近本は盗塁王か?

そもそもの話:

(中司)新聞にセリーグの個人タイトルが載っています。ひとつわからない点があるんで(読み方が悪いのか比較方法が悪いのか、それとも)教えてください。

盗塁王の近本ですが、19個で最多? 片方で50を超える人がいるのに?
(菅原)これが、メジャー・リーグ(59)と日本(19)の差です。
(中司)ふーん。G九連覇のころ、柴田なんかはいくつくらいだったの?
(安田)それにしてもセリーグ盗塁王19は少ない。近本は足が速いだろうに。全球団進塁する意識の欠如に唖然とするばかり。

(菅原)Wikipediaによると、1967年、赤手袋の柴田勲の盗塁は70!大谷も顔色なし。

(下村)小生、野球中継はまったく見ませんが「球辞苑」という番組はよく見ています。素人にはこれがとても面白い。この番組によると野球選手は頭が良くないと務まらないということがよくわかります。対戦相手の全選手のクセやどのような時にどのような動きをするかなどを記憶する力、相手の心理状態を読み取る推理力など。 囲碁や将棋の棋士は対戦したときの布石などをすべて覚えていると聞きますが、これとまったく同じなのですね。

 昨日は大谷の完敗、ダルビッシュの完勝でしたが、ニュースでも紹介されていた通り、ダルビッシュは投球ごとに投げる球種はもちろん、間合いの取り方、球速の緩急などありとあらゆることに頭脳を巡らせて投球していたとのことです。

 過去の「球辞苑」によると、例えば3ボール・2トライクでフルカウントになったときにどのような球を投げるか。対する打者の過去のフルカウント時の対応を思い起こして球種や球速を決めていると。「球辞苑」ではこれをキャッチャー場合、併殺を狙う場合のショートやセカンドの場合、併殺されそうになった選手の場合など各球団の各選手のノウハウが披露されており、過去の数値データとつき合わせながら紹介されています。もっとも企業秘密的なこともありますから、すべての手の内を晒すようなしゃべりはないでしょうが・・・。

因みにかつて100mを10秒台で走る陸上選手をピンチランナーに起用したことがありましたが、ある解説者は早く走れるだけではダメだ、陸上競技は「用意、スタート」のシグナルがあるからスタートを切るのは簡単、野球では投手のクセや投球フォームなどを頭に入れて自分でスタート時点を決めなくてはならないから難しさがまったく違うと。野球も奥が深いですね。

(保屋野)貴兄から野球談議が聞けるとは・・・幅広い関心に感心。盗塁に関して、改めてネットで調べました。メジャーでは、リッキー・ヘンダーソンが1406でトップ(シーズンでは130で2位。1位は1887年ニコルの138)日本では福本の1065がトップ(シーズンでも106とトップ)

日本のプロ野球は、盗塁はもちろんですが、ホームランも少なく、非力なバッターが目立ちます。大昔の、西鉄「豊田・大下・中西」、巨人「王・長嶋」、阪神「バース・掛布」の時代が懐かしい。このままだと、第二の(魅力ない)「男子ゴルフ」となってしまうのでは。なお、シモさんの「100m10秒台の選手」とは飯島のことだと思いますが、確かに100mを10秒で走る彼が成功しなかったのが不思議です。

(安田)近本以前の盗塁王最低盗塁数は、1994年横浜の石井拓朗の24。福本・広瀬・柴田は皆、全盛期が1960年代から70年代の選手(福本は’80年代後半まで)。明らかに盗塁数は年と共に漸減しています。今年のセリーグ近本の19は酷すぎる。パリーグはソフトバンク周東選手の41。最低でも40~50を達成しないと、盗塁王には相応しくない。

強肩のキャッチャーが増えたとはとても思えません。相対的に韋駄天の足の速い選手が急に激減したとも思えません。理由を勝手に考えますと、ピッチャーの牽制とクイック投法更にキャッチャー送球の向上、チームの戦術上盗塁の重要性が減った。そして韋駄天も相対的に少なくなった。近本にしても昔の列挙した韋駄天選手に比べると足は存外速くないのかも。
(飯田)大リーグの大谷選手の盗塁成功率の高さは脅威的ですが、見る方としてはあまり成功率が高いと塁上でのクロスプレイ(ビデオ判定クラス)が少なくなり、興趣が低下することもあるのではとも思います。広島カープの2塁手菊池涼介選手の絡むクロスプレーは芸術的で見応えがあります。

