早いもので、自分も6月で40歳となります。 結婚および子を授かったのが遅く、現在、4歳の娘、2歳の息子が 今は私立中高の教員をしており、仕事、育児、家事に毎日おわれて 大変かつ充実した日々ですが、八王子に住んでおり、なかなか都心にも出られません。最後に三田会のイベントに関わったのは、150周年記念の時であ それ以後、三田会にも、山荘にも、そもそも山からも遠ざかってお そのたびに皆様に温かく迎えていただいたこと、 そして、いつも山荘がありました。山荘があるから、皆集まれる。 山荘とその仲間は、 仲間とともに時間をかけて何かを作り上げていくこと。今考えると、 草刈り中にコンタクトレンズを紛失した時に、シンヤさんが皆様にカンパを呼び掛けて、 皆様の熱き思いに触れ、自分も関われたこと、 |
”あいつ、なにしてる?” - その後の ”新道開発団”
先月OB理事会で田中(透)君から、”新道”が正式に群馬県境稜線トレイル計画に組み込まれた” と報告があった。これすでに正式な報告がOB会ホームページにも記載されているが、とんべ君は小生あてメールで次の通り要約している。
昨年7月、三田会HPに「新道開発団」の作業完了、 ところが今年の4月、湯沢町役場が「県境稜線トレイル」 しかも三坂峠-湯の沢林道- |
とんべ君はもちろん、”新道”プランに関係してきた各位の喜びの声が聞こえる気がする。まことに嬉しい限りであるが、この話を聞いていて、突然、そういえば、あの時のメンバーはその後どうしてるんだろうか、という気になった。
自分は当初のプラン企画には参加し、その後も何回か活動に加わったものの、途中から体力に自信がもてなくなり、脱落した一人なので大きなことは言えないのだが、三角尾根の道つくりから通称”新道”開発まで、発案者であり終始リーダーであったちびこと妹尾昌次が言ったように、道つくりとあわせて、OB,現役諸君との交流、ということにも大きな成果をあげたこのプログラムは、今年60年を迎える三国山荘の歴史の中でも特筆されるべきものだったのはまちがいない。一連のプログラムそのものについては前記の報告のほか、いろいろな記録が残され、経過については36年度同期会の文集 ”ナンカナイ会・その”ふみあと” に妹尾が述べているが、要点だけをさらってみると下記のとおりである。
1998年、仕事を離れ自由時間をもつようになった36年の仲間が妹尾・田中(新弥)を中心に三国山荘での時間を過ごすことが増え、妹尾の発案に地元福島屋の故佐藤崇さん、34年松本恭俊さん、丸橋さんなどのご協力を得て、OB同志を糾合、小屋裏の通称三角尾根3.4キロの道の整備に着手したのがことのはじまりである。この時は当時まだあった浅貝ゲレンデの入口から国境尾根まで、KWVのプレート(プレート代は賛同したOBの寄付とし、その卒業年次と名前をいれたもの)を取り付けるというのがメインであった。当時湯沢町役場勤務で終始われわれのよき理解者であった高橋貞良さんのご尽力でこの道は三角山登山道と名付けられ、昭文社の地図にも掲載された。完成後、メインテナンスは地元青年会の手にゆだねられたが、プレートはその後の風雨に傷みが激しく、2009年に撤収し、回収できた87枚は持ち主に返還された。その後いろいろと小規模の変更はあったものの、登山道として確固たるものになって今日に至っている。
一方、これにかかわったグループのあいだで稲包山に至る道を開こうという機運が生まれ、2000年から三国スキー場(現在は廃止)を経て三坂峠、稲包山に至る道を開発、湯ノ沢林道コース5.8キロが完成。さらに余勢を駆って三国峠に至る稜線への道づくりを始めた。正式な命名がいつだったのかよくわからないが、これら一連の作業を”新道開発”と呼び、携わったOBたちが”新道開発団”を名乗ることになる。2001年には前記高橋さんのご努力もあり、環境庁仕様の指導標(1本20キロ)17本を当時の現役諸君の応援を得て設置した。田中(透)の手元の記録には、9月8日、13.3キロの全通を祝ってOB19名、現役1人、高橋さんとが記念の稲包登山をしたと記されている。
その後も前記 ”新道開発団” が主催し、各代OBや現役諸君とがたゆまぬメンテ作業を続けてきたが、”17年が経過するロングラン”(妹尾のあいさつ文による)はこの”新道”のほとんど(三国峠―稲包―三坂峠)が、群馬県庁スポーツ部主管の”ぐんま県稜線トレイル”に含まれることとなったのを機会に2017年7月1日ピリオドを打ち、新道開発団は解散。これが本稿文頭のことである。
上記解散にあたって、妹尾があいさつ文に書いたように、”50・60歳からの青春を感じた充実した日々” を送った仲間たちがいた。当時現役であった人たちも当然OBとなり、”若手OB” グループもすでに古希を迎える時代である。この人たち、仲間たちはその後どうしているだろうか。幸い、堅固なKWV三田会の存在があって、その後も変わらぬ付き合いをしているものもあるが、家庭や仕事の理由で歳月、人をわけてしまった仲間も多い。このあたりであの日々を振り返ってみたとき、”そういえば、あいつ、どうしてるかなあ” ということに何らかの形で力になれればいい。そういう気持ちで、1年弱前に老人の手すさびにおそるおそる始めたブログという奴を使ってもらえれば、と思い立った。
