(普通部OB 船津於菟彦)
上下二冊の長い物語ではあるが、 途中から一気に読ませる原田マハの筆力は凄い。お奨めです。 あらすじは20××年秋、 京都国立博物館研究員の望月彩のもとに、マカオ博物館の学芸員、 レイモンド・ウォンと名乗る男が現れた。彼に導かれ、 マカオを訪れた彩が目にしたものは、「風神雷神」 が描かれた西洋絵画と、天正遣欧少年使節の一員・ 原マルティノの署名が残る古文書、そしてその中に記された「俵… 屋…宗…達」の四文字だった――。
織田信長への謁見、狩野永徳との出会い、
天才少年絵師・俵屋宗達が、イタリア・ルネサンスを体験する!? と言う縦横無尽な想像力とマハさんの筆致に本の中に引きこまれて
織田信長の息が聞こえてきそうな描写は凄い。 そしてあの俵屋宗達に「洛中洛外屏風」をローマ教皇に届けさせ、 密かにローマの洛中洛外絵図を書かせるとはね。俵屋宗達が最後の方のミラノの教会のあのダヴンンチの「 最後の晩餐」 の壁画の前で若きカラヴァジョと遭遇し会い友好を深めの処はやや 長いし、チョット無理があるように思うが、「俵…屋…宗… 達の四文字だった――。」 の暴騰の答えと原田マハのカラヴァジョへの思い入れがあってのこ とだと思う。
天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)は、 1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友義鎮( 宗麟)・大村純忠・ 有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした 使節団である。イエズス会員アレッサンドロ・ ヴァリニャーノが発案した。 豊臣秀吉のバテレン追放令などで一時帰国できなくなるが、 1590年(天正18年)に帰国。 使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようにな り、 彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機で日本語書物の活版 印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれた。
(HPOB 小田篤子)
原田マハさんの小説は、画商や学芸員、
1582年、長崎港から13歳前後の4人の少年、「 天正遣欧使節」は旅立ちました。
生還率は50%以下という大航海で、 千々石ミゲルの母親は反対し体をこわしたそうです。長崎を出港し、船酔いに苦しみ、 20日後にマカオに到着しますが、 次の風を10ヶ月待って過ごしました。その後、 風待ちを繰り返しながら、マレーシア、インドに寄り、 2年6ヶ月後の(1984/8/10)ポルトガルに到着。《 世界の帝王》と言われていた、フェリペ2世に謁見。
フェリペ2世は彼らの着物、草履、袴、刀、及び書状を上から下、 右から左へ読むこと等、大変興味を持ったようです。
スペインを経て、 最大の目的地ローマでは国境近くから教皇が送った300名の兵に 護衛され、ドイツ皇帝やフランス国王と同じ扱いの謁見を受け、 帰りには教皇から、 使節の目的でもあった日本での布教のための資金や大名への返書、 贈り物、旅費を与えられました。大人気だった4人の少年(東洋の貴公子)は、途中、 グレゴリウス13世の崩御により新教皇となったシスト5世の良い 宣伝となり、ヴァチカン図書館の「シスト5世の間」 に描かれています。
ヨーロッパでは使節に関する書物や小冊子は78種も出され、 サムライの子としての礼儀作法やキリシタンとしての誇りを持つ彼 らはアイドル的だったようです。
1590年13歳前後で日本を発った少年4人は、8年半後、 21,22歳の青年になり帰ってきました。その後4人は秀吉に謁見し、イエズス会に入りますが、それぞれ神に見はなされたように思われる運命をたどっています。
使節が織田信長に託された「安土屏風」は、 ヴァチカンの地図画廊に飾られていたらしいのでが、 現在もその所在は不明。 行方を追っていた滋賀県安土町はローマで、偶然、使節の少年《 伊東マンショ》の肖像画に出会いました。肖像画は時空を越え、 2006年に長崎に帰ってきました。大村藩士を先祖とする獣医博士の小佐々氏は長年の、 家系研究の結果、少年使節で殉教した《中浦ジュリアン》 が先祖だと分かったそうです。小佐々氏は仕事で何十回も、少年達が大歓迎を受けた、スペイン、 ポルトガル、イタリアに行っており、フランシスコ· サビエルの子孫と知り合ったことからスペインのムルシア州で、” 少年使節訪問415年記念講演”を行っています。
(船津)小田さん、小生の駄文に大きな花を添えて戴き有難う御座います。原田マハの 次元を越えた空想小説はあたかも事実のように見えてきますね。 あの絵は何処へ行ったんでしょうかね。
スペイン・葡萄牙旅行の時に天正遣欧少年使節がこの教会でパイプ オルガンを弾いたとかいろいろな「伝説?」遭遇致しました。澳門 の教会のファッサードの彫刻の右側の怪物は徳川家康とか????
スペイン・葡萄牙旅行の時に天正遣欧少年使節がこの教会でパイプ