エーガ愛好会 (327)  荒野のガンマン  (34 小泉幾多郎)

「荒野のガンマン1961」は、西部劇に新生面を開き、独特の映像美を演出してきたサム・ペキンパー監督の第一作。主演にジョン・フォード監督が、「リオ・グランデの砦」等に女優として好んで使ってからほぼ10年後のモーリン・オハラ、まだまだ魅力たっぷり、しかもイントロを見て驚いた。字幕と共に、女性の歌が聞こえる・・・愛の夢を見る私、でも夜明けが訪れる。愛を失った私が目覚めるだけ・・・まさかモーリン・オハラの声とは思われない素晴らしい声だったが、song by Marlin Skiles & Chales R Fitzsimons sung by Maureen O’haraとクレジットされていた.

西部劇たる男の主人公は、名前からして常識的な西部劇世界を拒否する逆転世界を想像させるイエロー・レッグという名前の男で、ブライアン・キースが扮する。この男南北戦争で右肩に弾を受けたままにしておいたため、右手が思うように動かず拳銃もライフルもうまく撃てない。しかもかって頭の皮を剥がされそうになり、額に傷が醜く残っており、いつも帽子を脱がずにいる。酒場で助けた首吊り損ないの中年ガンマンのターク(チル・ウイルス)、その相棒ビリー(スティーヴ・コクラン)と偶々教会に来ていたキット(モーリン・オハラ)が知り合うことに。タークはイエロー・ドッグが、額に傷をつけられ、ずっと狙っていた男で、長い間先住民の奴隷を買い集め自分の軍隊を作り南部の独立国再建を妄想する男。キットは結婚してすぐに夫を亡くした子持ちの未亡人でダンスホールで働いていて、町の女性からは不貞の子を産んだと陰口を叩かれている。

男3人は食うことの一番の手軽な方策とばかり、銀行強盗を計画するも、其処で覆面した銀行強盗に直面し、銃撃戦となり、思いもかけないイエローの正義の銃弾は、利き腕が動かず、銀行強盗ではなく、近くにいたキットの息子を射殺してしまったのだ。流石に責任を感じたイエローに対し、キットは子供の遺体は夫の墓のある現在はゴーストタウンになっているシリンゴという場所に埋めると主張する。シリンゴまでにはアパッチの出没する危険な地点もあるが、イエローは、経緯から決死行をせざるを得なくなり、キットに横恋慕しているビリーと仲間の
タークも同行するも、ビリーのキットに対する暴力的扱いによる対立から別れ、イエローとキットの二人だけの旅へ。途中、アパッチの酔いどれの大騒ぎ等もありながら、シリンゴのキットの夫のお墓に辿り着き、無事子供を埋葬する。

子供の遺体だけの運びとは信じないタークとビリーが再びやって来て対決することになるが、信じられないことだが、ビリーはタークに射殺され、そのタークはイエローに素手で倒される。思いがけぬことに、銀行強盗の追手の保安官以下メンバー7人が現れ、タークは逮捕された。イエローは、メンバーの牧師に、キットの子息埋葬の祈祷を依頼する。

最後にモーリン・オハラの歌が鳴り響く・・・軍隊を作るんだ、先住民の奴隷を買い集めて。今は目覚めても寂しい夜明けはない。私の心は満ち足りているか。愛を夢見ていた孤独な私。寂しい夜明けは過去のこと。愛を失った私はもうそこにはいない。

(飯田)この映画は10数年前にも当時の衛星映画劇場で観ていますが、ニューシネマと呼ばれた製作スタイルのサム・ペキンパー初の映画監督作品です。

主演はジャイ大兄のお好きなモーリン・オハラを中心に、ブライアン・キース、スティーブ・コクラン、チル・ウイリスの荒くれ3人男が、いわくありげの役を演じます。全編を流れるソロ・ギターの調べと大きなサボテンの生えた砂漠地帯がメキシコとの国境に近い雰囲気を高めています。