大リーグの昨年辺りの規約変更も盗塁数の増加に関係していると、数カ月前にテレビで解説を見た記憶があります。ピッチャーが投球までの15秒以内のピッチロック、牽制球は2回まで、それと塁ベースのサイズが少し大きくなったこと。この3つ共にランナーには有利に働いているようです。

塁ベースのサイズが大きくなれば、塁間の距離も若干とは言え短くなる上に、塁に身体が触れる面積も広くなるので走りやすいのでは・・。イチロー選手が現在大リーグで活躍していたら、多分、大谷選手にシーズン盗塁数の日本人記録は破られず、もっと記録を延ばせたのではとも思います。

(編集子)小生の小さな疑問でこれだけ話が弾むとは。要は暇なんだ、みんな。
ま、とにかく阿部Gが優勝したし、細かいこたあ、いいか。
来年はリーグ1位、戸郷20勝、秋広30本、浅野40盗塁、締めに岡本50本、この1-2-3-4-5で行こう。
(この話題には関係ないが、先日新聞にでた侍Jのメンバーに村上がいないようだけど、これはなんで?)

田中一村という画家のこと    (普通部OB 船津於菟彦)

千葉市立美術館が開館15周年記念 特別展 田中一村 新たなる全貌」 2010年8月21日[土] – 9月26日[日]を見て凄い画家いるもんだと思い強い印象を受けたのが田中一村を知る始めでした。

田中 一村(たなか いっそん、1908年7月22日 – 1977年9月11日)は、栃木県栃木にて木彫家の父田中稲邨の長男として生まれ、東京市で育つ。、本名は田中孝。中央画壇とは一線を画し、1958年(昭和33年)千葉市での活動の後、50歳で奄美大島に単身移住。奄美の自然を愛し、亜熱帯の植物や鳥を鋭い観察と画力で力強くも繊細な花鳥画に描き、独特の世界を作り上げました。
父は彫刻家の田中彌吉(号は稲村)。若くして南画(水墨画)に才能を発揮し「神童」と呼ばれ、7歳の時には児童画展で受賞(天皇賞もしくは文部大臣賞)。父濔吉より「米邨」の号を与えられます。

1926年 – 東京市港区の芝中学校を卒業し東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学。同期に東山魁夷、加藤栄三、橋本明治、山田申吾ら。しかし、学校の指導方針への不満や父の病気などが原因で同年6月に中退。趙之謙や呉昌碩風の南画を描いて一家の生計を立て、『大正15年版全国美術家名鑑』には田中米邨(たなかべいそん)の名で登録されます。

    • 1931年 – それまで描いていた南画と訣別。自らの心のままに描いた日本画『蕗の薹とメダカの図』は後援者には受け入れられませんでした。
• 1938年 – 親戚の川村幾三を頼って、千葉県の千葉寺町に移る。
• 1947年 – 『白い花』が川端龍子主催の第19回青龍社展に入選。この時、初めて「一村」と名乗る。 これが公に公募して唯一の入選作品で後はことごとく落選。千葉時代の南画から離れ穏やかな風景絵画を描き遂に「白い花」で公募展に入選。白い花昭和22年(1947)9月 紙本砂子地着色 2曲1隻 田中一村記念美術館蔵。

支援者から依頼を承ければお寺の天井画とか襖絵に情熱を注ぎ描きまくっていく。「ずしの花」昭和30年(1955)、一村は九州・四国・紀州と巡る旅に出、この旅を支援してくれた人々に宛て、風景画の色紙を贈った。温暖な旅先の風物に魅入られた一村の、開放感や転機も感じられる魅力的なシリーズです。色紙の畳(タトウ)や包紙に題名や土地の説明などを書き添え、いわばお礼の旅土産として丁寧に制作されていて、色紙絵が今回沢山展示されていました。

昭和33年(1958)12月、50歳の一村は、姉喜美子と別れ、単身奄美大島の名瀬市に移ります。来島当初は、与論島や沖永良部島を巡るなど積極的に「取材」をし、翌年秋からは国立療養所奄美和光園の官舎に間借りし、景観や動植物を写生したり人々との交流もありましたが昭和35年(1960)には千葉へ帰り、国立千葉療養所の所長官舎に住まいを借り、奄美土産ともいうべき絵も描きました。

