二人のジミー:70年代の名優たち     (大学クラスメート 飯田武昭)

金藤さんの映画「ララミーから来た男」の主演、ジェームス・スチュワートの名前がヒントで、思い付いた事です。ご承知のように、アメリカ人はファースト・ネームで人を呼ぶ習慣が強く、ジェームスは愛称(ニックネーム)ジミーですが、俳優でジミーと言えば先ずジェームス・スチュワートの事です。それほどに彼は沢山の映画、それもジャンルを問わず略40年間にスクリーン上で活躍した俳優は多分、彼しか居ないと思います。
ご参考までにリストを添付しますが、もう一人のジミーは、言わずと知れたジェームス・ディーンです。

こちらは「エデンの東」「理由なき反抗」「ジャイアンツ」の3作品(1955年&56年製作)のみで、24歳で、この世を去った悲運のスターです。こちらも映画公開当時はジミーと言えばジェームス・ディーンでした。

ジェームス・スチュアートは又、役柄に悪役が無い善良な役ばかり、それが気に入らない人もいるかも知れませんが、20世紀の男優3人の大スター、ゲイリー・クーパー、ジョン・ウエイン、ジェームス・スチアートは何れも悪役を演じられないスターだったのではと改めて思い起こします。善悪、どちらも演じ分けたハンフリー・ボガートやリチャード・ウイッドマークなどの方が個性があって好きと言う人も多いと思います。

20世紀には「白熱」など、今ではテレビでは見られないジェームス・キャグニーのようなあくの強い悪役ばかりの名優もいました。

NO.36製作年タイトル番号
1、1938年我が家の楽園
2、1939年スミス都へ行く
3、砂塵
4、1940年フィラデルフィア物語
5、1946年素晴らしき哉、人生!
6、1948年ロープ
7、1949年踊る熱球
8、1950年ウインチェスター銃’73yes
9、折れた矢yes
10、1952年地上最大のショウyes
11、怒りの河yes
12、1953年裸の拍車yes
13、グレンミラー物語yes
14、1954年裏窓yes
15、遠い国yes
16、1955年戦略空軍命令yes
17、ララミーから来た男yes
18、1956年知りすぎていた男yes
19、翼よ!あれが巴里の灯だyes
20、夜の道
21、1958年めまいyes
22、媚薬
23、1959年ある殺人
24、連邦警察
25、1961年馬上の二人yes
26、1962年リバティ・バランスを射った男yes
27、西部開拓史yes
28、1963年シャイアンyes
29、1965年シェナンドー河yes
30、飛べ!フェニックスyes
31、1966年スタンピード
32、1970年テキサス魂
33、1974年ザッツ・エンターテイメント
34、1976年ラスト・シューティストyes
35、1977年エアポート’77/バミューダ

(編集子)小生が見たものは上記リストにアスタリスクをつけてみたが、結構よく見た、という感じがする。一番深い印象があるのは 34 ラスト・シューティストだ。映画の上でもそうだが、ウエインがこれが最後、と思い詰めたであろう傑作に出演、その演技から(相棒、これが最後だよな)というような、脚本には表れない気迫みたいのものが感じられたものだ。同じ時期の同僚だったローレン・バコールもよかった。

もう一本、リバティ・バランスを射った男 は、ストーリーもそうだが今度は役の上でもウエインに花を持たせた作品で、エンドマーク近く、ウエインの葬儀帰りの夫婦の会話が身に染みる、スチュアート作品の代表みたいな佳作だった。このエンディングの伏線になっているサボテンの花、見てみたいものだが日本では無理だろうな。

博識の飯田兄には無用のことと思うが、悪役、の代表はなんといってもブライアン・ドンレヴィだと小生は思っているし、顔が出てきただけで役どころがわかってしまったのがネヴィル・ブランドだったな。彼が、たしかトラトラトラだったと思うのだが、日本軍の奇襲の情報を知り、上官に伝達しようとするのに苦労する下士官を演じたことがあった。”悪役でない” ブランドはほかではお目にかかっていない。ほかの敵役で名の売れているということならご存じリー・マーヴィンとかアーネスト・ボーグナインやらヴィクター。ジョリーなんかかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

谷口吉郎の建築     (普通部OB 船津於菟彦)

