人は都合つかず不参。当日、千代田線根津駅集合者は 翠川夫妻、岡、吉牟田、山室、栗田、高橋、深谷、高島、中司夫妻。参加予定だった遠藤は親戚にご不幸があり残念ながら欠席、合計11人で根津神社から森鴎外記念館へ出て、三崎(さんさき、と詠むのだそうだ)通りで堀野ご推薦の “菊見せんべい” で懐かしいホンモノのせんべいを購入。結構でした。

このような情緒に関心のない高島がその間に ”11人分席がある!” と、例によって独断専行強硬作戦で確保したそばやで昼飯。これまた、結構。高島も時にはいいことをするんだと一同納得。出てきたところで突然妙齢の美人から声を掛けられ、”外人の方をご案内しているんですが、この方がどうしても皆さんのお写真をとりたいというので、お願いできますか、と。一同仰天するも、ま、国際親善の一助にとカメラに収まる。聞けばオーストラリアの人とか、かの地の週刊誌に ”老人大国日本” なんて記事になるのかもしれない。不思議な体験だった。

それから予定通り谷中銀座(ここで1個30円というメンチカツを栗田が発見、夕食用にとならんだがとても順番がこないとあきらめる一幕あり)、”夕焼けだんだん”を登ってから、”ルノワール” で小憩、ここで山室、栗田、高島は帰宅。その後オヤエ切望の朝倉彫塑館、翠川ご執心の大名時計博物館などを歴訪。このあたりでだれてしまい、予定していた和菓子屋 ”喜久月”は割愛して不忍通りへ下り、千駄木で解散。送歩行距離5.2キロ ほぼ1万歩。この間、不忍通りをのぞくと今様のコンビニスーパーの類の影なし、すべて昭和のころの小規模の店や家ばかり。よかったねえ。

今回の経験から、夏の日にアスファルトの上を歩くのはまっぴらとわかったので、第四回は9月末に予定する。

高橋良子 追曰

昨日は有難うございました。蒸し暑さのせいで少々疲れましたが
散策大いに楽しめましたよ。おせんべ屋さんで手に入れた”浪漫チックマップ”を我が家に戻ってから見てビックリ!
この谷根千の界隈には明治、大正、昭和をとうして子爵、男爵等貴族の屋敷や富豪の邸宅があり作家、画家などの文化人たちも多々居住していたということです。今尚著名人の墓所も沢山あり日本の文化促進に貢献した偉人たちを思い出すところでもありましょう。
余談ですが、この地図で詩人・彫刻家の高村光太郎、智惠子夫妻居住跡を見つけました。千駄木の桜のある広い通りに面し高いアトリエが聳え、二階の窓に赤いカーテンが垂れていて西洋葵の鉢が外に向かって置かれていた、と室生犀星は”我が愛する詩人の伝記”と言う作品の中で書いています。
その頃、1910年前後私は貧窮にあえいていた。田端の百姓家に下宿していた私は毎日の散歩コースにあるそのアトリエを羨望の目でみていた。私はある時期待をもってその家の戸口の呼び鈴を押した。1分30秒ほどして戸口に付いている小窓のカーテンが開き訪問者の風体容貌を見破ってバカにしている目つきの女の顔が現れた。
「たかむらはるすです。いつかえるかわかりません」といい終わると、カーテンをサーと閉めてしまった。それは紛れもなく智惠子夫人だった。
高村光太郎、智惠子夫妻居住跡には訪れなかったので、現在どうなっているか知りませんがこの作品によって当時の風景が見えてきませんか?

守門岳の一日 (40 河合 藍原 武鑓 大平)

 6月1日(金)~2日(土)のワンデルング記録

参加者:L 武鑓、藍原、大平、河合  4名

和泉屋旅館5:30⇒7:00 保久礼登山口7:10⇒7:50  キビタキ避難小屋⇒9:40 大岳10:00⇒10:50 大岳分岐⇒11:20 青雲岳⇒11:40  袴岳(昼食)12:20⇒12:40 青雲岳⇒14:00 大岳⇒16:20  保久礼登山口16:40⇒17:10