モーリン・オハラはジョン・フォード作品の「わが谷は緑なりき」(1941年)、「リオグランデの砦」(1950年)、「静かなる男」(1952年)、「長い灰色の線」(1955年)、「荒鷲の翼」(1956年)と全ての作品を私も好きですが、ジョン・フォードを離れてのこの作品「荒野のガンマン」での彼女の評価はどうなのでしょうか? 私は映画のストーリーはあまり好かないですが(特に最愛の幼い息子を殺された母親が、その射手を好きになるという展開などに無理があり)、モーリン・オハラ自身の容姿や演技は十分良かったと思っています。

(編集子)自分の初恋―というのか、例えば小学校で隣のハナコちゃんて、いたよな、位の昔をふと思い出して、わざわざ昔の場所を尋ねてみて、そのハナコがなんと泣きわめく子供を背中に背負ってとぼとぼ歩いているの見つける、なんて話はよくある。エーガの例ならばさしずめ 舞踏会の手帖、だろうか。飯田から(モーリン・オハラだぜ)とわざわざ知らせてもらって、録画しておいたものを見た。率直な感想は、これは俺にとっては ”舞踏会の手帖” だった。結論を言えば、オハラはやはりフォード作品でなければならない、ということだった。

飯田解説によればこれはかの アメリカンニューシネマに数えられる作品なのだという。この一連の作品のテーマや製作技法などというものについて語る資格は僕にはない。またそのカテゴリだとされる作品についても、見たのは限られている。そのなかで、本稿にも何回か書いたが、僕に衝撃を与えたのは バニシングポイント だった。ニューシネマ群の共通のテーマが(当時の)現代アメリカ文化に対する反抗であり、その結果がもたらす不条理感である、とすれば、この作品のもつ雰囲気は絶対的なものとして記憶にある。

それではこの作品(いつもはわき役でしか見ないブライアン・キースを見て驚いた)が、このニューシネマ的な感覚で作られていたのか、と言えばそうは思えない。バニシングポイントの衝撃的なラスト、絶対的な死に向かって夕陽の中を爆走するジーン・バリーの顔に浮かんでいた微笑、そういう衝撃もない。西部劇が持つべき要素(と僕は思うのだが)である善悪を超越した爽快感、もなかったし、娯楽性も感じなかった。

どうも今朝は寝起きがよくなかった気がする。飯田兄、申し訳ない。

 

東西文明が交差する十字路   (41 斉藤孝)

深い白雲が包み込み荘厳な雪山の白と一体になっていた。ここが憧れたパミール高原なのか、 興奮 !!
高齢になりパミール高原まで登って来られて感謝した。老眼にしっかりとその姿を残しておこう。
地図座標をパミール高原の中心に置いてみた。なるほど中央アジアの屋根に違いない。 中学生時代から熱中してきた西域の地名が続々と浮かんできた。

北にカザフステップとウラル山脈、その下にアラル海とシルダリアとアムダリア。右から天山山脈と崑崙山脈が迫って来る。
二つの山脈に挟まれるタクラマカン砂漠。その下にはカラコルム山脈とヒマラヤ山脈が広がる。その彼方はインド大陸に続く。
西に目を向けると、カスピ海がありイラン高原にザクロス山脈とその北にカフカス山脈が連なる。 そしてティグリス川とユーフラテス川に挟まれたメソポタミア。その西はアナトリア高原である。

パミール高原は7000m級の霊峰に囲まれた広大な高原である。険しい山々の隙間は深い渓谷になっていて人の往来は可能だった。
ソビエト連邦時代にコム二ズム峰(共産主義峰)と呼ばれた標高7495mのイスモイル・ソモニ峰は現在はタジキスタンの領土である。
中国領土には7719mの最高峰コングールとムスタグアタ山がある。カラコルム山脈のカシミールには名峰「K2」(標高8611 m)がある。

