その鎌倉が何故「世界遺産」に登録されないのか。ネットによると
また、京都等の寺社の世界遺産の条件は①「国宝建造物」あるいh
なお、建造物ではありませんが、高徳院の「鎌倉の大仏」も国宝で
世界遺産登録は難しそうですが、山と海に囲まれ、歴史ある寺社仏


旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)

(42 保屋野)私とシモさん、Dr河瀬も12/2に同期の「鎌倉アルプス紅葉狩
かって、去年の夏亡くなった萩原(ニンニン)に案内してもらって
また同時に去年の秋に相次いで亡くなった安川とペタも偲んで歩き
鎌倉宮に下って、バスで鎌倉駅→(江ノ電)稲村ケ崎→稲村ケ崎温
(44 安田)高校時代の友人3人と鎌倉を徒然なるままに散策し、1万5千歩
(普通部OB 船津)田村耕一郎さんと鎌倉漫遊しました。鏑木清方展・川喜多記念館・
(編集子)我が家の墓地は鎌倉霊園。そろそろ行かなくちゃならねえな。小町通に見つけたちっちゃなフランス料理か、八幡様のななめのうなぎ屋か。食い気のほうが先に出てくるのも困ったもんだ。
在日本中国大使館は12月2日、高市早苗首相が先月の党首討論で言及したサンフランシスコ平和条約について「不満かつ無効である」との主張をXに投稿した(朝日新聞、12月3日(水)、19時、配信)。
サンフランシスコ平和条約とは、太平洋戦争後に連合国諸国(米国など)と日本の間に締結された平和条約で、1951年9月8日に署名され、1952年4月28日に発効した。ただし、ソ連(米国が日本に駐留することになることを理由に調印しなかった)、中華民国、中華人民共和国(この両国は招待すらされなかった)は、この平和条約には参加していない。
先ず、この平和条約に参加、調印すらしていない中華人民共和国が、「不満かつ無効である」と述べても、当事者でもない国が第三者同士の締結した条約は無効であると文句を述べたところで、この条約は聊かも揺るぐ筈がない。正に、犬の遠吠えだ。
そこで、中華人民共和国のこの投稿が正しかったと仮定してみよう。すると、その最大の問題は、この条約では「台湾、澎湖島の権利、権限及び請求権の放棄」を謳っていることだ。ただし、帰属先には言及していない。従って、「不満かつ無効である」と主張するならば、日本が台湾を放棄することに反対していることになる。つまり台湾は依然として日本の領土と言うことになるわけだ。こんな自分に不利になることを、わざわざ中華人民共和国は望んでいるのか。
と言うわけで、ボンクラの小生には、何故、中華人民共和国がこんなバカバカシイことを大使館を通じて公にしたのか全く理解できない。この行為を自爆行為と嘲る人もいる。日本
から慣例の遺憾砲が飛んで来ないことから、焦りまくって、支離滅裂になってしまったのか。
ここでもう一つ問題にしたいのは、所謂、オールド・メディア(小生は、オブソリート・メディアと呼んでいるが)、例えば、日経ではこの問題には殆ど触れていないことだ。これで世の中の動きが的確に分かるのだろうか。確かに、ネットの情報が玉石混交であるのは間違いない。しかし、少なくとも小生にとっては、今や、ネットはなくてはならぬ媒体であり、貴重な情報源となっている。
(44 安田)まさに溜飲が下がる思いがします。いつもながらの小気味の良い、
日本国との平和条約(にっぽんこくとのへいわじょうやく、英語: Treaty of Peace with Japan、昭和27年条約第5号)は、1951年9月8日に第二次世界大戦・太平洋戦争後に関連して連合国諸国と日本との間に締結された平和条約。通称はサンフランシスコ平和条約。サンフランシスコの英語の頭文字(San Francisco)を取ってSF条約とも呼ばれる)。
この条約を批准した連合国は日本国の主権を承認[注釈 2]。国際法上、この条約により日本と多くの連合国との間の「戦争状態」が終結した。なお、ソビエト連邦は会議に出席したが、連合国軍による占領終了後におけるアメリカ軍の駐留継続に反対する姿勢から条約に署名しなかった。旧イギリス領のインドとビルマは欠席した。旧オランダ領のインドネシアは条約に署名したが、議会の批准は実施しなかった。その後、日本はインドネシア、中華民国(台湾)、インド、ビルマとの間で個々に平和条約を締結したが、ソビエト連邦(およびその国際的地位を継承したロシア連邦)との平和条約は締結されていない。
本条約はアメリカ合衆国のカリフォルニア州サンフランシスコ市において署名されたことから、サンフランシスコ平和条約、サンフランシスコ講和条約ともいう。1951年(昭和26年)9月8日に署名され、同日に日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約も署名された。11月18日、第12回国会で承認された後[2]、翌年の1952年(昭和27年)4月28日に公布・発効された。
みんなから送られてくる素晴らしい景観とその写真。つい最近のメー
こちとらは、外に出るのも億劫になる歳と共に、外出の機会が、ぐ
(HPOB 金藤)大倉山公園の紅葉みごとですね。遠くに行かなくても楽しめるなんて、羨ましく思います!
