結婚するって本当ですか

変なタイトルだが、フォークソングの話である。今朝、日課の散歩をしていた時にコスモスが咲いているのに気がついた。別に不思議はないのだが、見たときに急に頭に浮かんできたのが、僕らの年代の人なら記憶にあるだろうが、ダカーポ の確かデビュー曲だったと思うが大変ヒットした曲のタイトルで、その歌詞に ポストのそばには赤いコスモスゆれていた という一節があったのだ。人間の記憶力というのは本当に不思議で、夕べ何を食べたかすら覚えていないのに、40年近く前に聞いた曲の歌詞が出てくる。まことに妙な気持である。

中学生の時、仲間にませたのがいて、小遣いで当時来日したザヴィア・クガーの入場券を買った、と自慢した。このころから、それまで聞いたこともないメロディがラジオ番組に登場した(まだテレビなんてものはなかったのだ)のだが、高校のころ、かのプレスリーが現れ、その後はテレビの普及とともに日本人歌手が主としてアメリカのヒットソングの翻訳ものを歌うのが当たり前になり、カントリーだハワイアンだというのが大学時代。このころ、ブラザースフォアだとかキングストントリオだとか、日本製ではムード歌謡なんていうのが幅を利かせた時代があった。いわゆるフォークソング、というジャンル(本来のフォークソング、というものの定義とは少しばかり違っていたのだと思うのだが)はサラリーマンになってからのものだ。数あるヒットの中で、僕が気に入っていたのは 千賀かほる 真夜中のギター、ビリーバンバン 白いブランコ、そしてこの 結婚するって本当ですか だった。

音楽の専門家やホンモノのファンはどういうか知らないが、ある曲が好きになる、というのは僕の場合はその曲を聴いたときのなにかの特別な思い出とか環境がからむか、これは音楽を聴くということからは外れるのだと思うのだが、メロディよりもむしろ歌詞が気に入る、ということが多いようだ。もちろんこれは歌詞が特に重要なフォークソングとか歌謡曲、というジャンルでの話だが。

今あげた三つの曲の場合、真夜中のギター は米国駐在から帰って、工場現場を知るということで2年ほど、当時製造工場の主力であった、中学卒の人たちの中に放り込まれ、はっきり言えば白い眼を意識しながらなんとか職場に溶け込もうと必死だったころの思い出につながっているし、白いブランコ はなじみやすいメロディが気に入っていた。結婚するって のほうは恋人に去られた女性の気持ちをうたったものだが、その中で あなたに寄りそうその人は 白いエプロン似あうでしょうか という一節が気にいっている。この一節はやはり女性だから書けた歌詞だろう。なぜか、と言われても説明できない。ただ悲しい、悔しい、という気持ちを直接に書くのではなく、あきらめの気持ちを 白いエプロン といいう、たぶん自分がかけるはずだったものを誰かが掛けている、という場を思いうかべている。この感情が伝わってくる。

昨今のポピュラー曲にはほとんどなじみがないが、若い層にはメロディというよりもリズムとかテンポという要素のほうが受けるのだろう。考えてみれば、高校時代、あの ロック・アラウンド・ザ・クロック を初めて聞いた時の興奮と同じなのだろうが、曲が訴えたいものが言葉で表現される、ということももっと大事にされていいのではないかな、と思ってしまう。これは僕が言ってみれば乱読家であり、文字入力のほうが自分の中に醸成されるものが豊かに感じられる、という事情もあるのだが。

そういう意味では、文字、書き方、にも訴え方の違い、濃淡、がある。この ダカーポ の一節が旧仮名遣いで 白いエプロン似合ふでせうか と書かれていたらもっと僕の印象は深かったかもしれない。

 

 

 

エーガ愛好会 (19) ”オデッサ・ファイル” 

80年代、僕らがサラリーマン真っ盛り、方や世界情勢が冷戦構造で回っていたころ、いろんなうっ憤を晴らすはけ口の一つがその頃台頭してきた新進作家の一連の冒険小説だった。このころの小説のテーマは、今日のようにドラッグとかムスリム問題ではなく、国際紛争とかまだ色濃く残っていた第二次大戦の傷跡と言ったものが多かった。勝手に思い出すに、ロバート・ラドラム,トム・クランシー、フレデリック・フォーサイスなどがいて、すでにベテランとしての地位を築いていたジャック・ヒギンズなどと読み比べたりしたものだった。ヒギンズにはヴァルハラ最終指令 と サンダーポイントの雷鳴 という2作がこのあたりのうわさや史実をもとに書かれている。

これら一連の作品の中で、しばしば顔を出したのが旧ナチ・ドイツのいわば負の遺産だった、ユダヤ人に対する人道的犯罪が国際的なグループによって追及され、ドイツを逃れて潜伏していたナチの旧幹部らが発見された、という記事もたびたびあった。当時売れっ子だった落合信彦によれば、彼らはなんとバチカンを後ろ盾とする秘密の工作によって、瓦解寸前のドイツを脱出、南米にいる、ということで、彼の著作には実際にその潜伏の現状を取材した、とするものもある。ただこの人の記述には明らかな創作あるいは歪曲があるとして、毀誉褒貶、なかばというのが現実だ。ただ、彼の本の中に 2039年の真実 というのがあって、米国の国内法の規定によって、その年まで公開することができないケネディ暗殺事件の真相が公開される、というのがある。小生がそれを読むことはまずありえないのが残念至極ではあるが。