自らの覚悟の甘さを認識することになった一村は、昭和36年(1961)、不退転の決意で再び奄美へ戻ると、紬工場で染色工として働いて制作費を蓄えたら絵画に専念するという計画を立て、借家に移って切り詰めた生活を実践しました。連作の構想をたてて構図等の配分を考え、写生は対象により肉薄したものとなり、画材は綿密に計算のうえ東京の専門店から調達しました。昭和42年(1967)から45年(1970)までの3年間、制作に没頭します。この間に《アダンの海辺》をはじめとして奄美に於ける主要な作品の多くが描かれたとみられます。それは誰のためでもなく自分の良心だけをとことん突き詰めた制作で、一村はついにそれを自らの力で実現したのです。

生涯を賭して何の悔いもない制作をなし得た満足と自負が、一村が自らの作を指して言った「閻魔大王えの土産品」という言葉に表れています。精魂傾けた大作の完成作は限られていますが、この前後の時期に描かれ知人に贈られた小品や色紙がそれを囲みます。人との繋がりの窓口として生涯描き続けた色紙には、一村の絵のエッセンスと、絵画をめぐる思考が常に吐露されてきました。それらの蓄積の上に、孤高と見える畢生ひっせいの大作が生まれたことを、そして今に残ったことの幸運と必然とを、あらためて教えられます。昭和52年(1977)9月11日、奄美で引っ越したばかりの畑の中の一軒家で夕食の支度中に心不全で倒れ、一村は69歳の生涯を閉じました。
一村は孤高な人で生涯掛けて自らの画風を次々求め続け、54歳で染色工場で働き、繪の材料や高級な画材-絵具-などを購入して「魂の絵画」描き、戦時は徴用工として板金工として働きますが体調を崩して治療用生活か続き、69歳で夕食の準備中に倒れて帰らぬ人となりました。

今回の大回顧展は神童と称された7〜8歳の時の絵から晩年の繪までよくぞ蒐集したと思われるほど沢山の絵が展示され、まれにみる画家の全容が明らかになりました。凄い展示です。やや多すぎて観疲れしますが、心の中には「凄い」という印象が刻まれます(館内は撮影禁止故ブログなどから繪は借用致しました)。

エーガ愛好会 (285)ガンズ・アンド・キラーズ (34 小泉幾多郎)

新聞TV案内10月9日(水)BS12欄に、「ガンズ・アンド・キラーズ」ハードリベンジアクション!と表示があり、調べるとニコラス・ケイジ主演、しかも2023年制作なので、まさか西部劇とは思わなかった。1964年生まれというから60歳になろうとして、初めての西部劇出演とのこと。こんな最新作がTV放映されるとは驚き。現在でも西部劇が制作されているだけでも驚き。最近の映画を観ていないせいか、監督ブレッド・ドノフーとか、ニコラス・ケイジ以外のキャストもスタッフも知らない人ばかり。

開巻すると現在は妻ルース(クリーク・ヌッペ)と娘ブルック(ライアン・キエ
ラ・アームストロング)と共に雑貨店を営みながら平穏な暮らしをしているコルトン・ブリッグス(ニコラス・ケイジ)が、20年前の1878年モンタナ州で、賞金稼ぎをしていたのか、悪名高き盗賊ウオルター・マカリスターの絞首刑に立ち会い、そのマカリスターの弟たちの襲撃を受け、その銃撃戦で、幼いジェームズ・マカリスター(ノア・ル・グロス)の眼の前でその父親まで殺してしまったのだった。

20年後穏やかな暮らしをしているブリッグス一家へそのジェームズ・マカリスターをリーダーとする四人組がやって来る。コルトンとその娘は学校へ送ることで留守中に、妻ルースは殺されてしまう。帰宅したコルトンは、先に知った保安官ジャレット(ニック・サーシー)から報告を受け、自重するよう促されるが、家に火をつけ、復讐に立ち向かう決心をする。此処から親コルトンと12歳の娘ブルックとの成長の物語と復讐劇が始まる。

