「荒野のガンマン1961」は、西部劇に新生面を開き、独特の映
西部劇たる男の主人公は、名前からして常識的な西部劇世界を拒否する逆転世界を(モーリン・オハラ)が知り合うことに
男3人は食うことの一番の手軽な方
タークも同行するも、ビリーのキットに対する暴力的扱いによる対イエローとキットの二人だけの旅へ。途中、アパッチの酔いどれの大騒
子供の遺体だけの運びとは信じないタークとビリーが再びやって来て対決
最後にモーリン・オハラの歌が鳴り響く・・・軍隊を作るんだ、先
(飯田)この映画は10数年前にも当時の衛星映画劇場で観ていますが、ニューシネマと呼ばれた製作スタイルのサム・ペキンパー初の映画監督作品です。
主演はジャイ大兄のお好きなモーリン・オハラを中心に、ブライアン・キース、スティーブ・コクラン、チル・ウイリスの荒くれ3人男が、いわくありげの役を演じます。全編を流れるソロ・ギターの調べと大きなサボテンの生えた砂漠地帯がメキシコとの国境に近い雰囲気を高めています。
モーリン・オハラはジョン・フォード作品の「わが谷は緑なりき」(1941年)、「リオグランデの砦」(1950年)、「静かなる男」(1952年)、「長い灰色の線」(1955年)、「荒鷲の翼」(1956年)と全ての作品を私も好きですが、ジョン・フォードを離れてのこの作品「荒野のガンマン」での彼女の評価はどうなのでしょうか? 私は映画のストーリーはあまり好かないですが(特に最愛の幼い息子を殺された母親が、その射手を好きになるという展開などに無理があり)、モーリン・オハラ自身の容姿や演技は十分良かったと思っています。
(編集子)自分の初恋―というのか、例えば小学校で隣のハナコちゃんて、いたよな、位の昔をふと思い出して、わざわざ昔の場所を尋ねてみて、そのハナコがなんと泣きわめく子供を背中に背負ってとぼとぼ歩いているの見つける、なんて話はよくある。エーガの例ならばさしずめ 舞踏会の手帖、だろうか。飯田から(モーリン・オハラだぜ)とわざわざ知らせてもらって、録画しておいたものを見た。率直な感想は、これは俺にとっては ”舞踏会の手帖” だった。結論を言えば、オハラはやはりフォード作品でなければならない、ということだった。
飯田解説によればこれはかの アメリカンニューシネマに数えられる作品なのだという。この一連の作品のテーマや製作技法などというものについて語る資格は僕にはない。またそのカテゴリだとされる作品についても、見たのは限られている。そのなかで、本稿にも何回か書いたが、僕に衝撃を与えたのは バニシングポイント だった。ニューシネマ群の共通のテーマが(当時の)現代アメリカ文化に対する反抗であり、その結果がもたらす不条理感である、とすれば、この作品のもつ雰囲気は絶対的なものとして記憶にある。
それではこの作品(いつもはわき役でしか見ないブライアン・キースを見て驚いた)が、このニューシネマ的な感覚で作られていたのか、と言えばそうは思えない。バニシングポイントの衝撃的なラスト、絶対的な死に向かって夕陽の中を爆走するジーン・バリーの顔に浮かんでいた微笑、そういう衝撃もない。西部劇が持つべき要素(と僕は思うのだが)である善悪を超越した爽快感、もなかったし、娯楽性も感じなかった。
どうも今朝は寝起きがよくなかった気がする。飯田兄、申し訳ない。