26日 - 大山へ行ってきました  (39 堀川義夫)

昨日3月26日は、久しぶりの月いち高尾を開催予定でしたが、コロナの感染が止まらない状況を考えて、中止にしました。しかしながら、少人数で行くには問題ないので、ハイキングをお勧めしていました。と言う、言い訳は如何でも良いことなのですが、私は、岡沢君と二人で大山に行くことにしました。天気は上々、大山バス停に9;30に到着して、ケーブルを利用しないで、大山登山名物の石段に挑戦しました。先月の白馬のスキーから帰った翌日に軽いぎっくり腰を患い、リハビリをしていたのですが・・・少し早いかなとは思いつつ背中、腰にテーピングをして出かけました。途中、天気が急変してあられが降ったりしましたが、大山寺、阿夫利神社そして頂上へ。頂上直下では高尾の仲間から開催していれば二十数人が集まっていたのに・・・中止したにもかかわらず、何時ものように10時頃に7名が集まってきて皆で昼飯を食べているんだとの電話を頂きました。

下山はヤビツ峠経由蓑毛に向かいました。楽しい尾根歩きですが、下りはやはり腰に響きます。慎重にゆっくり下山しましたが、結構腰に来ました。でも、3時に無事蓑毛に到着です。

新しいニュースとしてはヤビツ峠のバス停上に「ヤビツ峠レストハウス」出来ました。結構立派な建物で、秦野市が作り業者に運営委託するそうです。何もなかったところですが、バスの待合には最適ですね。3月28日から営業するそうです。

この時期、丹沢周辺はミツマタの花が咲き楽しませてくれますが、知らなかったのですが蓑毛到着10分程度のところにミツマタの大群生地がありました。すごいです。初めてでこんなところがあるんだ!と感激でした。

結局、26日に出かけた - 予期せずして 分散月いち の顛末

ひさびさの 月いち高尾 が3月26日に予定されていたが、やはり環境が定まらず、かつ20人を超える申し込みがあったりして(お国の方針に反する大人数の会合!)、堀川君の英断により中止になった。みんな、一応納得したようだったが、せっかく予定したんだし、”4人以下マスク着用密なし” ならいいんだろ、とふてくされて同期3人、いつもどおり10時に高尾山口に集合したら、なんでえ、なんでえ、猪俣夫妻ぷらす町井かをる、というグループが登場、出かけようかと思っていたら今度は相川正汎が ”どうせひまなんでふらりと” とやってきた。都合7人、相川とみどりは意地を張って歩き、残り5人はケーブル、以後は結果として3班に分かれて山頂広場で落ちあう、という結果になった。

俺たちがこうならホリがどっかにいるはず、と電話したら、いた、いた! 歩いてる途中とかで、はあはあの息遣いの返答はなんと大山、岡沢君とのコンビでこれも ”折角予定したんだから”ワンデルング であった。ほかにも保屋野・安田パーティという予定もあったようだが、この組は予定を早めたようで、当日は現れず。我々は先週、オクガタ同伴であるいたという吉牟田のアイデアで山頂からの下り道途中から4号路へ出るというコースを歩いた。

久しぶりだったので、本来ならば天狗へ行くところだが、ぐっとこらえて有喜堂で汁粉をすすって解散。此処に先日一人で立ち寄った時には,雛祭り人形が飾ってあって、季節感を味わったのだが、今回は雛人形が桜の花になっていて、またまた結構なもんだ、と思った(のだが、よせばいいのにこれは造花だ、などと心ない発言もあった)。いいじゃねえか、要はキモチの問題よ、と写真は撮ってきた。寅さんのいうとおり おめえ、それをいっちゃあおしめえよ ということがあるものだ。

 

エーガ愛好会(57)   ”地獄への道” カラー版! (34 小泉幾多郎)

日本公開された当時は、どういう訳か?米本国ではカラーなのに、日本へはモノクロという時代があったのだ。このエーガのほか、「モホークの太鼓1939」「西部魂1941」「スイングの少女1948」。終戦まもなくで、まだろくに食べ物もない時代ではあったが、馬鹿にされた気がしたし、折角のカラーがモノクロで上映されてどれだけ経済的に得になったのか、未だにわからない。その後日曜映画劇場でカラーで放映されたらしいが、小生は今回初めてカラー版を観たことになる。