コルトンは娘に自分の過去を語り、娘は過去と自分自身の強さに氣付き始める。娘は銃の扱いまでも伝授を受ける等して保安官や盗賊達との対立は二人の絆をよ
り深くする。最終対決では、ジェームズと彼の手下たちが、ブルックを人質に取り、コルトンを罠にかけるが、コルトンは冷静に狙撃の腕前を発揮して手下達を次々に倒して行く。娘の命を優先したコルトンは自らの命を捧げる覚悟を見せ、コルトンはジェームズに撃たれてしまうが、倒した喜びに浸るスキを突きブルックの銃が父の仇を討つ。ブルックは父の亡骸に寄り添い、新たな旅立ちを示唆するのだった。

最新の西部劇としての特色は何かあるか。冒頭の銃撃戦、最後の決戦等西部劇らしさは不動。復讐と赦しを求めるテーマ、親子関係たる家族の絆、自分と過去の向き合い。法と秩序の概念追及といったことが内在されてところが強調されていることが新感覚と感じた。ぶち壊せば、冒頭に妻一人を狙っての虐殺、仇がコルトン・ブリッグスと判っているのなら、何故本人がいる時に襲わなかったのか?本人を殺害してしまえば、復讐はなく、この映画は成り立たなかった。

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ニコラス・ケイジ のことです

カリフォルニア州ロングビーチ生まれ。オーガスト・コッポライタリア系で大学教授兼作家、母ジョイ・フォーゲルザングはドイツ系のバレエ・ダンサー。兄(マーク・コッポラクリストファー・コッポラ)がおり、クリストファーは映画監督をしている。父方の祖父は作曲家のカーマイン・コッポラ、祖母は女優のイタリア・ペニーニ。叔父に映画監督のフランシス・フォード・コッポラ、叔母に女優のタリア・シャイア、いとこにソフィア・コッポラロマン・コッポラがいる。

ビバリーヒルズ高校中退。日本語学校に通っていた経験があるため、日本語がある程度話せる。映画でもしばしば披露する他、来日時には日本語で挨拶することもある。

 

日本人プレイヤーの活躍がうれしいです  (44 安田耕太郎)

先日のドジャーズvsパドレス戦、日本人投手2人(ダルは半分ペルシャ人ですが)の稀に見る緊迫のハイレベルな素晴らしい投手戦でした。

山本は3度目の正直(今シーズンベストの投球ではなかったかと)の無失点好投、ダルはジンクスに克てませんでした。が、パドレス最年長38歳とは思えぬ見事な7イニングでした。
許した3本のヒットの内2本が本塁打とは、紙一重の失投でした。それにしても下馬評の低かったドジャースブルペン投手陣の晴天の霹靂に近い予想外の好投でした。パドレスは第3戦の3回以降、25回連続無得点。これでは運悪くダルの絶妙のピッチングも浮かばれませんでした。やはりジンクスが生きていたのか?
試合を観てて、パドレスはレギュラーに非白人選手(中南米勢)が多いなと気づき、念のため調べました。打順9番までの国籍は、
1.ヴェネズエラ、2.ドミニカ、3,オランダ領キュラソー(ヴェネズエラ北岸沖の島)、4.ドミニカ出身米国籍、5.米国籍白人、6.オランダ領キュラソー、7.ヴェネズエラ、8.米国籍白人、9.日系米国籍(捕手のヒガシオカ)。7人が非白人でした。ピッチャーはダル・松井以外にクローザーの元ソフトバンク・阪神のスワレスはヴェネズエラ国籍。
昔ほど傑出した米国籍選手がいないようで、アメリカがWBCで過去1回しか優勝していないのも頷ける。優勝国は第1回大会から、日本・日本・ドミニカ・アメリカ・日本。ペナントレース前の3月開催なのでアメリカの本気度は本物ではないのも一因かも。日本は、投手陣に今永・高橋(中日)・佐々木朗希などを加え、次回のWBCも優勝候補筆頭にランクされるのでしょう。但し、MLB試合をみてて、リリーフ陣でも160キロの豪速球を投げるピッチャーが目白押し。やはりレベルは高い。

さて、次は明後日からナ・リーグの優勝決定シリーズ、ドジャースvsメッツ戦。メッツの第1戦先発は千賀だと既に発表済み。千賀vs大谷も楽しみです。突破するには先に4勝必要で、結構な長丁場。山本は、中5日で第4戦先発か。千賀は決着がついていなければ第6戦先発も予想される。山本は決着が第7戦までもつれ込んでも、中5日必要なので登板機会が巡ってくるかどうか疑わしい。ドジャースとしては山本の2回目の登板が無くても勝ち抜き、ワールドシリーズの第1戦か2戦で先発させるシナリオがベスト。

