エーガ愛好会 (198) ジェイムズ・ディーンのこと (普通部OB 舩津於菟彦)

主演映画はたった3作。1955年 映画「エデンの東」。「理由なき反抗」。大作「ジャイアンツ」1956年。わずか1年のスターダムだったにも関わらず、現在もジェームズ・ディーンが好んで履いていたジーンズが復刻されるなど圧倒的な人気を誇る伝説のスターである。「ジャイアンツ」の撮影終了から1週間後の1955年9月30日。午後5時59分、カリフォルニア州コレーム近郊の州道46号線と41号線の東側の分岐点で、横から出てきた大学生のフォードと時速135キロで衝突し、ディーンは即死した。

本名ジェームズ・バイロン・ディーン1931年2月8日~1955年9月30日はアメリカの俳優 身長175cmジミー・ディーンとも呼ばれた。インディアナ州マリオンで生まれる。9歳の時に母が病気になり農場を営む姉夫婦に彼を預け育てられた

18歳の時に州政府主催のスピーチ・コンテストでディケンズを朗読し優勝。卒業後、ロサンゼルスのカリフォルニア大学UCLA演劇科に進んだ。俳優業の修行の為大学を中退してニューヨークに移った。

1952年、レストランのアルバイトで生計を立てる一方、ディーンは名門演劇学校アクターズ・スタジオに応募者1000人、150倍という凄まじい競争率を突破して、歴代最年少の21歳で入学したディーンだがスゴ腕の女性エージェントに実力を高く評価され、彼女がテレビ界に売り込んでくれた。1954年23歳にブロードウェーの「背徳者」で若きアラビア人・同性愛者を演じて喝采を受けた。

ディーンは各種新人賞に輝き、その天賦の才に驚いた脚本家ポール・オズボーンは、自身が脚色を手掛ける新作「エデンの東」の主役にディーンを推薦した。「ジミーは私の演出でキャルを演じたのではなく、ジミー自身がキャルそのものだった」(エリア・カザン)。初出演の長編でアカデミー賞にノミネートされたのはディーンを含めて5人しかいない。
ニコラス・レイ監督は「エデンの東」を撮影中のディーンの演技に感動し、彼を主役にした映画を撮るために「理由なき反抗」の原案を自ら執筆。この作品でもディーンは等身大の苦悩するティーンエイジャーを演じ、1950年代の若者たちの象徴となった。
①「エデンの東」
一番だと思う。監督のエリアカザンが素晴らしい。1954年23歳にブロードウェーの「背徳者」で若きアラビア人・同性愛者を演じて喝采を受けた。

