乱読報告ファイル (68) 父の乳    (普通部OB 菅原勲)

「父の乳」(著者:獅子文六、初出:1965-1967)を、ちくま文庫(2024年発行)で読む。

獅子は、1893年(明治26年)生まれで、76歳の1969年に亡くなった。その小説は、随筆も含め70冊以上にも上っているが、その内、これまで小生が読んだのは、「海軍」、「青春怪談」、「大番」、「バナナ」、「但馬太郎次伝」(薩摩治郎八がモデル)のたったの5冊に過ぎないから、とても熱心な読者とは言えないだろう。しかし、その中で最も面白かったのは、相場師「ギューちゃん」の波乱万丈の一生を描いた「大番」だ。

ただ世の中では、テレビ化された「悦ちゃん」、映画化された「大番」、小説「娘と私」などで人口に膾炙し、文化勲章も受賞しているから、皆さんはお馴染みだと思う。

その獅子が、自伝を書いた。本人は「私は、自叙伝を書くつもりはなく、自分のうちにある“父”を、書きたいのである」と、その主題は父親を慕う気持ちをテーマとしたものであると断っている(普通なら、「母の乳」となるところだろうが、獅子はその独自の気持ちを込めて、題名を「父の乳」としたのだろう)。しかし、読み終わった感想は、やはり自叙伝そのものだ。それに、自伝を書くだけあって、その記憶力は途轍もなく、文庫本にして660頁にも達した。しかし、余りにも面白かったので一気呵成に読了した。ただし、フランスに渡航し、フランス人と結婚。帰国した1925年に生まれた長女、巴絵については、自身の著書「娘と私」で触れられていることから、ここではその部分は割愛されている。

獅子は横浜の裕福な貿易商の家に生まれたが、話しは、小学4年生時、父の死から始まる。そして、その悲しみはいつまでも消えず、その慕情は60歳で授かった初めての息子への強い愛情へと変わって行く。

なお、獅子は、三回結婚しており、初婚がフランス人、二回目が日本人、三回目も日本人、60歳で初めて男子を授かった(1/2回目の妻はいずれも死去)。

当初は、自宅のある横浜の老松(オイマツ)小学校に通っていたが、途中で、この学校が嫌になり、慶應の幼稚舎に転校した(それだけ裕福だったことになる)。その当時、幼稚舎は三田にあり、横浜からは通えないことからその寄宿舎に放り込まれた。以後、普通部、予科と進んだが、大学の授業内容が、自分にとって余り意味なしと判断して中退した。従って、Wikipediaでは、学歴、慶応義塾大学となっているが、これは完全な間違いだ(つまり、Wikipediaにも間違いはある)。

色々、数知れぬエピソードがあるが、その一つに、幼稚舎時代、寄宿舎からの脱走がある。

寄宿舎が嫌で嫌でたまらず、塀を乗り越えて脱走するのだが、小学生にもかかわらず、三田から自宅のある横浜まで歩き続ける。この無茶振りが何とも獅子らしい(KWVの人でも、なかなか出来ないでしょう。そうでもないか)。

面白いのは、子供に巴絵、敦夫(エリザベス女王戴冠式取材に因んで)と、巴里、倫敦の名前を付けていることだ。何も森鴎外の真似(杏奴、於菟、茉莉、類)をしたわけではあるまいが。西洋人が日本で生まれた子供に東京、大阪、横浜などに因んだ名前など付けるだろうか。これは、やっぱり、明治生まれの日本人の西洋に対する根深くて根強い憧憬ゆえだろう(私事ながら、小生の親父も明治生まれだが、小生に、戦争に関係する勲を付けた。ただし、親から授かった名前なので有難く頂戴し続けている。電話で予約などを連絡する際、イサオの漢字を教えてくれとの依頼があるが、勲章の勲と言ってもピント来ない。従って、最近は、動くの下に点四つと伝えることにしている)。

