乱読報告ファイル (35)吾妻おもかげ    (普通部OB 菅原勲)

「吾妻おもかげ」(著者:梶よう子。発行:KADOKAWA、2021年)。

切手の収集に夢中になっていた頃だから、もうかれこれ70年以上も前の話しになる。当時、額面5円の記念切手で(現在、中古市場での買い取り価格は6000円前後にもなるそうだ)、珍しく縦長のものがあった。しかも、その図柄が、子供心にも、何やら艶めかしい。そう、それが、有名な「見返り美人図」だ(当時はそんな題名とは知る由もない)。その絵師、浮世絵を確立し、浮世絵の祖と謳われた菱川師宣(師宣なんて偉そうな名前だと、足利尊氏に側近として仕えていた武将、高師直を思い出し、思わず師宣も武士の出身ではないかと勘違いした)が、この著書の主人公だ。なお、浮世絵とは、実際の世の中が憂さに満ちており、それを晴らすために浮き浮きすると言う意味で浮世と呼んだと言われており、そんな絵が浮世絵と呼ばれるようになった。

師宣は1618年(1630/31年と言う説もあるらしい)の生まれだから、江戸時代もその初期と言って良い。因みに、同じ浮世絵師と言っても、富嶽三十六景などで有名な葛飾北斎は1760年の生まれだから、師宣が活躍した時期は、北斎に先立つこと一世紀以上も前のことになる。

確かに、「見返り美人図」(肉筆の浮世絵)の図柄も一見の価値はある。それはただのありきたりの美人図ではなく、その美人が見返ったところを描いており、師宣らしい独自性が溢れているからだ。そして、その見返り美人が着ている着物の縫箔(着物を刺繍と金、銀の箔で飾る)の出来具合も誠に素晴らしい。それもその筈、師宣の父は、安房(今の千葉)で、漁師ではなく、縫箔師をやっていたからだ。縫箔とは言ってもその元になる図柄が描けなければ、何事も前に進めないのは言うまでもない。そう言った環境で育まれたわけで、師宣には、絵を描く素地が充分にあったことになる。つまり、特に師匠もいない全くの独学だったわけで、軽々しくは言えないが、一種の天才と見做しても差し支えなかろう。そうであるが故に、浮世絵の祖とまで言われるまでになったわけだ。

当時、幕府お抱え絵師として一世を風靡していた狩野一派の弟子にバカにされ、それが肥しとなって、独自の版本を編み出し、師宣の絵は競って贖われ、名前だけで売れるまでになった。ところが頂点に立つとそこに安住してしまうものなのか、菱川派を作ってしまう羽目に陥ってしまうことになる。

「見返り美人図」のモデルは、これと言って特定できるものはないと伝えられているが、 艶めかしく感じたのも道理で、描かれているのはその辺にいる素人ではなく、小生は勝手に、師宣が足しげく通った吉原の遊女ではないかと推測している。そして、話しは、その吉原通いから始まることになる。

ところが、何時まで経っても肝心要の「見返り美人図」の話しが出て来ない。と思っていたら、最後の頁になって、師宣が65歳で鬼籍に入ったのち、二人の息子が画室を片付けていた際、やっと、今まで見たことのない美人画を見つける、と言う落ちが付いている。従って、正確な作成年月は不明で、大まかに17世紀(1600年代)となっている。

最初から最後まで、それこそ終始、「見返り美人図」の話しになってしまったが、所詮、艶めかしい見返り美人に惚れ込んでしまっては、万事休す。

最後に、題名「吾妻おもかげ」について、吾妻(あづま)とは我が妻のことであり、おもかげとはまぼろし、幻影のことだから、我が妻のまぼろしと言ったところだろう。ただ、その意味するところと、この著書の内容とは、余りにも隔たっていてどうにもピント来ない。また、中島みゆきに「見返り美人」があるが、歌詞も歌もナンダカナー。

(梶洋子)東京都生れ。フリーライターとして活動するかたわら小説を執筆。2005(平成17)年「い草の花」で九州さが大衆文学賞を受賞。2008年「一朝の夢」で松本清張賞を受賞。2016年『ヨイ豊』で直木賞候補、同年、同作で歴史時代作家クラブ賞作品賞受賞。2023(令和5)年『広重ぶるう』で新田次郎文学賞受賞。著書に、「みとや・お瑛仕入帖」「朝顔同心」「御薬園同心 水上草介」「ことり屋おけい探鳥双紙」「とむらい屋颯太」などのシリーズ諸作、『立身いたしたく候』『葵の月』『北斎まんだら』『赤い風』『我、鉄路を拓かん』『雨露』ほか多数。