「カラクリ湖」

カシュガルからのバスは高山病を警戒しながら穏やかな速度で徐々に高度を上げていった。 この道はクンジュラブ峠(4733m)を越えてパキスタンのフンザへと通じている。その先のカラコルム街道からガンダーラ地方に入る。
インドで誕生した仏教は、最初は単なる人の生き方を説く説法に過ぎなかったが、 パミール高原でペルシャのゾロアスター教やマニ教の教えと交わることで経典が整えられて仏教という宗教になった。
ガンダーラの仏像のお顔はペルシャ人やローマ人とソックリなのだ。仏教は実にオープンで様々な思想と宗教を取り込んでいった。

パミール高原は東西文明が交差する十字路だった。

物語『西遊記』はパミール高原を舞台している。孫悟空は石から生まれた猿で、強力な力を持っている。 三蔵法師は仏教の経典を求めて旅に出て猪八戒や沙悟浄といった弟子を得て、妖怪たちと戦いながら天竺を目指す。
そのモデルとなった『大唐西域記』は唐の時代に中国からインドへ渡り仏教の経典を持ち帰った玄奘三蔵の長年の旅を記したものである。

カラクリ湖は標高標高3600mの所にある。紺碧の水面に天空の峰々を写しこんでいた。 ウイグル語で「カラクリ」は「黒い海」を意味するという。「カラ」はトルコ系言語でも多く使われている。 「カラコルム」や「カラキタイ」、そしてアナトリアとロシアやバルカン半島、コーカサスに位置する「黒海」(Black Sea)。 もしかして「カラクリ」と呼ばれたのではなかろうか。正式には「カラデニズ」(Kara Deniz)と呼ばれる。ウイグル語もトルコ系。 中央アジアからアナトリアまで壮大なトルコ系民族の世界が広がる。

皐月から水無月へ   (普通部OB 船津於菟彦)

今年もいよいよ梅雨の水無月がやって来ましたね。また猛暑到来かなぁ。錦糸公園は梅・桜から紫陽花と時は移ろいます。この五ヶ月間何して生きてきたのかなぁ。時計の針は刻々と動いているが我、明日と今日,じ日日。

そんな水無月はトランプの狂気とプーチンの拡大策がどう成っていくやら。米騒動に気を取られ世間を忘れそうですね。ロシアでは9日、第2次世界大戦の「戦勝記念日」を迎え、首都モスクワでは中国の習近平国家主席など20か国以上の首脳が出席して記念の式典が行われました。演説したプーチン大統領は「国民全体が

『特別軍事作戦』の参加者を支持している」と述べ、ウクライナへの侵攻を正当化しました。そんな皐月の80年前をひもといてみます。

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昭和20年(1945)5月24日は、東京の山の手地域と空襲で焼け残った町全体を目標として、525機のB29が渋谷・世田谷・杉並・目黒・大森・品川地域を爆撃した。さらに、翌日の25日深夜には、まだ焼夷弾による被害を受けていない東京の残存地域を目標として、470機が高性能焼夷弾3000トンを投下した。被害は、山の手方面を中心に南多摩・北多摩にまでくまなく及んだ。3月10日の東京大空襲の焼け残りをゴッソリ。

横浜大空襲は1945年5月29日,午前9時20分ごろ、米軍のB29爆撃機517機がP51戦闘機101機に護衛されて横浜上空に飛来。中・南・西・神奈川区を中心に、わずか1時間程度で、43万8576個(約2570トン)の焼夷(しょうい)弾を投下した。6日後の県警のまとめでは、死者が3650人、重軽傷を合わせた負傷者が1万198人、行方不明が309人、被災者が31万1951人に上ったという。5月14日は、名古屋城が空襲によって焼失.。

一方欧州では5月8日は、第2次世界大戦終結記念日です。
最初のドイツ降伏文書は1945年5月7日2時41分、フランスのランスで調印されました。戦闘はフランス時間の5月8日23時1分に停止される予定でしたが、フランスで情報が正式に伝達されたのは翌日になってからでした。フランス全国の教会の鐘が5月8日15時に打ち鳴らされ、「戦争に勝った。ここに勝利した。連合国の勝利であり、フランスの勝利である」とド・ゴール将軍はラジオ放送で宣言しました。国民は歓喜し、街頭にあふれる群集は、ラ・マルセイエーズや愛国的な歌を歌い出しました。
ドイツのヴィルヘルム・カイテル元帥が5月8日、ベルリンで全面降伏文書に調印しました。ランスではスヴェ将軍が、ベルリンではラトル・ド・タシニ将軍がフランスを代表し、これら2つの文書に連合国側として調印しました。ナチス・ドイツの無条件降伏はヨーロッパで、数千万人の犠牲者を出した6年間の紛争に終止符を打ちました。