この一連の流れの中で、オデッサ という組織があった、という話が出てくる。この組織の存在そのものについても疑義があるようだが、わがウイキペディアは明確に 存在した、と記述している。 オデッサ とは ドイツ語の名前で、 Organization Der Ehemaligen  SS-Angehorigen   (旧SS所属者のための組織)の頭文字である。単に Odessa と言えば安田君が後述するように、ウクライナの主要な都市のひとつであり、調べてみるとアメリカには同じ名前の都市が7つ、存在する。おそらくウクライナ近辺からアメリカに渡った移民の人たちが創った街ではないかと想像するが、フォーサイスは(原文は覚えていないが)ヒット作の一つである オデッサ・ファイル の冒頭に、この題名はこれらの都市の名前とは関係ない、と明記していた。

さてこの SS というのが肝で、長くなるのでドイツ語名は省略するが、親衛隊、というヒトラー直属の組織で、最盛期には125万人の規模であったという。中には西欧第一の武力組織だったとされる武装SSや、ヒトラーに最も近い存在だったという突撃隊SA そのほかがあり、有名な情報組織と警察権をもって人々を震え上がらせたゲシュタポとで、ヒトラーの独裁政権の実行部隊であった。これらの組織こそ、ヒトラーの妄想であるユダヤ人種抹殺計画や強制収容所の運営に当たっていたとして、戦後、人間の尊厳に対する罪 に問われ、多くが逮捕処罰を受けた。ODESSA は此の対象となるSS幹部を国外に逃すための組織であった、ということである。

前述したヒギンズの サンダーポイントの雷鳴はその中でも大物中の大物、マルチン・ボルマンのベルリン脱出から始まる話で、当時英国の指導部にはナチと通ずるものがいて、旧悪の暴露に直面する、という話である。英国出の親独派は、ヒギンズの出世作 鷲は舞い降りた や ウインザー公略奪 にも重要な役目を果たす。このあたり、欧州の仕組みというか歴史は誠に面白いものがある(少し前の本稿で ダブルクロス という本について書いたが、これに述べられている史実もまさに奇々怪々、という部分が多い)。

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(44 安田耕太郎) BS劇場で オデッサ・ファイル を観ました。社会人になって間もない1970年代初め、英作家フレデリック・フォーサイスのベストセラー処女作「ジャッカルの日」と「オデッサ・ファイル」を続けて読みました。両方とも面白かったという記憶が残っています。ドゴール大統領暗殺を画策する暗殺者と阻止する権力側の死闘の物語「ジャッカルの日」は映画でも観ましたが、「オデッサ・ファイル」は初めて。

アメリカン・ニューシネマの代表作「真夜中のカウボーイ」でダスティン・ホフマンと共に好演したジョン・ヴォイトが主役ということで注目して観ました。30歳前後と若いヴォイトです。

ヴォイトの第一印象は娘のアンジェリーナ・ジョーリーは父親の彼にそっくりだということ。西独のジャーナリスト役で、元ナチのための秘密支援組織「オデッサ」との間の暗闘を描いた映画。映画タイトルは、元ナチ親衛隊達の顔写真、名前、所在などを記録したファイル「オデッサ・ファイル」の名称にちなむ。そのファイルをひょんなことから入手したヴォイトは元ナチ親衛隊のひとりになりすまし、「オデッサ」組織内部へ侵入する。年配者になりすました彼の変装や所作、表情はなかなかのもの。50年前の映画なので映像的な迫力は今一でしたが、緊迫感を保ちながら魅せてくれた2時間でした。

若い一人の西独記者がオデッサの過去とその罪悪を暴く熱意に「何故そんなに危険を冒してまで」と不思議でしたが、映画のエンディングに彼の執着した理由が明らかになり納得させられました。ファイルの中にドイツ国防軍大尉だった父親が、ユダヤ人強制収容所の所長だった男(マクシミリアン・シェルが好演)に逆らったとの理由で殺害されますが、その詳細が記録としてファイルに載っていたのです。1961年映画「ニュールンベルグ裁判」でアカデミー主演男優賞を獲得した悪役シェルの演技も見応えがありましたし、彼の姉マリア・シェルがヴォイトの母親役を演じているのも、スリルとサスペンスのストーリー映画を何かしら和ましてくれました。

1960年代から1970年年代初めにかけては、第二次世界大戦、ナチ、東西冷戦、西欧旧宗主国に対する旧植民地国の暗闘などに関連する映画が多く造られたが、「オデッサ・ファイル」もその代表作のひとつ。なお、オデッサは現ウクライナの主要都市で黒海に面した港湾都市。元ナチ党員は史実として南米などへ逃避したのは知られており、実際に映画「オデッサ・ファイル」で描かれたいような組織ぐるみで戦犯者を匿い守ろうとする存在があったことに改めてやはり驚かされる。有名な例として、元ナチ親衛隊将校、ゲシュタポのユダヤ人大量虐殺に関わったアドルフ・アイヒマンはアルゼンチンで逃亡生活の末イスラエル諜報機関モサドによって逮捕され、イスラエルに連行され、1962年、裁判の後、絞首刑に処されました。実際のオデッサ・ファイルの発見はそのアイヒマン事件の2~3年後になりますが、作家のフォーサイスは多分、その辺の動向を興味深く観察し、小説の題材として調べつつ温めていたのであろうと思われます。

(43 保谷野伸)オデッサ・ファイル、ビデオで観ました。ナチ親衛隊の残党を追う、サスペンス&スパイ映画だったのですね。確かに、アイヒマンを思い出します。
私は、この映画も、フォーサイスの小説も全く知識が無く、白紙の状態で観ましたが、ストーリーも面白く、「中級娯楽映画」としてまあまあ楽しめました。
ただ、結末もあっけなく、ヒチコック映画と比べると、少々物足りない気もしましたが・・・・映画観てから貴君の感想読んで、ジョン・ヴォイトやマクシミリアン・シェルのこと等知りました。ありがとう。

 

 

黒部の旅   (39 堀川義夫)

