”シェーン” をたどる旅をしてきました   (HPOB 小田篤子)

たJackson Lake LodgeベランダからGrand Tetonを望む

以前と違い、成田で2枚の搭乗券を渡され、「デンバーでスーツケースを受取り、米国の入国検査を受け、ジャクソンホール行きに」…と言われ、広いデンバー空港をウロウロ。

スマホを活用すれば容易なのでしょうが、ルート66以来7年ぶり…後期高齢者夫婦には色々大変でしたが、ちょうど紅葉(黄色の白樺が殆ど)の広々とした景色を楽しんできました。
Jackson Hole空港ロビー

(ワイオミング州)ジャクソンホールの空港は、グランドティトン国立公園に相応しい木製の綺麗な建物(写真)になっていました。

柔らかい光が山ひだに差し、それぞれに薄い色のピンク、ブルー、グレー等に染まる朝の山々の優しい綺麗さは、私のスマホで撮るのは無理でした。
三脚を早朝からや、雨の中もずっと構える人があちこちに…。今は外国の人もカメラ大好きですね!
船津さんなら、きっと素敵に撮れたことと思います!
ホームステッド法で移住した開拓者 、Cunningham の小屋の窓から

「シェーン」的な風景の所に行ったり、String Lakeと言う少しアップダウンのある小さな湖の周り、約7kmを歩きました。

雨の日、幅の広いはっきりした長い虹を見たこと、車の近くでアメリカン·バイソンの群れを、そして(Signal Mt.の林の中に)大きな平らな角を持つムース(ヘラジカ)を見かけたのは幸運でした。
帰りに寄ったサンフランシスコでは、1日目はやはり、Alcatraz島へ。
あちこちから日本の旗マークは消えてしまいましたが、ここには日本語のイヤーホン説明が有り、助かりました!独房の中にも入ってきました。
2日目は広大なゴールデンゲートパークへ。
お茶のカフェもある日本庭園は人気で、広い展示館では日本の”マンガ”の催しが行なわれていました。
又、パークを取り囲む縦列駐車の車はまだ7割くらいが日本車! トヨタ、ホンダ、スズキの順に多く見られました。
(船津)
若いっていいなぁ。コチトラ誕生日には仮名に随SUGOCAの海外にいたときも在りますが今やキンリョク・体力ナーシ。
小田さんほど「シェーン」とシーンは撮れませんよ。上手いなぁ。
デンバー空港は懐かしい。何かテントみたいな屋根でしたっけ。オマハはアメリカでは時間帯が略真ん中なんでCATV局などがあり全米に流していますね。

(編集子)文字通り炎のような落日に映える名峰に息を呑んだ夕べを思い出す。
社長のお供でデンバー郊外の Loveland (この名前はミッキーもなじみのはず)からワイオミングのこれまた文字通りの荒野を走った後だけに感激もひとしおだった。いつのことだったか、定かではないが。

乱読報告ファイル (62) 残光 そこにあり  普通部OB 菅原勲 

こどもの頃から、嘘をついてはいけません、と諭されて、今日に至っている。しかし、逆に、この世から嘘が全く亡くなってしまったら、タワー・レコードの謳い文句、「no music no life」ではないが、それと同様、「no fiction no life」 と言うことになろう。それ程、嘘の効用は凄まじい。

最初から断っておくが、法学者、末弘嚴太郎に「嘘の効用」(1922年)と言う著作がある。これから述べることは、その「嘘の効用」とは縁も所縁もない代物だ。

何故、こんな話を始めたかと言うと、最近、読んだ、と言うより、何とか、二三回、試みてみたものの、見事に途中棄権してしまった本、「ロベスピエール」副題:民主主義を信じた「独裁者」(著者:高山裕二。発行:新潮選書/2024年)に大変失望してしまったからだ。全く面白くなかった。その原因は、著者が明治大学政治経済学部准教授で、その学術論文にも等しい内容だったことにある。何の創造力も想像力もなく、ただただ事実の羅列に過ぎず、ロベスピエールの演説、論文なども、数多、引用されているが、もともとが分かりにくい文章なのか、小生が度し難いボンクラなのか、彼が言っていることが、今一、ピンと来ない。つまりは、主人公であるロベスピエールに感情移入することが出来なかったから、何らの感動も起らない。

そこで思い出したのが、森鴎外に、短編「大塩平八郎」、長編「渋江抽斎」(ただし、小生、5/6行読んで通読を断念した)がある。ところが、「山椒大夫」、「高瀬舟」などと言う創作(嘘)では、激しい感動を呼び起こされるのだが、「大塩・・・」にせよ「渋江・・・」にせよ、単なる事実を述べているだけで、上記の「ロベスピエール」同様、何らの感動も起らない。

つまり、ただただ事実を書き連ねても、何の感動も呼び起さない。要するに面白くないのだ。小生の持論は、読書は面白くなければならない。さもなくば、鉢巻きしての苦痛の勉強となる。最早、この歳での勉学はご免を蒙りたい。

