題名からはマカロニウエスタンかと思い、監督は全く知らない人だ
主演がウイリアム・ワイラー監督の「コレクタ―1965」で
者を演じた英俳優テレンス・スタンプということからも、異色な西
幼き頃両親を失ったスタンプはメキシコ盗賊団の頭目リカルド・モ
優ジョアンナ・ペテ
題名の青を基調とした風景描写が美しい。空の青き色が際立つ。盗
(編集子)しまった、みればよかった!
旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
題名からはマカロニウエスタンかと思い、監督は全く知らない人だ
主演がウイリアム・ワイラー監督の「コレクタ―1965」で
者を演じた英俳優テレンス・スタンプということからも、異色な西
幼き頃両親を失ったスタンプはメキシコ盗賊団の頭目リカルド・モ
優ジョアンナ・ペテ
題名の青を基調とした風景描写が美しい。空の青き色が際立つ。盗
(編集子)しまった、みればよかった!
昨日ワクチン接種しましたので報告します。2回目は3週間後
・本日、接種した利き腕でない左腕個所を触ると軽い痛みを感じま
受付から終了までは約30分、流れは:受付→体温チェック→書
医師によると、ワクチンが効いてくるのは第二回接種後1-2週
鎌倉市での高齢者へのワクチン対策(5/10より予約手続き開
1. 元気な高齢者が会場に行き接種受ける。自宅―会場往復タクシーチケットが市負担にて提供された。
2. 施設に入居している高齢者は施設にて接種受けている。
3. 自宅で介護受けている高齢者にはまだ、具体案示されていない、―
かかりつけ医師による自宅訪問接種については未発表。医師会と市にて十分な協議できていない。訪問看護師、訪問リハビリ師、ケアーマネージャー、ヘルパーさん
(今回は幸運でした。予約受付は米国在の娘がやってくれました。受付日は5月10日(月)朝9時、シアトル時間9日(日)16時
最初に「土方歳三」を読むつもりだったが、その基になる奴から始めるべきと思い、これを手に取った次第。読まざる記と書いたが、実際には、「はじめに」と巻末の「文献・資料」は読んだ。そこで浮かんだのが以下の疑問だ。
司馬遼太郎は、戯曲の脚本を除いてその殆どを読んだ。何故なら滅茶苦茶面白かったからだ。何度、読んでも面白い、理屈抜きに。原田は司馬の大学の後輩、先輩の関係にあり、司馬を尊敬していると持ち上げているが、「はじめに」を読むと、どうにも気に食わないらしい。そこで、巻末の「文献・資料」を見た。案の定、司馬の本がずらりと並んでいる。疑問が始まったのはここからだ。司馬は、断じて「文献・資料」を拠り所に、事実、或いは真実(らしきもの)を追求する学者ではない。そうではなくて、あることないことをない交ぜにして、面白可笑しく話しを進めて行く正真正銘の小説家だ。英語で言えば、それは「Fiction」と言うことになろう。換言すれば、司馬の想像力、創造力の賜物だ。それは、司馬の本の殆どに、参考文献・資料が見当たらないことでも証明される(原田も、司馬が坂本龍馬ではなく竜馬としたことで、これが創作であることを認めている)。「文献・資料」には、司馬を先頭に、佐藤雅美、中村彰彦、子母澤寛、綱淵謙錠、阿川弘之、堺屋太一などの作家(小説家)がずらりと並んでいる。つまり、彼らの虚妄をだしにして、自己主張しているようなもんで、自己撞着に陥っているのではないかとの疑問だ。そんなものを、400頁にも亘って読むのは無駄なのではないかとの疑問だ。原田さん、文句があるなら、「司馬より面白いものを書いてみな」。また、勝てば官軍(原子爆弾投下による大虐殺)、負ければ賊軍は、先の太平洋戦争でも明らかだ。