先の「戦争遺跡として巡る三田キャンパスツアー」で谷口吉郎さんと慶應義塾の建築について一部語ふれましたが、「建築大好きな」熟年生としては谷口さんの建築について書いてみました。
谷口吉郎さんはすでに戦前から、慶應義塾の各所において建築設計を依頼されていました。彼の手により、1936年には天現寺に幼稚舎が、翌年には日吉寄宿舎が完成しています。どちらの建築物も優れた意匠のみならず当時最新の設備を有し、当局から高い評価を得ていました。
熟年生は普通部入学の時は天現寺の幼稚舎校舎を仮住まいとしていましたので、この建物の理科の部屋などは我が根城でした。非常にモダンな1937年に作られた建物とは思えない素晴らしさでしたね。

1949年には5号館、4号館、学生ホールが木造で完成した。これらによって、谷口は建築家の最も栄誉ある賞、日本建築学会賞(作品)の第1回受賞者に輝いた。学生ホールの東西の両壁面には猪熊弦一郎による壁画「デモクラシー」があり、今は西校舎内の食堂に移設されているが、こうした芸術家との協働は現在、南館にある「ノグチ・ルーム」につながる。これは1951年に完成した鉄筋コンクリート造の第2研究室の一部を移築したものだ。谷口は木造の校舎、鉄筋コンクリート造の校舎を通じて、縦に細い窓を連続させるというデザインモチーフを用いることで、三田キャンパスに清新な一貫性を付与したのだった。

慶應義塾の建築家と言えるのが谷口吉郎だ。関わりの始まりは1937年に完成し、今も現役の慶應義塾幼稚舎である。校舎の設計を当時、慶應義塾常任理事を務めていた槇智雄が依頼したのだった。谷口はまだ20代であり、助教授を務める東京工業大学の水力実験室と数棟の住宅しか手掛けていなかったが、谷口は従来の校舎のありかたを継承するのではなく、新しく考え直して、良いと思うものを設計した。モダニズムと呼ばれる手法だ。第2次世界大戦後の三田キャンパスで、これが大いに使われることになる。小生は普通部入学の時は天現寺の幼稚舎校舎を仮住まいとしていたので、この建物の理科の部屋などは我が根城で、非常にモダンな1937年に作られた建物とは思えない素晴らしさだった。

慶應義塾普通部は天現寺幼稚舎から1951年に日吉へ谷口吉郎さん設計の建物へ移転、未だ芋畑とか米軍のカマボコ兵舎などが残る荒れ地で、先ずは草むしりから始まったが校門も何もなかった。細いスリット状の窓は谷口吉郎さんの慶應義塾の戦後の建物の特徴で、演説館などの伝統建築を引き継いだいだと言う事も言われているが、実際は戦後の日本では大きなガラスは高価で割安なガラスで済ませたというのが谷口の苦辛の表れかと思われる。

谷口吉郎設計1937年竣工戦中に海軍聯合艦隊司令部となった悲運の名建築寄宿舎の建物は1937年に建った。 谷口がこの設計に取り掛かったときは、まだ30歳そこそこの若輩建築家であった。東京工業大学助教授として、1932年に建った同大学の水力実験室が処女作で、自邸、慶應義塾幼稚舎(1937年竣工)、それに続くのがこの寄宿舎である。若い無名の建築家を、慶応義塾はよくも起用したものである。ここから彼は名建築家への道を歩み出したのであった。慶應義塾の建築家と言えるのが谷口吉郎だ。関わりの始まりは1937年に完成し、今も現役の慶應義塾幼稚舎である。校舎の設計を当時、慶應義塾常任理事を務めていた槇智雄が依頼したのだった。谷口はまだ20代であり、助教授を務める東京工業大学の水力実験室と数棟の住宅しか手掛けていなかったが、谷口は従来の校舎のありかたを継承するのではなく、新しく考え直して、良いと思うものを設計した。モダニズムと呼ばれる手法だ。第2次世界大戦後の三田キャンパスで、これが大いに使われることになる。小生が谷口吉郎先生の謦咳に接したのは、大学で教わった時である。その頃はもう還暦が近く、秩父セメント工場、藤村記念館、東宮御所などの名作で有名建築家であり、その美丈夫にして謹厳なる様子には近寄りがたい風格があった。右目と比べて左目が大きいのが印象的だった。西洋建築史を文学部の講座に単位にも成らん無いのに熱心に受講した想い出がある。

作品が採用されました!     (普通部OB 船津於菟彦)

日本クラッシクカメラクラブが1980年に発足以来、初めて小生の拙い写真が案内状に採用されました。嬉しい限りです。他にコンタックスDとライカⅢb+SNOOKYの三点出展致しております。お時間がありましたらお寄りください。モシ来られも場合は事前にメール戴ければ会場に出向くように致します。