この後で、「残光そこにありて」(著者:佐藤雫。 発行:中央公論/2025年)を読んだ。これは、2027年のNHKの大河ドラマに予定されている江戸幕府末期の幕臣小栗忠順(ただまさ)が主人公だ。勿論、創作だから、作家は思う存分、自身の創造力と想像力を働かせている。従って、小栗に感情移入できるし、その行く末(彼が目障りであったことから、新政府によって斬首される)が分かっているものの、一喜一憂して手に汗することになる。

いずれの本も、最後は、ロベスピエールがギロチン、小栗が斬首されることになるのだが、これは全くの偶然に過ぎない。また、誰がどこで言ったかは覚えていないが、この小栗忠順と言い、佐賀の乱の江藤新平と言い、いずれも稀代の逸材であっただけに、新しい明治政府は、いずれをも殺すべきではなかったと言う説がある。皮肉なもので、逆に、最後の将軍、徳川慶喜は静岡に隠遁し、公爵相当の礼遇を受け、76歳まで永らえた。

余談だが、司馬遼太郎に有名な逸話がある。小生も面白くて、二三回、読んだ覚えがあるが、「竜馬が行く」を、本来の坂本龍馬ではなく、その名前を竜馬にしたのは、これがフィクションであることを明示するためだった。

小説は、英語で言えば、フィクション、つまりは虚構だ。言ってしまえば嘘を書き連ねたものだ。嘘から成り立ってるのが小説である。そこでの会話なんて、記録には殆ど残っていないものだろう。その全てがフィクションであり、想像の産物だ。でも、読んで、それらに感動するわけだ。だけど、これって嘘なんですよ。勿論、読むたびに、これは嘘だ、嘘だなどと呟ききながら、読んでいるわけではない。

今、「翠雨の人」(著者:伊与原新。発行:新潮社)を、半分ほど、読んで来たが、なかなか面白い。これは、日本の女性科学者を表彰する猿橋賞の猿橋勝子を描いたものだが、巻末に、「本書は史実をもとにしたフィクションです」と断っている。勿論、作家の手腕次第ではあるのだが、だからこそ、面白いのだ。

 

Anonyme, Portrait de Maximilien de Robespierre (1758-1794), homme politique. (Nom d’usage), 1758. Huile sur toile. Musée Carnavalet, Histoire de Paris.

マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエールMaximilien François Marie Isidore de Robespierre1758年5月6日 – 1794年7月28日)は、フランス革命期の有力な政治家であり、代表的な革命家。ロベスピエールは国民議会国民公会代議士として頭角をあらわし、左翼ジャコバン派および山岳派の指導者として民衆と連帯した革命を構想。直接に参加した事件は最高存在の祭典テルミドール9日のクーデターのみであり、もっぱら言論活動によって権力を得た[1]

しかし国外の第一次対仏大同盟といった反革命軍、内部のヴァンデの反乱に代表される反乱に直面し、危機的状況にあった革命政府では非常事態を乗り越え革命を存続させるため、敵を徹底的に排除する事を目的に恐怖政治が支持される。ロベスピエールはそれに同意した。こうして行われた恐怖政治は共和国を守るためとして、自党派内を含む反革命とみなした人物を大量殺害するものであり、これは後のテロリズムの語源となった。

 

 

 

 

(エーガ愛好会 345) 監督ビリー・ワイルダー讃 (大学クラスメート 飯田武昭)

20世紀の洋画界で多くの名作を残して巨匠と呼ばれた監督は数人に上る。ウイリアム・ワイラー監督(「我が生涯の最良の日」「探偵物語」「ローマの休日」「大いなる西部」「ベン・ハー」他)、ジョージ・スティーブンス監督(「陽のあたる場所」「シェーン」「ジャイアンツ」他)、ジョン・フォード監督(「駅馬車」「怒りの葡萄」「わが谷は緑なりき」「荒野の決闘」「アパッチ砦」「三人の名付親」「黄色いリボン」「リオグランデの砦」「静かなる男」「長い灰色の線」「捜索者」「騎兵隊」「リバティ・バランスを射った男」他)、アルフレッド・ヒッチコック監督(「見知らぬ乗客」「私は告白する」「ダイヤルMを廻せ!」「裏窓」「泥棒成金」「ハリーの災難」「知りすぎていた男」「めまい」「北北西に進路を取れ」「サイコ」「鳥」他)、エリア・カザン監督(「欲望という名の電車」「波止場」「エデンの東」他)など。又、ヨーロッパを基盤にしたデビット・リーン監督(「旅情」「戦場にかける橋」「アラビアのロレンス」「ドクトル・ジバゴ」他)、キャロル・リード監督(「邪魔者は殺せ」「落ちた偶像」「第三の男」他)など、英語を母国語とする映画に限っても、以上のような巨匠が思い浮かぶ。