(菅原)流石は人間グーグル!これじゃー、それこそパドレスは「Caribean Padres」だ。それで、Padresはスペイン語のPadreの複数だから、カリブ海の神父となる。しかし、Padresの連中の面構えを見ると(除く、ダル、松井)、その実態は、まるで「麻薬の売人」の集まり。

(船津)菅原さん
麻薬の売人とは良く言ってくれた。何やら眼がぎらぎらしていて近寄るとぶん殴られそうなられそうな形相の人が多くよく言えば闘争心が在りすぎの感じ。

ワールドシリーズみたさに就職先をきめたOBから (36 大塚文雄)

今10月12日の昼前です。

つい先ほどまでテレビに釘付けで、Los Angeles Dodgers(以下「Dodgers」)がショナルリーグチャンピオンシップシリーズに進出するのを観戦していました。次の相手はNew York Mets(以下「Mets」)です。勝った方がWorld Series出場です。7戦4勝先取方式、日本時間の試合予定は10月/14,15,17,18,19,21,22です。大谷選手がいるDodgersに勝って欲しい思いと、長年のファンであるMetsに勝って欲しい思いが交錯していて、しばらくの間、落ち着かない気持ちの日々が続きます。

野球少年だった僕の夢は「大人になったらWorld Seriesを見に行く」ことでした。「英語でタンカを切れる人を求む」という求人広告を出したことがあるソニーの新卒募集に応募し、首尾よく採用されました。1961年4月入社式で覚えているのは、「これでアメリカに行く近道に立った」という思いです。当時の日本は外貨規制が厳しくて、個人の海外観光旅行は論外でした。

1967年夏にソニーアメリカに赴任し、当時としては長い7年間をニューヨークで過ごしました。New York Yankees球場に近いところに住みたかったけれど、職場に遠いので、Mets球場まで電車で10分の安アパートに住むことにしました。GiantsとDodgersがカルフォルニアに移ったためにYankeesだけの寂しくなったNew York市の反対側にMets球団が1962年に創設さていました。初年度勝率2割5分という超弱小球団で、その後も万年下位に低迷です。しかし、何度もShea Stadiumに通っているあいだにいつしかファンになり、”Let’s go Mets”に声を合わせるようになりました。創設8年目の1969年の前半もこれまで通りでした。ところが、夏場にトム・シーバー、クーズマン、ノーラン・ライアンを中心とする投手陣が強力になり、あれよあれよという間にトップに躍り出て、そのままリーグ優勝をしてしまいました。創立8年後の快挙で、”Miracle Mets”がファンの合言葉がになりました。

(注)「思いもしないことが起きた」というMiracleであり、「奇跡を起こした」というMiracleではありません。

ワールドシリーズではボルティモア・オリオールズを4勝1敗で破り、創立初のChampionになってしまいました。右翼手ロン・スオボダの超ダイビングキャッチに代表されるいくつものMiracle playがあり、”Miraclle Mets”が広く認識されるようになりました。いまでは日本のテレビでも、”Miraclle Mets”と呼ばれていますが、Miracle Metsの本当の意味を知っている者にとってはこそばゆい思いです。

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参考までに、MLBのリーグ編成とPlayoffシステムを要約しておきます。

MLBのリーグ編成:MLBには全部で30チーム(球団)があり、アメリカンリーグとナショナルリーグに15チームずつ所属している。各リーグは5球団ごとの3地域に分かれています。

Playoffの仕組(両リーグ同じ):次の4ステージがあります。

1.第一ステージ:WCS(ワイルドカードシリーズ)3戦2勝先取チームが次へ。
2.第二ステージ:DS(ディビジョンシリーズ)   5戦3勝先取チームが次へ。
3.第三ステージ:LCS(リーグチャンピオンシップシリーズ) 7戦4勝先取チームがWorld Seriesに出場する。
4.第四ステージWorld Series: 両リーグのPlayoff Championが試合をして、全30球団のPlayoff Championを決める。7戦4勝先取チームが優勝。

 

ワクチン接種について       (普通部OB 篠原幸人)

今日あたりから急に「涼しい」を通り越して「寒く」なってきました。急な気候の変動は体調を崩す原因の一つです。

皆さんの中で65歳以上の方には、コロナやインフルエンザ(以下インフと略します)の予防接種のお誘いが来ているのではないですか? しかし60歳以上で特別な疾患がある方も除くと、他の方は全て有料ですし、地域によっては65歳以上でも一部自己負担という事もあります。先日、このワクチン接種の件につきご質問を受けました。