新聞やテレビは毎日、若者の路上飲酒を取り上げています。ニューヨークは確か普段でも場所によっては路上飲酒禁止なのにね。路上で飲むのが一種のステータスというか、若者の特権だとか、格好いいことだと勘違いしているのでしょうね。逮捕はできないにしてもワクチン被接種権を放棄させるとか何か方法はないのでしょうか? 感染蔓延防止が路上飲酒禁止で可能になるなんては思いません。しかし公共の場で通行の妨害になったり、空き缶をほったらかしにするのは許せない。もっとも20年以上前には千鳥ヶ淵で、パート先のサッポロビールの人たちと缶ビールを飲みながらお花見散歩をしたこともあったなー。しかし立ち止まることはあまりせず、缶もしっかり所定の位置に捨てたけどね。
ワクチン接種もやっと軌道にのりつつあるようです。皆さんの中にももう1回目が済んだ方もおられるでしょう。しかしワクチンを打ったからといって新型コロナに罹らないわけではありません。かかりにくくなる、罹っても重症化の可能性が低くなるだけです。更に新しい変異株が出てきたら全く無効かもしれません。また接種後に抗体が自分の体の出てくるのは2―3週たった後です。2回接種したのに新型コロナに感染した例の報告もあります。今までどおりマスクを忘れず、公共の乗り物や人混みに長時間いることはまだ避けて下さい。手指の消毒も今まで通り。
接種は痛かったと皆さんおっしゃいます。当たり前でしょう。針を刺して痛いのは生きている証拠です。痛くなかったら心配してください。インフルエンザの予防接種などでは皮下という皮膚と筋肉の間に薬を注入します。かなりガランドウの組織ですから刺した痛み以外にはあまりありません。今回は皮膚の下の筋肉にまで針を刺して筋肉の中に薬を注入します。筋肉は筋繊維がしっかり詰まっていますからそれを押しのけて液体が入ってきて膨らめば周囲を圧迫して痛いのは当たり前です。熱が38℃ぐらい出る人もいます。前もってかかりつけの医師に痛み止めを貰っておくのも良い方法と前回書きました。
もう一つ重要なのは、65歳以上や高血圧・糖尿病・心筋梗塞・脳梗塞・がんなどの持病のある方は、医師がしっかり待機している施設で接種を受け、接種後も15-30分以上はその場から帰らないほうが良いでしょう。政府は注射は歯科医師でも医学生でもいいと言っています。その通りですが、何かあった後の対応は歯科の先生や医学生では不可能です。接種場所の状況はしっかり事前に調べましょう。またこの抗体は6か月程度で低下すると言われています。3回目・4回目の接種が必要にならなければいいですが。
もう一つ、ファイザー社製に続いて、モデルナ・アストロゼネカ社製のワクチンも駆け込みで本邦でも認可されました。ファイザーとモデルナ社製は似たようなものです。しかしアストロゼネカ社製は全く種類が異なります。心筋梗塞・脳梗塞・静脈血栓症など血管系の病気を過去に経験した方は、できれば、できればですが、アストロゼネカ社製は避けたほうが良いかもしれません。贅沢は言えませんが、多少血管系の副反応が多いようです。
(編集子)篠原兄は小生と普通部時代の同期生、医学に進み最近まで医療の第一線で指導的役割を果たしてきた。長く仲間うちにいろいろと情報を提供してくれている。彼の了解を得て今回の騒動に関連したメールを紹介させてもらっているが、KWVのOBであるドクター船曳とも旧知の間柄である。お二人の専門的アドバイスをありがたく咀嚼してコロナ戦争を乗り切ろう。
先日の新聞に好感の持てる演技で多くの作品に出ていた江原達治の訃報があった。数時間後にグーグルを見たら結構の数の哀悼の投稿が寄せられていた。なかでも これで昭和がまた遠のいた という一文が心に響いた。