1945年8月14日、日本政府は連合国に対してポツダム宣言を受諾する旨を、スイス政府経由でアメリカ合衆国大統領トルーマンに電信、翌8月15日正午、昭和天皇の玉音放送によって、このことが国民に向けて公表され、日本軍に対して『停戦命令』を発布します。同年9月2日、昭和天皇は「降伏文書調印に関する詔書」を発し、降伏文書への署名及びその履行等を命じました。これに基づき、同日、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリにおいて、日本側を代表して重光葵外相、梅津美治郎参謀総長、連合国を代表して連合国最高司令官のマッカーサーが降伏文書に署名したので、この9月3日を対日戦勝記念日とする国も多い。

Japanese representatives on board USS Missouri (BB-63) during the surrender ceremonies, 2 September 1945.

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平和っていいなぁ。80年間戦死者ひとりもで無いし戦争の無い日本。このまま戦争の無い日本であってほしい。

あぢさいや一かたまりの露の音 正岡子規
紫陽花の藍きはまると見る日かな 中村汀女
紫陽花や人見る犬の怜悧な目 星野立子
飽くほどの平和おそろし 七変化 伊丹三樹彦

 

乱読報告ファイル (49)虫を描く女    (普通部OB 菅原勲)

「虫を描く女(ひと)」[副題:「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯](著者:中野 京子。発行:NHK出版新書、2025年。ただし、2002年に講談社から出版された単行本[情熱の女流「昆虫画家」メーリアン波乱万丈の生涯]の新書復刻版)。

最近、先が余りないことから、本につき、新刊本は購入、古い本は図書館から借用へと、方針を改めた。その宗旨替えから、本屋、その殆どが目黒の有隣堂なのだが、頻繁に訪れて新刊本を漁っている。やっぱり、本は手に取って、パラパラと捲りながら、気に入った本を探すのが最高の喜びであり、最高の愉悦だ。この前も、新書を3冊ばかり購入したが、その中で、表紙の絵に強く惹きつけられた極め付きの本が一冊あった。それが、これからお話しする「虫を描く女」だ。具体的に言えば、パッと見て、表紙にある絵「アメリカンチェリーとモルフォチョウ」(スリナム本/図7。下記を参照)の色彩の極めて鮮やかな事、それだけで購入することにした。これを後から良く眺めて見ると、蝶とかチェリーは勿論のこと、そこに取っついている毛虫についても、極めて微細に描かれており、鮮やかな色彩と相俟って、見るものを感動させる。

「虫を描く女」とは、ドイツで、40ペニッヒ(1987年発行)の切手となり、500マルク(1992年発行)の紙幣となった(ユーロの時代となって、もうなくなってしまったかもしれないが)マリア・ジビーラ・メーリアン(1647年―1717年)だ。小生は、これまで全く知らなかったのだが、近代科学の夜明け前の17世紀、フンボルト、リンネ、ダーウィンなどよりも前に、全くの独学で虫の研究を行い、そのメタモルフォーゼ(変態。例えば、卵➡幼虫➡蛹➡成虫)の概念を絵によって表現した画期的な先駆者なのだ。従って、日本では5000円札の樋口一葉、津田梅子などがお馴染みの人物であるように、メーリアンもドイツでは、紙幣の肖像画となっているグリム兄弟、クララ・シューマンなどと同様、お馴染みの人物となっているのではないだろうか。