最後に、全くの私事ながら、付け加えたいことがある。幼稚舎のY先生こと、吉田小五郎先生のことだ。小生の担任ではなかったが(小生は、疎開から帰った1946年の2年で編入したが、吉田先生は、1947年から1956年まで幼稚舎の舎長だった。従って、時期的にはほぼ重なっている)、獅子が言っているように、「この人は、私よりちょっと年下だが、昔の(慶應の)文化(文学部史学科)卒業生で、実に、立派な人柄だった」。そして、「こんな清浄な、誠実なひとは、ちょっと珍しい」。小生は子供だったが、正に獅子の言ピッタリのひとだった。

 

 

 

錦織が帰ってきました     (36 大塚文雄)

錦織選手(にしこりけい)がグランドスラムに帰ってきました。昨日12日にテニスの錦織選手がグランドスラム(Grand Slam)の一つである全豪オープンで初戦突破しました。テニスファンには最高のお年玉です。

錦織選手は2010年代には世界ランキング4位になった世界トップ常連の選手でしたが、故障のために出場機会が減少し35歳になった近年はランキング500台に低迷していました。同時代に活躍した選手はほぼ全員引退し、次の世代も引退しつつあるときに、地方の小さな大会から実績を積み重ねて世界ランキング74位にまでに再上昇して出場資格をえました。出場するだけでも大変なのに、勝利をしたのはただ驚きしかありません。2日後の15日に第2戦の予定で、相手はポール選手(世界ランキング11位)とオコネル選手(同71位)の勝者で、どちらになっても強敵ですが、勝ち進んで欲しいものです。

野球では満塁ホームランをグランドスラム(Gland Slam)といいますが、テニスではオーストラリア、フランス、イギリス、アメリカで開催される2週間続きの大会を総称するものです(通常は1週間)。今年の日程を表にしておきます。

日程開催国呼称
1/12-1/26オーストラリア全豪オープン
5/25-6/8フランス全仏オープン
6/30-7/13イギリスウインブルドン
8/25-9/7アメリカ全米オープン

閑人会 恒例の七福神巡り   (44 安田耕太郎)

KWV S44年(1969年)卒の「閑人会」はここ10年、毎年正月明けに七福神巡りを行っている。これまでに東京の下町、都心の谷中、深川、浅草、隅田川、柴又、元祖山手、新宿山ノ手などを巡った。今年は豊島区と文京区にまたがる「雑司ヶ谷七福神」を巡った。参加者は11名。
都会の近代的ビル群の間を縫って歴史ある神社と近代都市景観のコントラストを楽しみながら歩くと、都会の中のオアシスのような雑司ヶ谷霊園に達した。
明治時代の廃仏毀釈に伴い、自葬禁止・神葬地設定・旧朱印の内(主に寺社領)に埋葬禁止などの措置により、共葬墓地の必要が生じ、東京府は共同墓地(霊園)を造営。谷中・青山などと共に雑司ヶ谷墓地(霊園)が1874年(明治7年)に開設された。この場所は、3代将軍徳川家光の時代に薬草を栽培する御楽園となり8代将軍吉宗の時代以来将軍の鷹狩用の鷹を飼育する場となっていた。夏目漱石・ジョン万次郎・竹久夢二・サトウハチロウ・小泉八雲・永井荷風・金田一京介・泉鏡花・東條英機などの墓がある。

Screenshot

上野東照宮 初春  (普通部 OB 船津於菟彦)