全日本クラシックカメラクラブは絶滅危惧種救済団体AJCC( ^o^)はフィルム維持に懸命にフィルムを使いかつ古いカメラで撮影する奇特な団体です(@^▽^@)
会期は9月17日〜21日です。

新型コロナ ”ニンバス” ご存じですか   (普通部OB 篠原幸人)

暑いですね。日本は完全に今は熱帯地方の仲間入りですね。

そんな中。今日は久しぶりでコロナの話です。 街を歩いていても、マスクしている人 減りましたよね。公共の乗り物に乗っても マスクをしているのはお年寄りばかり。

厚生省がお金がかかるからと、コロナを「5類感染症」に引き下げてから、社会の緊張感も薄れ 皆さんもコロナは普通の風邪と全く同じと考えるようになったからでしょうね。

今、日本で猛威を振るいはじめているのは、オミクロン株(今となっては懐かしい響きも感じますが)から変異したと考えられる「ニンバス」です。香港・シンガポールなどから日本に入ってきたとの説が有力です。

症状の特徴は「刺すような、或いは剃刀(かみそり)を飲んだような強烈な咽頭痛」、それに加えて咳・痰・発熱・倦怠感・頭痛・時には吐き気や下痢を伴うこともあります。特徴的な咽頭痛を除けば普通の風邪症状ですよね。北海道・九州でも またいま私が滞在している長野でも7月に比べ8月は4倍近いこの患者が出ているようです。

但し、今 行われているコロナの治療はこのニンバスにも有効性が証明されています。お出かけの際は、できればまだマスクをお忘れなく。またたかが喉が痛いだけと痩せガンマンせず 怪しいと思ったら近所の先生に。

ニンバスをまだ知らない先生には 教えてあげてください。

ギボウシは見返り美人か    (41 斉藤孝)

 軽井沢の小さな山野草の庭で擬宝珠(ギボシ)の『見返り美人』から歓待された。

ギボウシは『見返り美人』であると妄想した。

背筋をすっと伸ばし首筋が綺麗だ。まっすぐ伸びた茎は、乙女の細いうなじのようで気品がある。その優美な茎先に筒状の花をいくつもつける。

浮世絵師「菱川師宣」は、女性を美しく見せる演出法として、歩みの途中で後方に視線を送る姿を描いた。「モナリザの微笑」にも匹敵できるような演出である。

乱読報告ファイル (60)花衣ぬぐやまつわる・・わが愛の杉田久女 (普通部OB 菅原勲)

「花衣ぬぐやまつわる・・・」副題:わが愛の杉田久女.。

小生、俳句については一見識もない。では、何故、女性俳人の杉田久女(久が本名。以下、久女)を知ったかと言うと、かねがね愛読している、日経は土曜の夕刊、最終面の「文学周遊」に久女のことが載っていたからだ。それも、彼女の俳句ゆえの話しではなく、彼女に対する毀誉褒貶の評価に、大変、興味をそそられたからに他ならない。

久女は、大蔵省の書記官を父に、鹿児島で1890年に生まれた。その父親の転勤に伴い、沖縄、台湾などで幼少期を過ごし、東京女子高等師範学校(今のお茶の水女子大)付属高等女学校を卒業後、19歳で、東京美術学校(今の東京芸術大学)を卒業し、小倉で美術教師をしていた杉田宇内と結婚する。俳句に慣れ初め出したのは、26歳の時、兄で俳人でもある赤堀月蟾から句を学び、以降、俳誌「ホトトギス」に数多の句を投稿した。

しかし、夫の宇内は、久女が俳句に夢中になることを好まず、一方、彼女には二人の娘の面倒を見る必要があり、しかも、女中がいないとあっては、誠に厳しい生活環境にあった。逆に、そう言う環境にあったからこそ、そこからの一種の逃避手段として、生き甲斐である俳句に徹底的に拘ったとも考えられる。しかし、一方では、「ホトトギス」の同人となりながら、敬愛する師、高浜虚子から、突如として除名されるなど、不幸な運命を辿ることにもなる。やがて、連夜の空襲の中、自身の句稿を抱えて防空壕にうずくまる日々。そして、戦後となり、心のバランスを崩した久女は、精神病院に入院、食糧難にも苛まれ、55歳で鬼籍に入る。彼女の生前に果たせなかった句集の出版は、娘の石昌子に引き継がれ、「杉田久女句集」として、1969年、角川書房から出版された。