父はスイス人、母はオランダ人で、ドイツのフランクフルトに生まれたから、生まれながらにして国際人(コスモポリタン)だったことになる。実際に、そこから、ニュルンベルクを経てオランダのアムステルダムに移住し、52歳にしてオランダの植民地だった南米のスリナムへ、そして、マラリアで死に損なってアムステルダムへ帰国するなど、その動きは正に常人のものではない。

昆虫についての彼女の最大の功績は、当時、虫は腐敗物から自然発生するとのアリストテレスの説が依然として強固に信じられており、例えば、イモ虫と蝶は全くの別物とされていた。ところが、彼女はそれを真正面から否定し、上述のように変態を絵によって表現した。もう一つは、南国産大型昆虫の生態を知りたいがために2年ほど滞在していたスリナムから帰国後、彼女はライフワークとでも呼ぶべき手彩色された72枚の銅板画集「スリナム産昆虫変態図譜」を出版した。それは、日本でも「スリナム産昆虫変態図譜」(1726版)と題して翻訳され、2022年、鳥影社から35,200円で出版されている。高輪図書館で借りようと思ったが、残念ながら、現在、予約を受け付けていない状態だ。

中野のこの著作には、上記、スリナム本からメーリアン独特の絵が数々転載されているが、これをスペイスの関係で紹介出来ないのは甚だ残念だ。もし興味がある方がおられるならば、せめて立ち読みでもして彼女の芸術的とも言うべき絵画をとっくりと眺められてはどうだろうか。そこに表れているのは無味乾燥な虫、花などではなく、例えば、躍動的な蝶であり、何とも可愛らしい毛虫であり(小生、毛虫は毛嫌いしているのだが)、などなど、見る人を飽きさせない。こんな人が、今から400年ほど前、魔女狩りの全盛期である17世紀に生きていたのだ。男女の区別なく「好きこそ物の上手なれ」、を突き詰めて行くと、昆虫学の先駆者、メーリアンとなるのだろう。

(44 安田)先ず興味を惹かれたのは、著者が中野京子だと云うこと。正直驚きました。彼女は「怖い絵」、「名画で読み解く12の物語」シリーズなどで知られた作家で、彼女の著書は少なから読んでいて馴染みある作家だったが、本著書の題材は彼女の得意分野とは思えず全く知らなかった。

美術館でキュレーターをやった原田マハ(二人とも早大卒)の著作が絵画や美術を題材にしている点が、二人は若干似通っているだろうか。
6~7年前にフェルメール絵画が大挙(10点ほど)日本に持ち込まれ上野で展示され、フェルメールブームともいえる盛り上がりを見せたが、そのブームと期を一にして文芸春秋が主催して「フェルメールを語る」なる講演会を3人の講師を呼び文春本社で開催し、全てに参加した。講師は中野京子、原田マハ、生物学者福岡伸一だった。一人当たり1時間半ほどの講演で一週間毎に開かれた。3人の著書は読んだことはあったが、会うのは初めてだった。
中野京子は早大修士課程修了。作家、ドイツ文学者、西洋文化史家、早大講師、翻訳家でオペラ、美術について多くのエッセイを執筆している。
講演会での彼女の印象は、史実と現実に存在する作品を叙事的に淡々と述べながらも、面白みのある点に焦点を当てるなどメリハリがある講演であった。学校で教えている経歴を宜なるかなと伺わせた。対して原田マハはより小説家的なアプローチだったかと。
昔よく読んだ彼女の著書は、昨今はあまり読んでいない。久し振りに彼女の名前を菅原さんに紹介して頂き、懐かしい思いがしました。
昆虫学の先駆者とも称されるマリア・メーリアンはドイツ人。ドイツ文学を専攻した、好奇心旺盛で発想を逞しくしている中野京子は自身の守備範囲としてメーリアンの生涯に興味を持ったのは想像に難くない。それが彼女をして「虫を描く女」を著わせしめた要因であろう。機会をみて図書館で或いは書店で立ち読みをしたいと思う。

福沢の見た米国はどこへ行ったのか?  (42 下村祥介)