門松もとれていよいよ2025年新年スタートですね。「不確実の時代」と云われていますが、日本人の心優しさと人を思う心があれば幸せな年となることと念じております。

例年この時期に上野東照宮の冬牡丹苑を訪れ、撮影を愉しみのんびりした時間を過ごしています。牡丹も紅白色々。蝋梅も水仙も山茶花も迎えてくれました。

夢の又夢なり冬牡丹

風はこぶ亡き師の冬牡丹

今生のあやうきさあリ白牡丹

よろこびはかなしみに似し寒牡丹            山口青邨

冬牡丹きりきり生きることの愚よ 鈴木真砂女

君がために冬牡丹かく祝哉   正岡子規

天地の色なほありて寒牡丹   高浜虚子

寒牡丹ぬくめむと息近寄せぬ 草間時彦

招かれし一人のみなり寒牡丹  水原秋櫻子

白無垢は捨身のいろの冬ぼたん

北村仁子

 

 

カメラ Nikon Zf Nikon Zfc
レンズ ニッコールDX12-28mm f/3,5-5.6PZVR0
レンズ NIKKOR ZDX18-140m1:3.5-6.3VR
レンズ KMZIndustar-61 L/Z 50mm 1:2.8
レンズ CANON FD 50㎜ 1:1.4 S.S.C.鏡胴はニコンF+ライカMマウントにノクトが改造 ボケ専用  4本持参 重いな

KWV2025年度新年会 にぎやかに開催

恒例のkWV新年会は昨年と同じ上野精養軒に102名の出席を得て開催。年度を超えて友情を確かめ合うあたたかな集まりであった。現役の活動紹介や恒例の鏡割りなどの行事の中で、今回特に目を引いたのは、現役の部長(我々の時代の用語だと総務)と山荘委員長という要職が女性部員であることだった。(女子部員はどうあるべきか)なんてことを大真面目に議論した昭和の時代はまさに遠くなった感があった。

世の中に同窓会の数は数えきれないだろうが、”ヨコ” の集まりがほとんどだろう。KWV OB会のように、卒業年度を超越して、今回の例でいえば昭和32年の卒業生から令和の若手までが同じ思いを大切に、文字通り古き友、のあたたかさに溶け合って活動する組織は多くはあるまい。創立90年の祝典を目前に、また古くも新しい年があけた。

 

韓国 ー 近くて遠い隣国

ここのところ大谷選手の大活躍に引き続き、松山の新記録での優勝、さらに映画ではSHOGUNの受賞など、野球、ゴルフ、映画とアメリカ大衆文化の基軸でもある分野で日本勢の勢いが止まらない。この勢いに多少かすんでしまった感もあるがもひとつの人気分野バスケットボールでも八村の活躍が伝えられる。結構なはなしではないか。

終戦直後、僕らは小学校生、僅かに水泳での古橋やボクシングの白井なんかの活躍があったけれども、すごいことはみんなアメリカ、の時代を過ごした。野球なんかはその懸隔が大きすぎて、とてもアメリカに勝つ、なんてことは想像すらできなかった。そういう時代を経験してみてわかることは、われわれはそのアメリカ文化を、時には意地汚いとか卑屈だとか言われながら、取り込み、模倣し、咀嚼して日本の文化に取り込み、そして世界に誇れる成果を出した。このあたりはスポーツや芸能だけでなく、ビジネスの世界でも全く同じパターンで我が国は発展してきた。ものごとを自虐的にとらえてはなにかと (西欧では)と嘆くことがインテリのあかしだと考える人たちは、日本人には独創性がないと言って嘆くのだが、僕は模倣とか消化とか、表現はいろいろあるが、言ってみれば他人の褌で相撲を取ること、結構じゃやないかと思っている。どんなに独創的な発明や技術ができてもそれを実用化し、改良していくプロセスがなければ人類に資することはできない。しかしそれには、優れたものから学び、といりれることに躊躇しない国民性がなければならない。日本人にはそういう柔軟性が備わっているのだと感じる。

