”明治維新はなかった” を読みました    (44 安田耕太郎)

原田伊織氏の一連の著作は読んでいないし、彼についての知見もないという立場で、余談も交えて書く。「リョータリアン」を任じている僕も、明治維新をいかに解釈するかについては少なからず関心を持ち、正統歴史学者からの批判にさらされる司馬歴史感であるが、飽くまで歴史小説の読者としては長い間、楽しませてもらった恩恵に感謝こそすれ、疑問をさほど持たずに過ごしてきた。

司馬の小説が世に出たのが日本の戦後経済復興と発展の時期と重なる1960年代から約30年間に亘り、稀有な経済発展を遂げた我が国の姿を観て、幕末から明治維新を経て世界の列強に肩を並べるまで(と錯覚したとしても)に変貌した激動の明治を明るく前向きな時代として捉える史観に基づく小説が爆発的人気を博したのも頷けることではある。「竜馬がゆく」の坂本竜馬、「燃えよ剣」の土方歳三、「峠」の河井継之助、「世に棲む日々」の吉田松陰と高杉晋作、「花神」の大村益次郎、「胡蝶の夢」の松本良順、「歳月」の江藤新平、「翔ぶが如く」の西郷隆盛、「坂の上の雲」の秋山兄弟と正岡子規など、主人公は皆、明るい楽観的な性格の人物を描いているように見える。司馬夫人は司馬が一番好きだった人物は34歳の若さで結核に罹って亡くなった正岡子規だった、と語っている。迫る死に対しても明るく楽観的であった生き様に惚れたと言う。いずれにしても、歴史上の人物のイメージ或いは出来事は、僕ら一般人にとっては司馬の著書によって大きな影響を受けたことは紛れもない事実である。越後長岡藩の家老河井継之助には興味大であった。「峠」の中に、江戸との行き来の際、三国街道沿いの浅貝(KWVの故郷)に泊るのが常であった、なる記述を見つけて嬉しくなったものである。彼は能力的には明治政府の貴重な役割を果たすことが可能な水準にあっただけに、戊辰戦争で失った惜しい幕府側のタレントの一例だろう。

下級武士による政変が明治維新であったのは間違いない。英語ではMeiji Restorationと訳す。Restorationとは復元、復古、復興、返還と辞書にある。天皇に権力が戻った政変をさす。倒幕運動は、最後は将棋で云う、「玉」をいかに手に入れるかの知能戦でもあった。「錦の御旗」を勝ち取り戴く争いであった。軍事的には、「隊長が悪い・劣る部隊は全滅する」の格言通り、幕府側には優れたリーダーを戴く組織のヒエラルキーも人材も枯渇していたのだ。東照大権現・家康も草葉の陰で嘆き悲しんだことだろう。維新は攘夷か開国かという崇高なイデオロギー闘争の結果と云うよりも、単純に権力奪取の政変、ある種のクーデターだったとも言える。攘夷か開国かは当時の世界の動向の中で他動的に惹起したhot issueだったのだ。それが証拠に、維新が成就すると、それまでの攘夷論者が豹変して明治になって開国、文明開化、富国強兵へと邁進していくのである。

ペリー黒船の来航がきっかけとなる、19世紀半ばの欧米列強の帝国主義の波に巻き込まれていった日本を、世界的な視点で客観視する冷徹な「眼」は当時の日本には存在していない。精神或いは感情論的な攘夷論が支配的であり、列強の力に屈する形で開国論者となった大老・井伊直弼は桜田門外で斃れる。時が流れるに従い、列強の力を見せつけられ世界の趨勢である開国をせざるを得ない空気が次第に醸成されるに至り、明治維新の政変はその最中に勃発する。

明治時代になり実際の政治に当たって、政府と官僚組織は大久保利通、伊藤博文や山縣有朋に代表される元勲にまで上り詰めた下級武士たちの寄り集まりであれば、政治・行政を司った優秀な経験ある人材が量的にも質的にも不足していたのは想像に難くない。ご指摘の通り、小栗上野介、榎本武揚、大鳥圭介、勝海舟など幕臣には経験豊かな有能な人材が沢山いたが、敗戦側とあっては権力の中枢を担うわけにはいかなかった。実際の行政は徳川幕府時代に築いたインフラと人的資源に頼らざるを得なかったという原田氏の指摘はまさに至言である。更に、土台には江戸時代を通じて培われていた、士農工商の全階層にわたる識字率の高さ、藩校に代表される勉学への意欲と知的水準の高さはそのまま明治時代へと継承され、国家運営を効果的に実施する上での重要な人的資源の供給源となったのである。この点、原田理論には全面的に同意である。