何年振りかで黒部源流を遡行しました。去る9月4日に計らずも今夏2度目の折立から太郎平を登ることになりました。前回は7月30日にソロで折立から太郎平小屋に行き、翌日薬師を超えて立山・室堂までの縦走をしましたが、今回は後輩のクマ&アカズとジェラ(奥本さん)のKWV48年組に誘われ、急に行くことになりました。久しく沢登りなどしていなかったので、沢靴や靴下を新調して臨みました。

初日は、有料林道の開門と同時に折立に行き、太郎平から薬師沢の小屋へ。まあまあのペースで行くことが出来ました。

2日目は薬師沢から黒部川を遡行し、赤木沢出会いから赤木沢に入峡して気持ちの良い、楽しい時間を後輩と持つことが出来ました。とにかくバランス感覚が悪くなっているのと、瞬発的脚力が弱くなっているため、飛び石伝いに行くときなどイメージ通りに上手く行かずに何回も失敗して苦労しましたが、本当に楽しい久々の沢登りでした。細かい説明は抜きにして綺麗な写真をお楽しみください。因みにこれらの私の映った写真以外は、全て携帯で撮ったものです。綺麗に撮れるものと感心しています。

 

太郎平から望む水晶

(編集子)ホリの体力はどうなっているのか、不思議に思わない方が不思議。オヤエいわく、”マグロと一緒で止まってることができないんじゃないの?” と。

 

コロナ第三波に備えよう  (34 船曳孝彦)

第2波が勢いを弱めてきています。完璧には程遠い対策しか打っていないので、感染者0が続くようなことはないかもしれませんが、それでも収束したかに見える日が来るでしょう。そして第3波がやってきます。インフルエンザ流行と重なることが心配ですが、その第3波のためにも、直ちに対策を始めねばなりません。首相交代だからと言って逃げている場合ではありません。

⓵第2波を抑え込むためにも、キッチリ感染者を明らかとして、今からでもヴィールスの封じ込めをしなければなりません。そのためには今まで繰り返してきましたが、PCR検査を概念的には全国民(疑い、接触者、希望者)に行うべきです。今、PCR検査もキット法(しかも一度に多人数同時にできる方法も)や完全自動法、PCRでない方法、抗原検査など色々出てきています。単価も安くなっています。接触者以上は完全公費で、健康希望者には@1,000円程度の自費負担で、1日何十万件もできるよう検査可能拠点を拡大させます。

⓶結果判明まで数時間(できれば2時間以内)に統一する。結果はインターネットにて直ちに(同時に)保健所に連絡する。厚労省がデータを把握する。

⓷保健所では一次のPCR検査自体は行わず、精密検査のみとする。陽性者の病院配布の采配を一任する。保健所業務の現在の業務のうち、陽性者の経過追及、接触者の探求、ならびに検査、病院転院の仲介などは持続する。

⓸軽症陽性者は入院治療、健康陽性者は借り上げホテル等に収容(自宅静養は他人との接触を回避しきれないので原則として認めないこととする)。10日経って検査せず自宅へまたは社会復帰ではなく、必ずPCR検査で陰性化を確認する。それでなければ勤め先との就業の可否論争や、差別、風評被害などが免れがたい。

⓹多人数発生(クラスター)が生じた時は、当該店舗は直ちに休業命令(知事)出来るようにし、国が補償する。

⓺海外からの帰国者、訪日外国人は、全てPCR検査を行い、3時間は空港内に留める。陽性者は入院、指定宿泊施設などへ。

このようにすれば、国費の負担もそれほどかからず(むしろ結果的には安上がりとなる)今のように疑心暗鬼で社会活動することなく、安心して活動でき、経済面ではもっと上向くと期待出来ます。 現在は、3密だ、マスクだ、遮蔽アクリル板だ、大声禁止だ、会食禁止だと、一面大袈裟になっていますが、必要時マスク、そして手洗い、うがいなど、合理的に対処し、楽しい社会生活に近づこうではないですか。

エーガ愛好会 (18)  アパッチの怒り (34 小泉幾多郎)

立派な体格と甘いマスク、1957,1959,1961年、オールアメリカンボーイ即ちすべてのアメリカ人を代表するような男性No.1に推されていたロック・ハドソンが、その人気を得る直前に主演し、インディアンの族長のターザ、ヤングブルに扮した西部劇。

ハドソンは ウインチェスター銃‘73 でも銃に絡むインディアンの族長に扮していた。この頃はまさか後年、健康的で男らしい二枚目が、ホモセクシャルに絡むエイズで亡くなるとは、とても信じられなかった。監督がダグラス・サークとは驚いた。多分西部劇はこれ1本だけと思うが、今回が初見。同監督は、メロドラマの大家として知られ、ロック・ハドソンもこの作品を含め、「風と共に散る」や「翼に賭ける命」等同監督8作品に出演している。西部劇には、合計12本出演しているが、1950~1954年で9本、後は、1961.1969.1973年の3本のみ。

インディアン側から描いた最初の西部劇と言われる「折れた矢1950」の主役、平和主義を志向する族長コチーズが、死の床で、長男ターザと次男ナイーチェ
に、白人とは争わないよう遺言するところから始まる。そのコチーズの顔が、「折れた矢」で、コチーズに扮したジェフ・チャンドラーにそっくりだったが、最後の出演者の一覧を探したが、コチーズの名前は掲載されてなかったので、俳優名は判らずじまい。それにしても、この時代、インディアンを主役にした映画は珍しい。

対白人穏健派と抗争派に分かれ、兄弟が抗争を重ねるが、これに長老の娘ウーナも絡む。居留地における結婚、葬儀等々の風俗・儀式描写も珍しい。インディアンの主役は、白人俳優が色を塗っての出演で、勿論英語を喋るにしても、当時としては、画期的な映画ではなかろうか。居留地の管理を任される警備兵になったターザに対し、抗争派の弟一派に、ジェロニモが加わり、両者の争いは激化を辿る。それに加え、ターザに任せると約束した騎兵隊の将軍が裏切って、インディアンの争いに関与したことから、インディアン対騎兵隊の戦いが、再開することになった。この戦いなかなかの見ものとなって迫力ある最後を飾る。最後は騎兵隊も約束を破った非を認め、抗争派は一掃され、居留地に平和が戻る。