先日のテレビ番組で韓国では、最近まで、日本の音楽を演奏することが禁じられていた、ということを初めて知った。かの国に反日思想が根強くあることは承知しているが、このようにいわば坊主憎けりゃ袈裟までなんとやら、というかたくなな思想が一体どうして生まれたのか。要は韓国を日本が支配した、という歴史をひたすらに憎み、否定しつづけることが韓国人のいわば愛国心なのだ、ということなのだろう。確かに歴史書をみれば、古代までさかのぼらずとも明治維新当時に西郷隆盛らの征韓論があったし、のちにかの国を併合するという国策もとられ、その過程で韓国人の差別とか文化の破壊とかといった蛮行があったのは事実だろう。しかしあの時代、すなわち帝国主義が世界を覆っていた時代を考えれば、人類史上の汚点ではあるかもしれないがこのような関係は日韓間だけの問題ではなかったはずだ。

日米の関係でいえば、我が国は韓国の日本に対する歴史よりもはるかに深い傷を負うた。追い詰められて突入した大戦に敗れ、広島に長崎、二度と人類が経験すべきではない深傷もアメリカから受けた。そういう意味では日本人対米国人、という図式は韓国人が日本に対してもつものよりもさらに根深いところで憎悪や反感につながってもおかしくはない。しかし日本人はそれよりも我が国の敵であった国の長所を学びそれを取り入れ、凌駕することを選んだ。第二次大戦で我が国の友邦でありながら同じく敗戦国となったドイツも、同じ反応をすることで欧州のリーダーに返り咲くことができた。なぜ、韓国はこのような例に学ぼうとしないのだろうか。

同じ日、別のチャンネルで維新前夜、のちに日本の開国事業の中核となった薩摩藩の武士グループが国法を破って英国に渡り、大学に学んで広く知識を吸収した史実を伝えていた。彼らは薩摩において無謀にも当時世界一の強国であった英国に挑戦し完敗した薩英戦争に開眼し、敵国であった英国に学ぶことから始めたのだ。たとえ敵国だったとしてもすぐれた国から素直に学ぶ、という柔軟性が僅か数十年のあいだに日本をアジアを代表する強国を作り上げた。この晩、たまたまみた二つのテレビ番組をみたことから、日本と韓国、隣り合う二つの国のありようのちがいを改めて考えてしまった。

このささやかなブログをきっかけにできた友人の輪の中には、外国生活の長かった人、外国企業に勤務した人、そのほか、日本を離れて考えることのできる人もたくさんおられる。そういう人たちのご意見を伺いたいものだ。

(33 小川)  この投稿を是非とも韓国の有識者に読んでもらいたい。小生海外経験もなく発言の資格はないかもしれないが、まさに至言です。

小生も昔から韓国を「近くて遠い隣国」と言っておりました。それはハングル語のせいです。訪韓して街並みのショップを見ても全くどういう店か分からない。こんな国は他にありません。この言語に固執する国民性に韓国の何かに関係がある様な気がします。上手く表現できませんが何か・・・。

(44 安田) 日韓関係で不思議に思うことは、同じように日本に占領され日本の統治下におかれた台湾と韓国の対日本、対日本人感情の真反対な反応を示し親日の台湾と反日或いは謙日の韓国と、二者の相違が際立っていることだ。清国領土の一辺境であった台湾を日本は日清戦争勝利の結果、帝国主義時代のルールによって正当に獲得し統治した。 一方、韓国は、独自の王朝(李)を持ち独自の古い歴史・価値観・文化とアイデンティティを誇りにしていたが、日本が無理やり力づくで植民地化して1910年韓国を併合した。両国それぞれの謂わば宗主国・統治国の日本に対する感情・受けいれ方に違いがあったのが歴史的事実であり、当然かなとも思える。