(HPOB 金藤)
杉並区の荻窪界隈のローカルな話となりますが・・・
先日、吉祥寺へ出かけたついでに、実家から一駅隣の駅が最寄駅に
荻窪三庭園とは荻外荘公園 太田黒公園 角川庭園の三庭園です。今は大田黒公園の紅葉が美しい時期です。 今年はまだ行っていませんが、ライトアップ時も雰囲気があって素
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荻外荘は昭和前期に3度にわたり首相を務めた近衛文麿の旧居。太平洋戦争のきっかけとなった近衛と軍最高幹部との会談もここで行われた。
(普通部OB 田村耕一郎)荻窪三庭園の写真とお話を懐かしく拝読、有難うございました私は荻窪の隣の西荻窪育ちで1946-1964年まで住んでいま
その時代は荻窪三庭園との命名はなく、荻窪の近衛邸の前をぶらつ
覚えてますが、太田黒/角川邸は知りません。当時の散策コースは
にある東京女子大―善福寺公園-井草八幡宮でした。
京都永観堂の紅葉は素晴らしいですね、実は先週京都に出かけ、三
永観堂/広隆寺/仁和寺/清凉寺大覚寺を巡り、特別展での仏像、
見事な紅葉に魅せられました。特に見事な紅葉に囲まれた初めて訪
永観堂に驚き閉門まで過ごしました。
(普通部OB 船津於菟彦)何でも三題噺的に三にこだわることが多い。 ”六義園”「小石川後楽園」「浜離宮恩賜庭園」とか、「小石川植物園」「東京都庭園美術館」「椿山荘」何れの庭園は季節とか
何を見たいか何を撮りたいかに寄りどの庭園でもそれなりの価値は
お正月は七福神巡りとか、我が錦糸公園もかカサコソの季節です。
帰宅後、やるせない胸の内、(47 関谷誠)Small batchとは「小規模生産(small batch)とは、
特定の商品や製品を少量ずつ製造することを指します。
これは、手作りや特別な製法で作られる食品や飲料に見られる形式で、品質を重視し、個別の管理や職人技を反映させることができます。小規模生産のメリットには、顧客満足度の向上や持続可能性の促進、地域経済の活性化が含まれます。
本当に中華人民共和国(以下、中国)と台湾は一つの中国なのか?
11月24日、習近平がトランプに電話した際、「台湾が自国の一部と言う一つの中国」原則などを改めて説明し、「台湾の中国への復帰は戦後国際秩序の構成部分だ」と強調し、台湾統一への強い意志を表明した、と日経は報じている。
ここで習近平が言っている、「戦後国際秩序の構成部分」とは具体的に何を指しているのだろうか。
その前提には、1895年、日清戦争で日本が清に勝利した結果、台湾が日本の植民地となったことから始まる。以下が、具体的な戦後国際秩序の構成部分だ。
1943年12月1日、“カイロ宣言”と呼ばれる宣言が、米国は大統領ルーズヴェルト、英国は首相チャーチル、中華民国は主席蒋介石から出され、戦後、台湾の日本から中華民国への返還が明記された。
1945年7月26日、“ポツダム宣言”と呼ばれる宣言が、米国は大統領のトルーマン、英国は首相のチャーチル、中華民国は主席の蒋介石(ソ連の書記長スターリンは日本の敗戦後に参加)から出され、カイロ宣言の履行を明記した。
また、1951年9月8日、締結されたサンフランシスコ平和条約では、台湾の帰属は明示されなかった。
以上、いずれも、その対象は中国ではなく中華民国だった。何故なら、中華人民共和国の独立は1949年10月1日であり、中国は、それ以前、地球上に存在しなかったからだ。つまり、日本からの返還先は、中華民国(台湾)だったことになる。逆に言えば、台湾が中国に属すると言うことを明示した書類は一つもない。
それに対して、例えば、外務次官だった栗山尚一は、その2010年に出版した回想録の中で、ここに言う中華民国は中華人民共和国と読み替えるべきだと述べている。しかし、こんな恣意的なことが簡単に罷り通ることになれば、どんなことでも読み替えることが出来るわけで、そこには途轍もない無理がある。