確かに、田辺は久女の生き方に寄り添っているが、「尊敬すべき見識と教養を人にも認められながら、それが人と人とをつなぐ親和力にならず、かえって敬遠されていくという不幸」があったと述べている。小生は、久女には一本気なところがあり、加えて、人付き合いに不器用なところがあることから、それらが誤解を招く原因になったのではないかと推測する。例えば、俳句仲間のお宅を訪問し、話し込んで長っ尻となることから、自分から勝手に弁当を持参するなど、結局、以降、出入り禁止となってしまう。

また、松本清張の小説「菊枕」(1953年)、吉屋信子の小説「底のぬけた柄杓 憂愁の俳人たち」(1963年)中の「私の見なかった人(杉田久女)」などで久女を言われもなく貶めているいい加減さが、後年の虚実入り混じった久女像の固定化に大きく影響した面もあろう。中でも吉屋の作品については、田辺は「ありていにいって、半分よたっぱちである」と酷評している。しかし、致命傷となったのは、師匠とも目していた虚子の彼女を狂人扱いにした(彼の著書「国子の手紙」、1948年)、それこそ正に嘘っぱちが人口に膾炙してしまったことが、彼女の句ではなく、久女を遠ざける風潮の源になったのではないか(確かに、久女は、短期間の間に、200通余りの手紙を虚子に送りつけている。しかし、解説を書いた作家の山田詠美は、それらの手紙を読んで、「私は、久女が、それほど、精神に異常をきたしていたとは思えない」と述べている)。だが、田辺のこの「花衣・・・」が彼女の名誉を完全に回復したのは間違いない。これは、小生の全くの憶測だが、虚子は、豪放磊落な人だったようだが、その本心は、久女の溢れんばかりの才能に激しく嫉妬し、我を忘れて嫉んでいたのではないか。それがこう言う彼女を「ホトトギス」の同人から除名し、更に必要以上に貶める発言になったのではないかと思われる。

田辺は「わが愛の杉田久女」と呼んでいるが、小生は、「我が愛する杉田久女」と呼びたい(山田は、「読みながら、何度も、久女の写真を見返した。彼女は、とても美しい顔をしている」)。

ここで、彼女の代表的と思われる俳句(小生にはそれを評価する術が全くないので、この欄で挙げられている句に止めておく)を列挙しておく。

「花衣ぬぐやまつわるひもいろいろ」。

「鯉を料るに俎せまき師走かな」。

「谺して山ほととぎすほしいまま」。

「朝顔や濁り初めたる市の空」。

以下は、田辺と解説を書いた山田が、最も心ひかれ、愛する句として挙げている。

「甕たのし葡萄の美酒がわき澄める」。

 

杉田 久女(すぎた ひさじょ、1890年明治23年)5月30日 – 1946年昭和21年)1月21日)は、鹿児島県出身の日本俳人[1]。本名は杉田 久(すぎた ひさ)。高浜虚子に師事[1]長谷川かな女竹下しづの女とともに、近代俳句における最初期の女性俳人で、男性に劣らぬ格調の高さと華やかさのある句で知られた。家庭内の不和、師である虚子との確執など、その悲劇的な人生はたびたび小説の素材になった。

 

エーガ愛好会 (337) それでも アラスカ魂 を見ましたよ (HPOB 小田篤子)

皆さんのメールをもとに、とても楽しく観ました。

特に喧嘩の場面!
お酒も溢れめちゃめちゃな酒場、やぎ?もドンドン飛び出すぬかるみの道路での泥だらけの喧嘩。
金鉱の水路でびしょ濡れになる喧嘩…。
俳優たちは大変だったことと思います。
宝田明似のような?ジョージが、彼女の為に作っておいた小屋がとても素敵です。
カーテン、ベッドも可愛いらしく、背景もすばらしい!
前に川が流れ、木々の向こうの山の上には、夜はオーロラが!
このところ話題のアラスカでもゴールド ラッシュがあったのですね。
飯田さんのおっしゃる通り、犬の表情、行動が印象的でした。
先月、Netflixで、実話に基づく「レスキュー·ドッグ·ルビー」を観ました。いたずらをしたり、感動させたりと活躍していました。
知的な綺麗さのジェニー役《キャプシーヌ》はスタイルの良さと名前から、やはりフランスのモデルさんでした。
ヘンリー・ハサウェイは『西部開拓史』や『勇気ある追跡』の監督でもありますね。
(編集子)騒動はあったけど、楽しんでいただいて安堵。殴り合いの壮絶さ、では小泉さんも書いておられる、”スポイラース”、コミカルタッチでは ”黄色いリボン” のヴィクター・マクラグレンを思い出します。
日本映画では僕が見た範囲は限られてますが、裕次郎と二谷英明の “俺は待ってるぜ” のラストの乱闘シーンがよかったかなあ。女性にも乱闘シーンがアピールするんですね。
セーブゲキなら、かの ”シェーン” でのアラン・ラッドとベン・ジョンスンの殴り合いも見ごたえあったなあ。