しかし、ジャンルを問わずに作る作品が悉く秀作・名作か、少なくとも話題作であったのはビリー・ワイルダー監督が筆頭で、巨匠の中の匠(たくみ)という言葉は似合わないにしても、私はスクリーン上で一番楽しませて貰った気がするし、今でも好きな監督だと思っている。

(1945年)     失われた週末     (1948年) 皇帝円舞曲

(1950年)     サンセット大通り    (1953年)   第十七捕虜収容所

(1954年)     麗しのサブリナ     (1955年)   七年目の浮気

(1956年)     翼よ!あれが巴里の灯だ  (1957年) 昼下がりの情事

(1958年)     情婦              (1959年) お熱いのがお好き

(1960年)     アパートの鍵貸します  (1963年) あなただけ今晩は

(1966年)     恋人よ帰れ!我が胸に  (1970年)シャーロックホームズの冒険

他に、脚本家として「ニノチカ」(1939年)   「ヒット・パレード」(1948年)など

 

ビリー・ワイルダー監督(1906年~2002年、95歳没)

ユダヤ系の両親のもと、オーストリア=ハンガリー帝国領の生まれでドイツの映画会社ウーファで修業をし、ナチスの迫害を恐れて1938年にアメリカに移住したという複雑な人生を歩んだが、映画で描く世界は真面目な人生の生き方であったり、時に奇想天外なお茶目な画面が印象に残る映画監督であった。

(編集子)小生第一のお気に入りはこれだけど。

 

 

緊急提言ーMelting Japan ! (普通部OB 田村耕一郎)

友人の真田幸光氏(国際金融学者、アジアが専門、時々 BS8プライム
ニュースに出演)の東アジア情報を転送します。

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> 今週は国民の声をお届けします。
> 永田町の民さん、これが一般国民の声です。
> こうした声に耳を傾けないと、国家の体は崩れます。
> 「メルティング・ジャパン」> となります。

> 昨日は所用で文京区区役所に行きました。
> そこで見たのは中国人達。
> 東大の新学期が10/1
> 学生達が住民票の申請
> そしてマイナンバーカードの申請
> 待合室は中国人達
> 私はエトランゼか?
> 2時間待ち
> 私がどうなっているの?
> と職員に聞くと
> 普段口の固い職員も今日はまだ良い方ですと
> 東大はほとんどが中国人になりますね
> と嘆いていました
> 彼らは国民動員法により
> スパイも辞さない
> 裏切れば家族
> 恩師も処罰の対象になる
> と聞いていますが
> それが事実ならば
> 余りに恐ろしい
> 戦わずして浸透する中国
> 今日の文京区区役所に身震いをしました
> かろうじて勝利した高市さん
> に縋る思いです
>
> 職員が言った
> マイナンバーカードも取っているんですよ
> の言葉が怖すぎる
> 参政権も得るのでしょうか?
> 私に何が出来るのでしょうか
> 自分の無力さが情けないです」
>
> こんな国家運営をしていて良いのですか、こんなに純粋なる日本人を不安にしていて良いのですか、日本の政治家の皆さん?
>
> 日本最高峰の東京大学が日本人を教えるより国費で外国人を教える、この税金の使い方で良いのですか?
>
> 日本人が中国本土で土地不動産を獲得出来ないのに何故、中国人には簡単に日本の土地不動産を買わせ、マイナンバーまで取らせるのですか?
>
> タクシー運転手たちは口を揃えて言います。
> 日本の警察は、我々日本人ドライパーには厳しいのに外国人通行者、外国人ドライバーには寛容で不公平であると。
>
> 私の知る多くの弁護士達は言います。
> 外国人の犯罪はトラブルになることが多いので、検察は思い切って起訴しないと。
>
> 不動産ディベロッパーたちは言います。
> 日本人より外国人、就中、中国人、即金、前払いで物件を買ってくれるから有難い、日本人より商売になると。
>
> 学校関係者や一部企業は、とにかく学生数、人手が足りないから、誰でもいいから人が欲しい、審査などなくてもいいから外国人を入れて欲しいと。
>
> そして、これを受けて永田町や霞が関ではアフリカホームタウン構想に代表される移民受け入れ政策は正当なるものである、国民に対する説明がちょっとだけ足りなかっただけであると。> だから、まだ諦めてはない。> タイミングを見て復活するのであると。
>
> 「今だけ良ければ良い、金だけあれば良い、自部門だけ良ければ良い。」
> と考えるのではなく、今我々は、「日本の将来をどうしていくのかを、中長期的に考えていかなければならない。」> のではないでしょうか。
> そうでなければ、日本という国は、その良さもろとも、溶けて行ってしまう、正に、> 「メルティング・ジャパン」> です。
> これで良いのでしょうか。 私は疑問に思います。