この映画、ユタ州にあるアーチーズ国立公園で撮影されたとのこと。アーチ、尖塔、バランス岩等の様々の景観が素晴らしく、映画の最後に「内務省国立公園局の協力での撮影が可能となった」との字幕が流れた。

(編集子)ウインチェスター銃73 では、置き忘れられた銃をみつけるインディアンのの端役で トニー・カーチス もでていませんでしたっけ? インディアン集落を訪れてそこで恐ろし気な経験をする描写では ”黄色いリボン” のシーンがよかった記憶があります。ロック・ハドソンといえば、ジェームズ・ディーン の出世作 ジャイアンツ を忘れるわけにはいきませんね。

エーガ愛好会 (17)ジョ二イ・リンゴオ のことなど 

(34 小泉 拳銃王 を観た)

鼻の下にひげをたくわえたグレゴリーペックが実在した無法者ジョン・リンゴに扮した西部劇。従来ペックが演じてきた役柄とは、いかにも異質で、最後は、あっけなく殺されてしまう。リンゴは西部きっての早射ちとして名が知られることから、挑戦者が続出して、心が休まることのないガンマンの悲哀を演じる。

ある街でも、リンゴを射とめて名を売ろうとする若者に絡まれ、これを射殺したことから、その兄弟3人に追われることになる。旧知の仲間だった保安官が治める妻子のいる街にやって来るが、此処でもチンピラ若造や息子を殺されたと誤解する父親に狙われたりする。リンゴが会いたい妻は、拒否するものの旧知の保安官や酒場の歌手の説得で、会うことが出来、1年後に牧場を経営し、妻子と3人暮らすことの約束を取り付けたものの、追ってきた兄弟と遭遇。此処で原名のガンファイトが炸裂するものと思ったが、兄弟はあっけなく保安官に逮捕されたものの、ペックは諍いのあったチンピラ若造に撃たれ倒れる。

この映画、西部劇らしきガンファイトは殆んどなく、西部劇の全ては大地からと言われる景観もなく、街中と酒場でのシーンが殆んどで、弟の仇を討たんとリンゴを追う三人の兄弟との時間的切迫感や内攻的で演劇的構成は、1970年前後のニューシネマの先取りとも言える。最後はチンピラに撃たれたリンゴは、苦しい息の中、自分の方が、先に拳銃を抜いたのだから、お前には罪がないと言い、これからは、自分が今まで絶えずガンマンたちから狙われ一瞬たりとも安らげない地獄を生きてきた、その苦しみを、そのチンピラに背負わせようとした。その後教会で葬儀が行われるなか、夕日に向かって一人の男が馬に乗って歩むところで終わる。これがニューシネマもどきの結末。

しかしこの結末に異を唱えた映画評論家がいた。保安官と妻は、とっさの機転で、リンゴに死んだフリをさせたのだ。だから葬儀で、二人とも、賛美歌を歌っていなかった。これでリンゴを狙うガンマンは現れなくなり、これからの静かで平和な暮らしを保証される。馬に乗って去ったのは、リンゴだった?これこそ小生が望むハッピーエンドの結末だが、監督は、ジェシー・ジェイムズを描いた「地獄への道」、グレゴリー・ペックに復讐の怨念に燃える男を演じさせた「無頼の群」のヘンリー・キングだけに、残念ながら、後者の線はないと思われる。

(編集子)この映画、原題は Gunfighter なのだが、小生も小泉さんの感想に同調する。ニューシネマというジャンルではいろんなものを見たが、その中であまり評判にならなかった バニシングポイント が特に好きだ。ニューシネマなる流れの中で売れっ子俳優になったのは沢山思い浮かぶが、この作品の主演バリー・ニューマンはどちらかといえば地味な存在だったように思う。しかしハピーエンドなどはあり得ない展開の中で、満足した笑顔のまま、自らバリアに激突する最後をえらぶ結末は衝撃的だった。

さて、拳銃王。 なんと陳腐な題名か、と思うが小泉さんご指摘のように有名なリンゴオ・キッドの話とくれば、これはもちろん、かの 駅馬車 で若き日のジョン・ウエインが主演した人物であり、荒野の決闘 の 一連の作品のうち、 OK牧場の決闘 ではジョン・アイアランド、トウムストーン ではマイケル・ビーンが演じた実在の人物である。本名は John Peters Ringo で、古典文学を愛する青年だったが兄を無頼漢に殺されて復讐に燃え、3発の弾丸で3人を殺した、というのは史実であるという。駅馬車 では、ウエインがインディアンとの撃ち合いの中で3発だけ残しておいた、その弾丸で3人を倒す シーンが有名だ。ウイキペディアによれば1850年生まれだが1882に惨殺された死体が発見されたという。写真まであるのでご参考までにあげておく。 

小生が好きな日本人ハードボイルド作家 矢作俊彦には、リンゴオ・キッドの休日、というちょっとしゃれた作品がある。主人公がこういう名前で呼ばれている、というだけだが、なぜなのかはわからない。この著者の本名はあきらかでないということだが、司城(つかさき)志朗との共著で面白いHBタッチの本が何冊かある。なかでも 海から来たサムライ という明治初期の史実を織り交ぜた小説は傑作。まだブックオフなら入手できるかもしれない。リンゴオ話からそれてしまったが、ま、いいか。

”徳澤園135年史” を読んで (塾山岳部OB 山川陽一)