実在の無法者ジェシー・ジェームスを描いたものは、この後日本で公開されただけで10数本あるとのこと。流石西部のロビンフットと言われただけのことはある。南北戦争直後のミズーリ州、セントルイス・ミッドランド鉄道が、鉄道建設のため力ずくで土地を安い値段で買い上げ、それに憤慨したフランクとジェシーの兄弟が列車強盗となり、最期ノースフィールド銀行襲撃に失敗、仲間のボブ・フォードの裏切りで射たれるまでの物語。

ジェシーに扮するのはタイロン・パワーで、新聞社主の姪ジー(ナンシー・ケリー)と愛し合い結婚、悪の道と愛との板挟みの悩みながらの捻じ曲げられた生き方をありきたりのヒーローに留まらない役どころを演じきったと言える。ヘンリー・フォンダが兄フランクを、ランドルフ・スコットが、ジーに恋心を抱きながらも、ジェシーを助ける保安官を演じるが、二人とも若さに溢れる時代、主人公になるべき二人が、これだけの役では、観ている方があまりにも欲求不満に駆られたのだった。そのほかにも脇を締める人たちが・・・鉄道会社に雇われ、農民たちやジェームス家の土地を安く買い上げるブライアン・ドンレヴィは落日の決闘1946」で悪役トランバスに扮し、ヴァージニアンに向かって「陽が落ちるまでに町を出ろ」の名言を吐いた。ジェシーに自首すれば、数年の刑で済むと騙し、保安官や判事を馘にし、判決を死刑にする鉄道会社社長は、{駅馬車1939」のウイスキー商人で、最初にアパッチの矢で倒されたドナルド・ミーク。同じ「駅馬車」で女性の護衛を買ってでる賭博師のジョン・キャラダインは、特赦と賞金に眼がくらみ、丸腰のジェシーを背後から射ったボブ・フォードに扮した。

このジェシーを中盤で若干暴徒化するものの、無法者ながら正当化している。逆に鉄道会社の無法に立ち向かう正義とさえ感じる。冒頭からドンレヴィの暴力により、母親が殺されることから、街の酒場で、ドンレヴィを倒し、お尋ね者になるが、本来正当なる決闘と見做されるものだろう。ただジェシーを正当化するのに全力を注いだことから、鉄道会社の横暴が目に余り過ぎとも言える。
全般的に、ジェシーとジーとの恋愛、妻を愛する一児の父親としての葛藤が話の中核を成し、愛の擦違いといった心情が強調されていることから、ジェシーの義賊としての精神的疲弊や堕落のきっかけまでが描かれているところが西部劇らしくないが、活劇面でも、列車強盗での馬の疾走シーンやノースフィールド銀行襲撃での歯切れのいい射ち合い、馬と一緒に、ショーウインドーをぶち破るシーン、断崖から馬もろとも水中に身を投ずるロングショット等のアクションシーンも素晴らしかった。

(編集子)ひさしぶりにブライアン・ドンレヴィの悪役ぶりを見た。小泉解説に少し付け加えると、前にも本稿で書いたが ”大平原” での憎たらしさもさることながら、なんと言っても徹底した演技で見るものを圧倒してしまうのがクーパーと共演の ボージェスト だと思っている(本作品で公開年のオスカー助演男優賞にノミネートされたそうだ)。この映画にふれる人があまりいないのが残念だが、良き日の大英帝国を背景にして、活動場面は砂漠に展開するフランス外人部隊という組み合わせが実によくできている。若き日のスーザン・ヘイワードが出るこの作品はもっと評価されてもいいと思うのだが。本題に戻れば、やっぱりタイロン・パワーてのは顔だけの人だったなあ、と思わせるエーガだった。若いころのランドルフ・スコットも懐かしい顔である。

(余計なことだが ボージェストのDVDはアマゾンで新品980円(在庫1枚)、中古100円、ゲーリー・クーパー大全集(全10作品)1675円)に収録されているとのこと)。

春の訪れ ‐ 八ヶ岳南麓     (42 下村祥介)

 

ジャイ様:昨日は鬱憤ばらしに北杜市の神代桜を見に行ってきました。遠景は鳳凰三山です。少し気が安らぎました。

下村兄:ここへも暫く行っていません。そろそろ水抜きをしないといけない季節になってきましたね。次回の小渕カントリがいつになるかなあ

(ウイキペディア)神代桜は、山梨県北杜市武川町山高の実相寺境内にあるエドヒガンザクラの老木である。国指定の天然記念物であり、天然記念物としての名称は山高神代ザクラである。樹齢は1800年とも2000年ともいわれ、日本五大桜または三大巨桜の1つであり、1922年10月12日に国の天然記念物に、1990年6月に新日本名木百選に指定された。