(編集子)都知事選のときだったか、石原慎太郎がライバルを”あの厚化粧のおばはん”と評したことがあって、思わず膝を叩いたものだった。今やその第二号が今回はなんと首相の座に就こうとしている。別に理屈もなくましてや性差別なんかじゃないが、小生、どうしても、なんか、胡散臭い気がしてあまり今回の首相指名に賛成しないのだが、彼女が言っている外国人対応の件についてはもろ手を挙げて賛成する。リベラルだか左派と言われる人たち(俺に言わせればかの西欧かぶれ出羽守と同類にみえるが、ひがみか?)反対のようだが、真田氏の提言には真実があると思っている。

 

 

 

坂口博士 ノーベル生理学医学賞受賞の朗報に想うこと (普通部OB 篠原幸人)

京都大学の坂口志文先生がノーベル生理学医学賞を受賞されたと聞いて、素晴らしいと思いました。「制御性T細胞(過剰免疫をおさえるT細胞)(Tは胸腺Thymusの略)」を世界で初めて見つけたという事ですが、これは将来 ある種の病気の治療に大変な進歩をもたらす礎(いしずえ)になる大変有益なお仕事です。

皆さんの中には小生が65歳の時に「ギラン・バレー症候群」という病気になったことをご存じの方もいらっしゃいますね。私が過去にかかった2番目に大きい病でした。大学病院を退任した時期で、仕事の後片付けやら、国内外の講演、退任式の準備などで滅茶苦茶に忙しいのに、更に中国での講演を依頼され、1泊2日で北京へ。帰路は食事も空港でやっとありつけた状況で帰国。帰国当日、また仕事で本郷の日本神経学会本部へと全く休む暇もなく、相当疲労していたと思います。年をとると、疲れって良くないよね。

数日後、急に発熱もないのに腹痛・下痢が出現。下痢止め使用後、今度は便秘になり、殆ど大便が出なくなりました。食事もとれず、点滴で栄養補給するのみ。急遽、入院して腹部レントゲン、エコー検査、下部消化管内視鏡検査などを行いましたが、腸閉塞様の症状の原因は不明とのこと。主治医N君にエコー検査結果を持ってこさせたところ、横行結腸に特にガスがたまっているのに気づきました。私は消化器内科医ではありませんが、研修医時代によく似た所見を見たことがあり、その患者さんはカンピロバクターという細菌の感染だったことを想いだし、僅かだけ出た便を調べさせたところカンピロバクター++との返事。北京空港か帰国後学会事務局近くの料理屋で食べた生鶏肉が原因かも。

治療により腹部症状は少しずつ良くなりましたが、心配だったのはこの感染症は、後で下肢から上肢にだんだん運動麻痺が上がってきて、呼吸麻痺や脳症まで起こす「ギラン・バレー症候群(これは私の専門の脳神経内科の病気です)」を起こす確率が非常に高いという事実。N君とその場合の対策を話していたところ、案の定、数日後から下肢の運動麻痺が出現。その日は日曜日だったのにN君も駆けつけてくれて直ぐガンマグロブリンという注射を開始。処置が早かったせいで、麻痺は上肢まで来ましたが幸い呼吸筋までは進展せず。注射開始後5日たって、麻痺の進行が止ったと考えたので、「後は自分で治すよ」と退院。

「ギラン・バレー症候群」なんて珍しい病気なのでリハビリ専門家は皆無。自分で治すより他に道はナシ、静養して治そうと判断。軽井沢まで家内に車で連れて行ってもらいました。途中、高速道路のトイレが大変で車椅子で入口まで連れて行ってもらい、後は壁を両手でつたいながらやっと歩いて用をたす始末。見ていた他人はおかしな人だと思ったでしょうね。

話が横道にそれましたが、易しくかみ砕いて言えば、このカンピロバクターが体内で増殖すると、自分の体内でそれに対抗する抗体ができます。この抗体がカンピロを攻撃した後、更に敵がいないかと体中を探し回り、運動神経やそれを包んでいる組織がカンピロに部分的に似ているので更にそれらにも攻撃を仕掛けて生じるのが、いわゆる自己免疫疾患の考え方です。国の軍隊が強くなりすぎて、間違えて自国民を攻撃してしまうようなものですね。

自己免疫疾患は、いろいろな原因でおこり リウマチなどの膠原病・内分泌疾患・消化器疾患その他沢山の病気がそれに属します。 坂口先生のお仕事はそんな時に、攻撃的な抗体にブレーキをかける制御性T細胞を発見されたことです。将来、これが臨床に応用できればギラン・バレー症候群ばかりでなく、自己免疫疾患と呼ばれる沢山の病気の患者さんが恩恵を被ることが期待されるのです。

今日の文は長くなりましたが、坂口先生の偉業を讃えると共に、医者でなくても、自分の病気は「自分でも治す努力が必要」という私の持論を皆さんに伝えたかったのです。

 

 山の自然保護活動 (山川陽一)

