エミール・ガレ     (普通部OB 船津於菟彦)

今、六本木ミッドタウン サントリー美術館で素晴らしいガレの数々の作品が展示されているので拝見に参りました。
サラリーマン時代は半ドンの土曜の午後は大手町ビルから近くにあった旧パレスホテルの別館の事務所棟に「サントリー美術館」があり良く訪ねました。その後赤坂へ移り現在のミッドタウンへ。こじんまりした品のある美術館で好きです。

諏訪湖畔には北沢美術館のガレのコレクションが凄いですが、今回は大半がサントリー美術館所有の物で総て撮影可でした。こんなにガレを持って居るとは知りませんでした。
エミール・ガレ(1846–1904)はフランス北東部ロレーヌ地方の古都ナンシーで、父が営む高級ガラス・陶磁器の製造卸販売業を引き継ぎ、ガラス、陶器、家具において独自の世界観を展開し、輝かしい成功を収めました。
ナンシーの名士として知られる一方、ガレ・ブランドの名を世に知らしめ、彼を国際的な成功へと導いたのは、芸術性に溢れ、豊かな顧客が集う首都パリでした。父の代からその製造は故郷ナンシーを中心に行われましたが、ガレ社の製品はパリのショールームに展示され、受託代理人等を通して富裕層に販売されたのです。1878年、1889年、1900年には国際的な大舞台となるパリ万国博覧会で新作を発表し、特に1889年の万博以降は社交界とも繋がりを深めました。しかし、その成功によってもたらされた社会的ジレンマや重圧は想像を絶するものだったと言い、1900年の万博のわずか4年後、白血病のためこの世を去りました。

ガレの没後120年を記念する本展覧会では、ガレの地位を築いたパリとの関係に焦点を当て、彼の創造性の展開を顧みます。フランスのパリ装飾美術館から万博出品作をはじめとした伝来の明らかな優品が多数出品されるほか、近年サントリー美術館に収蔵されたパリでガレの代理店を営んだデグペルス家伝来資料を初公開します。ガレとパリとの関係性を雄弁に物語る、ガラス、陶器、家具、そしてガレ自筆文書などの資料類、計110件を通じて、青年期から最晩年に至るまでのガレの豊かな芸術世界がサントリー美術館で今展示されています。素晴らしい物ばかりです

真の意味で輝かしい成功を収めたのは1889年のパリ万博でした。ガラスに対する科学的な研究を重ね、新たな素材と技法を開発し、およそガラス作品300点、陶器200点、家具17点という膨大な出品作品と2つのパヴィリオンを準備したガレは、ガラス部門でグランプリ、陶器部門で金賞、1886年に着手したばかりの家具部門でも銀賞を獲得し、大成功を収めました。なかでも本万博で発表した黒色ガラスを活用した作品群では、悲しみや生と死、闇、仄暗さなどを表現し、独自の世界の展開に成功しています。 この黒い壺は巴里万博で好評だった物です。

今日「ジャポニスム」と呼ばれるこうした現象は、「アール・ヌーヴォー」の旗手、ガレの作品にも表れている。色とりどりの草花が咲き乱れ、バッタやトンボが飛び交う独特の作品世界。その背景には、日本の美学に注がれたガレの熱いまなざしがあった。お皿も伊万里焼の影響を承けていますね。鯉を大胆にあしらったガラス製の花器「鯉」。これは葛飾北斎の『北斎漫画』からモティーフを転用して作られたものだ。ガレがいかに北斎に刺激されたか。

ガレにとって国際デビューの機会となった1878年のパリ万博では、ジャポニスム・ブームを反映した作品や、淡い水色の「月光色ガラス」を発表し、大きな反響を呼びました。こちらの鯉は北斎漫画からの転用と言われています。そしてガラス細工以外にも陶器・家具にまでその美意識は注がれています。陶器もお皿も素晴らしいです。そして家具の繊細なカーブは矢張りジャポニズムの影響が強いですね。サントリー美術館からの帰りは必ず同じフロアーに在る大天蓋の見えるカフェで下の人の行き来を観ながら「美の余韻」に慕っています。ボーッと。