「ピッツバーグの煙突」に関連して、たまたま日経新聞「風見鶏」欄に160年ほど前にアメリカをおとずれた福沢諭吉の米国感がで紹介されていたので概要をご紹介したい。

「諭吉がサンフランシスコに着いたのは日本を出て37日目だった。港に着くなり馬車が迎えに来て、まず休憩のためのホテルに招き入れられた。そこにサンフランシスコ市の要人が次々に現れ、さまざまな接待をしてくれた。日本人が魚を食べたり、風呂が好きなことを知っており、毎日魚が届けられ、風呂が沸かされたという。帰国に際して船の修理代を支払おうとしたが、何といっても受け取らなかった。ペリーの黒船来航により開国を迫られてから7年しかたっていなかったが、人々が対等な立場で議論し、協力して社会をよりよくしていこうとするこの国がすっかり好きになった福沢は、米国を『極楽世界』と評した。

今や米国第一を振りかざし、討論ではなくディールで相手をねじ伏せ、自らの意に沿わない大学からは留学生を追い出し、学問の自由にも露骨に介入しようとしている。世界があこがれた米国の時代は終わりの告げたのだろうか」と。

別の話になるが、日本製鉄によるUSスチール買収(投資?)問題も、日本の製鉄技術なしでは再建が難しいと流石のトランプも思い始めたのだろうか。交渉条件がかなり緩和してきているようだ。以下に日経新聞による解説を紹介する。

「USスチールは1960年代までは世界最大の鉄鋼メーカーだった。1980年代に日本に抜かれ、90年代には中国に抜かれた。経営危機のたびに政府が関税などの輸入規制で雇用や生産を守ることに終始し、技術革新は停滞したままだった。対して日鉄はトヨタ自動車など顧客の品質要求や電動化などの技術革新に合わせて成分を調整したり表面加工の技術を磨いてきた。高張力鋼板や電磁鋼板などの製造だ。鉄鋼業は操業技術で大きな違いが出る。日鉄は独自の操業技術を生かし、USスチールの既存設備も高級鋼の生産に生かせるとみている。」と。

(編集子)今日の報道で、USスチール社員との会話が紹介されていたが、インタビューされた男性が嘆いていわく、(18年代に設置された機械がまだ使われている。新日鉄が来ればこれも新しくなるだろうと思ってる)と。

先に安田君が嘆いていたように、短期の業績だけを追求する姿勢からは長期の投資に挑む姿勢はでてこない。パクスアメリカーナはついえた。パクスジャポニカの時代が夢ではなくなったね。経済や軍事の指標はあれこれあるが、以前にも本稿で触れたけれど、80年間、一人の若者も戦争で死なせたことのない国が存在する、というのは現実なのだから。

いま、この稿をアップしようとしているデスクの前に今朝の読売が1面で、”日鉄、完全子会社化へ” とUSS買収の決着を報じている。いろんなことが起き、いろんな議論が沸騰するだろうが、福沢時代の日米関係を思い起こせば、これは明治維新に匹敵する、歴史的な出来事のような気がする。KWVには何人も日鉄OBがおられる。もし彼らがまだ現役社員であったら、この事件をどう受け止めただろうか、ぜひとも聞かせてほしいものだが。

山本五十六と河井継之助  (44 安田耕太郎)

ブログ「ピッツバーグに煙突が何本あるか見てこい!」を大変面白く読ませて頂きました。

山本五十六の滞米(1919〜21年、ハーバード大学留学)から約50年後、今から57年前の1968年に初めてアメリカの土を踏んだ時、「こんな富んだ工業強国と戦争を始めるなんて日本は馬鹿のことをしたもんだ」と強く思ったものだ。今では rust state (錆びついた州)と呼ばれる中西部、特に製鉄生産の中心都市ピッツバーグの煙突の数に、山本が驚愕したのも頷ける。山本は経済のエネルギー源石油採掘・精製過程にも大いなる関心を示したと伝えられている。

