あまりにも有名な日記の映画化。邦訳の日記を先に読んで、その後に映画を観たと記憶している。1960年代のことである。アムステルダムのアンネ・フランクの家にも2度足を運んだ。「アンネの日記」の英語訳は文字通「Anne‘sDiary」だが、原題オランダ語「Het Achterhuis」(ヘット・アハターハウス) は「後ろの家」という意味で、隠れ家を実際訪れてみると、オランダ語原題の方が言い得て妙だと思った。監督は、「陽のあたる場所」「シェーン」「ジャイアンツ」の名匠ジョージ・スティーヴンス。
アンネ・フランクはドイツ・フランクフルトの裕福なユダヤ人家庭に生まれた。ナチスが政権を取り、ユダヤ人に対する迫害から逃れるため、一家はオランダ・アムステルダムに移住する。平穏な生活はほんの数年間で終わり、オランダでもユダヤ人連行が頻繁に行われるようになると、一家は、アンネの父親オットーが経営する、街の中心に近い運河沿いにあるジャム工場の建物の奥3階・4階と屋根裏部屋を改築して、一家4人と友人等4人、計8人がそこに身を隠すようになる。
隠れ家への入り口は本棚でカモフラージュをされた。フランク家の
隠れ家にいた8人全員は収容に送られる。収容所は栄養と衛生状態が極度に悪い。戦後まで生き延びたのは父親のオットーフランク1人だけ。残りの7人は全員収容所で死亡する。アンネと姉のマルゴットは、収容されて7〜8ヶ月後の‘45年の2月から3月にかけて同じ収容所で相次いで死亡。死因はチフスだった。
アンネの日記は1942年6月から約2年余りに及んだ。ゲシュタホに逮捕される3日前の8月1日が最後。アンネ13歳から15歳の間の隠れ家での出来事、思ったことを素直に書く綴ったもので、特別なストーリーがあるわけではない。過酷な隠れ家の環境下、勉強・読書漬けとラジオが中心の生活の中で、いつか戦争が終わったら、「作家になりたい」、「ジャーナリストになりたい」という夢を膨らませていく。その目標に向かって修養を積み続ける、知性豊かな女性へと成長していく。日記の文体と語彙の豊かさにはとても13〜15歳の少女のものとは思えない成熟度と非凡な才能が伺われる。
映画は、戦後の1945年に収容所から解放された、一家で唯一の生き残り父親のオットー・フランクが隠れ家に戻るところから始まる。かつての支援者がフランクに声をかけ、アンネが残した日記を手渡す。フランクは「1942年・・」から始まる日記を読み、はるか昔のようだと回想を始める。映画は2年間の隠れ家生活を描いている。主演の新人女優ミリー・パーキンスのデビュー作。英国女優ジーン・シモンズに大変似ていて驚いた。「若草物語」・「陽のあたる場所」出演のティーンエイジ時代のエリザベス・テイラーにも少し似ている。監督のジョージ・スティーヴンスはリズを「陽のあたる場所」と「ジャイアンツ」で起用しており、彼女に面影が似ているミリー・パーキンスを新人ながら抜擢したと勝手に思っている。さらに本物のアンネにも似ている点も理由の一つであろう。
実在のアンナ13〜15歳にしてはパーキンス21歳の時の出演。成熟度など年齢差にはやや無理があったかとは思う。恋仲になる隠れ家で同居した男性ペーター役は2年後の「ウエストサイド物語」1961年制作のトニー役で脚光を浴びたリチャード・ベイマーが演じた。ナタリー・ウッドとのきらびやかな共演の「ウエスト・・・」に対して、悲惨な状況下での白黒映像のパーキンスとのラブストーリーも悪くなかった。
隠れ家に同居した家族の夫人役はシェリー・ウインタース。以前観た一昔前は馴染みがなかったが、それ以後彼女の出演映画「ウインチェスター銃‘73」「陽のあたる場所」「狩人の夜」「動く標的」「ポセイドン・アドベンチャー」を観てすっかり顔馴染みになっていたので安心して彼女の「アカデミー助演女優賞」の演技を楽しんだ。彼女自身ユダヤ人である。
物語りの深さと行き詰まる緊張感は「日記」の迫力に敵わないが、映画は極限状態の中に置かれた8人の人間模様を淡々と描く。母親とアンネの確執、同居する2家族間の諍い、隠れ家の狭い部屋の中で物音を出せないストレス、ゲシュタホが建物を調べに来て壁一つ離れて身を潜める家族の恐怖と緊張感・・・・、当時の実情は想像を絶するに余りあったのことが容易に窺い知れる。
ひとつ印象的なシーンは、隠れ家に潜んでほぼ2年が経ち絶望感が支配する中、ラジオで連合国軍のノルマンディー上陸作戦「D Day」成功のニュースを聞き皆 歓喜雀躍と飛び上がる。それから僅か2ヶ月も経たずナチスに逮捕されるとは、運命の残酷さを知らされる。インターミッションも途中に入る2時間半の、歴史を改めて思い起こさせる映画だった。ウクライナのことも頭をよぎった。
(船津)見ましたがやや長い!途中でタンマしました。淡々と描き、
(菅原)同意。ミリー・パーキンスは可愛いだけが取り柄で、他には何もない。Wikipediaによれば、作品に恵まれなかったそうです。こういう言い方もあるんですね。この映画見ましたが、さしたる感銘は受けませんでした。
(金藤)「アンネの日記」は、確か中学生の時?
(編集子)我が国の終戦が決まった日、小生は小学校2年生、家族とともに満州の首都長春(当時は新京と言った)から集団疎開の途上で、鴨緑江を越えた車簾館という町に到達していた。その後平壌でほぼ10ケ月、まさに難民生活を送った。古い味噌蔵に恐らく十数家族と、たぶん脱走兵だと今では思うのだが屈強の若者数名と一緒に過ごした。衛生状態なんかはおそらくロシアの収容所以下だったのではないかと今になって思い出す。南北朝鮮に分割されて国境が閉鎖されてしまい、貨物列車だとかトラックだとか、どうやって調達されたのか分からないがその国境までたどり着き、深夜に歩いて38度線を越えて開城へ脱出した。そんな経験をしたのが11歳の時だったから、アンネとは二つ違いか。改めて戦争の悲惨を考えてしまう。