国家運営に当たり暗中模索の明治政府は、岩倉具視を団長として大久保・木戸・伊藤らの政府重鎮を伴い、外国視察に2年以上出かけ、政権運営の道しるべと行政の施策を探るべく活路を見出そうと努力する。留守の日本では不満を持つ旧幕府勢力、特に不平士族は、遂には、西郷隆盛、江藤新平などを担ぎ出し、西南戦争・佐賀の乱・秋月の乱などで反政府暴力運動に決起した。彼らの犠牲を経ることなしに明治の近代化は進められなかったという事実は、これだけの大事業に当たっては反対勢力の存在は如何ともしがたく、それを駆逐して前進するしかないのであろう。かくて明治維新が到来し、新しい政治は始まる。明治維新後の政治と国家運営については、それが日本に与えた長期的観点から是々非々の甲論乙駁論争が盛んである。

僕はある視点から以下のように考える。

日本は目指す目的をはっきり認識且つ特定し、それを追いかける或いは追随する場合はすこぶる効果的で効率的に実施することが出来る国家或いは民族である。維新から37年後の日露戦争に勝つに至るまでの国家運営に如実に表れている。西洋先進列強に追いつけとばかりに文明開化、富国強兵、殖産興業の国是の下に、国力を増強し、弱っていた大国「清」との戦争に勝った10年後には、ロマノフ王朝末期で衰退していたとはいえ西洋列強の一国に勝利したのである。勿論、世界政治にあっては、老獪な英国と彼らの利に適う「日英同盟」が存在したし、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトなどの戦争終結に向けての尽力があったことを忘れてはいけない。勝利したにも拘わらずポーツマス講和会議はそれほど日本にとって満足する結果をもたらさなかったと全権大使小村寿太郎は国民から総スカンを食らう。日露戦争に勝利(薄氷を踏む紙一重の勝利)したあたりから日本と国民は、正しく客観的に物を観る眼を失ったようである。伊藤博文の暗殺に至る韓国併合を経て、原爆の悲惨な現実を突きつけられて初めて気づくまで、この国は非現実的で幻想的夢物語に国を挙げて(政府・軍人は間違いなく)酔っぱらっていたかのようである。思い起こせば、日露戦勝利は明治維新の成果と見られ、国家としてある「格」や「立場」を世界の中で獲得した日本は、未経験な状況に置かれ、その後の国家運営に当たることになった。しかし、それから第二次世界大戦敗戦に至る期間は、長期的ヴィジョンも戦略的方策もなかったと云える。他者(多くの場合、自らより上位或いは優位な位置にある)から目的を指摘されないと、自らヴィジョンと戦略に基づく目的を構築して国家運営をすることが困難であるという弱点が露呈された。

同じ弱点が露呈されたケースを20世紀後半から21世紀初めにも見ることが出来る。第二次世界大戦後の焼け野原からの経済復興と成長を成し遂げ世界から称賛され、アメリカの社会学者エズラ・ヴォーゲルをして「Japan as Number One」とまで言わしめたが、またしても国の弱点を曝け出したのである。成長の絶頂期を経て後に訪れるバブル崩壊のあと、未知なる領域に踏み入れた状況下では、ヴィジョンを構築して戦略を練り、それに基づき効果的に戦術を具体的に実施すべきであろうが、経済成長のピーク時に起きたバブル崩壊から今日までの30年間の低迷と衰退の現実には国の弱点が表れた感が強くする。

日本の本質的弱点が露呈された2例を挙げたが、かような日本の歴史的推移を観る時、玉手箱に入って気高く文化も平和も享受した宝のような江戸時代とそこに存在した美徳と遺産は、いかに明治に引き継がれ今日の日本に影響を与えたかをまた、明治維新の功罪、影響についても考えさせられる。そして、今日でも厳然として存在する、将来の繁栄と平和の帰趨を決めかねない日本の本質的弱点をいかに克服するかについて考えさせらるのである。

原田理論の傾聴すべき点として本稿で挙げられる、己の歴史を軽視する風潮がある、とする主張には耳が痛いと云わざるを得ない。江戸時代以来の300~400年の歴史を踏まえ、客観的に史実、遺産、長所、美徳、短所、失敗、結果などを捉えて理解し、「熱し易く冷めやすい」或いは「飛びつき易く忘れやすい」国家の、或いは国民の傾向を直視し、必要であれば、「言うは易く行うは難し」であるが、是正していくべきだと強く思う。例としては異なるが、藤原正彦が主張する「国家の品格」「日本人の誇り」「英語より日本語」なども深く噛みしめたいと思う。