僕らが大学に進んだ年、石原裕次郎が中退(実際には出席日数が足りなかったとかいう噂だったが)。日活にいた、当時の用語でいえば グラマーガール として名をはせていた芸名筑波久子が入学。同期の美濃島孝俊が、“さっき筑波久子が隣に座った” と興奮して部室に駆け込んできたりした。アメリカ映画に引きずられた形で日本映画もぐんと身近になった時代だった。高校から大学へという一番楽しくもあり、それなりに悩みもあった時期の甘酸っぱい思い出と一緒に訃報を受け止めた朝だった。江原は慶応中等部から高校、大学と僕と同い年だからどこかで接点があったかもしれない、という一種の寂しさもある。
そのころ、石原裕次郎という群を抜いたスターがそれまでの日本映画をリードしていた俳優陣にとって代わりつつあることを見抜いた映画会社は、彼を中心にしたスター群の養成し、それまでの日本映画にはなかったスタイルのアクション映画を売り出すことにに注力していた。その頂点にあった裕次郎直系とみなされた主演級が小林旭、若死にしてしまったが
赤木圭一郎。ほかにも二谷英明、宍戸錠、などなどの名前が浮かぶが、彼らの主演作を支えていたバイプレーヤー陣の中で、目立たないが優れたひとり
として江原の印象が強い。いくつかの作品の中では、加山雄三が主演した 独立愚連隊 独立愚連隊西へ のシリーズでみせた好ましい演技がよかった。この他一連のものでよく見たのは、暗くて渋い感じがよかった中丸忠雄とか中谷一郎、などもよく覚えている。
中谷一郎はその後テレビシリーズ物でもそのキャラクターを生かした活躍していたのでよく知られているのではないかと思う。タイトルを忘れたが、風車の弥七、なんていうのもあったな。
本稿でも書いた通り、目下、加藤剛の 大岡越前 という古いテレビシリーズにはまっているのだが、中心人物のひとり風間駿介を演じているのが和田浩治だ。小林旭と合わせて日活が売り出した俳優だが、バイプレイヤーとしての出番が多かった。このシリーズでは気のいい江戸っ子を好演しているが、赤木同様、 42歳という若さで不帰の客になってしまったのが残念だ。
メインキャラクターとせりあう敵役も思い出す人が多い。小生お気に入りの 俺は待ってるぜ で二谷英明が裕次郎と演じた殴り合いは迫力があった。西部劇では殴り合いは欠かせない要素で、たとえば スポイラース でのジョン・ウエインとランドルフ・スコットとのシーンなどは有名だが、日本映画ではこの裕次郎 対 二谷の果し合いはすごい迫力があったと思っていて、その後、時代劇は別としてあれだけのシーンにはお目にかかっていない。。
敵役といえば欠かせなかったのが阿部徹だろうか。二本柳寛、杉浦直樹も良く見た顔だった。阿部は中でも見る機会の多かったひとりだが、裕次郎のヒット作のひとつ、嵐を呼ぶ男 のインテリやくざは特に凄味があったし、鷲と鷹 での憎たらしさも覚えている。二本柳のほうは独特の声と話し方が妙に記憶に残る貫禄だった。杉浦直樹は 裕次郎物で結構出演していて、
錆びたナイフ の凄味は良かった。俺は待ってるぜ ののちはむしろ剽軽な役回りでお目にかかった。タイトルを忘れてしまったが、テレビのシリーズ物でも楽しませてもらった。ほかには 風速四十米 とか上記 嵐を呼ぶ男 で阿部徹の仲間を演じた金子信夫等も出てくるだけでストーリーが見えるほど,柔もての悪役としてはおなじみだった(本人がグルメで料理番組の常連だったこともつけくわえておこうか。代表作は 仁義なき戦い のはずだが、僕は見ていない)。
アクション映画では当時の力関係からいうと日活の作品が多かった。東宝の作品では裕次郎に匹敵する人気スターが同じく塾出身の加山雄三だが、僕には彼は映画スターというより歌手としてのイメージが強く、椿三十郎 と上記した岡本喜八の 独立愚連隊 などを除くとあまり映画ではお目にかかっていない。結構人気があったようだが若大将シリーズなんかはおふざけだけの愚挙に見えて、一度も見たことはない。