おいらこの湯⇒赤城高原⇒20:30荻窪

 行動時間:9:10   休憩:上:5回 下:4回 90+昼食40=2:10

   実働時間:7:00   U3:50 D3:10 

        コースタイム:U3:30 D2:50 

  標高差: 1537-765=772m               歩行距離:9.4km

荻窪13:30に全員集合、車で大湯温泉へ向かい、16時には到着した。お湯はまずまずだったが、食事が今ひとつ、1万円ではあんなものかな。

山行当日は予定より少し早く出て、おいらこの湯をカーナビに入れたら、高齢者施設が出てきて、そこが「おいらこ」と一緒なのかわからず不安の中、出発。国道290号を行き、おいらこの湯が道の左側にでてきて、一安心。そこから県道347号へ入り、一本道を行く。小さな刈谷田川ダムを過ぎると舗装はされているが、狭くなり、相当行ったところでいきなり10台以上が停まっている駐車場に到着した。今日は土曜日だから多いのだろう。

当初計画より、10分遅れで出発したが、いきなり、下調べ通り階段が20分ほど続き、うんざりしたが、そこからは整備されてはいるが、掘れた道で粘土質、雨ではなく、良く晴れていたので、それほど苦痛ではなかったが、歩きにくい。2ケ所ほど展望の良い所があり、おそらく日本海方面だと思われたが、霞んでいて良くわからない。2つ目の清水である天狗清水で道標が大岳まで0.4㌔と記していた。大岳にはかなりの人がおり、社と鐘となにより三角点もあった。少し行くと袴岳が見え、守門の北東斜面が多くの残雪を残し、穏やかな山容をみせる場所で休んだ。

 

そこから左に残雪を残した道を20分ほど下る。前方の青雲岳や袴岳が大きく高くなる。登り返しは笹が多く、きつい登りを行くと大岳の分岐に出る。そこから少しで青雲岳に着く。ベンチがあり、皆、休憩していた。大平さんがここで待っていると言い出し、3人で袴岳へ行くことにし た。すぐそこに見えており、20分ほどだ。最後の急登は少々堪えたが、なんとか登り、ピークに着いた。周り の山が 紹介されており、魚沼三山、燧、平ガ岳、浅草、など霞んではいたが、沢筋に残雪を残した山々が見ることができ た。旅館が用意してくれた弁当を食べたが、大きな「にぎり」2つは無理だった。ゆっくりしてから大平さんが待つ青雲岳へ戻り、下り始めたが、例の「攣り」が3人を 襲った。最初は武鑓さん、手慣れた方法で処置して恐る恐る下りだした。彼はもうプロ級の処理法があり、足を強く縛ったのには驚いたが、これが効果があるというからわからない。すぐに藍原さん、こちらはいつも通り、10分ほど休んであとからついてきた。私も左足に兆候はあったが、それ以上に はならなかった。この間、残雪を5ケ所ほど通過するが傾斜がなく、なんなく通過できる。

青雲と大岳の一番下ったところで私が休憩を提案したが、皆は無視、一気に大岳まで登り返した。結構、足を使ったが20分もかからずに大岳に着いた。そこからはただ下り一方で、想定通りの下山を考えたが、急に遅くなり、想定の1時間以上も時間を要して下りてきた。もう駐車場には2台しか残っていなかった。

いつものことだが、今日もたくさんの人に抜かれた。コースタイムの3割増が我々のペースだが、下りを除くとほぼ想定通りの歩きだった。タフな山だったが、梅雨の合間で天気は良く、カラッとしていてそこそこ汗もかいて、登るには良い気候だった。この山ではブナ林の緑、コブシ、カタクリ、あじさい、シラネアオイなど多くの花があり、なかなか良い山だった。帰路に「おいらこの湯」に入り、赤城高原で軽い夕食を食べて帰った。

(文:河合  編集:藍原)

ウイチに会いに小屋へ行ってきました  (49 山田照敏)

地方の小商いで且つ、後継者もなく家業をどの様に始末していくか、が課題の今日で忙しい毎日で、KWVの行事にもなかなか参加できない状態です。

とは、いえ先日の土日には年一回の49Kwv同期会を小舎に11名で集い、開催しました。その小舎の「ウイチ桜」の下で同期が集まるようになって9回目でした。小舎から毛無山までを歩きました。他のメンバーは三角まであるいは平標山まで足をのばしました。毎回、同じ話の繰り返しをまたまた、楽しんできました。楽しい一刻でした。