今回、そのきっかけとして数人の方を選定し、勝手ながら投稿をいただいた(ありていにいえば強制だが)。この後、何回かに分けて連載するので、記憶を改めていただければ嬉しい。これに引き続き、これから山荘祭までのあいだ、このプログラムに関係した各位の近況や思い出などをこのブログにご投稿いただけないだろうか。現山荘委員会を中心に記念行事が展開されていく中で、山荘史に残る話に花を添えられればこれに勝る喜びはない。投稿は小生あてメールの形で、出来れば近影の写真などがあれば添付いただければありがたい。
(本稿に添えた写真は田中(透)君にご提供いただいたものの一部である)
新歓W楽しそうでしたね (36 後藤三郎)
翠川様、
今年も小屋での新人歓迎行事にお出かけくださり有難うございまし
新歓プランに参加してきました (36 翠川幹夫)
5月4日(金)~6日(日)
今年は雪が少なく、山荘近辺、苗場のスキー場もゼロ、
私は終に三角山山頂を登り切りました。雪は一片もなく、
夜は例によって山荘庭でバーべキュウー、
別の話ですが、例の稲包山の県境の尾根に「トレイルラン」

Who are we ? 読後感について (36 大塚文雄)
Who are we ? 読後感を拝見。
”おい、トランプさんよ、あんたのやり方は気に入らねえが、
多国籍移民の寄せ集めのアメリカはもともと多極分散社会です。
”Make America great again”のトランプ大統領によってこの流れを押し戻すかどう
アメリカにも似たような構図があり、
日本では、アメリカに限らず海外の政治情報の殆どが間接情報で、
私の第一作に共著者として参加してくれたDr. Morseから選挙中の7月に「トランプが勝つ」
公民権法を無視し、
ジャイさんのブログにコメントします (51 斎藤邦彦)
ジャイさんのブログで気になったものがいくつかあったのでコメン
2018 年 2 月掲載の「管見妄語」について
私も大変感動した論文で藤原正彦さんと全く同感です。
2018 年 3 月の長崎紀行について
私は平成 11 年~ 13 年に NTT の長崎支店長を勤めました。
亀山社中の近くに単身赴任していましたのでよく石段を散歩しまし
佃・月島漫歩ー同期タウンウオーク第二回報告
もしかするとまだ昭和の古きイメージがあるかもしれないと、第二回のワンデルングは佃から月島,勝鬨橋を渡って築地、というコースにした。一回目の企画は天候が定まらず延期、4月27日小晴れの一日、参加は翠川、岡、深谷、安東、前田、吉牟田、高橋、高島に中司夫婦の10名。
11時、月島駅集合、佃の古い街並を歩く。船だまり、まだ営業している銭湯、元祖を名乗る佃煮店や、建築に詳しい人には興味があるということだが風を避けるためにくの字の形をしているという路地などが江戸時代に埋め立てられた小さな島に残っている。スーパーでは買えない本場の佃煮を買い込む。
月島は佃島の東側にあった石川島の工場やその下請け企業などの工員さんの家族が密集していた場所で、表通りは現代風になってしまっているがメインの4本の通りを貫く路地のほとんどが原型に近い形で残っていて、テレビ勃興期のドラマ、”バス通り裏”を彷彿させる雰囲気である。住んでいる人たちには迷惑だろうが、失礼してそのうちの一本を通らせてもらい、見つけたコーヒー店で休憩、雑談。この店はたまたま見つけたのだが、オーナーが自分で内装からテーブルにいたるまで手作り中、ということで、木や工作についての蘊蓄を拝聴、ひとり500円は安かったし、オヤエの観察によると、コーヒーが普通の喫茶店にくらべて量?が多かったそうだ。
最初の計画では築地場外市場で寿司を食べるつもりだったが、みさの情報では午後になってしまうと中国人の観光客などで雰囲気もない、ということだったので昼飯は月島の代名詞でもある”もんじゃ焼き”とした。博学の深谷によると、住んでいた工員さんたちの子供たちのおやつでもあり、鉄板の上に広げる食材で文字を書いた教材でもあった。したがって”もんじゃ”でなく”文字”焼きであるとのこと。ほんまかいな。しかしメイン通りの両側に何十と胸を連ねている”もんじゃ焼き店”の数には驚かされた。
勝鬨橋で隅田川の涼風を感じ、晴海通りを北上、順次便利な地下鉄駅で流れ解散。小生の記録ではほぼ9千歩くらいの漫歩であった。
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ジャイ様 翠川幹夫です。
数年(十年?)前にもキンちゃんプランで歩いたこともあって、
それともう一つ、
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Who are we ?
