「新型コロナウイルスに明け暮れる毎日が続いています・・・」こんな書き出しが常套句になってしまったこの頃です。ある日どこかで突然ブラックスワンが現れて瞬く間に蔓延し、世界中の人々が目に見えない敵に為す術もなくうろたえる日々が続いています。自粛、自粛で遠出もできず、近場の多摩丘陵をひとり歩くのがせいぜいで、しばらくはおとなしく自宅にこもって山の本でも読んで過ごすしかないなと思っていた矢先、手元に一冊の本が届きました。数か月前に甲信山友会の集まりでお会いした菊地俊朗さんからです。
本書は大きく2つのパートから構成され、第1のパートは「上高地牧場50年」と題して菊地さんが執筆されており、第2のパートは「徳澤園の85年」と題し、牧場を閉じてから以降の徳澤園について、現在の徳澤園の当主(4代目)である上條敏昭さんが秘蔵の豊富な写真や資料、多くの人たちからの寄稿文と共に記述されています。
菊地さんは山岳ジャーナリストとして「北アルプスこの百年」や「釜トンネル・上高地の昭和・平成史」の著書も著されており、上高地について深い知見をお持ちの方です。かつては杣の山仕事だけの場だった上高地が、牛馬の牧場へと変わり、国立公園の機運の高まりとともに登山者や観光客の基地に変貌を遂げ、最後まで牧場として残った徳澤の牛番小屋が現在の登山客相手の宿に変わっていくまでの姿を綿密な調査を基に史実をたどりながら綴られています。
私が夢中で槍、穂高に通っていたころは、上高地は入下山の通過点でありそこがかつて牧場だったなどとは考えもしなかったのですが、そう言われれば、徳澤園も小梨平もかつてそこで牛や馬が草を噛んでいた場所だったというのは容易に想像できます。帝国ホテルからバスターミナルに至る左岸一帯と小梨平近辺に広がるカラマツ林も自然林を伐倒した後に植林された人工林だったのですね。これらは上高地が原生の自然ではなく人工との絶妙な調和の下にできあがった自然だということを教えてくれています。
そこが牧場だったと言われれば、誰しも次なる疑問は牛や馬はどこからどうやって連れてきたのだろうと思うわけですが、それについても本書でアーそうだったのかという回答を用意してくれています。そんな上高地牧場運営の中心にいたのが徳澤園初代当主上條百次良でした。
「上高地牧場50年」によれば、上高地牧場は今から遡ること135年前(1885年・明治18年)、百次良が国から上高地一帯の国有地80㌶を牧場用地として借り受けた時からはじまりました。それまでの上條家は島々で鍛冶屋を営んでいました。なぜ鍛冶屋かと言えば、当時の島々周辺の多くの人たちの生業が杣の山仕事であり、鋸や斧を作る鍛冶屋が生まれる必然がそこにあったわけです。最盛期には7、8軒の鍛冶屋があったようです。尽山と言われ適木が伐りつくされ、明治政府になると国から禁伐の令がだされ、生業の道が絶たれて困窮の中で活路を見出したのが、百次良が中心になって実現した上高地牧場での畜産でした。
最盛期は400頭を超える牛馬が放牧されていたと言われます。牛馬道は、最初は島々集落の背後の急坂を登って尾根道をたどり、小嵩沢山を経てジャンクションピークから徳本峠に出て上高地に下るルートでしたが、後に島々谷川のルートが整備されて使用されるようになりました。
当初西穂登山口から焼岳山麓にかけてはじまった上高地牧場は、以後、小梨平、明神と場所を移し、最後に徳澤で幕を閉じるまで50年間続きます。その間、釜トンネルの開通、霞沢発電所の建設、焼岳の噴火、国の史跡名勝天然記念物指定、中部山岳国立公園制定、観光客の増加と続き、2代目の当主喜藤次のとき、松本営林署からの提案を受けて牛番小屋を登山観光客の休憩・宿泊施設に衣替えをすることになって牧場50年の幕を閉じることになりました。
「徳澤園の85年」については、現在の当主である上条敏昭さんが幼いころに見聞きしたことを含め、冬期小屋の番人として徳澤を守ってきた人たち、徳澤を足場に活躍した若き岳人たち、徳澤園を愛し山を愛した文人、俳人、画家、映画スター、登山家たちやそれをしっかり支えてきた上條家の人たちの姿について記述され、いくつものコラムで徳澤園に係りが深かったそれらの方たちのメッセージも紹介されています。
プロのライターによる著作と違い決して卓越した構成が施されているわけでありませんが、徳澤園の歩みを後世に伝えたいという上條さんの強い想いと併せ、彼の上高地の自然と人への愛しみが感じられ、心温まる思いで最後まで読み通すことができました。以下断片的になりますが本書に登場する人たちや団体について紹介させてもらいます。
■伝説のクライマー芳野満彦と冬期小屋
冬期小屋は越冬者や従業員宿泊施設として昭和22年に建設され、そこで芳野さんが冬の小屋番をしていたのは昭和25年からの6年間でした。記憶をたどると、私も学生時代冬山の帰路徳澤の小屋に立ち寄っていろりを囲んでしばし彼と話をさせてもらったことがありました。縁は奇なものと言いますが、そのあと冬の剣岳でも、3日間吹雪で足止めを食らった翌朝、朝日輝く稜線でたこつぼからひょっこり顔を出した彼と出っくわしています。