「ウイチ桜」植樹の小舎参集を加えると今年が10年連続10回目となります。 小舎が好きだったウイチに会うという思いで集まるのです。

トヨシマにも寄ってきましたが、茂夫妻もおじいちゃん、おばあちゃんになりました。梢ちゃんに2か月になる女児=椿ちゃん=が埼玉にいらっしゃるとのことです。おばあちゃんは2週間に一度ほど「孫通い」らしいです。きっと、毎週でも行きたいでしょうね。

(メールアドレス  yamada1@abekawamochi.co.jp)

 

2018春の日帰り (51 斎藤邦彦)

◆雁ヶ腹摺山(1,874m)◆5月19日(土)◆歩行時間2時間25分◆

大月駅9:20⇒(タクシー45分)⇒10:05大峠10:20⇒(40分)⇒11:00中段広場11:15⇒(35分)⇒11:50雁ヶ腹摺山頂上12:30⇒(70分)⇒13:40大峠⇒(タクシー50分)⇒14:30猿橋⇒(15分)⇒14:45BC地

(本稿写真は34矢郷、51斎藤撮影のものより抜粋)

昨年春、秋と2回続けて悪天候のため「日帰りワンデルング」は中止となり、我々は「雨男の51年」と言われてきたが、今回、前回、前々回の未実施の計画をそのまま提案したところ全体で130名、私の担当する2班には24名の方に応募いただいた。とりわけ傘寿越えの大先輩に申し込んでいただき嬉しさ半分、心配が半分といったところだった。今回はジャンボタクシーを含む5台を予約。大月駅にはタクシーが少なくタクシー会社からこの日は大口の予約が早くから入っていて、と断られた班もあったようで、思いもかけない迷惑をかけた。

心配された天候も明け方から快方に向かい清々しい朝を迎える。参加者を待っていると「連絡メールが来なかったよ」と34年の椎名先輩が来られ、事務局の手配ミスのようでドキッとしたがだが伊川さんがさらっと追加手続き、何事もなかった。優しく許して下さる先輩がありがたい。9時15分着の「はまかいじ」で時間通り全員が揃ってタクシー5台に分乗し大月駅を颯爽と出発…..のつもりだったが、なんとリーダーの小生がザックを駅前に置き忘れたことに気づき駅前信号から引き返すという大失態。タクシー同乗の先輩方から「そういうことが増えるのよ」「安心したわ」と慰めていただいた。

大峠でタクシーを下車し、準備体操を終え登山開始。天候は晴れだが富士山はまだ顔を出さない。サブリーダーを先頭に大先輩から順に隊列を組んで歩く。「時間はたっぷりとっているので、ゆっくり!」と声をかけたが、人数が多いため最後尾の私には先頭がどのような状態かは全く分からなくなってしまう。中段広場で一本をとる。先輩お姉さま方がすこぶるお元気で余裕の楽しいおしゃべり、たくさんのおやつを頂く。前回調査行に来たときは「トラロープ」だったところ2か所がちゃんとした鎖に付け替えられていてこの山域でも登山道の整備が進んでいることが伺える。中段あたりからヤシオツツジが鮮やかに満開、西を振り向くと「塩見岳」「荒川岳」「聖岳」などが春霞の先に残雪のピークを見せている。

1750m地点あたりで濃い「ふみあと」の脇道に入ってしまい引き返すのに約10分のロスタイム、登りのしんどいところだったが無事最後の急登を終え、人工の石垣に見える奇岩「神奈備石(かなびいし)」を過ぎでカヤトの草原に出ると雁ヶ腹摺山の頂上、このタイミングを待っていたかのように富士山にかかっていた雲が切れはじめ雪をかぶった山頂が姿を現し始める。

山頂での記念撮影ののち三つ峠の先に見える富士山を眺めながらの昼食、皆思い思いに陽光の下での眺望を楽しんだ。食事休憩が終わるころに富士山に掛かっていた雲が全て取れはじめ名残惜しく、山頂からの下りの出発が多少遅れたがその分富士山をくっきり見た元気でテンポよく下りは歩き、ほぼ予定通りの時間で登山口の大峠に下山する。

大峠から猿橋にタクシーで向かい、猿橋の袂で記念撮影をした後BC地入り。すでに半数の班は到着しており、懇親会が盛り上がっていた。全体打ち上げ会ではリーダーの私から山行報告をさせてもらったが「参加者全員で1,874mの頂上まで到達したこと。」「富士山、南アルプスの眺望とヤシオツツジが鑑賞できたこと。」を報告できたのは非常にうれしく、2回の流会を補って余りある山行であった。参加者、親睦委員会や幹事団の皆様、ご協力ありがとうございました!

