オリンピックに思う    (普通部OB 船津於菟彦)

何だかんだで「二回目の東京オリンピック」開幕。
まぁ、新型コロナウィルス蔓延旋風の最中に一年延長して物の事態はさして代わらず、むしろ悪化してしまったようで、そんな中「安心安全」と叫びながらの開催である。
さて、会社に入社して間もない、東京は水不足とか物不足で何も無い時開かれた
1964年度オリンピックは、(昭和39年)10月10日(後の体育の日)から10月24日までの15日間開かれた第18回オリンピック競技大会。一般的に東京オリンピックと呼称され、東京五輪(とうきょうごりん)と略称される。
1940年東京での開催権を返上した日本及びアジア地域で初めて開催されたオリンピックで、当時は「有色人種」国家における史上初のオリンピックという意義を持っていた。歴史的には、1952年のヘルシンキ(フィンランド)、1960年のローマ(イタリア)に続いて旧枢軸国の首都で開催されたオリンピックでもあり、東京オリンピックの開催権を返上した後に参戦した第二次世界大戦で敗戦したものの、その後急速な復活を遂げた新日本が、再び国際社会の中心に復帰するシンボル的な意味を持つとされるが、実際はその後不況に見舞われた。

 

当日、まず昭和天皇・香淳皇后がロイヤルボックスに着席。日本国歌「君が代」演奏。開会宣言を発した。しかしその僅か20年前その同じ場所の競技場の同じ貴賓席で東条英機が雨降る中、学徒出陣式で学生に「檄」を飛ばしたのだ。

壮行会を終えた学生は徴兵検査を受け、1943年(昭和18年)12月に陸軍へ入営あるいは海軍へ入団した。入営時に幹部候補生試験などを受け将校・下士官として出征した者が多かったが、戦況が悪化する中でしばしば玉砕や沈没などによる全滅も起こった激戦地に配属されたり、慢性化した兵站・補給不足から生まれる栄養失調や疫病などで大量の戦死者を出した。1944年(昭和19年)末から1945年(昭和20年)8月15日の敗戦にかけて、戦局が悪化してくると特別攻撃隊に配属され戦死する学徒兵も多数現れた。

慶應義塾大学は11月23日に三田山上で塾生出陣壮行会が行われ、約3000名の出陣塾生が参加した。出陣塾生は出陣壮行歌、応援歌を合唱後、福澤諭吉の墓参に向かった。翌1944年、さらに45年4月入隊の塾生を含めて、出陣学徒数は約3500名と推測されている。現在までにわかっている範囲で、在学生のおよそ385名が戦没している。また出陣学徒以外の卒業生・教職員なども含めた義塾関係者全体の戦没者は、確認されているだけで2220名を超える。2014年10月に、最新の情報に基づき補正を加えた慶應義塾関係の戦没者名簿が、三田キャンパス・塾監局前の庭園にある「還らざる学友の碑」に納められた。

作家 杉本苑子さんは、両方の式典で歌われた「君が代」、そして掲げられた「日の丸」の意味の違いの不思議さ、そして恐ろしさをこうも記している。

きょうのオリンピックはあの日につながり、あの日もきょうにつながっている。私にはそれが恐ろしい。祝福にみち、光と色彩に飾られたきょうが、いかなる明日につながるか、予想はだれにもつかないのである。私たちにあるのは、きょうをきょうの美しさのまま、なんとしてもあすへつなげなければならないとする祈りだけだ。

1940年東京オリンピックは、1940年(昭和15年、当時は神武天皇即位から2600年ということで紀元2600年とされた)9月21日から10月6日まで、日本の東京府東京市(現・東京23区)で開催されることが予定されていた夏季オリンピックである。史上初めて欧米以外の、アジアで行われる五輪大会、そして紀元二千六百年記念行事として準備が進められていたものの、日中戦争(支那事変)の影響等から日本政府が開催権を返上、実現には至らなかった。

オリンピックは何故か40年ごとに何かある。1940年東京オリンピックを返上。そし40年後の1980年モスクワオリンピック。ボイコット問題。そしてそして2020年新型コロナウィルス蔓延旋風で一年延長。名称はそののま2020東京オリンピック。

ところが肥大したオリンピック。NBCTV局の都合で米国で目玉のスポーツの無い、このド暑いときに開催され、巨額のお金がIOCに集まり、開催終了後は開催都市は不況に見舞われる様なパターンになってしまった。此処で真のスポーツマンシップは、真のスポーツ競技とは何かを見直し、「選手の為の」オリンピックにすべきでは無いか。

さてさて、エンブレム騒動から始まり開会式の音楽まで色々問題を起こしながらいよいよ開会。どうか閉会式まで何事も無く終了を願うのみだ。