ディーンは各種新人賞に輝き、その天賦の才に驚いた脚本家ポール・オズボーンは、自身が脚色を手掛ける新作「エデンの東」の主役にディーンを推薦した。

原作はジョン・スタインベックの同名小説で、その後半部分をポール・オズボーンが脚色した。
1955年 映画「エデンの東」が完成し、映画では父親の愛に飢え苦しむ繊細な息子を鮮烈に演じきった。父母との愛。兄弟の愛。キリスト教徒でなくても感じる「愛」の映画だ。旧約聖書のカインとアベルをモチーフにして扱っているとおり、キャル(カイン)は兄、アーロン(アベル)は弟、とするのが正しい。しかし映画公開後、日本語文化圏ではキャルを弟、アーロンを兄として翻訳されている。原文では「お互い名前で呼び合う」「ブラザー(兄・弟の区別はない)と語る」「ふたりは双子である」ということを考慮して、字幕を訳し直した太田直子は、「兄・弟の区別を一切つけなかった」としている。
キャル役は観客に大きなインパクトを与え、アカデミー最優秀主演男優賞にノミネートされる。
②「理由なき反抗」
ジェームズ・ディーンの「ひねくれモン」の性格を最も強調された映画だ。あの下から見上げる様な「愁い在る顔」彼しか出来ない演技。
そしてプレイトウ少年(サル・ミネオ)の好演が光る。最後がどうも納得いかないなぁ。
③「ジャイアンツ」
保屋野さんの曰く:
ストーリーも面白かったけど、やはりE・テーラーの美しさが際立つ作品ですね。もちろん、R・ハドソンやJ・ディーン等の脇役も魅力的でした。
そして、あの主題歌とラストの名曲「テキサスの黄色いバラ」も良かった。
主題歌は確か小坂和也が「山よ谷よ・・・」と歌ってましたね。
「幸せは金で買えない」のは事実ですが、「金は幸せの大きな手段」というのも事実、まあ、何事も「ほどほど」なのが一番ということでしょうか。
保屋野さんご指摘の通りエリザベステーラーの映画だ。しかし、「ひねくれモン」ジェームズ・ディーンも負けては居ないが後半やや捻くれすぎては。保屋野さんご指摘の「お金では買えない物がある」からか。女流作家エドナ・ファーバーが12年の歳月をかけ執筆したベストセラー小説を映画化した大河ドラマである。
ドラマの中心となるベネディクト家は、移り行くテキサスを映す鏡である。監督のジョージ・スティーヴンスは、その日常的な細部を克明に悠然たるテンポの演出で描くことによって、雄大なテキサスのエピックを完成しようとした。リアリズムを基調として、澎湃たるテキサスの発達史を描きだそうとしたわけで、野心的な試みである。また、女性の自立の問題や人種問題など、21世紀になった現在でも直面している問題に対して、先駆的な問題意識を観客に届けている。
1955年9月30日。ディーンは銀色のポルシェ550スパイダー、ポルシェ初の市販レーシングカーでカリフォルニア州サリナスで行われるレースに向かった。彼自身、半年前に西海岸パーム・スプリングのレースで2位に入賞している。この新車は当初トレーラーで運搬される予定だったが、ディーンが慣らし運転をする為自らハンドルを握った。
夕刻、速度違反で切符を切られたが、その後も疾走は続いた。そして2時間後の午後5時59分、カリフォルニア州コレーム近郊の州道46号線と41号線の東側の分岐点で、横から出てきた大学生のフォードと時速135キロで衝突し、ディーンは即死、同乗者自動車整備士ラルフ・ウッタリックは車外に投げ出され、骨折したものの生命に別状はなく、大学生も軽傷だった。ディーンは故郷フェアマウントの公園墓地に埋葬された。
死後、「理由なき反抗」「ジャイアンツ」が公開され、人々は若き名優の夭折を惜しんだ。ディーンは「ジャイアンツ」でもアカデミー賞にノミネートされた。
「エデンの東」「ジャイアンツ」と、没後2年連続してノミネートされたのは、ハリウッドの歴史上ディーンただ1人である。

後年、事故現場には「James Dean 1931 Feb 8 – 1955 September 30 PM5:59 ∞」の字が刻まれたモニュメントが建てられた。彼が残した言葉として、「優しさこそ、ほんとうの強さだ」、「永遠に生きるつもりで夢を抱け。今日死ぬつもりで生きろ」などがある。

日本人でジェームズ・ディーンの関連の資料などの収集家として世界的に大西清太氏は神戸の実業家は、世界のオークションなどで彼の記念的な写真などを収集し、コレクターとして世界でも有名だったが、最終的に「アメリカで生まれたものは、アメリカに戻す」として、現地の博物館などに寄贈し、さらに自費で、世界的な彫刻家水井康雄にジェームズ・ディーンの記念碑として150トンの巨大作品(13m x 4,5 x 1.2m)の彫刻壁「希望の壁」を制作依頼した。
(グーグルより転載ー希望の壁)
1985年(昭和60年)ハリウッド映画界の神話と言われたジェームズ・ディーンのファンの大西清太が、アメリカの事故現場カリフォルニアのコレームにメモリアル彫刻を設置する意向で、《希望の壁》Le mur de l’espoir を依頼した。 水井は、3年間にわたって現地にも足を運び準備を進め、水井の住まいであるフランスのラコストの石灰岩を使用し、150トンの巨大作品(13m x 4,5 x 1.2)として完成したが、現地の土地の所有者との折り合いが最終的につかず、現地設置には至らなかった。本作には、ディーンの死は多くのファンを悲しませた絶望であったが、残された彼の映画作品がその絶望を開くという意味がこめられている。裏側には往時のディーンの顔が彫刻されている。作品は2006年(平成18年)ディーンの事故死から51年後に、水井の住まいであるラコストの庭に野外設置という形でおさまっている。