コロナの予防接種は従来のファイザーやモデルナに加えて、新しい「レプリコン(コスタイペ)」という、多少作用機序の異なる、少量でも効果が持続するとうたっている新ワクチンも出てきました。この「レプリコン」は米国と日本の会社の共同開発ですが、まだ承認を受けたのは世界でも日本だけという新参者です。 多分、副反応が今まで強くなかった方は今回もなるべくいま迄使用したことのあるワクチンを選んで打たれたらどうでしょうか。その際に受診する予定の病院・診療所に電話して、そこではどのワクチンを使用するかを確認してください。電話で訊けるはずです。新型ワクチンのみと言われたら、もう少し待った方が良いかもしれません。この新参者は意外に効果が良いかもしれませんが。

ファイザーかモデルナを以前にも使用して「ひどい」副反応がなかった方は今回も接種をお勧めします。私も職業上、罹ったら患者さんに迷惑をかけるし、目の前の患者さんがコロナ感染者かもしれないので、当然、打つ予定です。

その際の注意事項はインフの予防接種とは十分間隔をあけることです。接種する医院でも確認することが必要ですが、私は最低2週間はあけることにしています。インフの流行が11月中頃から3月までとすると、インフの予防注射を10月末から11月初めにするとして、もう時間はあまり残されていませんね。

 

本、がもたらすもの

ここ数年、自分の英語に関する知見を増やそうと思い、ミステリや冒険小説に絞って、ポケットブックを原書で読み続けてきた。それなりの効果があったと見えて、本来目的としてきたとおり、ボキャブラリもだいぶ増えてきたので、ここらで少し、”名作” というかクラシックなミステリ作品を読んでみようという気になった。

ミステリの大御所、といえば英国のアガサ・クリスティだが、同時代にアメリカで活躍した作家として、それも当時米国の知的活動の中心だったニューヨークを舞台に、東部のインテリ層に愛好されたヴァン・ダインとエラリー・クインがよく知られている。クリスティの人気は抜群で、翻訳書を本屋でみないことはないが、この二人は多少マニアックな人しか読まないらしく、あまりみかけない。その程度の知識でアマゾンを探したのだが、在庫されている作品は思ったより少なく、価格もものによっては1万円クラスのものもあるのに驚いた。だが考えてみれば僕らが生まれる前に書かれた作品だから新品を探すのが大変なのはやむを得ない。こういう時は ”中古 だが 保存状況よし”、の中から何冊かを購入しているが、今回もそうして注文しておいたものの4冊目、Greek Coffin Mysery (邦題:ギリシャ棺の謎)が昨晩届いた。驚いたことに体裁がポケットブックではなく、立派な装丁の、新品といってもいいような立派な ”本” なのですっかり気に入ってしまったのだが、その目次のページを開いてさらにうなってしまった。

各章の第一文字を順に並べるとそれが本のタイトルと著者の名前になるという誠にしゃれた仕掛けで、クイーンもののいわば ”売り” でもある、”読者への挑戦” の表明が裏表紙になっている。粋なつくりである。

エラリー・クインと名乗った従兄弟ふたり

実はエラリー・クインというのは従兄弟同士二人の筆名で、そのことはよく知られていたが、ヴァン・ダインは実は高名な文学評論家であったハンチントン・ライトという人のペンネームで、ライトはこのことは深く秘匿していた。読者の間でもその真相が話題になっていたらしいが、ある友人が(その手法はよく覚えていないが、たしか別名で手紙を送り、返信の筆跡をライト本人との私信のものを比較した、というのだったと思うが)秘密を暴き、沈黙代としてニューヨーク第一の高級料理店でディナーをおごらせた、ということが知られている。

クイーンが代表作となった 国名シリーズ10冊の題名を***** mystery  ということにして人気をあおれば、ダインは彼の12作の題名を  *****   murder case   として対抗した、などといった裏話も楽しい。