だが、平家物語冒頭の一説「盛者必衰の理をあらはす。驕れる人も久しからず」の気配が漂う、今日のアメリカの困難の象徴的な一例としてrust satesの惨状!を、現在の我々は目の当たるにする。これもROE(Return on Equity)至上主義の経営のやり方の結果であろうと思っている。つまり企業の利益を株主資本(自己資本)で割った比率、要するに株主から提供を受けた資金を使って、企業がどれほどの富を生み出したかを測る指標である。
企業経営 ROE或いはROI (Ruturn on investment,投資対利益比率)を高めるための対策は大きく2つある。その第1は分子対策(当期利益向上)、すなわち経営効率向上を狙って事業の選択や集中、場合によってはリストラ(工場閉鎖、従業員解雇)による経費軽減を進めることにより企業全体としての利益率を引き上げることであり、その第2は分母対策すなわち自己株式の買い入れなどの方法により1株当たりの利益を濃縮することである。

見落としてならないのは、アメリカの経営者は業績如何で莫大な収入増もあれば、逆に上手くいかねば直ぐ解雇の憂き目にも遭い、短期的にROE或いはROI業績向上を目指す傾向が強く、中長期的に必須な経営資源(人材、設備、研究開発ノウハウなど)を削減して即ち犠牲にして、短期的(経営者の任期内)な利益を稼ごうとする。将来性を犠牲にする近視眼的経営に陥るリスクが高い。特に工場、生産設備、研究開発人材に巨大な資本・経費を必要とする第二次産業製造業に於いては顕著にこの現象が見られる。且つ、製造業における品質管理、製造従事者の量的・質的低下の問題を抱え、厳しい状況に陥っている。かつてのピッツバーグの雄US Steelなどはその最たる好例ではないだろうか。第三次産業(情報通信・医薬/医療・教育・ナノ・金融業・外食産業・観光業など)では工場・設備などの固定資産への資本投資(即ち経費)が相対的に少ないので、アメリカが有する先進的且つ付加価値の高い企業経営能力と先進技術がが依然として発揮される産業分野ではあろう。

山本五十六は新潟県長岡市出身だが、幕末から明治維新期に活躍した長岡藩牧野家の重臣に河井継之助がいた。司馬遼太郎著「峠」は彼と長岡藩の運命に詳しい。河井は江戸への往来は隧道のない三国峠を通った。浅貝に泊まった(本陣であろう)との記述もある。三国峠には峠を越えた歴史上の人物が記されている標識が立っているが、河井継之助介の他、坂上田村麻呂、弘法大師、上杉謙信、伊能忠敬、良寛、小栗上野介、西園寺公望の名も見える。河井は戊辰戦争で幕府側に徹底抗戦し薩長の官軍との戦いで長岡から福島へ通じる村で戦死、享年41。生き残って明治維新以後の日本の発展に寄与して欲しかった逸材ではあった。

山本五十六は、戦場視察の際、暗号を傍受されソロモン諸島ブーゲンビリア島上空で搭乗機が撃墜された。1943年。享年59。日米両国、経済の地力の差は如何ともし難く物量面のみだけではなく、彼我の差は情報通信の面でも明らかであった。五十六は短期決戦に持ち込まねば、結果は彼には目に見えていたのだろう。聡明な五十六も継之助も負けるのは戦う前から分かっていたのだと思う。

(編集子)山本元帥戦死のきっかけは、現地で前線視察にむかった元帥搭乗機の目的地到着時間を打電した現地司令官の信号をアメリカ軍が傍受。これを知って現地米空軍司令官は、攻撃していいかどうかを大統領に問い合わせ、許可を得て戦闘機を迎撃にむかわせたという。なぜそうしたのか、はわからないが、考えられるのは元帥機を待ち伏せすれば撃墜はできるが日本の暗号を米軍は解読していることがわかってしまう、という懸念があって、最高司令官の判断を仰いだのだろう(もっともある本では現地の司令官は平文で送信したといわれている)。

ナチの暗号機エニグマの解読に成功した英国では、チャーチルは成功したことをドイツには知らせないことで逆手にとることを選び、ドイツ空軍の大規模空襲を察知しながらあえて防備をしなかった。その結果、たしかコヴェントリーだったと思うのだが街が大被害を受けることになった。戦争と政治の冷酷さを見せつけられる気がする。日本だったら、多分、起きなかったと思われる史実である。