古き良き時代のエーガ (3)     (普通部OB 船津於菟彦)

あれは大学一年の体育実習でスキーを選択したため、蔵王へスキーに行きました。「体育実習」のことは全然覚えて居ませんが、山形駅前の本屋でこの本「オードリー・ヘップバー 映画ストリー増刊号」を定価100円で買い大事に保管していることと、帰りの汽車の中で憧れの女性と仲よく見たことなどがありありと浮かんできます。「麗しの恋人」そして忘れ得ぬ「麗しのオードリー」のことども。
先ずは『ローマの休日』(原題:Roman Holiday)は、1953年製作のアメリカ映画。主演はグレゴリー・ペックとオードリー・ヘプバーン。ウィリアム・ワイラーが製作・監督した。
イタリアのローマを表敬訪問した某国の王女と、彼女が滞在先から飛び出し一人でローマ市内に出たとき知り合った新聞記者との1日の恋を描いている。トレヴィの泉や真実の口などローマの名だたる観光スポットが登場する。ローマ観光宣伝映画。
新聞記者をグレゴリー・ペック、王女をオードリー・ヘプバーンが演じている。当時新人だったヘプバーンは、本作により1953年のアカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞した。このほか衣裳のイーディス・ヘッドが「最優秀衣裳デザイン賞」を、脚本のイアン・マクレラン・ハンターが「最優秀原案賞」をそれぞれ受賞している。そして日本製のライター型カメラ。これにはカメラ少年病みつき。そして当時の新聞記者が持って居たスピグラ。まぃつったなぁ。1954年4月公開(日比谷映画)
この頃の映画の女性の服装デザイン担当はイーディス・ヘッド!これが数々の素晴らしいデザインの洋服を登場させる。女子校との合同校内新聞「ジャミネーター」イディス・ヘッド」と映画の女性デザイナーのことを書いた記憶がある。懐かしいなぁ。
そして『麗しのサブリナ』(原題: Sabrina)は、1954年に公開されたアメリカ合衆国のロマンティック・コメディ。サミュエル・テイラーの戯曲『麗しのサブリナ』をビリー・ワイルダー監督が映画化した。『ローマの休日』に続くオードリー・ヘプバーンのヒット作。1954年9月日本公開(日比谷映画劇場)。
このおとぎ話のようなお話の中で巴里から帰って来たときのジバンシィーのデザインのオードリーの洋服の素晴らしさ。以来オードリーヘップバーンはジバンシィーの洋服を何時もまとうことになる。もう綺麗・麗しい。
ダメ押し『パリの恋人』( Funny Face)は、1957年のアメリカ合衆国のロマンティック・コメディのミュージカル映画。主演はオードリー・ヘプバーンとフレッド・アステア。ヘプバーンは本作が初めてのミュージカル映画。監督は『恋愛準決勝戦』でアステアと組んだスタンリー・ドーネン。ドーネンは、後に『シャレード』と『いつも2人で』でもヘプバーンと組んだ。1957年9月公開{スカラ座)。フレット・アステアと組んで、ミュージカルとファッションの映画でした。オードリーヘップバーンの最盛期でしたね。衣装は例によってイーディス・ヘッド、ユベール・ド・ジバンシィでした。もう素敵。
後年、オードリーヘップバーンのお墓がスイス・レマン湖のほとりトロシュナ村にあるのだが、ジュネーブへは通信関係の展示会で二度ほど訪れたが遂に行かれずで、モントールのホテルから山を見て手お合わせた。ご冥福を。
因みに映画のパンフレットはに保管していますが。当時早朝割引とか学割が在り何と150円でした。指定席350円。 映画って良いなぁ !