会社をリタイアしてからの11年間、山の自然保護活動は私のライフワークでした。森づくり活動、山のトイレ問題、シカの食害、ヒマラヤの氷河湖調査等々、ずいぶんいろいろなことに取り組んできたなと思います。今回は私たちが主体的に関わった次の3つの活動について紹介します。

◼️ ツールド谷川トレラン計画

ツールドモンブランがテレビで放映され日本でもトレールランニングがブームになりつつありました。そんな時具体化されたのがこの計画で、町おこしを目的にみなかみ町観光町づくり協会が主催し当時売り出し中のトレランのランナーがコーディネートするものでした。上越線土合駅を500人のランナーが一斉にスタートして、すぐ先の白毛門山のあの急峻な登山道を一気にかけ登って、山頂から左手に谷川連峰を眺めながら朝日岳の湿原を駆け抜け、清水峠を経て蓬峠へ、峠から湯桧曽川沿いをゴールに戻るコースでした。

トレラン自体を否定するものではありませんが、日本でも有数の白毛門の急峻な登山道をスタート直後の500人がひしめいてかけ登ったら何が起きるか、想像を絶する危険性がありました。ツールドモンブランではスタートからは平坦なアプローチが長く、山岳地帯に差し掛かる頃にはランナー達は大きく分散するのですが、状況が大違いです。朝日岳の湿原に敷かれた1本の細い朽ちかけた木道も、追い越しをかけるときは湿原の中に足を踏み入れることになります。

私たちがこの計画を知ったのは、計画が実施される4か月前の山岳団体自然保護連絡会の席上でした。こんな計画を実施していいのか。満場一致で反対を即断し、水上町長あて中止の意見書を出すことに決めました。早めの決断が決めてで、水際で計画を阻止することができました。

即断速攻、山岳団体一体のすばやい行動が結果につながりました。

 

◼️ 伊那市鹿嶺高原の風力発電計画

伊那市の長谷から入笠山につづく尾根の上部に位置する鹿嶺高原に数十基の大型風力発電を建設する計画がもちあがっていました。開発者は大手商社系の電力会社で、地元の自治体や自然保護団体、山岳団体から反対の声が上がっていました。伊那市の山の会から手を貸して欲しいとの要請を受けたのはそんなときでした。聞けば風車の高さは100m、羽の長さは50mあり、これを運ぶのに鹿嶺高原につづく尾根の道路を全面的に付け替える必要があること、風車1基の本体重量が200t、基礎重量が2,000tと言われ、これを建設するのにどれだけ地面を掘り下げて基礎をつくる必要があるのか、その土砂をどこにすてるのか等、自然エネルギーをつくるため大自然破壊が行われる事が問題視されていました。地元の人たちの本気度がひしひしと伝わってきました。問題が大きいので活動を全国区にする必要があると判断し、急遽、自然保護助成基金、日本自然保護協会、日本野鳥の会、WWFジャパンなどに声掛けをし、一体で取り組む体制をつくりあげました。その上で「自然エネルギーと私たちの未来」~伊那谷にふさわしいエネルギー像を探る~ と題するシンポジウムを企画、開発側にも情報提供と参加を呼びかけました。残念ながら開発側の反応はありませんでしたが、一連の活動が功をそうしたのでしょう。計画断念に追い込むことができました。

環境問題は地元問題です。うまくいった最大の要因は地元の人たちの強い熱意がベースにあったからだと思います。

伊那市はそれ以降市長が先頭に立ち、市で必要なエネルギーは市自らつくると宣言してがんばっています。

 

◼️ 屋久島の自然環境

ある日、屋久島在住の太田五男さんから会って貰えないかという連絡がありました。彼は若かりし頃仕事で屋久島にわたり屋久島の自然に魅せられて島に移住、ガイドや民宿をやりながら、地図の空白地帯だった島の隅々まで歩き、沢を遡り岩壁を登攀し、地図に落としていきました。昭文社の登山地図は彼の手によるものです。出版された写真や文章も記録を超えて作品として1級品です。そんな太田さんの申し出でした。

屋久島が世界遺産に指定されて以来縄文杉を目指す登山客が殺到し、トイレ問題、ガイド制度の問題、総量規制問題など、このまま放置すれば屋久島の自然が台無しになってしまうという危機感が伝わってきました。溢れる登山客。糞尿の担ぎ下ろし、ガイト御殿ができるほど盛況で資格制度がなくホームページさえうまく作れればその日から客がつくガイド商売。

私たちの屋久島通いが始まりました。現地を歩いて問題点を把握し、町長と会い、関係機関と面談し、環境省の担当官とのチャンネルをつくりました。福岡で日本山岳会自然保護全国集会を開いて屋久島問題を全国の委員に訴えました。島では提言書をもって現地意見交換会を開きました。やれることはやった3年間でしたが、残念ながら結果を残すことができませんでした。