(34 小泉)1年越しにやっと登れた雁が摺山はリーダーはじめとする準備万端と楽しいメンバーに恵まれ、ゆっくりとしたペースにも助けられ期待以上のワンデルングを楽しむことが出来ました。

(36 吉牟田)昼食時に下りで足がつるのを予防し ツムラの68番を飲んだので何とか持ちました。帰宅したら 何時も山の帰りは飲んで来るので何もないわよ!だって….貰って帰ったおつまみでみすぼらしい焼酎でした。夜中に急に 左のももが つり あわてて また 68番のお世話になりました。

(39 小祝)今までのうっぷんを晴らすような好天で快適なワンデルングを楽しめました。リーダーを始めとする幹事の皆さんのご努力に感謝申し上げます。
24名という大部隊にもかかわらず、事故もなく皆で楽しめたのもリーダーの
用意周到な準備とメンバーに恵まれた結果と思います。有難うございました。(44 山中)病み上がりで1年ぶりの山行、なんとか歩きとうせました。

(48 佐藤)お疲れ様でした。素晴らしい山行でした。おかげさまで初夏の山を存分に楽しむことができました。今までのご苦労に敬意を表します。

(48 綱島)おかげ様で とても楽しい山行でした。新緑の気持ちの良い山道から 突如 鎖場が現れたり また急に広々とした草原に出たり。
その都度 声を上げて喜んでいました。変化の楽しいコースでしたね。度々の調査行のおかげですね。ありがとうございました。
沢山の先輩方、楽しくお話しをさせていただきました。またいつか ご一緒出来たら嬉しいです。

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今回の日帰りワンデルングは51年卒の担当であったが、参加人数に対応できるスタッフに限りがあったため、48年から50年卒までが支援、参加人数130人、分散11班という大規模プランを成功させた。CLは51年総務水村哲也君が大阪から駆け付けて指揮に当たった。遠地からのことで苦労も多かったのではないかと推察される。ご苦労様でした。

参加者の年代分布は30年代39人、40年代55人、50年代30人、60年および平成卒が6人であった。部員数したがって卒業者数が少ないなか、60年以降の参加が始まったのはうれしいことだし、43年岩田、44年浅野、51年武藤(石田)君らが家族を帯同して集中地での会合を楽しんでおられたのもほほえましい。集中地は大月市内の猿橋公園という素晴らしいサイトで、設営や帰途のバス便増発まで見事な運営であった。夏合宿、秋日帰りと、これからもKWVスピリットにあふれる社中の集まりが楽しみ、また願わくば60年以降の若手の参加が広がってほしいものである。


 

新歓プランに参加してきました (36 翠川幹夫)

5月4日(金)~6日(日)に浅貝三国山荘で開催されたKWV新歓プランに参加して来ました。OBは平松さん、森田さん、北尾さん、チビ、私、オジイ、オヤカタ、以下はトンベ、ズンロク、ペタ、石倉など十数名、新人は名前は一人も憶えていませんが十数名居たと思います。

今年は雪が少なく、山荘近辺、苗場のスキー場もゼロ、私が宿泊した「三国荘」に数組スキー客が居ましたが神楽方面へ行けば少しは滑れるという状態だったようです。ズンロクが率いて新人学生は浅貝スキー場跡地(リフト残骸などの影も形もありません)で山菜取りを試みましたが殆ど収穫なしのようでした。

私は終に三角山山頂を登り切りました。雪は一片もなく、平標山山頂などに少し残っているだけした。前2回はムラキで引き返しましたが今年は残雪ゼロで言い訳なし、まゝよと言う気持ちで歩き続け、証拠写真を撮って来ました。何となくスッキリです。5月連休時期に三国山~三角山~平標山に雪が無いのは異常だと思います。