”時代劇チャンネル” 読みました  (大学クラスメート 飯田武昭)

「時代劇チャンネルを見て思うこと」を読ませてもらいました。

私も400年に亘る江戸時代の泰平から育った江戸文化が今日の日本人の芸術文化娯楽の基本にある気がするし、貴兄の感じておられる傑出した英君(ローマ帝国の皇帝アウグストス、ハプスブルグ家、徳川幕府など)が国を統治してくれる時代がもし来たら、それは大変良い時代が来る気がしますが、問題は人間(日本人に限らず)が、一度、他の文化、進化した文明を知ってしまい、知識や情報を得てしまうと、それ以前には意識が戻らないと思う点です。

コンピューター時代の急速な技術進歩や世界中の情報が瞬時に伝わる現代。確かに日本人に限っても、封建制度の江戸時代と文明開化後の明治以降と太平洋戦争後の民主国家と考えると、人民の幸福度は江戸時代の方が現在より上かも知れないと私もいつも思います。

但し、現在の方がハッキリと良くなっていると思われる点は平均寿命が80歳を超えている点などです。江戸時代は平均寿命が20歳~30歳若かったとなると今でも人生は短か過ぎると思っている私などはもっと短かったら何も楽しめないと、詰まらぬ雑念に惑わされてしまいます。

貴兄の提起されたテーマは確かに議論に値する面白いと思います。又、集まれる時が来たら御高説を拝聴しながら色々な意見を交換したいものです。

(編集子)江戸、ということで、ずいぶん以前、月いち高尾仲間の高橋良子から、”一度読んでみなさいよ”といわれたまま 積ん読 になっていた、三流の維新一流の江戸 という本をやっと読んだ。原田伊織 という人の名前だけはなんとなく知っていたが、読んだのは初めてで、後半に詳しく書かれている 江戸文化 全般の紹介で新たな眼が開かれたような気持ちになった。聞くところでは原田氏の明治維新三部作、なるものがあるとのことで、通読してみる気になった。原田氏が国民的な支持を受けている一般的維新論に対するアンチテーゼとして挙げている 坂の上の雲 の愛読者である小生には、昨今の流行語でいえば 相当深い 正当性バイアス がかかっているので、どこまで原田理論に納得するか、スリリングな期待を持っている。

エーガ愛好会 (56) 2001年 宇宙の旅 (44 安田耕太郎)

先日、松島菜々子がナビゲーターを務めるNHKの1時間番組アナザーストーリーズ「 “2001年宇宙の旅”  未来への扉は開かれた」を観た。私たちが気になるあの事件の裏には、かならず、もう一つの物語がある、とのうたい文句で、SF映画の金字塔「2001年宇宙の旅」をとりあげた。

AI(人口知能HALと命名)の暴走、人工冬眠、地球外生命との接触・・・・・半世紀前、まだ人類が月に到達する前になぜ未来を予見できたのか?そして不思議な、或いは難解なエンディングの意味するところは?鬼才スタンリー・キューブリックと共同原作者のイギリス人SF小説の巨匠アーサー・C.クラークの二人の天才(奇人・変人・狂人でもある)が思い描いた夢と衝突の真相が番組では明らかになる。共同作業を始めた時、キューブリック36歳、「恐るべき子供」とクラークに称され、クラーク47歳は仲間から「うぬぼれ屋」とあだ名されていた。

「宇宙は無限に広がっているのに人類が唯一の知性を持った生命だと考えるのは傲慢で寂しいことだ」と考える二人は、地球外生命の存在に対する好奇心を共有し、奇跡の共同作業をすることになったが、それは挑戦と衝突の共同作業であった。1977年「未知との遭遇」を作ったスティーブン・スティルバーグは、「2001年宇宙の旅」は初めて人々を宇宙へ連れて行った映画だと絶賛した。

番組では今日では当たり前のコンピューター・グラフィクスの無い時代の映像化と美術創作の創造性と斬新さには目を見張った。未知の存在である宇宙人をどう表現するかは激論の対象となった難問であった。結論は宇宙人そのものを登場させる代わりに彼らが創った遺物「モノリス」をみせ、映画を観る人々の想像に任せることとなった。

生存する出演者たち、映画製作に携わった技術者たちのインタービューを交え、キューブリックの妥協を許さない徹底した完璧主義に翻弄された映画製作現場の状況があぶり出されていた。クラークはSF小説家らしく小説と同じように説明して描いて未知なる世界を描こうとするのに対して、キューブリックは説明を省き映像で観る人々の想像に委ねる方法を採用する。両者の意見が異なり、衝突して映画製作は終わるがキューブリックの路線で完結したのは勿論であった。

50年を経て現実がようやく映画の追いついた今、人類の未知なる旅は続いている。「2001年宇宙の旅」に触発されて惑星科学者になり、現在、研究陣の中枢を担っている人たちが沢山いる。彼らは異口同音に言います、「未知なる新世界を初めて見る時の気持ちに勝るものはありません」、と。