「新型コロナウイルスに明け暮れる毎日が続いています・・・」こんな書き出しが常套句になってしまったこの頃です。ある日どこかで突然ブラックスワンが現れて瞬く間に蔓延し、世界中の人々が目に見えない敵に為す術もなくうろたえる日々が続いています。自粛、自粛で遠出もできず、近場の多摩丘陵をひとり歩くのがせいぜいで、しばらくはおとなしく自宅にこもって山の本でも読んで過ごすしかないなと思っていた矢先、手元に一冊の本が届きました。数か月前に甲信山友会の集まりでお会いした菊地俊朗さんからです。

本書は大きく2つのパートから構成され、第1のパートは「上高地牧場50年」と題して菊地さんが執筆されており、第2のパートは「徳澤園の85年」と題し、牧場を閉じてから以降の徳澤園について、現在の徳澤園の当主(4代目)である上條敏昭さんが秘蔵の豊富な写真や資料、多くの人たちからの寄稿文と共に記述されています。

菊地さんは山岳ジャーナリストとして「北アルプスこの百年」や「釜トンネル・上高地の昭和・平成史」の著書も著されており、上高地について深い知見をお持ちの方です。かつては杣の山仕事だけの場だった上高地が、牛馬の牧場へと変わり、国立公園の機運の高まりとともに登山者や観光客の基地に変貌を遂げ、最後まで牧場として残った徳澤の牛番小屋が現在の登山客相手の宿に変わっていくまでの姿を綿密な調査を基に史実をたどりながら綴られています。

私が夢中で槍、穂高に通っていたころは、上高地は入下山の通過点でありそこがかつて牧場だったなどとは考えもしなかったのですが、そう言われれば、徳澤園も小梨平もかつてそこで牛や馬が草を噛んでいた場所だったというのは容易に想像できます。帝国ホテルからバスターミナルに至る左岸一帯と小梨平近辺に広がるカラマツ林も自然林を伐倒した後に植林された人工林だったのですね。これらは上高地が原生の自然ではなく人工との絶妙な調和の下にできあがった自然だということを教えてくれています。

そこが牧場だったと言われれば、誰しも次なる疑問は牛や馬はどこからどうやって連れてきたのだろうと思うわけですが、それについても本書でアーそうだったのかという回答を用意してくれています。そんな上高地牧場運営の中心にいたのが徳澤園初代当主上條百次良でした。

「上高地牧場50年」によれば、上高地牧場は今から遡ること135年前(1885年・明治18年)、百次良が国から上高地一帯の国有地80㌶を牧場用地として借り受けた時からはじまりました。それまでの上條家は島々で鍛冶屋を営んでいました。なぜ鍛冶屋かと言えば、当時の島々周辺の多くの人たちの生業が杣の山仕事であり、鋸や斧を作る鍛冶屋が生まれる必然がそこにあったわけです。最盛期には7、8軒の鍛冶屋があったようです。尽山と言われ適木が伐りつくされ、明治政府になると国から禁伐の令がだされ、生業の道が絶たれて困窮の中で活路を見出したのが、百次良が中心になって実現した上高地牧場での畜産でした。

最盛期は400頭を超える牛馬が放牧されていたと言われます。牛馬道は、最初は島々集落の背後の急坂を登って尾根道をたどり、小嵩沢山を経てジャンクションピークから徳本峠に出て上高地に下るルートでしたが、後に島々谷川のルートが整備されて使用されるようになりました。

当初西穂登山口から焼岳山麓にかけてはじまった上高地牧場は、以後、小梨平、明神と場所を移し、最後に徳澤で幕を閉じるまで50年間続きます。その間、釜トンネルの開通、霞沢発電所の建設、焼岳の噴火、国の史跡名勝天然記念物指定、中部山岳国立公園制定、観光客の増加と続き、2代目の当主喜藤次のとき、松本営林署からの提案を受けて牛番小屋を登山観光客の休憩・宿泊施設に衣替えをすることになって牧場50年の幕を閉じることになりました。

「徳澤園の85年」については、現在の当主である上条敏昭さんが幼いころに見聞きしたことを含め、冬期小屋の番人として徳澤を守ってきた人たち、徳澤を足場に活躍した若き岳人たち、徳澤園を愛し山を愛した文人、俳人、画家、映画スター、登山家たちやそれをしっかり支えてきた上條家の人たちの姿について記述され、いくつものコラムで徳澤園に係りが深かったそれらの方たちのメッセージも紹介されています。

プロのライターによる著作と違い決して卓越した構成が施されているわけでありませんが、徳澤園の歩みを後世に伝えたいという上條さんの強い想いと併せ、彼の上高地の自然と人への愛しみが感じられ、心温まる思いで最後まで読み通すことができました。以下断片的になりますが本書に登場する人たちや団体について紹介させてもらいます。

■伝説のクライマー芳野満彦と冬期小屋

冬期小屋は越冬者や従業員宿泊施設として昭和22年に建設され、そこで芳野さんが冬の小屋番をしていたのは昭和25年からの6年間でした。記憶をたどると、私も学生時代冬山の帰路徳澤の小屋に立ち寄っていろりを囲んでしばし彼と話をさせてもらったことがありました。縁は奇なものと言いますが、そのあと冬の剣岳でも、3日間吹雪で足止めを食らった翌朝、朝日輝く稜線でたこつぼからひょっこり顔を出した彼と出っくわしています。

■山岳画家山川勇一郎のこと

芳野さんが冬期小屋で絵の手ほどきを受けたのが山川勇一郎さんだったと知り驚いています。私も、かつて雑誌「山と渓谷」の表紙を飾っていた山川画伯の絵が大好きで、だからということでもなかったのですが、多分記憶の片隅にあったのでしょう。実は私の息子の名前も山川勇一郎です。

