3000、と言っても何のことか、と言われるのは当たり前だが、ヒューレット・パッカード(今HPとして知られている会社は僕らの愛していた会社とはあまりに掛け違う別物なので、あえてこの略称は使わない)が70年代後半に発表した ”汎用(まだ当時は技術用とは区別されていた)“ コンピュータの名前である。電子技術においては世界で一、二を争う超優良会社がなぜこの業界に挑んだのかは興味あることだが、まさかIBMですら苦戦を強いられていた日本のコンピュータ市場に進出するとは、当時の常識でいえば考えられなかった。しかし日本での総代理店であった横河ヒューレットパッカード(YHP)では立場上、親会社の意向には逆らえず、苦戦覚悟で1980年から準備がはじまった。その時に招集された仲間が久しぶりに集まる会合が2月2日夜、設けられた。僕は2年ほどたってからかかわったので、オリジナルメンバーではないのだが、席に呼ばれる光栄に浴したわけだ。
当時新入社員であった瓜谷輝之によると、配属前に “運の悪いやつがひとりだけ3000に呼ばれる” といううわさが流れ、よもや俺ではないだろうなと思っていたそうだ。配属が発表された日には同期の仲間が残念会をやってくれた、というから、だれの目に見ても勝ち目のない戦だったのだろう。僕のほうはその2年前、別の企画があってもう片方の親会社横河電機に出向していた。期間が終わり、”このまま残れ”と言われたのだが、どうしても戻りたい、と言ったら、”戻るなら3000の部署しかないぞ“といわれた。”しか“ である。どのらい ”しか“ だったかは、ワンダー時代の仲間や経済学部F組のクラスメートで当時同業にあった連中のほうがよく知っているだろう。
が、ま、とにかく言った以上は引っ込みがつかず、1981年からこの場所での仕事が始まった。その後の苦戦具合についてはいまさら話をするつもりもない。ただ、今日の席を設けてくれたオリジナルメンバー、その後、この今考えても困難な企画に参画してくれた後輩たちとは、これ以上ない、貴重な経験をさせてもらった。僕自身についていえば、3年を費やしても結果が出ず、当然ながら担当をクビになったのだが、誠に幸運なことに会社自体は日の出の勢いだったから、ポジションができ、まもなく営業の一線に戻してもらえた。その後の時間を含めて、3000と過ごした時間は、僕にとっては第三の青春、といってはばからない、苦しかったが楽しいものだった。甘酸っぱい思い出のつまった慶応高校時代から大学ではワンダーフォーゲルで過ごした4年間が第一の青春であったとすれば、第二の青春、はYHP八王子工場の生産現場で “一工員” として過ごした2年間だった。そしてこの第三の青春、のほとんどは新宿、第一生命ビルの6階で燃焼しつくした。
さて、今回は瓜谷の骨折りで昔の仲間が久しぶりに集まったこの席、いろいろと話が弾む中で菅井康二から聞いた話が僕を感激させたので書いておきたい。。
3000の最大のユーザは何と言っても全国の工場の生産管理用にと採用してくれたT社で、当時の永島陸郎社長は同じゼミの仲間だった。当然僕も足しげく彼のもとに通い、最終的に採用してもらったわけだが、菅井が永島の親戚筋に当たるY氏と知り合い、ある席でこの話がでたそうだ。Y氏によれば、当時永島のスタッフはほとんど全員が3000の採用に反対だったが、彼の ”俺はコンサルタントより学友の言うことを信じる“ という一言で話が決まったというのだ。永島とは卒業後も親交があったが、そんなことは何一つ、言わなかった。寡黙だが誠実、という印象そのものの男だったが、改めて深い感謝の念を新たにする。痛恨の極みだが彼は2年前、病を得て急逝してしまった。いまとなってはただ、合掌するのみである。
当日、新宿で会が終了し、出席した9人と別れた後、ひとりでこの思い出深いビルを訪れた。僕の退職記念パーティーは関係者の心づかいで、ここで開いてもらったのだが、それ以来、実に20年ぶりである。もちろん、すでに働いている人は当然いない時間で、エレベータを降りた6階はただしんとしていた。フロアを歩いてみた。僕が座っていた”支社長室“のあったところはなんと新宿区の税務事務所。ほかにいくつかの会社。何の音も聞こえない、三角形のフロアをひとめぐりするうちにいろんな記憶が錯綜し、殺到し、共鳴する。なんともいいようのない時間だった。
“明治は遠くなりにけり”と詠んだのが中村草田男だったか、久保田万太郎だったか忘れてしまったが、その句が心に浮かび、平成も終わろうとしているいま、時間の冷酷なありようを改めて感じて帰ってきた。