■山岳画家山川勇一郎のこと
芳野さんが冬期小屋で絵の手ほどきを受けたのが山川勇一郎さんだったと知り驚いています。私も、かつて雑誌「山と渓谷」の表紙を飾っていた山川画伯の絵が大好きで、だからということでもなかったのですが、多分記憶の片隅にあったのでしょう。実は私の息子の名前も山川勇一郎です。
■井上靖と氷壁
岩稜会のパーティが冬の滝谷でナイロンザイルが切れて墜死したあの遭難事故をテーマにした井上靖の小説が朝日新聞に連載されたのが昭和31年でした。そのあと大映で映画化され大きな反響を呼びました。その舞台になったのが徳澤園(映画では徳澤小屋)でした。以来、徳澤園は「氷壁の宿徳澤園」という肩書付看板に掛け替えられました。
■八千草薫と映画監督谷口千吉
お二人の新婚旅行が徳澤だったことは知る人ぞ知るということでしょうか。そのあと自然が大好きなお二人は幾度となく当地を訪れています。敏昭さんが上高地観光組合の青年部時代、二人を音楽祭のゲストに迎えてトークショウを企画した際の記述に「宝塚女優の美しさ、しぐさに酔いしれた・・」という一節がありますが、実感がこもっていました。
■女性初のエベレスト登山者田部井淳子
ご主人田部井政伸さんが書かれたコラム「徳澤園と淳子」によれば、淳子さんは大の徳澤園好きで、「1年に一度はおいしい食事を食べに徳澤園に行こう」と心に決めていたようで、彼の誕生祝に徳澤園に連れてきてくれたと書いています。
■早稲田大学と徳澤園
早稲田が先なのか敏昭さんが先なのかわかりませんが、早大出身で山岳部にも属していた敏昭さんです。昭和24年から平成7年まで46年にわたり早大の体育実技の場が徳澤園だったことや、その指導に当たったのが山岳部員だったのですから、徳澤園が早大山岳部員の定宿だったことは推して知るべしだと思います。
■関西登高会の人たち
昭和22年(1947年)に徳澤冬期小屋建設の際の世話人が関西登高会を立ち上げた人たちだったと記されています。関西登高会は同年に設立され、以来多くのメンバーが徳澤園をベースに登山活動をしてきています。同会の初代代表だった新村正一さんは奥又白に入山するのに橋を架けたいという強い願望持っており、没後それが実現して徳澤園上流の梓川に架橋された時、新村橋と命名されたということは本書で初めて知りました。
■日大医学部徳澤診療所
徳澤園のキャンプ場からは見えない樹間にひっそりとたたずむ診療所があるのをどれだけの人がご存じでしょうか。日大医学部山岳部の学生が夏季休暇中1か月だけ開くボランティア診療所がそれです。東京駅近くに前出の新村氏らが開業した登山用具店、秀山荘を医学部山岳部のメンバーが訪ねたとき、徳澤で小屋番をやらないかと言われて先代の徳澤園当主進さんに会いに行くことになった。それが事の始まりで、その時進さんから診療所をやってみないかと言われて徳澤園の1室を借りて診療が始まったのが昭和27年(1952年)のことでした。
上高地も時代と共に来訪者が増え外国人も多く訪れるようになった昨今、多様な来客に対応するサービスの提供が不可欠になります。そんな時代のニーズに対応しながらも古くからのファンの人たちを失望させない徳澤園であってほしいと願うのは私だけではないでしょう。バスターミナルから10㎞、自らの足で歩かなければ触れることができない景観の中に違和感なく溶け込んで建つ徳澤園とそこを訪れる人々を迎え入れる暖かいサービス。「あとがき」で5代目の上條靖大さんが次のように述べているのが心に残りました。
「世界が益々多様化し、便利になればなる程、変わらない上高地の価値が増す・・・前に進むことも大変ですが、周りが進む中、現状を維持することの大変さを痛感しています・・・サービスは変わるけれども、ルールは変えない徳澤を大切に継承していけたらと思います」と。
こんな後継者がいる限り上高地も徳澤園も安泰でしょう。
(編集子―山川)
申し訳ないが紙面の都合上一部を削除させていただきました。悪しからずご容赦ください。ワンダー仲間や後輩たちにはとても貴重な情報だと思います。
白根君と二人、小生を引っ張り上げてもらった北尾根のことは忘れられません。小生の山歩きの中でただ一つだけの”本格山登り”でした。その後何回か上高地を訪れる機会はありましたが、結婚する前の秋、オヤエと田中新弥と3人で岳沢から奥穂に行った帰り、河童橋の真ん中で、当時三菱金属の現場にいてしばらく会えなかった仲間と劇的な再会をしたのが強烈な思い出です。その男は2年後、癌でなくなってしまい、このときあったのが最後になってしまったからです。
ま、人生、ですな。また、近々。とりあえず御礼とおわびまで。
(注)河童橋で遭遇したのは同期、宮本健。