ー2015年、太陽系で地球から最も遠い位置に存在する冥王星に近づいた探索機がその星の地表の写真を撮って送るという人類初めての快挙を成し遂げた。冥王星は地球から39億Km(地球の直径の37万倍)離れていて、探索機は近づくのに9年かかる遠距離に位置する。彼らは撮られた写真に写る地形にキューブリックとクラークの名前を付ける。「2001年宇宙の旅」がもたらした影響が今なお続いており、今後も引き続いていくことだろう。

 

白馬で滑ってきました! (39 三嶋睦夫)

10日ほど前に西澤さん、堀川さんと 白馬に行ってきました。
八方は上級者向けコースを再認識し、午後のべたべた雪には大変苦労しましたよ。自粛疲れのなか? 白馬の写真でも眺めて頂ければ・・・・・と思い添付します。(このメールは ニポポにご一緒した事がある方に入れています)
下記情報は ご参考までにご覧ください。
1。白馬の人出
例年の半分以下です。(最近増えていた)外人が来れないのが、響いているようです。 スキー場、リフトなどは空いていて 我々は助かりますが・・・・・関係者は大変です。
雨飾遠望
2。 白馬マウンテンハーバー
2.3年前に 岩岳(≒1300m)の頂上に出来た 展望台・軽食レストランです。目の前の白馬3山を始め 180度の大展望は 山好きには堪えられません。素晴らしい眺めです! ゴンドラからすぐ近くですから、白馬方面へお出かけの時は 是非立寄られることをお勧めします。
マウンテンハーバーからの豪華な展望
不帰、唐松方面の眺め

(堀川)このコロナ禍の中、3月10日から同期の西澤昌幸さんと三嶋さんの3人で白馬にスキーに行ってきました。

丸丸一年ぶりのゲレンデスキー、しかも、無風快晴の最高の天気でやや雪が重いのが気にはなりましたが、まずは文句のない素晴らしいスキー日和でした。初日は午後から、2日目は終日ともにブルースカイ、3日目も青空こそならなったけど高曇りで景色観賞に何ら差し支え無しでした。おかげ様でよく滑りました。オーバーワークがたたったのでしょうか、帰宅した翌日に軽いぎっくり腰になってしましました。歳だなあ~と嘆いています。

(武鑓)白馬、天気最高ですね。

小生は先月初めに一人で尾瀬岩鞍へ日帰りで行ってきました。毎年1~2回はやってきたのですが今シーズンは出来ないと諦めていたところネットでスキーバスが出ているのを見つけ、空いてたので直前に申込み行ってきました。
バスは40数人乗っており蜜でコロナ感染が怖かったですが、尾瀬岩鞍スキー場はゴンドラもあってあまり厳しく
ない長いコースもあって楽しめました。空いていたのでリフト、ゴンドラも全て一人乗りでした。
特筆すべきは、ツアー料金が往復バス代に一日リフト券とワンドリンク、入浴割引券まで付いて5,100円で
格安でした。どうやって利益出しているのか業界関係者の客集めの苦労がうかがえました。

 

エーガ愛好会 (55) フレッド・アステアのこと (34 小泉幾多郎)

3月15日‾17日9時からBSPで、フレッド・アステアの映画「足ながおじさん1955」「バンドワゴン1953」「イースターパレード1948」が連続放映された。
「踊る大紐育1948」「巴里のアメリカ人1951」 「雨に唄えば1952」等MGMが同じ製作者アーサー・フリード、主演ジーン・ケリーで、歌と踊りの豪華版が製作された頃。1930年代ジンジャー・ロジャースと共に、ミュージカル黄金期を築いたフレッド・アステアは、「ブルー・スカイ1946」を名残に引退表明していたが、カムバックを果たし、その後ジーン・ケリーに劣らぬ活躍を果たす糸口となったと言える三作だった。

 「イースターパレード Easter Parade 1948」
ジーン・ケリー主演で撮影スタートしたが、ケリーが足首を骨折したことで、引退宣言をしていたフレッド・アステアに交代となり、監督もヴィンセント・ミネリが、当時の妻ジュディ・ガーランドとの個人的問題でチャールズ・ウオルターズに代わったといわくつきの作品。