うまくいかなかった要因はいろいろ考えられます。既成の実態を覆すことの難しさに加え、頼りにしていた町長が町長選で落選、環境省の担当官も異動で島を去る等のマイナス要因が重なりはしましたが、なによりも最大の問題は地元住民との関係を築けなかったことだと思います。

長年島の発展に貢献した太田五男さんをして、なおよそ者視される島民意識は、ポッと出の私たちなど推して知るべしだったのは当然かもしれません。

世界遺産という相手が大きすぎたとはいえ、それなりの準備ができないままつきすすんだ私たちが力不足だったということでしょう。

振り返って考えてみると、うまくいったものもダメだったものも、各々しかるべき理由があって結果があります。一歩を踏み出す勇気、踏みとどまる状況判断、体制の構築、地元民の協力等々、自然保護活動だけでなく何事も同じですね。

 

 

 

 

 

“カ三カゼ”のこと

数日前の読売新聞9面に、現在起きている米国政府機関の閉鎖に関する記事がのっていた。よその国の法律問題なんかに興味はないし、トランプの専横が引き起こした波紋の一つなんだが、そのトランプが敵役の民主党が ”カミカゼ攻撃をしている”と嘲笑した、という記事だ。トランプ先生の歴史の知識にはおおよその見当はつくので、なぜここにカ三カゼが引用されたのかはわかるような気もするのだが、小生の興味はこのことではない。読売の記事はその解説の中に、わざわざ ”太平洋戦争中に捨て身の体当たり攻撃を採用した旧日本軍の ”神風特別攻撃隊” になぞらえて”、という一節をいれていることである。つまり”カ三カゼ”という単語の解説をわざわざ繰り返していることだった。すなわち、日本の読者にもこの有名な史実の引用が通じない(と危惧される、というべきか)人たちがいるのだ、という含意にショックを受けたのだ。

時間とともに史実や故事が忘れ去られるのは仕方がない。僕たちが明治時代の人たちと同じ常識を持っているということはないだろう。ただ、時間の経過、という絶対的なことを改めて感じた。今のギャルたちがゲイリー・クーパーを知らないと嘆いてみても仕方のないことなのだから。

高校生のころ、太平洋戦争に関する本はだいぶ読んだ。アメリカ軍の圧倒的優勢に抵抗するために、大勢挽回のためには爆弾を抱いた飛行機に搭乗して敵艦に自爆するしかなし、という現場からこの戦術が上奏されたときの軍指導部がうけた衝撃は想像に難くないが、結局、やむに已まれずその制度化が行われた経緯を胸が痛む中で読んだものだ。上層部はせめてもの慚愧の表れとして、それまでなかったことだが攻撃部隊に特別な名前をつけることとし、元寇に対応した時の史実、すなわち猛烈な台風が九州を襲い元軍の艦船を破壊した史実を神の風、と呼んだことから、”しんぷう”という呼称を与えたのだ。 ”しんぷう” を ”かみかぜ” と呼ぶことになったのはなぜか、は定かではないが、天が風を起こして国を救ってくれた、と信じた時代と、自分が天に代わる風になる、という心情。その重さがある四文字が歴史も知らないトランプあたりが気楽に使ってくれる用語になってしまっているのも時間の経過、ということなのだろうか。

夕べ、例によって駅前の本屋で立ち読みをしていて、北方謙三がモンゴルの史実から書き起こし、日本で彼らを迎え撃った北条時宗を語る長編に着手したことを知った。半年くらい前にはまってしまった居眠り磐音、とはだいぶ違うが挑戦したくなったことだった。

 

 

昔の記憶と最近の記憶 (普通部OB 篠原幸人)