人生もそうだが、などと年寄りめくが、自分の来し方を考えてみて、お互い、ほかの人生にとってはバイプレイヤ―なのだが、本当に多くの人たちに支えられてきたことが実感される。
昭和は遠くなりにけり、か(ついこの間まで 明治は だったのだが)。
私は、東京生まれの湘南育ちで、山口には全くゆかりはなかったが、山口県光市の製鉄所で社会人としてのスタートを切り、その後、東京で偶々巡り合った女性(今の家内)が長州女だったこともあり、(腐れ!)縁が出来てしまい、退職後、母親の介護で里帰りを余儀なくされた家内に付き添って、この11年間、防府での田舎暮らしに明け暮れている次第。
36年卒の一部の方は、塾150周年ウオークでこの町を通過され、多少は馴染みがあろうかと思いますが、人口12万の防府は、山口県内でも古代、中世、近世にわたり最も歴史のある町だと云える。
古代の遺跡は全国各地で発見されて
おり珍しいものではないでしょうが、聖徳太子の弟の来目皇子(クメノミヤ)が埋葬されているのではとされる「桑山塔ノ尾古墳」が中心部近くの桑山公園にあり、立札には、なんと、宮内庁管轄とある。6世紀前半のものでしょう。
中世になると、8世紀の奈良時代に周防国の国府や国分寺が設置され、周防の国(現山口県)の中心都市として発展。
因みに、我が家の周辺には休耕田が多い。
宅地開発の際、遺跡の初期調査は市の文化財調査係が行うが、遺跡の痕跡が見つかると、開発者が自費で調査・発掘・記録保存を行わざるを得ず、多額の経費を要する為、躊躇・断念するようだ。
平安時代になると、学問の神様・菅原道真が大宰府に左遷される途中で、防府の地に立ち寄ったことから時の周防国司が904年に社を建立。京都・北野天満宮、福岡・太宰府天満宮とともに日本三大天神の一つに数えられ、日本で一番古い天神様と云われている。
天満宮への参道の石段に毎春飾られる花の鉢植え。5月中旬の花回廊フェスタ最終日に100円/鉢で販売されるが、今年はコロナ禍で電話での事前販売となり、ワクチン接種予約と同様に即刻完売したとのことである。
又、平安時代末期、後白河法皇の祈願所として、東大寺別院阿弥陀寺が創建された。源平の争乱で焼失した東大寺の再建に重源上人が防府に下向し、市内を流れる佐波川の上流から巨大な材木を切り出し、海路、奈良に運んだ土地でもある。
阿弥陀寺は西日本随一のアジサイの名所としても有名で、その季節に、生前、当地を訪ねてくれた同期故岩崎拓夫君に言わせると、鎌倉の明月院のアジサイより素晴らしいとのことだった。
江戸時代に入って、毛利藩藩主輝元は、前出の温暖で瀬戸内海に面した防府市内桑山に築城を考えていたが、西国大名の力を恐れた幕府はこれを認めず、日本海側の環境厳しい萩に追いやったとされている。
その後、長州藩は鳴りを潜めていたが、幕末に幕府への不満と西欧列強への危機感が一気に爆発。吉田松陰、伊藤博文等々は萩から防府に出て、防府・三田尻港から、海路、大阪、江戸へと進出し、明治維新へとつながった。
1945年夏、防府の陸軍航空基地、鐘紡紡績工場等々が米軍グラマンの空襲を受けたようだが、歴史的建造物は被害をまぬがれた。最近では、歴史から取り残された、話題にも上がらない一地方都市となってしまったが、マツダ、ブリジストン、協和発酵等々の産業を抱え、財政的には健全。
千葉県柏市にマイホームがある身ながら、あと数年は長州に留まることになりそうです。コロナが落ち着いたら、是非、お出掛け下さい。ご案内します。お待ちしております。こちらの方言で「待ちょるけん、おいでませ!