韓国で 「最も嫌いな日本の歴史上人物は誰か」と問えば、10人中8・9人が豊臣秀吉、伊藤博文と答えるだろう。両者とも貧乏な百姓から立身出世して国を治める立場に至り、彼等の明るい人好きのする性格とも相俟って、日本では人気が高い政治家であるが、韓国では真逆だ。秀吉は非現実的な明征服を目指し、通り道の明の友好国・属国の韓国と当然交戦となった文禄の役は決着が付かず和議が成立して撤退。朝鮮征伐を目的として無理に起こした慶長の役は秀吉の死で終わる。無益な侵略戦争を起こした秀吉の暴挙と思える行動が、今日まで続く韓国の日本に対する怨恨と憎悪感情を惹起したのだ。当時、スペイン・ポルトガル がキリスト教宣教師をまず送り、民衆をキリスト教に改宗させ、のちに可能であれば政治的・経済的・軍事的に植民化に動く戦略だったのを秀吉は感じていて、伴天連禁止令を発布するなどして対応策を講じていた。結果、アジアで植民地化を免れたのは日本とタイのみであるというのが史実である。
日韓併合の下(1910年)、朝鮮総督として韓国を統治した博文は歴史上300年以上秀吉に遅れて登場したが、両者とも韓国では第一級の極悪人として歴史に悪名を遺した。文禄・慶長の役の侵略戦争を闘った朝鮮の総大将・李舜臣、そして伊藤博文を暗殺した安重根は韓国民族主義の象徴とみなされ、今日でも二人は英雄視されている。
韓国(朝鮮)は歴史的に隣国の大国中国の属国扱いを受けたが、東の国日本へは文化や芸術や工業技術が、蛮国・日本(と彼らは思っていた)に伝えていったという歴史があり、中華思想の国・中国に隣接し、自らがより先進国であるというう日本に対する優越感を抱いていたであろう。百済経由で仏教を伝え、機織り技術、稲作、陶器(薩摩の沈壽官家は有名、慶長の役の時遠征した島津氏が連れ帰った)など優れた製造技術や農耕や製品が韓国経由で日本に伝えられ、韓国人も渡来して(やがては日本人となるが)それらを陣頭で広めていった。そのような国、見下していた日本が明治維新以来、文明開化と富国強兵を旗印にして清国・ロシアを破り、韓国をも事実上植民地化した事実に対する屈辱感・嫌悪感・劣等感が、戦後の日本経済成長時代にもぬぐえず、深層心理の中では古来から続く優越感を抱きつつ、反日・嫌日感情に苛まれているのだろう。
日本がその統治時代に台湾と韓国の発展のため、インフラ構築・国土開発・経済成長・教育の方策・・などに腐心し、多大な貢献したのは自明であり、その土台の上にたって台湾 韓国両国とも戦後著しく発展した。台湾は、それに感謝し親日的であり、今日、台湾では日本が世界で最も好きな国に挙げられている。一方、韓国は嘗ては屈辱感・嫌悪感と劣等感に苛まれ、最近は著しい経済成長で一人当たりGDPは日本を凌駕するに至り、心の中では優越感に浸っているに違いないのだが、歴史のトラウマから抜け出せず、余裕をもって友人付き合いが出来ないにいるように映る。戦後、日韓関係が政治的に正常化した’60年代の朴正熙大統領時代、日本は多額の経済援助をして ”漢江の奇跡” と呼ばれる韓国の経済発展に大いに寄与したが、韓国ではそのことを特に挙げては語らず、感謝の念を表していない。悪行を働いた日本が犠牲者に対して償いをするのは、特別な善意ではなく当たり前ではないかの態度といえる。過去の屈辱感がトラウマになって歪んだ歴史観を生み出した半面、今日までに果たした経済成長で遂には一人当たりGDPでは日本を抜き去り、達成感と優越感に浸っていると予想するに難くない。これらが複雑に複合的に交錯して国民の精神感情を形成しているのではなないだろうか。それだけ、弥生・飛鳥時代以来の歴史の綾は重く複雑に絡み合い今日も引きずっているような気がしてならない。
富んでくれば人は総じて寛容になり、許容範囲と度量が広くなり、嫌いな物・者に対する耐性は増し、穏やかになるはずであるが、韓国に於いて如何ともしがたいのは、左寄りの反日大統領・政権が国を治めることが頻繁に起こることである。反日教育を植え付け、国を一枚岩にまとめる特効薬は反日だと言わんばかりに。対日本のイメージを凍結させて大人に育て上げることが行われているのは事実からである。
日韓関係が日本とアメリカ、ドイツと欧州各国の関係(感情面を含めて)のようになるか、といえば、僕らの孫の世代が日本を動かす時代(今世紀後半)以降になれば両国のわだかまりが氷解するかも知れない。しかし文禄・慶長の役から430年経ち、韓国併合から115年経ているのに、昨今の不安定かつ不穏な彼の国の対日本感情状態が存続しているという事実は、白村江の戦い以後要した長い長~い年月を経てもなお、被害者意識が強く、日本を加害者とみなしている韓国にとっては単純で簡単には割り切れない心理の問題なのだろうから、時間が、それも百年単位の長い期間が必要なのかも知れないし、反日を国是とする為政者が繰り返し繰り返し登場する限りは、それも難しいのかも知れない。