先日、母校の慶應普通部に「労作展」を見に行ってきました。久しぶりの日吉でしたが、駅から普通部校舎までの緩やかな登坂(最近は「普通部通り」と呼ぶんですね)がいやに急に感じられました。足腰が弱ってきているのかなぁ~。普通部生時代は「無遅刻無欠席」がかかっているので、重たい鞄を持って駅から始業時間に間に合うようにと毎朝のようにこの坂を走ったものでした。
「労作展」とは夏休みを使って生徒全員が自由勝手に行った学科外の活動成果を展示する会です。私たちの頃には昆虫採集だの、ある地域を徹底的に調査することだの、外国の昔話を翻訳するだの、簡単な絵や習字や工作を出すものなどが多かったと思います。あまりお金のかからないものばかりでした。いわば、中学生っぽい作品ばかりでした。今は、絵にしても工作にして超大作ばかり。最近の中学生はすごい。圧倒されて帰ってきました。
一番下の孫が普通部3年生になるので、今年が最後かと見にいったわけですが、普通部校舎も我々の頃からは大きく様変わりし、新校舎が立ち並び、放課後「泥ぶつけごっこ」をやった運動場や、野球グランドなどは全く変わっていました。
昔の記憶 特にエピソード(出来事)記憶は何時まで経っても衰えないものですね。それに対して短期記憶は 私自身も 年とともに可なり衰退しているように感じます。仕事に差しさわりはまだないと勝手に自己診断していますが。
我々を含めてお年寄りは昔のことは良く覚えているのに、昨日の夕食のおかずを全部は想いだせないのは、長期記憶と短期記憶はそのメカニズムが全く違うからなのです。この話を詳しくし出すとこの紙面では全く足りなくなるので省略しますが。
知っていて欲しいことの一つは、認知障害、とくにアルツハイマー病では初期から嗅覚障害が見られることがある事です。レーガン元アメリカ大統領も鼻からの生検でアルツハイマー病と診断されました。もっとも今はもっと簡単にその診断はつきますが。ところで今の大統領は大丈夫なんでしょうかね。
私の診察カバンには常にコーヒーの粉を入れた小さなビンが入れてあります。患者さんに目を閉じてもらい、鼻の近くにそれをもっとゆき、何の匂いかを答えてもらうためです。
皆さん、心配ならば自分で試してみては? 但し、蓄膿症(副鼻腔炎)のある方は、試さないほうが心配事は増えませんよ。
(編集子)労作展かあ。篠原の言う通り、懐かしい記憶は常に新しい。
俺の人生行路を決めた中学の3年間、大学で英語会のメンバーだった兄の親友、北村先生に徹底して英語をたたきこまれ、かたや数学の名物教諭だった吉村さんには理屈抜きで徹底して反抗し、予習復習なんか一切やらず、当然、試験といえば常連のラグビー仲間(悔しかったが長谷川だけは別だった)とそろって追試、追試の常連だった。吉村さんには、おめえ、第一級官(=級長)が3回も追試に出てくるたあ、いったい何なんだ?とあきれられたものだった。高校に行って、(工学部も悪くねえな)と思い出した頃、この反抗はなんだったのか、と反省したものだが。そのころの産物が労作展。1年時、蓮井敏隆と二人でやった(たしか”発電所の研究”なんてタイトルだった)のはダメだったが、2年、3年とは2年連続金賞で(ざまあみろ)なんて思ってた時代だ。
篠原理論を確認すべく、追試仲間のラグビー部のメンバーを思い出してみたが、意外とすらすら出てきた。
  FW   中司
             橋詰
             鬼頭
             長谷川(行男)
             神保
                        加藤(貞雄)
        神田
        神崎
  HB    岡野(敏英)
              飯田
       TB       浜野
              船津(浩三)
              大越
              長谷部
        FB       鈴木(康三郎)
E組にいた12人のうち、今も元気なのは右バックロー(今はフランカーというらしいが)の神崎公伸とフルバックの鈴木康三郎だけになってしまった。あのグラウンドは今もそのままのようだが。ちょうど2年前に高校ラグビー部が全国制覇をした年だったので、その後継ぎ養成、ということで練習で絞られた。高校へあがって、(俺、ラグビーやめます)と言ったら屋上へ呼び出されて殴られそうになった(まあまあ、と言ってくれた先輩がいて助かった)、というような時代だった。
(これだけ思い出せたのと、篠原がいうコーヒーの香りでもドトールとネスカフェの違い位なら分かる。これなら、ま、まだ大丈夫なようだと思うんだが、ドクターいかが)。
写真、左は藤村の 千曲川スケッチ の英訳、右は兄に買ってもらった子供向け詩集の和訳と、北村さんの指導でいろんな文型の抜出しをやったもの。当然ワープロなんかない時代、幼い字体(今でも悪筆だが)がなつかしい。

多摩電力の話 (横河電機OB 山川陽一)

(編集子)前回紹介したが山川は横河電機同期入社の長い付き合いである。彼が退職後、環境保護への参画を目指しての起業や環境問題を中心として書いたエッセイを3度に分けて連載する。山川が思い立って、ほかのバックアップなど一切なし、言わば徒手空拳ではじめた太陽光発電への参画への話からである。

多摩電力の時代

人間、過去を語るときどうしても美談や自慢話になりがちですが、渋沢栄一でもなければそうそう成功談があるわけがありません。むしろ逆ではないでしょうか。今回は苦難の連続だった多摩電力の時代について振り返ります。

1.事業として取り組む

あの3.11の後、原発に頼らないエネルギー社会をつくりたいという思いをもって全国各地に多くの市民電力が誕生しました。地元多摩でも2012年5月多摩循環型エネルギー協会が発足、同10月に事業主体として多摩電力合同会社が設立されました。ほとんどの市民団体は地域の人たちから寄付を募りボランティアで運営するスタイルでしたが、私たちは、やるからには本気の事業として継続拡大できる形を目指したいと考えました。最初から運動体の多摩エネ協と事業体の多摩電力を別けたのもそれ故でした。

若者と一緒にやる

多摩電力の設立にあたり、ベースを作ってから若者に引き継ぐべきだという考え方と最初から若者と一緒にやるべきだという考え方があって、大きな議論になりました。私は熟年世代だけが集まっても事業にならない、後で引き継ぐのではなくのではなく最初から一緒にやりたい、新しいセンスと活力にあふれた若者の力が必要だと考えました。そもそも先が知れている熟年だけの団体に大きなお金を出してくれる人も金融機関もないだろうと思いました。