西部劇が殆んど作られなくなった1980年代後半ばに作られ、妙にひねり回さず、昔ながらの王道を行く西部劇として製作されていると
ということは、西部劇ファンにとっては、西部劇らしい西部劇だか
開幕は小屋にいるスコット・グレンが数人の其処には、土地独占を企てる牧場主レイ・ベイカー
この4人を演じるグレンは勇気ある人物として際立った存在、クラヘンリーライフルを軽々と使いこなす黒
ーを仰せつかったリンダ・ハ
最後はグレンの馬が牧場主ベイカーを蹴り殺し、クラインと保安官
決シーンで、デネヒーがピストルを取り出しやすいように上着をさ
(西部を征服した銃)
ヘンリー銃は、1860年にM1860 ヘンリー・ライフルとして発売された。1862年の夏頃から10月までの間に900挺が製造され、1864年までに一月当たりの生産数は290挺に達し、1866年の生産終了時までに約1万4,000挺が製造された。南北戦争中、ヘンリー銃は多くの北軍兵士に用いられていた。1分間に28発もの銃弾を発射できるこの銃に対し前装銃を装備していた南軍兵士達はこの「16連発銃」に直面すると、「北部野郎の銃は日曜日に弾を込めれば一週間ずっと撃てる」と驚愕したといわれている。
コルト社製リボルバーは開拓時代において保安官から巷のならず者に至るまで護身用として所有していた拳銃であるが、それに平行してライフル銃を製造していたのがウインチェスター社である。ヘンリーライフルに側面装填口や先台を付けるなどの改良を施した「M1866」と、その改良型でセンターファイア実包が使える「M1873」によって人気を博した。特にM1873は弾丸の共有可能なコルト「フロンティアシックスシューター」と共に西部を征服した銃とも称されて名高い。
原田伊織氏の一連の著作は読んでいないし、彼についての知見もないという立場で、余談も交えて書く。「リョータリアン」を任じている僕も、明治維新をいかに解釈するかについては少なからず関心を持ち、正統歴史学者からの批判にさらされる司馬歴史感であるが、飽くまで歴史小説の読者としては長い間、楽しませてもらった恩恵に感謝こそすれ、疑問をさほど持たずに過ごしてきた。 司馬の小説が世に出たのが日本の戦後経済復興と発展の時期と重なる1960年代から約30年間に亘り、稀有な経済発展を遂げた我が国の姿を観て、幕末から明治維新を経て世界の列強に肩を並べるまで(と錯覚したとしても)に変貌した激動の明治を明るく前向きな時代として捉える史観に基づく小説が爆発的人気を博したのも頷けることではある。「竜馬がゆく」の坂本竜馬、「燃えよ剣」の土方歳三、「峠」の河井継之助、「世に棲む日々」の吉田松陰と高杉晋作、「花神」の大村益次郎、「胡蝶の夢」の松本良順、「歳月」の江藤新平、「翔ぶが如く」の西郷隆盛、「坂の上の雲」の秋山兄弟と正岡子規など、主人公は皆、明るい楽観的な性格の人物を描いているように見える。司馬夫人は司馬が一番好きだった人物は34歳の若さで結核に罹って亡くなった正岡子規だった、と語っている。迫る死に対しても明るく楽観的であった生き様に惚れたと言う。いずれにしても、歴史上の人物のイメージ或いは出来事は、僕ら一般人にとっては司馬の著書によって大きな影響を受けたことは紛れもない事実である。越後長岡藩の家老河井継之助には興味大であった。「峠」の中に、江戸との行き来の際、三国街道沿いの浅貝(KWVの故郷)に泊るのが常であった、なる記述を見つけて嬉しくなったものである。彼は能力的には明治政府の貴重な役割を果たすことが可能な水準にあっただけに、戊辰戦争で失った惜しい幕府側のタレントの一例だろう。 下級武士による政変が明治維新であったのは間違いない。英語ではMeiji Restorationと訳す。Restorationとは復元、復古、復興、返還と辞書にある。天皇に権力が戻った政変をさす。倒幕運動は、最後は将棋で云う、「玉」をいかに手に入れるかの知能戦でもあった。「錦の御旗」を勝ち取り戴く争いであった。軍事的には、「隊長が悪い・劣る部隊は全滅する」の格言通り、幕府側には優れたリーダーを戴く組織のヒエラルキーも人材も枯渇していたのだ。東照大権現・家康も草葉の陰で嘆き悲しんだことだろう。維新は攘夷か開国かという崇高なイデオロギー闘争の結果と云うよりも、単純に権力奪取の政変、ある種のクーデターだったとも言える。攘夷か開国かは当時の世界の動向の中で他動的に惹起したhot issueだったのだ。