 

エーガ愛好会 (299) エルヴィス   (大学クラスメート 飯田武昭)

この映画はエルヴィス・プレスリーの活躍した1950~60年代のアメリカ文化、特に派手な色目のアメ車やネオンサインが輝くメンフィスやラス・ヴェガスの夜の街並みを、やや強調して再現している映像はノスタルジーを感じられて良かったと思う。

プレスリーを演じたホースティン・バトラーという俳優はよく演じていると思うものアクションなど遠目には似ているが、アップになる近目には似て非なる印象があるのは止むを得ないか、プレスリー・ファンとしてはやや複雑。彼のマネジャーのトム・パーカーなる人物を演じるトム・ハンクスが予想外に年齢を重ねた顔つきに少し驚いた次第(「フォレスト・ガンプ」「ユー・ガッタ・メール」の2本しか見たことがないが)。

物語の切迫感や喧噪や臨場感を表現する撮影・編集手法か、画面を2分割、3分割、多分勝してカット動画を流すシーンが時々出てくるが、個人的にはこの種の手法は映画に持ち込んで欲しくない、最近のネット社会の延長の気がした。

プレスリー・ファンとしては、もう少し歌うシーンをじっくり聴かせる場面を多く期待したが、メンフィスで “ハートブレイク・ホテル” “ハウンド・ドック”
“監獄ロック”を立て続けに歌うシーン、ラス・ヴェガスのInternational Hotelの大ホールで “Can’t Help Falling In Love” “Unchanged melody”などを歌うところなどファンの絶叫の中で歌うシーンが再現されていた。

42歳でメンフィスの自宅で心臓発作で亡くなった不世出のエンターティナーの突然の死に対して、先日100歳で亡くなった当時のカーター大統領が、その死を惜しむ声明を出したというメッセージが画面に出て、大いに時代の流れを感じた。もともと伝記映画の作成は本人を演じる俳優の選択から始まり、その生い立ちやその主人公をどう捉えてセリフや画像に表現するか、脚本作りから難しい問題があるだろうと思う。

”いただかれてください” とはどこの言葉か

昨日の読売新聞に、かの 大間のマグロ の記事が載っていた。なんと ”一番マグロ” は2億円、1キロ当たり75万円だそうだ。先日、柄にもないがベートーヴェンにまつわる話題を提供した。音楽以上にわからないのはこの手のことだ。1キロ75万円、トロ握りにしていくらにつくのかわからないが、この味は1貫200円、なんていうマグロとそんなに違うもんなんだろうか.いずれにしても縁のない話なのだが、この記事でインタビューされた漁師さんのコメントが気になった。”本当に夢みたい。ちょっと高いけど、おいしくいただいてもらえればありがたい” という、まことに素朴だが心の籠った話だし、彼の心情はしっかりと伝わった。