夜は例によって山荘庭でバーべキュウー、10数名の新人の自己紹介(一人も憶えていない)、女子部員も数名おりました。女子高出身が2~3人いました。

別の話ですが、例の稲包山の県境の尾根に「トレイルラン」とか言うランナー用の路が計画されていますが(国レベルの話)、湯ノ沢林道から三坂峠への我々が再開発した道(自称アジサイ街道)を「KWVナントカ」という名前で湯沢町が管理することになったようで、チビが喜んでいました。

佃・月島漫歩ー同期タウンウオーク第二回報告

もしかするとまだ昭和の古きイメージがあるかもしれないと、第二回のワンデルングは佃から月島,勝鬨橋を渡って築地、というコースにした。一回目の企画は天候が定まらず延期、4月27日小晴れの一日、参加は翠川、岡、深谷、安東、前田、吉牟田、高橋、高島に中司夫婦の10名。

11時、月島駅集合、佃の古い街並を歩く。船だまり、まだ営業している銭湯、元祖を名乗る佃煮店や、建築に詳しい人には興味があるということだが風を避けるためにくの字の形をしているという路地などが江戸時代に埋め立てられた小さな島に残っている。スーパーでは買えない本場の佃煮を買い込む。

月島は佃島の東側にあった石川島の工場やその下請け企業などの工員さんの家族が密集していた場所で、表通りは現代風になってしまっているがメインの4本の通りを貫く路地のほとんどが原型に近い形で残っていて、テレビ勃興期のドラマ、”バス通り裏”を彷彿させる雰囲気である。住んでいる人たちには迷惑だろうが、失礼してそのうちの一本を通らせてもらい、見つけたコーヒー店で休憩、雑談。この店はたまたま見つけたのだが、オーナーが自分で内装からテーブルにいたるまで手作り中、ということで、木や工作についての蘊蓄を拝聴、ひとり500円は安かったし、オヤエの観察によると、コーヒーが普通の喫茶店にくらべて量?が多かったそうだ。

最初の計画では築地場外市場で寿司を食べるつもりだったが、みさの情報では午後になってしまうと中国人の観光客などで雰囲気もない、ということだったので昼飯は月島の代名詞でもある”もんじゃ焼き”とした。博学の深谷によると、住んでいた工員さんたちの子供たちのおやつでもあり、鉄板の上に広げる食材で文字を書いた教材でもあった。したがって”もんじゃ”でなく”文字”焼きであるとのこと。ほんまかいな。しかしメイン通りの両側に何十と胸を連ねている”もんじゃ焼き店”の数には驚かされた。

勝鬨橋で隅田川の涼風を感じ、晴海通りを北上、順次便利な地下鉄駅で流れ解散。小生の記録ではほぼ9千歩くらいの漫歩であった。

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ジャイ様  翠川幹夫です。
数年(十年?)前にもキンちゃんプランで歩いたこともあって、住吉神社近辺では一寸懐かしい風景もありましたが、旧い古い今にもぶっ倒れそうな民家と超近代的高層ビルのコントラストが何とも言えない面白い風景でした。「もんじゃ風月・月島店」と言う店の味もグーで、別にまた行っても良いかなと思いました。
それともう一つ、あの晴海通りは学生時代や会社に居た時代にも少しご縁があり、良く歩いた道ですが、何と巨大な道になったものだ!と田舎者になった今、感じました。

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ジャイ様、皆様
昨日はこちらこそ佃島プラン楽しませて頂き、有難うございました。
東京に永いこと住んでいながら、佃島行きもはじめて、もんじゃ焼を体験し食べたのもはじめて勝どき橋を渡ったのもはじめて、なんと練馬からやってきた観光客気分でしたよ!でも、佃島の人たちの生活の一端もチラッと覗けました。
オヤエさま
昨日は久し振りにご一緒でき楽しい一日でした。
あのコーヒー店の店名は”虔・・・”でしたかしら?
店主の方が宮沢賢治の作品からつけたとか、おっしゃっていたので
今ネットで検索してみました。短編童話「虔十公園林」が当てはまるように思いますが。検索先はY!(ヤーフーで検索)、ご覧になってみてください。
髙橋良子