「沈黙のファイル」副題:瀬島龍三とは何だったのか(著者:共同通信社会部編、発行:朝日文庫、2025年)。
これは、1999年8月、新潮文庫から出版された同名本の復刻版だ。26年も前の話しとなるが、小生、そんなことがあったとは全く知らなかった。
副題に「瀬島龍三とは何だったのか」とあるように、小生も彼については、いささかの胡散臭さを感じていただけに、この本がその謎をある程度解明してくれるのではないかとの大きな期待を持って飛びついた。しかし、その期待は見事なまでに裏切られた。依然として謎はそのまま謎として残っている。それは、解説で保坂正康がいみじくも述べているように、「むろん瀬島も多くの事実を語らないことにより、歴史を歪曲したり、隠蔽したりしてきた」。正にこの言葉どおり、瀬島は、その謎を抱えたまま95歳で天寿を全うしてしまった。
では、一体、瀬島はどんな人生を歩んで来たのだろうか。1911年、富山県に生まれ、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業した生粋の軍人だ。ただ、直ちに参謀本部作戦課に配属されているように実戦の経験は全くないし、以後も皆無だ。参謀本部には、1939年から1945年までいたわけだから、この間、日本が北部/南部仏印に進駐したり、対英米蘭開戦などの重大案件の策定に深く携わっていたことになる。終戦目前の1945年7月、満州の関東軍司令部に転出。1945年8月、終戦。
9月、ソ連に逮捕されシベリアに連行される。1946年10月、極東国際軍事法廷(東京裁判)にソ連側の証人として出廷。1949年5月、ソ連内務省に戦犯として逮捕され、7月、ハバロフスクの軍事法廷で重労働25年の判決。1956年8月、ソ連から帰還。従って、シベリア抑留は実際には7年間だったことになる。
そのシベリアで過酷な労働を強いられた日本人は57万5千人に達し、その内の5万5千人が帰国を果たせぬまま死亡した。ただし、収容所にいた元関東軍兵士、河野 宏明の証言によると、「僕らは朝、真っ暗なうちから森林の伐採や凍った土地の穴掘りの使役に出された。だけど彼(瀬島)は、ただ外に立って敬礼して見送るだけだった。いつも収容所の中をぶらぶらしていた」とある。
帰国後、商社の伊藤忠に入ることになるわけだが、その出世は極めてトントン拍子だった。
入社後、2年で部長となり、以降、常務、専務、取締役副社長、副会長、会長まで登り詰めた。そして、最後は、ご存知の通り、第二次臨調(臨時行政調査会)の委員を務め、電電公社など三公社の民営化を答申し、第二次行革審会長代理にまでなった。その伊藤忠入社の切っ掛けとなったのは、伊藤忠が、防衛庁商戦の戦力として瀬島の獲得に熱心だったからだ。その結果、例えば、半自動警戒管制システムの受注に成功している。これだけを見ると、シベリア抑留時代を除いて、瀬島は誠に華麗な人生を送って来たと言えるだろう。ただし、その抑留時代も、確かに、過酷な環境下にあったことは間違いないのだが、その実態は、上述の河野が証言しているように、大方の捕虜と全く違って、華麗なものだったに違いない。
実は、この本は、時間が前後することになるのだが、いきなり戦後賠償の話しから始まっている。確かに、日本が侵攻したインドネシアはオランダの植民地だったから賠償の対象となり得るだろう。しかし、韓国は、日本が日清戦争で清を破ったことにより国際連盟から統治を委任されていた朝鮮の片割れだ。従って、日本は韓国と戦争していたわけではない。それが、何故、韓国が賠償の対象となったのかは甚だ理解に苦しむところだ(ここでは、日本の植民地支配の償いだと述べているが)。いずれの国との賠償にも、その賠償のからくりに(具体的には、インドネシア、韓国側からの仲介料の要求)、伊藤忠勤務時代の瀬島が暗躍し、ひと役かっていたのは間違いない。
結局、瀬島は、解説で保坂が、「・・・どのような時代にあっても責任あるポジションにつかない。ただし、参謀としての役割に徹し、権力を持つ者の陰に控え、・・・」と述べているのが正に図星だろう。それは、例えば、会長にまで上り詰めた伊藤忠にあっても、社長となっていないことでも明らかだ。それ故に、胡散臭さがプンプンと匂って来るのではないだろうか。
最後に、揚げ足取りになるが、題名の「沈黙のファイル」では、ファイルが黙っていることを意味するから、これでは、物事の真実を伝えることは出来ない。勿体ぶったこの題名、だいぶおかしいんじゃないか、との疑問を抱いた。