だが、である。このコメントに一つだけ、言いたいことがあるのだ。それは いただいてもらえれば というところだ。彼は自分が釣り上げたマグロを食べてくれる人たちに感謝の気持ちを込めて、敬語を使ったのだろうし、そのこと自体にとやかく言うつもりはもちろん、毛頭ない。気になるのは、若い人たちの間で使われている敬語の中で、一番気にかかっているのがこの ”いただく” という動詞についてである。

少し以前のことだが、ある先輩のお宅にお邪魔して夕食をごちそうになった時のこと、夫人が ”どうぞ いただかれてください” と言われたのにまことに居心地の悪い思いをしたことがある。僕は言語学者でないから、間違っているかもしれないことをあえて言えば、”いただく” は 頂く とか 戴く というように、自分より上位のひとから受ける好意や温情などに対して自分の感情を表すときに添えるべき単語なのではないだろうか。この例でいえば、先輩からごちそうになる、ということに対して、その受け手である自分が使うべきものであって、その対象となるべき人、この例でいえば先輩夫人が相手にいただけ、というのはどう見てもおかしくはないか。このマグロの話も全く同じで、食べてください、という自分の行為を修飾する用語ではない。難しい理論は知らないが、80年を超える年月やってきた日本人の感覚でいえば、”食べてくれる相手” の行動にたいして敬意を払うのならば、その人の行為を修飾して、たとえば、召し上がる、というのが正解のはずだ。、

このような誤解のもとにあるのは、昨今の料理番組なのではないか、と思うのだが、その典型が ”・・・最後にソースをかけて頂きます” という言い方である。だって自分が作ったものを食べるんだから、なぜ 食べます ではいけないのだろうか。また、ペットを扱った記事や番組で自分のペットに ”たべさせてあげます” ”えさをあげます” というのか。これは ”食べさせます” ”えさをやります” ではないんだろうか。この用法が一般化して、食べる という基本的用語の活用系がすべて いただく に置き換わってしまったのではないか?

レストランで、何か複数のオーダーをしたとする。一度に出てくれば問題ないが、当然調理の都合などでデリバリが1回で済まないのはいわば当然だ。そういう場合、ウエイトレスがやってきて、確認をする。それは結構なのだが、ほとんどの場合使うセリフが ”ご注文の品、お揃いでしょうか” というのが当然のようになっている。客が何人かいるので、その人数が全部集まりましたか、と聞くならばこの言い方は正しい。そろうのは客だから、敬語を使うのは当然である。しかし注文された品を揃えるのは自分であって、この場合は ”ご注文の品、そろいましたでしょうか” というべきなのではないか。

古典落語というのか、耳慣れた話に登場して、なにか難癖をつける横丁の旦那。おれもそろそろその年齢なんだろうか?

 

 

AI とオントロジー(41 斉藤孝)

河瀬さんのAIの回答をめぐって」に関してAIそのものについて所見です。

チッポケな存在                             相模湾の海原と茅ケ崎の海岸は一体となり雄大な光景が広がった。遥か彼方に富士山が見える。箱根と伊豆の山並みは丹沢まで続いている。親子は砂浜に並んでたたずむ。大自然の中ではチッポケな存在である。

存在論                               ふと存在から「存在論」をつぶやく。カメの専門はオントロジーという名前の「存在論」だった。オントロジーはAIと密接に関係する。

オントロジー                            何事も何物も名前が無ければ存在できない。名前は人間の知恵の産物である。SNS世界で氾濫する諸々のデータ、流行りのコトバ、発見と発明、そこには必ず名前を付ける。名前を持つことにより存在できる。意味は「ある」のか「ない」のか、意味の存在論である。

「存在、意味、定義」はオントロジー(Ontology)における研究テーマでもある。iPSという名前を与えられると、その存在はもっともらしくなる。AIという名前を与えられると、その概念や考え方など思想はなんとなく分かったような気分になる。