それが証拠に、維新が成就すると、それまでの攘夷論者が豹変して明治になって開国、文明開化、富国強兵へと邁進していくのである。 ペリー黒船の来航がきっかけとなる、19世紀半ばの欧米列強の帝国主義の波に巻き込まれていった日本を、世界的な視点で客観視する冷徹な「眼」は当時の日本には存在していない。精神或いは感情論的な攘夷論が支配的であり、列強の力に屈する形で開国論者となった大老・井伊直弼は桜田門外で斃れる。時が流れるに従い、列強の力を見せつけられ世界の趨勢である開国をせざるを得ない空気が次第に醸成されるに至り、明治維新の政変はその最中に勃発する。 明治時代になり実際の政治に当たって、政府と官僚組織は大久保利通、伊藤博文や山縣有朋に代表される元勲にまで上り詰めた下級武士たちの寄り集まりであれば、政治・行政を司った優秀な経験ある人材が量的にも質的にも不足していたのは想像に難くない。ご指摘の通り、小栗上野介、榎本武揚、大鳥圭介、勝海舟など幕臣には経験豊かな有能な人材が沢山いたが、敗戦側とあっては権力の中枢を担うわけにはいかなかった。実際の行政は徳川幕府時代に築いたインフラと人的資源に頼らざるを得なかったという原田氏の指摘はまさに至言である。更に、土台には江戸時代を通じて培われていた、士農工商の全階層にわたる識字率の高さ、藩校に代表される勉学への意欲と知的水準の高さはそのまま明治時代へと継承され、国家運営を効果的に実施する上での重要な人的資源の供給源となったのである。この点、原田理論には全面的に同意である。 国家運営に当たり暗中模索の明治政府は、岩倉具視を団長として大久保・木戸・伊藤らの政府重鎮を伴い、外国視察に2年以上出かけ、政権運営の道しるべと行政の施策を探るべく活路を見出そうと努力する。留守の日本では不満を持つ旧幕府勢力、特に不平士族は、遂には、西郷隆盛、江藤新平などを担ぎ出し、西南戦争・佐賀の乱・秋月の乱などで反政府暴力運動に決起した。彼らの犠牲を経ることなしに明治の近代化は進められなかったという事実は、これだけの大事業に当たっては反対勢力の存在は如何ともしがたく、それを駆逐して前進するしかないのであろう。かくて明治維新が到来し、新しい政治は始まる。明治維新後の政治と国家運営については、それが日本に与えた長期的観点から是々非々の甲論乙駁論争が盛んである。 僕はある視点から以下のように考える。 日本は目指す目的をはっきり認識且つ特定し、それを追いかける或いは追随する場合はすこぶる効果的で効率的に実施することが出来る国家或いは民族である。維新から37年後の日露戦争に勝つに至るまでの国家運営に如実に表れている。西洋先進列強に追いつけとばかりに文明開化、富国強兵、殖産興業の国是の下に、国力を増強し、弱っていた大国「清」との戦争に勝った10年後には、ロマノフ王朝末期で衰退していたとはいえ西洋列強の一国に勝利したのである。勿論、世界政治にあっては、老獪な英国と彼らの利に適う「日英同盟」が存在したし、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトなどの戦争終結に向けての尽力があったことを忘れてはいけない。勝利したにも拘わらずポーツマス講和会議はそれほど日本にとって満足する結果をもたらさなかったと全権大使小村寿太郎は国民から総スカンを食らう。日露戦争に勝利(薄氷を踏む紙一重の勝利)したあたりから日本と国民は、正しく客観的に物を観る眼を失ったようである。伊藤博文の暗殺に至る韓国併合を経て、原爆の悲惨な現実を突きつけられて初めて気づくまで、この国は非現実的で幻想的夢物語に国を挙げて(政府・軍人は間違いなく)酔っぱらっていたかのようである。思い起こせば、日露戦勝利は明治維新の成果と見られ、国家としてある「格」や「立場」を世界の中で獲得した日本は、未経験な状況に置かれ、その後の国家運営に当たることになった。しかし、それから第二次世界大戦敗戦に至る期間は、長期的ヴィジョンも戦略的方策もなかったと云える。他者(多くの場合、自らより上位或いは優位な位置にある)から目的を指摘されないと、自らヴィジョンと戦略に基づく目的を構築して国家運営をすることが困難であるという弱点が露呈された。 同じ弱点が露呈されたケースを20世紀後半から21世紀初めにも見ることが出来る。