神戸どうぶつ王国訪問  (大学クラスメート 飯田武昭)

麗らかな陽気に誘われて≪神戸どうぶつ王国(KOBE ANIMAL KINGDOM)≫へ5~6年前から2回目の訪問をしました。この動物園は象、キリンや猛獣は居らず、サファリパークでもない、至って平凡な小動物を出来るだけ自然の生態で見せる施設でゆったりと園内を回遊できます。

添付の写真は・フラミンゴ・なまけもの・プレーリードッグ・ビーバークリーク・Rocky Valley・シギの抱卵などで、セーブ劇にも関係のある小動物をピックアップしてみました。

直、写真が上手く撮れなかったですが水鳥の島には沢山の水鳥達が過ごしており、勿論オシドリも居ました。オシドリは雄雌が寄り添って泳ぐ景色は普通によく見ますが、ふと思い出したのは、≪人間でも仲の良い夫婦の事をオシドリ夫婦と例えることがありますが≫、実は、オシドリ雄雌(つがい)は、人間が思っているほどには特に仲が良い訳ではないと どこかで読んだ記憶があります。真偽のほどは分かりませんが・・・・。どなたかご存じですか?

この施設は神戸ポートライナーの「計算科学センター駅」の目の前にあり、過去には“スタップ細胞はあります!“で世間を驚かせた小保方晴子氏の理化学研究所と数年毎に世界的に話題になるスーパーコンピューター≪富岳≫の設備が近くにある興味深い場所でもあります。

ピッツバーグに煙突が何本あるか見てこい!

第二次世界大戦をほんのわずかにせよ、体験した人は少なくなりつつある。当時小学1年生だった僕は外地にいたので、空襲の体験はないが、子供心にいくつかの出来事の聞きかじりはあり、中学生の間に関連した書物に関心を覚えて読み漁ったものだ。その中で、山本五十六元帥のこともいくつか知ることがあったが、米国駐在が長かった元帥は最後まで開戦に反対であり、連合艦隊司令長官に推され、対米戦の火ぶたを切る立場にたたされたとき、(1年や2年は暴れて御覧に入れるが、一刻も早く講和を実現してほしい)と言ったといわれている。

それまでの議論の中でも、米国の経済力を知らず単なる数字合わせや精神論に傾く軍部の人間に、 ”お前ら、一度ピッツバーグへ行って、製鉄所の煙突が何本あるか、数えてこい!” と吠えたそうだ。ピッツバーグはすなわち米国製鐵業界の中心地、もちろんUS スチールの本社があるところで、米国産業界の中核でもあった場所だ。

数日前の新聞で、トランプの例によって訳の分からない発言が伝えられ、新日鉄のUSスチール買収を認めるような意向とされた。その発言のなかで彼はUSSはアメリカの会社であり、ピッツバーグから動くことはあり得ない、と言った、とも伝えられている。これからどっちに転ぶかわからない話だが、ピッツバーグの煙突の数は減るんだろうか?

しかし、いずれにせよ、日本の企業がここまでやるようになるとは、栄光の連合艦隊司令長官も夢にも思わなかったことだろう。専門的な話をする知見は持ち合わせないが確かだと思うのは、ここまで栄光の米国製造業が追い詰められたのは、確かに外国企業との競争に敗れたからでもあるが、そのきっかけは短期の金儲けに目移りし、ITと金融に走り、さらにはITの発達によってグローバリゼ―ション時代が始まる、などという、象牙の塔の連中の、小生に言わせれば妄想とまではいかないまでも現実から乖離した発言が生み出した、製造業の衰退であることだろう。トランプの支持者の多くがかつての栄光ある米国製造業から追われた白人労働者だという現実がこれを裏書きするようだ。トランプの旗印、Make America Great    Again は、まさにピッツバーグに何本煙突を残すのか、ということに集約されるような気がする。