■井上靖と氷壁

岩稜会のパーティが冬の滝谷でナイロンザイルが切れて墜死したあの遭難事故をテーマにした井上靖の小説が朝日新聞に連載されたのが昭和31年でした。そのあと大映で映画化され大きな反響を呼びました。その舞台になったのが徳澤園(映画では徳澤小屋)でした。以来、徳澤園は「氷壁の宿徳澤園」という肩書付看板に掛け替えられました。

■八千草薫と映画監督谷口千吉

お二人の新婚旅行が徳澤だったことは知る人ぞ知るということでしょうか。そのあと自然が大好きなお二人は幾度となく当地を訪れています。敏昭さんが上高地観光組合の青年部時代、二人を音楽祭のゲストに迎えてトークショウを企画した際の記述に「宝塚女優の美しさ、しぐさに酔いしれた・・」という一節がありますが、実感がこもっていました。

■女性初のエベレスト登山者田部井淳子

ご主人田部井政伸さんが書かれたコラム「徳澤園と淳子」によれば、淳子さんは大の徳澤園好きで、「1年に一度はおいしい食事を食べに徳澤園に行こう」と心に決めていたようで、彼の誕生祝に徳澤園に連れてきてくれたと書いています。

■早稲田大学と徳澤園

早稲田が先なのか敏昭さんが先なのかわかりませんが、早大出身で山岳部にも属していた敏昭さんです。昭和24年から平成7年まで46年にわたり早大の体育実技の場が徳澤園だったことや、その指導に当たったのが山岳部員だったのですから、徳澤園が早大山岳部員の定宿だったことは推して知るべしだと思います。

■関西登高会の人たち

昭和22年(1947年)に徳澤冬期小屋建設の際の世話人が関西登高会を立ち上げた人たちだったと記されています。関西登高会は同年に設立され、以来多くのメンバーが徳澤園をベースに登山活動をしてきています。同会の初代代表だった新村正一さんは奥又白に入山するのに橋を架けたいという強い願望持っており、没後それが実現して徳澤園上流の梓川に架橋された時、新村橋と命名されたということは本書で初めて知りました。

■日大医学部徳澤診療所

徳澤園のキャンプ場からは見えない樹間にひっそりとたたずむ診療所があるのをどれだけの人がご存じでしょうか。日大医学部山岳部の学生が夏季休暇中1か月だけ開くボランティア診療所がそれです。東京駅近くに前出の新村氏らが開業した登山用具店、秀山荘を医学部山岳部のメンバーが訪ねたとき、徳澤で小屋番をやらないかと言われて先代の徳澤園当主進さんに会いに行くことになった。それが事の始まりで、その時進さんから診療所をやってみないかと言われて徳澤園の1室を借りて診療が始まったのが昭和27年(1952年)のことでした。

上高地も時代と共に来訪者が増え外国人も多く訪れるようになった昨今、多様な来客に対応するサービスの提供が不可欠になります。そんな時代のニーズに対応しながらも古くからのファンの人たちを失望させない徳澤園であってほしいと願うのは私だけではないでしょう。バスターミナルから10㎞、自らの足で歩かなければ触れることができない景観の中に違和感なく溶け込んで建つ徳澤園とそこを訪れる人々を迎え入れる暖かいサービス。「あとがき」で5代目の上條靖大さんが次のように述べているのが心に残りました。

「世界が益々多様化し、便利になればなる程、変わらない上高地の価値が増す・・・前に進むことも大変ですが、周りが進む中、現状を維持することの大変さを痛感しています・・・サービスは変わるけれども、ルールは変えない徳澤を大切に継承していけたらと思います」と。

こんな後継者がいる限り上高地も徳澤園も安泰でしょう。

(編集子―山川)

申し訳ないが紙面の都合上一部を削除させていただきました。悪しからずご容赦ください。ワンダー仲間や後輩たちにはとても貴重な情報だと思います。
白根君と二人、小生を引っ張り上げてもらった北尾根のことは忘れられません。小生の山歩きの中でただ一つだけの”本格山登り”でした。その後何回か上高地を訪れる機会はありましたが、結婚する前の秋、オヤエと田中新弥と3人で岳沢から奥穂に行った帰り、河童橋の真ん中で、当時三菱金属の現場にいてしばらく会えなかった仲間と劇的な再会をしたのが強烈な思い出です。その男は2年後、癌でなくなってしまい、このときあったのが最後になってしまったからです。
ま、人生、ですな。また、近々。とりあえず御礼とおわびまで。
(注)河童橋で遭遇したのは同期、宮本健。

 

米国の社会制度に思うこと   (37 宍倉勝)