物語は、アステアの以前からのパートナーであるアン・ミラーが、フォリーズに移籍してしまい、相手役に、新人ジュディ・ガーランドを発掘、訓練しながらのイースターの前日から翌年のイースターまでのショービジネスの物語。この間、アーヴィング・バーリンの17曲が歌と踊りで画面を彩る。どれも素晴らしいが、矢張り舞台上での歌やダンスが印象に残る。まずは、前相手役のアン・ミラーはタップダンスの名手と言われるだけあって、黒と黄色の衣装でShakingTheBluesAwayに乗って踊りまくる目の覚めるようなタップダンス。アステアの踊りでは、バックグラウンド・コーラスが普通の速さで踊る中で、スローモーションで、ステッキを持って見せる躍動感溢れる踊りSteppingOutWithMyBaby。

アステアとジュディが、みすぼらしい浮浪者に扮して気取って踊るA Couple of Swellsが圧巻で最後を締める。新カップルによる成功を祝うパーティでの旧カップルによるItOnlyHappensWhenIDanceWithYouの踊りもあり、アステアとジュディが、EasterParadeを唄いながらパレードするところで終演。
ジョニー・グリーンがアカデミーミュージカル音楽賞受賞。

 「バンドワゴン The Band Wagon 1953」
競売場で過去には有名だった音楽映画スターのトニー・ハンター(フレッド・アステア扮する)が過去愛用のトップハットとステッキが5ドルから売り出すもダダでも買い手がつかない。その後ニューヨーク行きの列車でも二人の乗客にくさらされ、到着の駅では新聞記者が大勢で、大歓迎かと思いきや、エヴァ・ガードナー(特別出演)への出迎えだった。駅での黒人の靴磨きを相手に踊るシーン
AShineOnYourShoesから始まる。アステアの相手役は純バレエ畑のシド・チャリシーが選ばれ、当初肌が合わないとか背丈が合わないとか、いざこざがあったものの、セントラルパークでのDancing in theDarkでハーモニーを生み出す。アステアは、二人のブロードウエイ作家ナネット・ファブレイとオスカー・レヴァントのミュージカルコメディで再起を図るが、ジャック・ブキャナン演出のファウスト芸術的現代版が大失敗。

若い座員たちとレヴァントのピアノ伴奏で、I Love Louisa等を唄い、内容を
変えて、ブロードウエイでの成功を勝ち取るべく地方巡業へ。ピアニスト レヴァントのピアノはこの伴奏のみ。何か弾いてもらいたかった。フィラデルフィア、ボストン、ワシントン、ボルティモアと巡業。巡業先毎に、ショウの舞台が紹介される。作曲はアーサー・シュワルツ。

フィラデルフィアではチャリシーが唄い踊るNewSun in theSky。ボストンではアステアとブキャナンが正装で踊るI Guess I’ll Have to ChangeMyPlan。ワシントンではファブレイがコーラスをバックに唄うLouisianaHayRide。そしてボルティモアではアステア、ファブレイ、ブキャナンがベビー服で膝をついて踊るTripletsでブロードウエイ凱旋となる。TheGirlHunt はアステアとチャリシーによる最大の呼び物、ミッキー・スピレーンの探偵小説のパロディ化した場面が進行、マイケル・キッドの振り付けはメカニックでシャープ。新しいショウは成功し再出発となった。

 「足ながおじさん Daddy Long Legs 1955」
ジーン・ウエブスター原作の映画化は、1919年と1931年と二度あったが、これはジーン・ネグレスコ監督によるミュージカル。ミュージカル音楽賞にアルフレッド・ニューマン、歌曲賞にジョニー・マーサー、美術監督賞にライル・ウイラー他3名がアカデミー賞の候補に上ったが受賞はならず。

フレッド・アステアとレスリー・キャロン主演。レスリーが、想像して踊るパリ、香港、リオを背景としたモダン・バレーの振付けはロラン・プティ。金持ちの実業家が毎月手紙を書くことを条件に、孤児の少女の後見人となり、大学進学のために奨学金を授ける物語。アステア扮する富豪ジャーヴィス・ペンドルトン三世は、ジャズ狂の伊達男、冒頭から自宅でドラムを叩く、History of the Beat。主題歌はDreamを含め10曲。主たるナンバーは、大学のダンスパーティでのSluefootでアステアの華麗な足さばき。レスリーをニューヨーク見物に招待し、テラスで踊るSomethings GottaGive。Dreamは二人が高層ビルから下界を眺めるシーンとラストのダンスシーン。

撮影時、アステアは当時46歳の愛妻フィリスを病気で亡くしたが、周囲に励まされ、降板せず、役者として当たり前とはいえ、画面では、そんなことは何ら感じさせない。