エーガ愛好会臨時版 アラスカ魂のオソマツ

(編集子)今朝お知らせした ”アラスカ魂” 売り込みの件。ジョニー・ホートンの主題歌についてはおしらせどおり、軽快な、 聴いていて愉快なものであることは間違いないのですが、ストーリーは実はグレゴリー・ペック主演の ”世界を彼の腕に (World in his arms)とごっちゃにしていました。こちらはロシアが誤解から宝庫アラスカをアメリカに叩き売った史実を絡めた、面白い作品です。いやーお恥ずかしい(恥ずかしいので写真もちいさい)。

(安田)日本で公開された直後に映画館で観ました。65年前の昔です。同時期にジョン・ウエイン主演の「アラモ」(1960年公開)も観ましたが、どっちが先だったか覚えていません。アラモは歴史にも知られたそのストーリーをおおよそ覚えていますが、「アラスカ魂」は主題曲の印象が強烈で忘れ難いのだが、ストーリーは殆ど覚えていません。マッチョのウエインらしからぬコメディ調だったのは微かに覚えています。再々見して、小泉さんの名解説の内、特に次の部分がこの映画の本質を突いていると思います。

≪冒頭のジョニー・ホートンによる主題歌North to Alaskaのメロディは懐かしく、歌詞が物語を説明して呉れている。監督はヘンリー・ハサウエイ、この監督の西部劇何本観ただろう。冒険活劇やさまざまのジャンルの映画、どれをとってもつまらない映画は皆無。監督作品の多さは職人監督と悪口を言われたこともあるが、職人こそが、映画の面白さを提供して呉れる。その点では「カサブランカ」を作ったマイケル・カーティスと双璧と言える≫

ところで、この映画のジョン・ウエイン、キャプシーヌ、シュチュワート・グレンジャーに続く、第4の主演者はワンちゃんだと思います。犬種が分からないのですが、西部劇には時々出てくるテリア系の犬と思いますが、何せ、主役のセリフや動きに反応して可愛らしい限りです。

(飯田)映画のタイトルを間違えたと言われますが、この ”世界を彼の腕に (World in his arms)“こそ、隠れた2流映画の名作ではないかと私はジャイ大兄の記憶力に脱帽します。この映画は私の記憶の限りにおいてテレビでは放映されたことは近年無い筈です。それを覚えておられる記憶力、この種の驚きこれまでも時々あるのですが脱帽です。この映画を自分は観たか観てないのか記憶の外にある映画です。

グレゴリー・ペックが「頭上の敵機」や「キリマンジェロの雪」の後、「ローマの休日」の前に撮った映画の筈です。

(小川)今録画見てる、これはこれで面白いよ!

(小泉) ジョン・ウエインが、英国の美男スチュアート・グレンジャーと仏国の美女キャプシーヌと共演した珍しくもコミカルな西部劇。5年前放映されたときに書いた感想ですが、其の侭送らせていただきます。

ゴールドラッシュ華やかな頃のアラスカ。シアトルから来たジョン・ウエインはスチュアート・グレンジャーとフェビアンの兄弟と一山あて、ウエインは一旦シアトルへ帰り、グレンジャーを裏切ったフィアンセの身代わりバーで知り合ったキャプシーヌを連れて帰る。ここからキャプシーヌをめぐるウエインとグレンジャーの鞘当てやら、金鉱をめぐる詐欺師アーニー・コバックスとの争い等を呑気なテンポでコミカルに描く。冒頭のジョニー・ホートンによる主題歌North to Alaskaのメロディは懐かしく、歌詞が物語を説明して呉れている。ジョン・ウエインとしては、コミカルな役を熱演している。ジョン・フォードの「静かなる男1952」、フォードの作風を受け継いだと言われるA・V・マクラグレンの「マクリントック1963」でコミカルな味を出してはいたが、これは全出演作の中で、異色の地位を占めるのではないか。ウエインがグレンジャーのために連れてきたキャプシーヌを愛し始めてきた場面、グレンジャーとキャプシーヌが小屋の中、ウエインは気が気でないが、入るわけにもいかず、地団駄踏む場面は、ウエインらしからぬコメディアンと化したのだった。西部劇としては珍しく、銃で人を殺す場面にお目にかからず、何かあると喧嘩!喧嘩を始めると、周りの野次馬まで触発、喧嘩もコメディとして不可欠な要素なのだ。その喧嘩の場面場面、倒れ方から、倒れることによって壊れるものものには種々の工夫が凝らされていた。