その意味で、習近平が「戦後国際秩序の構成部分」だと述べたことは、却って藪蛇であり、自ら墓穴を掘ったことになるのではないか。
従って、どう考えても、中華人民共和国と台湾(中華民国)は全く別の国家であると断じざるを得ない。今、中国が台湾にやろうとしていることは、例えば、Aと言う幼児がBと言う他の幼児の持っている優れものを、優れものであるが故に、これは俺の物だと奪い去って行くようなものであって、これは、児戯にも等しい全く稚拙な行いであり、絶対に許されることではない。
(44 安田)ニクソンの電撃北京訪問1972年に続く米中国交樹立(
福島屋のおばちゃんが腰を痛めて、十日町の長女さん宅で療養をし
(編集子)三国山荘、が完成したのは筆者加藤君が1年,編集子が2年の生意気盛りのときである。完成当時にはまだ三国トンネルが開通しておらず、バスも法師温泉どまりで、上越線で後閑から法師を経て三国峠を越えるか、金に余裕があれば湯沢まで出て、運行されていたバスで浅貝まで入るか、だった。
苗場のスキー場が開業したのは我々が卒業してからだから、当時の浅貝はむかしながらの素朴な村で、そこで青年団長をしていた福島屋旅館の若主人佐藤さんはわれわれの通称は ”団長”、ぶっきらぼうだが頼りになる存在だった。当然のように福島屋は僕らの定宿になっていった。加藤は山荘建設時点からの山荘委員で長い付き合いをしてきたひとりた。文中の”おばさん”は故団長さん夫人である。
三国峠を貫通するトンネルが完成し実用化されたのは我々が卒業後3年くらいたってからだろう。同じころから高度成長時期に差し掛かり、車がコモディティ化してしまって、上越線経由で入山することはほぼなくなってしまった。加藤君や我々がお世話になったもう一人のおばさん後閑駅まえ甲子(KWVでは”こーし”と呼んでいるが正しくは ”きのえね”)食堂の渋谷さんなんかも懐かしい顔だ。その後の消息を知る人がいればぜひご一報願いたい。トンネル工事は難行だったようで、例によって工事の犠牲者が壁に塗りこめられてる、なんて話もあり、完成直後、歩行は許可されても同期の大塚なぞは一人で通り抜ける勇気が出ず、峠を歩いて越えた、なんて話があったころの話だが。
その後、苗場スキー場周辺は西武グループによって大規模なレジャー施設化し、浅貝も経済的には様変わりした(ブームにのって乱設されたマンションのいわば残骸がその象徴だ)。同期の児玉博は浅貝の歴史、風俗を調査し、それをテーマとして卒業論文を書いた。彼が愛した古き、よき浅貝があった時期、児玉はフィアンセに心のふるさとを見せようと試みた国境縦走行で天候の激変に遭遇、仙の倉直下で遭難死してしまった。あいつ―俺達はある種の畏敬を込めて ”馬賊” と呼んでいたーが健在だったら今の浅貝をどう見るだろうか。
彼の追悼のために、とご両親からいただいた資金で、36年同期が中心になって、あの稜線に資材一式を肩で担ぎ上げ、避難小屋を建てた。児玉の遭難直後の遺体の搬送から一連の作業やこの避難小屋建設などにあたって、この ”福島屋” 団長から受けた数々のご支援を我々は忘れていない(なおこの避難小屋はその後地元や県などによってより強固なものに建て替えられ、初めての時に中に掲げておいたメッセージだけが三国山荘に保管されているはずである)。
おばさん、お元気でおすごしください。
(47 関谷)後閑の「こうし」のおばさん渋谷尚子さんは、店じまい後、伊勢崎在住のご長男の所に移られ、十年近く前、他界されております。年賀状のやり取りをしていたので、ご長男より喪中はがきを頂き、知りました。ご冥福を祈るべく、線香を、後日、お送りした記憶があります。
(菅井)アルコール飲料市場参入という意味では恐らく最も参入障壁(
上面発酵(エール)
酵母: 発酵中に麦汁の表面に浮き上がる。
発酵温度: 15~25℃前後の比較的高温。
発酵期間: 短期間(3〜4日程度)。
味わい: 酵母の働きが活発なため、フルーティーで香りが豊か、