乱読報告ファイル (24)  佐伯啓思 ”さらば、欲望”

本のタイトルだけを見ると、小生得意のハードボイルド小説の話か、と思われた人も多いかもしれないが、これは極めて明快な文化・経済についての識者の解答である。小生、幸いなことに多くの友人に恵まれてきたが、佐伯、という苗字の友人はあまりいない。たまたま、今回、ふたりの佐伯氏 に続けて出会うことになった。一人は今や国民的作品とされている 居眠り磐根 の著者であり、もう一人が独特の理論で小生も共鳴するとこの多い京大名誉教授である本書の著者である。

経済学部を出たことになっているが、本筋の経済理論には興味がわかず、いわば傍流の社会思想史、という事を少しばかりかじった小生が散発的ではあるが多少読んできた佐伯教授にひかれるのは、同氏が経済理論を文化論の立場から論じられることが多いからである。本著は同氏が今まで発表されてきたエッセイをまとめたものだが、その冒頭に現在世界が注目しているウクライナ情勢にかかわる一文を持ってきたのは、さすが商売上手の幻冬舎、という感じがしなくはない。

その第一章で佐伯教授が ロシア的価値 という単語を選び、それを20世紀初頭に書かれたドイツの思想家シュペングラーの 西洋の没落 という本から始められたところが小生の興味を引いた。仕事を辞めた後、社会思想をかじった手前、今まで名前だけは知っていたこの本に挑戦したが、膨大なトピックと西欧思想全般にわたる大著で、何とか最後まで読むのがやっとだった。佐伯氏はこの本の持つ意味は、当時の西欧文明が生み出した新世界の典型がアメリカ合衆国とソ連(当時)であるとし、いずれも土着の文化を無視して合理性と技術による経済発展を目指したこの二つの文明によって、それまでのヨーロッパの文明は没落すると論じたことなのだ、と言っておられる。小生が納得したのは、同氏が 文化とはある特定の場所に根付き歴史的に生育する民族の営みであり、それはアメリカ文明とソ連が掲げた普遍的抽象的理想などという観念とは相いれない、というくだりである。同氏はさらにナチスによって破壊されつくしたヨーロッパ文化の後に現れたのが、ともに近代的な人工的文明であるアメリカとソ連の対立だった、と定義される。そして生き残ったアメリカ文明は、歴史は普遍的価値の実現に向けて動くものであり、その実現こそがアメリカの使命なのだ、と主張し続けている。そしてこれはまさにほぼ毎日、新聞に登場するいわゆる西欧側の理屈そのものであり、今を盛りのインド太平洋戦略なるものの骨格でもあるのは周知のとおりだ。

本著の主題、すなわちこの西欧側の主張の根幹をなす、民主主義、法の支配、個人の自由、といった価値観を実現する体制とされている資本主義、それはどうなるのか、あるいはなっていくのか、という疑問に対しての佐伯氏の考え方を一つにまとめてしまえば、人間の欲望とそれを満たす機構としての資本主義とその実現形態である市場経済を通じて人間の欲望とそれを満たすための仕掛け、硬い言葉でいえば資源の希少性をどうやって満たすか、と云う仕組みが成り立たなくなっている、という点に尽きるのだと思う。資本主義・市場経済の混乱はグローバリゼーションという、ただ単に利潤と効率の追求が文化すなわち ”歴史的に生育する民族の営み“ を無視して拡大した結果であり、それはゆく先々に効率のみを重視する姿勢を強要し、その結果として必然的に発生する経済格差と社会の分断を伝染させているからだ、とする。この主張に小生は全面的に同意する。

その資本主義・市場経済というメカニズムを支えるイデオロギーとしての民主主義の現実についての佐伯氏の考え方は、乱暴な言い方をすれば、そのよって立つ基盤であるはずの民意、とか、国民主権、といった観念そのものに対する疑問として表現される。昔日のアテネのように、”市民“ すなわち日常の生活は奴隷に任すことができ、政治に全うすることができた選良たちのみが行政を行った時代はともかく、現在ではその ”市民” 的存在であるとされているはずの ”国民“ は、ありとあらゆる欲望をそれぞれ勝手に主張する群衆にすぎない。その欲望に応える企業側はこの欲望の是非を判断することはなく(できないから)ただ規模の拡張のみを主張し続ける。今の政治家が決まり文句にしている ”民意“ などという正義は存在しないのだ、ということだ。このことは(一応社会思想史なるものをかじった経験で言わせてもらえば)現在の社会はすでに大衆社会、すなわち群衆がものごとの実像を理解することなく、かつてオルテガが唱え、フロムが名付けた ”匿名の権威“ 現在の用語でいえばフェイクニューズによって情緒的な反応に終始する段階に来てしまった、という事だと思う。そして同氏が(不本意だろうと勝手に想像するだけだが)、民主主義とか国民主権などと称する幻想をすてて、いわば ”手続きとしての民主主義“ に徹するしかないだろう、という結論を引き出されたことに、自分でも不本意ながら、この結論は正しいと思うのだが、各位の感想を伺いたいと思う。

また、戦後の日本、押し付け憲法だとか政治の貧困だとかあいも変わらぬ外国崇拝主義だとかいう現実のもとで、過去80年間、ただ一人の若者も戦争で失っては来ていない国の在り方を結果論なのだろうが ”日本という国の政治” の成果と考えると、この史実は将来の歴史書によってがどう判断されるだろうか、そのあたりの佐伯氏のお考えを聞いてみたいものだ。