(編集子)米国滞在の長かった宍倉君からの昨今の感想が送られてきた。現在大揺れに揺れている米国の状況は我々から見ても大きな関心事であり、どちらかといえばネガティブなものが多いが、かの国が築きあげてきたインフラの強固さ、忠実さには改めて感心するし、それを信頼して実行しているよき米国官僚組織には敬意を持つ。ひるがえって我が国の相も変らぬ 省益あって国益なし、の現状には愛想が尽きる。新総理、今度はどうか?
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2週間前に米国財務省発行の額面$1,200.00がEconomic Impact Paymentの名目で、私宛てに小切手がおくられてきました。
これは日本の特定給付金10万に相当するものと思います。
更にその後、それを追いかけてThe White Houseヘッドの手紙(給付金の主旨、目的等)が、トランプ大統領サイン入りで(勿論すべて複写ですが)、Follow Upとして送られてきました。
米国の年金は毎月わたしの指定口座に送金されてはいますが、まさか給付金までと驚きました。米国駐在の経験者の皆様にも同じように小切手が送られてきたと思います。
私が1969年米国(LA)に取得してSS#が、米国を離れ13年経った今でも米国の私の身分証明になっています。以上の事に痛く感心させられています。
翻って日本の現状は、10数年以前にスタートした国民番号がい未だに取得数も少なく有効に活用されていません。
日本での定額給付金申請、まず私はNETで申請をしましたが、NET不具合等(?)の理由で、結局紙申請となりました。
3名のIT関連の会社で働いている知り合いの外国人に、日本のIT化について尋ねました。答えは、民間でのIT化は進んでいるが、
政府(行政)関係はかなり遅れているとのコメントでした。安部総理大臣就任時IT化の推進を公約に掲げていましたが、未だに多くの分野でそれが実現されていません。残念ながらITシステムの世界でなにかにつけ日本の立ち遅れが目立ちます。
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(47 武鑓宰)
宍倉さんが受け取られたeconomic impact paymentは以下のような説明になっていますので、宍倉さんは2019か2018年に所得申告されたのでしょうか。小生は申告すべき所得もないのでもらえないものと理解します。
米国年金は家内(米国に住んだことも行ったこともないのですが。。)共々有難く頂いています。トランプが知ったら取り止めとなるのではと惧れますが。
「Who is eligible for the economic impact payment? … Eligible taxpayers
(36 後藤三郎)私は研修ビサでしたが給与はアメリカで最低額-(多分1000ドル/月)を貰っていたので確定申告が必要でした。但し滞在日数が180日以内ですと税金を払わないで済むというので米国から他の国に出張して滞在日数を調整する人もおりました。私はIRS(Internal
RevenueService)と言う税務事務所に出かけて税務申告を行いましたが”出来るだけ見すぼらしい格好で行き生活がきついと”訴えるように先輩からアドヴァイスを貰って出かけました。お蔭で税金は最少額(250ドルほど)で許してもらった覚えがあります。アメリカの社会制度の一面を見た気がしました。因みにアメリカで税金を納めていない海外からの社員は本国の税金も払っていない(180日滞在していないので)と言う輩もおり後年わが国でも租税回避で問題になりました。海外アサインでの仕事は私がNYにいた1970年頃は未だ早い時期でしたので税制以外にもドルの送金も日本からは厳しく管理され年間で一家族で一回のみ500ドルと言う制約があり、アパートの敷金、不動産屋への紹介手数料、ポンコツ中古車の購入などでアット言う間にお金が乏しくなりaerogramと言う開封郵便を使って家族に手紙を送りその書面中で送金をお願いし、日銀に家族が出かけて漸く500ドルが許可されました。その代わりに良き市民として以前、本の中でも書いたようにヴェトナム戦争も踏まえて徴兵登録は行いましたので大丈夫とはいえビクビクして過ごしました。(地域の徴兵登録事務所の人は君は日本人、子供一人(幼児)、年齢30歳オーバーなのでこの国がアウトになるまでは徴兵はないと言われました)。

霧の山稜

今朝、起きてみたらあたり一面、深い霧だった。室温は23度。いつも朝食前に小淵沢駅近くまで新聞を買いに出るのだが、今日は逆方向へ大回りをして八ヶ岳周遊道路(通称ハチマキ道路)へ、途中から甲斐小泉駅へ降りる道へ出た。小海線の踏切まで2キロほどの道が深い森を抜けるこの道で、霧の空気を吸いたかったからだ。途中で車を止めて,車外に出る。すっかり濡れているのであまり深く入るのはやめたが、それでも森の中へ分け入ってみる。15年も前だろうか、渋の湯から森へ入ってみて方向がわからなくなり心細くなった時のことを思い出しながら、しんとした空気を満喫して帰ってきた。

僕にはいわゆるクライマーと呼ばれる人たちの気持ちがよくわかるわけではないが、そのグループの中で著名な芳野満彦の 山靴の音 という本は愛読書のひとつである。大半を占める登攀記録にはほとんど心を惹かれないが、自身で書いた挿絵や短い文章が好きなのである。その中にあるこの一節が特に好きだ。

 

標高3000メートルを超える冬山の霧と山麓の林の霧が同じ色なのかどうか、わからないが、なにか レントゲン色 という一句に心を惹かれる。

山の文学、と言っても芳野とは全く違った雰囲気で好きなのが 霧の山稜 という一冊。2年の夏、金峰からの縦走に連れて行っていただいた金井隆儒さんから勧められて帰京するとすぐに買った本である。今どきなかなかお目にかからない、どっしりとしてそれだけで雰囲気のある本だ。その中の 霧 という一節。

 

霧の中にサルオガセが揺れていた。

シラビソの梢が、無限に重なって続いていた。遠く近くぬれたしわぶきとつぶやきは 落ちる雫の音だった。

 

僕の愛読してやまない本の一冊が愛好者の多いと聞く山口耀久氏の 北八彷徨 である。同氏の人柄もあるのだろうが、彼の文章は多くの場合明るく、時としてユーモラスでもあるが、そのなかでやや違って感じられる 落葉松峠という一文がある。

……..小広い平地になってひらけたその峠は、風と雪と、乱れ飛ぶ落葉松の落ち葉の、すざまじい狂乱の舞台だった。風に吹き払われる金色の落葉松の葉が、舞い狂う雪と一緒に一面に空を飛び散っていた。

滅びるものは滅びなければならぬ! 一切の執着を絶て!

もはやそこに、悔いも迷いも、ためらいもなかった。すべてがただ急いでいた。一つの絢爛を完成して滅びの身支度を終えた自然が、一つの季節の移りをまっしぐらに急いでいた……..