ただ、クインの作品はものの2ページも読めば、3年かかって稼ぎ貯めたはずのボキャブラリではとてもすまされない big words やら表現やらがでてくるし、描かれている社会現象の違いや、会話そのものの現代との違いが歴然としてくる。だから今、同じニューヨークで話されるスタイルは全く違ってしまっているはずだ(そういう意味で、僕はセリフを現代語で話し、結果として現代の発想や感覚が反映されていくという、今放映中の大河ドラマ 光る君 なんてのは作為が先走りしていて、王朝時代の雰囲気というものを反映していないと思うので、みるのをやめてしまった)。

ヴァン・ダイン

こういうトリビアというか、ファンの間で語り継がれ愛される、いわば 作品の余韻というかそういうものは、やはりそれが形に残り手元に置かれ、その存在を物理的に感じ、いわば愛情がこもってくる、本 というメディアによっているからだと思う。映像や音響による効果は事実を的確に、客観的に伝えるという意味では本よりもはるかに優れているだろうが、いわゆる行間を読む、というような知的動作を生むことは難しい。本で書かれた文章は著者そのもののものだが、映像化される過程では第三者の感覚によってその印象は当然、変わってくるだろう。

今回はたまたま米国発の話がきっかけだが、日本でも著者や編集者の中には工夫を重ねて ”本” への動機付けをはかっている人も多いはずだ。社会のありようがすべて ”アプリ” と グーグルで片付けられるようになりつつあるいま、行間を読み、余韻を楽しむ、そういう空間は本を読む、ということからでなければ生まれてこないような気がするのだがいかがであろうか。

 (10月11日 読売新聞朝刊記載記事記事)

 

“白い恋人たち” 補論  (大学クラスメート 飯田武昭)

マンシーニ論のなかで、ジャイさんの言う映画音楽ベスト1 “白い恋人たち” は自分も大好きな曲です。

想うに、この曲の良さの秘密の一部は先ず、ワルツ調の3拍子で特に1拍目に3連符(16分音符の3連符)を入れているので、タツ・タツタツタツータツ・タツ・タツとゆったりしたワルツ調のリズム感のあるメロディーになっている点だと思います。
フランシス・レイは安田さんのリストにもあるように、映画「男と女」「ある愛の詩(うた)」のテーマ曲も名曲ですが、“白い恋人たち”は中でも際立った名曲と思います。
映画「白い恋人たち」(監督ジャン・クロード・ルルーシュ)は冬季オリンピック・グルノーブル大会(1968年)の記録映画として製作されたものですが、この大会で地元フランスのジャン・クロード・キリーが滑降・回転・大回転の3種目で金メダルと取ったことはあまりにも有名です。

冬季オリンピック、スキー、映画という3つのキーワードと振り返ってみると、トニー・ザイラー(オーストリア)が冬季オリンピック・コルチナ・ダンペッツオ大会(1956年)(イタリア)で同じく滑降・回転・大回転の3種目で金メダルとこれ又、KWVやエーガ愛好会の皆さんには以前よりご承知のことではあります。トニー・ザイラー主演の日本公開映画(西ドイツ製作)は別添リストを参照頂きたいですが、これらの映画に付けられた音楽も大変ヒットしました。
特に「黒い稲妻」と「白銀は招くよ」の挿入曲は “白い恋人たち”とは又違ったスキーの楽しさを思い出させる名曲でした。

冬季オリンピックはコルチナ・ダンペッツオ(イタリア、1956年)、スコーバレー(アメリカ、1960年)、インスブルック(オーストリア、1964年)、グルノーブル(フランス、1968年)、札幌(1976年)、デンバー・インスブルック(1976年)、レークプラシッド(1980年)と続きますが、トニー・ザイラーの活躍した1956年とジャン・クロード・キリーの活躍した1968年の間に、トニー・ザイラーは5本の映画の主役で活躍したことになります。この時代はオリンピック、スキー、映画で盛り上がっていた約20年間でしたねえ。

(編集子)”白い小屋” へ通っていた間、大野さんのコレクションを引っ張り出しては、”黒い稲妻” を繰り返し何回も見た。この映画が封切られたのは確か僕らが3年の時。東劇で見て、みんな、当時まだ日本になかったキルティングジャケットにあこがれたものだ。この映画のヒットシーンの、ザイラーが滑りながらアコーディオンをかき鳴らす場面に興奮した37年卒の福永浩介がウクレレを持って滑ろうとして大笑いになったのも楽しかった。陽気で誰にも好かれたコースケの思い出も蘇ってくるようだ。飯田兄、Vielen Dank !