第二次世界大戦後の焼け野原からの経済復興と成長を成し遂げ世界から称賛され、アメリカの社会学者エズラ・ヴォーゲルをして「Japan as Number One」とまで言わしめたが、またしても国の弱点を曝け出したのである。成長の絶頂期を経て後に訪れるバブル崩壊のあと、未知なる領域に踏み入れた状況下では、ヴィジョンを構築して戦略を練り、それに基づき効果的に戦術を具体的に実施すべきであろうが、経済成長のピーク時に起きたバブル崩壊から今日までの30年間の低迷と衰退の現実には国の弱点が表れた感が強くする。 日本の本質的弱点が露呈された2例を挙げたが、かような日本の歴史的推移を観る時、玉手箱に入って気高く文化も平和も享受した宝のような江戸時代とそこに存在した美徳と遺産は、いかに明治に引き継がれ今日の日本に影響を与えたかをまた、明治維新の功罪、影響についても考えさせられる。そして、今日でも厳然として存在する、将来の繁栄と平和の帰趨を決めかねない日本の本質的弱点をいかに克服するかについて考えさせらるのである。 原田理論の傾聴すべき点として本稿で挙げられる、己の歴史を軽視する風潮がある、とする主張には耳が痛いと云わざるを得ない。江戸時代以来の300~400年の歴史を踏まえ、客観的に史実、遺産、長所、美徳、短所、失敗、結果などを捉えて理解し、「熱し易く冷めやすい」或いは「飛びつき易く忘れやすい」国家の、或いは国民の傾向を直視し、必要であれば、「言うは易く行うは難し」であるが、是正していくべきだと強く思う。例としては異なるが、藤原正彦が主張する「国家の品格」「日本人の誇り」「英語より日本語」なども深く噛みしめたいと思う。
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石神井公園は西武線石神井公園駅から徒歩10分のところにありま
写真は石神井池に隣接する湧水池の三宝寺池です、といっても枯渇
先日散策に出掛けたときは山吹の花があちこちに咲き乱れていて、武将であるととも歌人であった太田道灌の有名な山吹を詠んだ歌だを思い出しました。
(参考 太田道灌)
室町時代後期に活躍した武将。上杉一門の扇谷家2代を補佐し28年にも及ぶ享徳の乱を戦う事になったが、古河公方側と戦うために早急に防御拠点を築かねばならず、更に古河公方側の有力武将である房総の千葉氏抑えるため、両勢力の境界である当時の利根川下流域にいくつかの城を築き、さらに当時江戸一門の領地であった武蔵国豊嶋郡に江戸城(現在の皇居)を築城した。
名将として名高い道灌だが、あるとき父を訪ねて越生の地に来て、突然のにわか雨に遭い農家で蓑を借りようと立ち寄ったところ、娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出した。道灌が後でこの話を家臣にしたところ、それは『後拾遺和歌集』の「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」の歌に掛けて、山間(やまあい)の茅葺き(かやぶき)の家であり貧しく蓑(実の)ひとつ持ち合わせがないことを奥ゆかしく答えたのだと教わった。古歌を知らなかった事を恥じて、それ以後、道灌は歌道に励み、歌人としても名高くなったという。豊島区高田の神田川に架かる面影橋近くに山吹の里の碑があり、1kmほど東へ行った新宿区内には山吹町の地名があって伝説の地に比定されている。また、埼玉県越生にも「山吹の里」と称する場所が存在し伝説の地であるという説もある。
先輩方が先に接種されるであろうCOVID-19ワクチン
本日早速Webで予約を試みたところ(「官」が提供するユーザ・
(安田耕太郎)
僕も世田谷区の住人で、高齢者は向けのワクチン接種予約受付は4月28日開始。早速、予約を試みましたが、28日は電話・インターネットとも混雑して全く繋がらず、ほぼ終日無駄骨。翌日もパソコンの前で粘り続け夕方ようやく繋がり予約完了。それでも第一回目はほぼ1か月後の5月30日、第2回目は6月20日。これでも最短です。KWV同期の世田谷住人で第1回目を5月5日に打ち終えた者もいますが、予約日から起算して1ヶ月以上はザラのようです。僕の家内は6月下旬、7月中旬。ワクチン供給の量とスピード、接種手続きの困難さ、接種の実施法、注射打ち手の人的リソースの問題など諸々あって迅速にことが進まないようですね。
先ずは「注意してコロナに罹らない。君子危うきに近寄らず。」が最重要です。皆さん、精々自宅でエーガでも観て楽しみ、お気を付け下さい。