山口氏がこの峠に上った時、どんな気持ちだったのか、2003年夏、畏友山川陽一の計らいで一夕をともにすることがあったので聞いてみたが、それとなくはぐらかされてしまった。それ以上聞くことも失礼と思ってやめてしまったが、なにか口にだすのをためらっておられたような印象が残っている。

だがこの時の同氏の感情と、今、その山麓の霧の中にたたずんでいる自分との間には、何か同じものがあるように思えるのだが。

 

 

 

 

 

ミッドナイト イン パリ を観ました

(菅原)少なくともこの1年は映画館で映画を見ていません。今や、映画はテレビで見るようになりましたが、このウッディ・アレンの「ミッドナイト・イン・パリ」は、わざわざ、日比谷か有楽町の映画館まで行って見て来ました。他に、アレンのどの映画を見たのかWikipediaで調べてみましたが、記憶が判然とせず分かりませんでした。酷い記憶力のせいなのか、それとも、アレンの映画がみな同じようなもののせいなのか。

才気走って見目麗しくと言う言葉は女性に対してのものですが、アレンの映画は正に「才気走って」いますが、残念ながら「見目麗しく」とは行かないところが、常に物足りなさを感じ、終わっても、面白かったなーと言う感慨に浸ることの出来ない小生です。アレンの映画はそんなもんじゃないよとの反論があれば是非お聞かせください。

 

(保谷野)

菅原さん、急遽「ミッドナイト・イン・パリ」を観ました。

作家志望のアメリカ人脚本家が、パリ滞在中毎夜タイムスリップして、ヘミングウエイやピカソ、あるいは、ドガやロートレック等と交流する、という内容で、SF+ファンタジー+パリの観光案内*恋愛・・・そこそこ楽しめましたが、総合的には「凡作の上」といったところでは?ただ、ネットによると、評論家の間では割合評価が高いようで、特に「ジャズの音楽が良い」、とあったので、もう一度サッと観たところ。確かに冒頭の、パリの名所の映像をバックに流れるジャズの調べは心地よく感じました。

(安田)キャサリーン・ヘップバーンの「旅情」がヴェニスを見事に紹介したように、この映画はパリの観光案内カタログのように、名所を特に芸術に関係する場所を紹介していてパリ好きには堪らないかも。例を挙げると、オランジェリー美術館のモネの大作「睡蓮」、モネのジヴェルニーの家と睡蓮の池、ロダン美術館の「考える人」、ヴェルサイユ宮殿と探偵が逃げ込んだ宮殿内「鏡の間」、ピカソ達がベル・エポック時代(1920年代)住んでいたモンマルトルの集合アトリエ兼住宅「洗濯船」、オペラ座、モンマルトルの「ムーラン・ルージュ」とカンカン踊り+ロートレック、コンコルド広場などなど。夜のシーンの多くを占めたモンマルトルの石畳の裏通りの風情も情緒があって「いかにもパリ」を感じさせて良かった。

登場する過去の有名人も枚挙にいとまがないくらいに出てくる。ピカソの愛人アドリアとして登場し、主人公の小説家と恋仲になる仏女優マリオン・コティヤールは2007年「エディット・ピアフ~愛の賛歌~」でピアフ役を演じ、仏女優としてはシモーレ・シニョレ(1960年「年上の女」)以来、二人目のアカデミー主演女優賞を獲得している。映画のシーンで面白かったのは、マリオンは小説家と会った1920年頃の時代に居座りたいのに、小説家は1890年頃のパリに行きたいと意見が相違して別れてしまう。仏人として彼女の達者な英語にはビックリ。
もう一人、オスカー受賞俳優が登場。つい先日観たばかりの「戦場のピアニスト」で2002年の主演男優賞を獲得したエードリアン・ブロディがサルバトーレ・ダリ役で出演。これにもビックリ。仏人の英語といえば、エンディングのシーンで主人公が雨の中、骨董屋で働く若い女性ガブリエルと偶然橋の上で会い、腕を組んで立ち去っていくが、この仏女優の英語も見事でした。
2000年以降のウォーホル映画では「マッチポイント」と「ミッドナイト・イン・パリ」がベストの2本という評論記事をどこかで読んだ記憶があります。その2本を観たので運が良かったとも思いました。

(菅原)映画の話しではありませんが、実は、小生、海外勤務で、1990/91年、花の都ならぬクソの都(犬の糞)に家族帯同で住んでおりました。W.アレンの映画だったこともあるでしょうが、そのせいで、この映画を見に行ったのかもしれません。少なくとも、最初の3ヵ月は、日本と全く違うことから、毎日、何故こんなところに態々来たのかと悪態をついておりました。例えば、外に出て空を見上げれば「グチャリ」、余所見をすれば、また「グチャリ」。フランス人の家の中では、まさかこんなことにはなっていないでしょう。つまり、自分のところさえ良ければ、他人はどうなっても構わない、と言う公共道徳の欠如であり、甚だしい身勝手さです。また、役所での各種の手続きでも、昼飯時ともなれば、窓口がピシャリと閉められ、勝手にそのへんのビストロに飯を食いに行き、だからと言って、交替する人もいなければ、整理券もなしで、また、新たに並びなおすなど。一言で言えば、日本では想像も出来ない身勝手さであり、これらのことに散々悩まされました。こう言うことを、毎日、毎日、経験すると、パリが大嫌いになる人がいるそうですが、小生、極めてだらしがないもので、結局は、住めば都。

しかし、これは30年ほど前の、昔の話しです。今や、パリも大層立派な都になっているのではないでしょうか。

(後藤)私はニューヨークの郊外の比較的高級住宅地と言われたScarsdaleと言う街に住んでいましたが毎日、乳母車で公園に息子(赤ん坊)を載せて散歩し帰る頃には車輪の轍がくそだらけで臭くマンションの入り口で清掃作業をやっておりました。フランスは兎も角アメリカの知識人たちも犬の散歩は公園がトイレの代わりのようでした。当時のボスに一連の利己的な(真の個人主義ではなく)行動は日本人には理解できないと言ったら”そうなんだ、それがこの国の問題なのだ”と言われ驚きました。公共なものに対する思いやりが日本人と比べると劣るように思いました。恐らく今も公園の糞は変わらないのでは・・。日本もかなり変わって来てしまいましたが。