アラスカを舞台とした西部劇「スポイラース1942」の姉妹編でもあり、前年作られた「リオ・ブラボー1959」も意識していたかも。監督はヘンリー・ハサウエイ、この監督の西部劇何本観ただろう。冒険活劇やさまざまのジャンルの映画、どれをとってもつまらない映画は皆無。監督作品の多さは職人監督と悪口を言われたこともあるが、職人こそが、映画の面白さを提供して呉れる。その点では「カサブランカ」を作ったマイケル・カーティスと双璧と言える。

ジョニー・ホートン英語John LaGale Horton、1925年4月30日-1960年11月5日)は、アメリカカントリーミュージックホンキートンクロカビリー歌手ミュージシャンであった。

(編集子)”世界を彼の腕に” DVDはアマゾンにありました! これを買ってればこんな間違いはしなかったのに。遅まきながらちと高いけど買います。

エーガのあとはカクテルなどいかが   (バー アンノウン オーナー川島恭子)

image0.jpeg水色のカクテルは、ブルーマルガリータです。
テキーラ40ml
レモンかライムを絞ったもの15ml   ブルーキュラソー5ml
シェイクする
☆グラスのふちをレモン等で濡らして塩をつける
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🤎今期初めての 梨のカクテル🤎
image0.jpeg
梨のフローズンカクテル
梨1/3
クラッシュアイス1/2カップ(氷を布巾にくるみ ビニール袋に入れ すりこぎ等 硬いもので砕く)
梨のリキュール10ml
ウォッカ20ml〜30ml
ブレンダーで滑らかにする。
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桃のカクテルは、ベネチアのハリーズバー発祥の 🔸ベリーニ🔸が有名です。カルパッチョ発祥の店でもあります。(牛肉のカルパッチョ)
今でも観光客は ベリーニとカルパッチョをオーダーすると ハリーズバーに行った方からお聞きしました。
ベリーニ
桃1/2
シャンパン(スパークリングワイン)20ml〜30mlぐらいをブレンダーでピューレ状にする
桃のピューレをグラスに入れ 少しづつシャンパンを混ぜながら注ぐ(かなり泡が出るので気をつけて注ぐ)
image0.jpeg
※桃は変色が早いので手早く作る)
こんなに暑い夏が続くのは初めてですね!
先月は、人生初めの夏バテで 体調を崩したので、今月は週休3日にして のんびりと営業しています。

訃報

ここの所、親しかった友人やら先輩の訃報が多い。自分自身の終焉も遠くはない年齢になってみると余計に敏感になっているのだろうか。

本稿でも何回か触れた愛読書のひとつ、北方謙三の ”ブラディドール” シリーズ全10冊の終わりの方で、主人公が親友を亡くす場面がある。その時、主人公が自分に言い聞かせるようにいうセリフが小生にこの ”別れ” について唯一納得できる解答のように思える。

”俺たちにできるのはあいつを覚えていてやることだけさ”

葬儀に列席すると,納棺の前の ”故人と最後のご対面” という儀式、小生はこれが好きではない。故人との付き合いが深いほど、その思い出がデスマスクを見ることによって薄れてしまうのが耐えられないからだ。

Mがなくなったのは時悪しくコロナの最盛期で、多くの場合葬儀自体が難しく、遺族も弔問客への伝染をおもんばかって会葬を制限してしまうことが多かった。普通部時代からの親友Kの場合もそうだったが、Mの一番の友達だ、と思っている自分にもご遺族のご意向で葬儀への出席はかなわなかった。

翌日、夫人から奴のご遺体が自宅にあるから、来てほしい、と電話があった。タクシーを飛ばせば30分とかからないのだが、俺は行かなかった。死に顔を見てやる、というのは確かに儀礼として正しいことだろうが、そのことで奴を ”覚えていてやる” ことを妨げるのが怖かったからだ。俺にとって、Mとの別れになった、雨模様の日蔭沢での、あの、見慣れた顔、それが脳裏から消えてしまうのが怖かったのだ。

たぶん、夫人は不快に思われただろう。今まで言い訳はしていないが。