3.最大の誤算

環境省や多摩市、地域金融機関などの全面的協力を得て、市内の学校や公民館の屋根を賃借して太陽光パネルを設置しFITを使って売電する形で、3年間で13の屋根上発電設備の建設を行いました。一見順風満帆でしたが、事業計画2000kWに対してこれでようやく1/3、どうしたらいいのでしょう。多摩地域には多摩ニュータウンが拡がり広大な屋根が空いています。その屋根を借りて発電事業を行いたいというのが当初からの私たちの強い想いでしたが、どうしても風穴を開けることができず、これが最大の誤算でした。

4.撤退の決断

行くか止めるか、私たちは大きな岐路に立たされていました。年々FITの価格が下落する中で、現有戦力を考えるとこれ以上事業として続けることは難しい状況でした。2015年4月、事業の組換えを決意、多摩電力を既設発電所の維持管理会社に衣替えし、新規事業はたまエンパワー株式会社で行うことにしました。長年の山登りで培われた危機回避本能が働いたのでしょう。

批判を受けて当然ですが、早めの決断は正解だったと思っています。現在、多摩電力はしっかり利益をあげていますし、たまエンパワーは、苦節10年、ソーラーシェアリングに活路を見つけて大きく羽ばたこうとしています。

5.ボランティアとプロの違い

欧米諸国では、社会的な仕事に作業参加するのはボランティアの人達であってもその運営はプロが行うのが一般的ですが、日本の場合、運営もボランティア(=無料奉仕)という構図が根づいています。

FIT(固定価格買取)制度は、最初高額の買取価格を設定し、産業が育つにしたがって順次価格を下げていく仕組みです。競争相手は海千山千のプロ集団ですから、日がたてばたつほどボランティア感覚の市民電力が太刀打ちできなくなるのは当然の帰結でした。私たちはそこを意識して、最初から運動体と事業体を別けてスタートしたのですが、まだまだ甘かったと言われても仕方がありません。

6.人間関係の難しさ

人間は感情の動物です。理屈はわかっていても感情が許さないという事があります。「情に棹させば流される、智に働けば角がたつ」有名な夏目漱石作“草枕”の書き出しの一節です。この辺を上手にやれたらいいのですが、わかっていながらできないのがこれまた人間です。

 

lエーガ愛好会 (343)  ファスター怒りの銃弾 (34 小泉幾多郎)

題名からすると、西部劇かと思いきや、現実に強盗罪による10年の刑期を終えて出所したドライバーと呼ばれる男(ドウエイン・ジョンソン=ロック様と言うリングネームでのプロレス出身)が、かっての仲間たちと強盗を成功させて、金を奪うも、別のグループの襲撃に遭い、兄を殺され自分も瀕死の重傷を負い、如何にこの日を切望し、襲った連中を次々と抹殺して行く復讐劇だった。

出所後用意されていた車を飛ばし、革ジャンを着て、拳銃と弾丸を確認し、通販会社で電話中の男(コートニー・ゲインズ)を射殺したのが一人目。二人目は老人(ジョン・チリリアーノ)と言う具合だが、警察側も警官コップ(ビリー・ボブ・ソートン)と相棒の女刑事シセロ(カーラ・グギノ)が担当し、後で判るのだが、コップが雇った殺し屋キラー(オリバー・ジャクソン=コーエン)もそのコップに雇われ、ドライバーを狙う。その中で、ドライバーは3人目パフォメット(レスター・スパイト)を殺す。4人目は、福音伝道師(アドウエール・アキノエ=アグバエ)敬虔なる神への祈りに感じ入り、殺すのをためらうことに。

以上が10年間じっくりと熟成された憎悪を発現させた経過だが、そのドライバーと対立してきた警察側と殺し屋側の関係が詳しく描かれているのが意外だった。警察側では、コップが息子と仲良くし、妻とも別居を解消するとか。
殺し屋キラーはリリー(マギー・グレイス)と恋仲。良く言えば、ドライバーと刑事と殺し屋の3人が並列で描かれた群像劇になっており、単なる復讐劇で終わっていないところが異色作と言えるかも知れない。

ドウェイン・ジョンソン(Dwayne Douglas Johnson、1972年5月2日 – )[1]は、アメリカ合衆国俳優、声優、映画プロデューサー実業家プロレスラー[2][3][4][5]リングネームザ・ロック(The Rock)としても知られる[2][3]。プロレスラー時代は絶大な人気を誇り[3]2022年の年収は約2.3億ドル(約300億円)[5]となり「世界で最も稼いだ俳優」1位にランクインした[4][6]。近年は自主ブランドのエナジードリンクテキーラなども販売し莫大な利益を上げている