存在論は名前付け(ネーミング)や意味と定義に関する情報技術とされ「AIオントロジー」になった。AIはオントロジーなくして存在できない。人は、何事にも何物にもまず名前をつけて存在を確認する。AIは諸々の名前あるデータをかき集めることにより新たな知識を生成する。ただし、その知識にAIは名前を付けてくれない。

これは「概念化」ということで, AI技術では「メタデータ」と呼ぶ。簡単な例を挙げてみよう。

「ニワトリ、雀、カラス、燕」など名前が与えられた鳥類というグループで、これらは実際に飛び回っている。「実体」である。ところが「ニワトリ、雀、カラス、燕、鳥」とし「鳥」を加えてみると、鳥という実体は存在しない。鳥は「概念」であり鳥類も同じく概念、実体も無く名前だけの存在です。つまり「メタデータ」。

このような概念化はAIは非常に苦手で、実体の属性までは明らかにできても分類まで思考できない。実体の属性を分類して、つまり抽象化することによりグループを造り出す。なんとかそこまでは可能だが、「鳥や鳥類」という集合、分類カテゴリーに与える名前(メタデータ)は何とすべきか。分類は知の体系化、すなわち概念の抽象化の産物である。

AIの苦手とする分野は、「抽象化」つまり「概念化」で、かたや人間は、概念化は得意である。AIオントロジーでは「概念化」とは「メタデータ」、データのデータ」つまりデータを定義するデータ(メタ超える)のことである。例えばカメのホームページ(Website)は、HTMLやSGMLなどメタデータを使い表現(プログラミング)されているのだ。

(河瀬)カメさんが指摘するオントロジー(存在論)は人間の存在の重要性を指摘していますが、AIはその意味を介しません。そこでそれをベースに、脳外科医として両者の基本的な違いをまとめてみました。

1)デジタルとアナログ:AIはデジタル、脳はアナログ(神経細胞)とデジタル(ホルモン)両方で動く。
AIは名前や名誉を求めず喜怒哀楽もないけれど、過去のデータをを広範に利用し無限の力を発揮する。しかし抽象的な想像力を要する芸術や過去にデータがない複合分野の開発などは苦手。
 一方環境に支配される人間の脳は「どうやって生きるか?」という目的のために、ホルモンによって神経活動をアップダウン(喜怒哀楽)させ、その活力で芸術などを創造する。その一方でAIが求めない存在意義や名誉欲、支配力を求めることも多い。
2)エネルギー消費:AIは沢山電気を消費するが、脳はわずかしか使わない。
AIは半導体の連絡に大量の電気を必要とする。脳は電気を使わずシナプスで起こるわずかな電気で連絡するので、エネルギー効率は遥かに高い。しかし多くの人が一致協力しなければ、AIの能力には及ばない。
3)記憶容量と時間:AIの膨大な記憶容量とスピードは脳の比ではない。しかし人間の脳が時間をかけて作った『直感」や「創造」に至るにはまだ及ばない。またAIは過去のデータを選別消去しないので大容量のコンピュータでもいずれは容量を超過する。
 脳の記憶には時間がかかりその能力は限られているので、長年得た記憶をインパクトの多い重要な記憶と使わない不要な記憶を選別し「忘れる」「睡眠する」ことによってそれを補っている。しかし記憶容量では遥かにAIには及ばない。
4)自動修復能:古くなったコンピュータは大きな故障時の自動修復は難しく長年の維持は難しい(今後可能?)
 若い人の脳障害では可塑性があり、正常人に負けない能力を発揮することがある(パラリンピック)。健康な脳は50歳ごろまで自動修復能を維持しているが、老化、脳卒中などではその能力が落ち間違いが起こりやすくなる。
以上より皆さんは、将来世界を支配する(あるいは破滅させる?)のはAIか、人間か、どちらだと思いますか?

(編集子)“カメ” とは筆者斎藤君のKWV時代の通称である。