この本の著者のサミュエル・ハンチントンは2008年12月、惜しまれながら亡くなったアメリカを代表する政治学者である。僕は勤務先の日米合弁企業で上級マネジメントに連なるようになった80年後半から90年くらいまで、それまでとは違ったレベルで日米間の意識・感覚のずれになやみ、ともすればインフェリオリティコンプレックスとでもいうべきものにとりつかれていた。その時期、名著”文明の衝突”が日本に紹介され、一読して納得し、激励されたものだ。
本著 Who are we? は 最近、”分断されるアメリカ“ というタイトルで集英社から鈴木主税氏の訳で改めて紹介された。今度、原著を読もうと思ったのは、サブタイトルに ”アメリカ人のアイデンティ“、とあったからだ。僕らは日常、アメリカ、ないしアメリカ人について、かなり固定的な、つまり時々変なこともするが、基本的には移民によって建設された高邁な理想を追求する頑固な善玉、というイメージを持ってきたと思うし、それがアメリカ人のありかた、つまりアイデンティではないかと勝手に思い込んできた。それが最近はトランプの一連の反動政策、それに対抗する一般の善良な人々、というわかりやすい構図になった。トランプ悪玉説と言い換えてもいいかもしれないし、僕自身、そう感じてきた。しかし、この本を読み終えた今、”おい、トランプさんよ、あんたのやり方は気に入らねえが、あんたの気持ちもわからんでもねえなあ“と感じるようになったようだ。そのことを書いてみたい。
ハンチントンはある国民のアイデンティは、人種、居住する環境によって生まれる固有の文化、歴史、それとそういうものの結果生まれる民族性(ethnicity)、宗教、などによって決定されるとし、アメリカが特殊なのは、国の成り立ちがこのような要素に欠けていたからだという。アメリカ合衆国は、当時の高度の欧州文明を背負いながら、宗教的な理由によって移住してきた人々によって、いわばきわめて人工的に作られた。つまり固有の文化、歴史、民族という概念を持たないままに出現した。その結果、人々を結びつけるものが宗教しかなかった、ということが、世界にもまれな、きわめて宗教的な国を作った。そして、その後増加した移民(最近まではヨーロッパ人だけだったことに注目)の間の最大公約数が建国の過程から、英国文化とプロテスタント(Anglo-Protestant)の伝統的倫理観にならざるを得なかった。それが今までの米国人のアイデンティであった、というのだ。
へえ、と思うのだが、原著の末尾に著者は、たぶん結論としたかったのだろうが、ひとつのグラフを記載している。例によって意識調査の結果だが、横軸に神の存在を信じるか、その程度はどのくらいか、という指標を、縦軸に自分の国に対する愛国心がどのくらい高いかを原点を極小に取って、世界各国の反応の組み合わせをプロットしたものである。グラフはきれいな右上がりの形になり、右上隅にアメリカ、ポーランド、アイルランドがかたまって示され、この三か国では政治と宗教が濃密な関係にあることを示す。これに対して左下隅、つまり宗教と国民の意識にはほとんど関係がない、と考えるグループがあり、わが日本はここに位置する。これは感覚的に多くの人が納得するだろうが、面白いことにこの固まりにいるのがスエーデン、デンマークなどの北欧福祉国家、ベルギー、ドイツ、フランスなどのいわば欧州先進国と目される国々である。結果としていえば、問題含みとはいえ、アメリカ人の多くは、依然 Anglo-Protestantism の信奉者だということなのだろう。一方、わが国をはじめ欧州先進国の国民が自国に誇りを持っていない、ということにはならない。換言すればこれらの国民には宗教以外に確固たるアイデンティがある、という証左であろう。いい例が中国である。神について関心がないのは当然として(宗教の自由がない国だから)、国そのものに対する誇りは異常に高い。現在の政治路線がどうなのか、疑問はあるにせよ、ひとつの事実としては認めなければなるまい。
宗教にあまり関心のないわれわれには直感的に理解しにくいことだが、プロテスタント、すなわちキリスト教の主流であったカソリック派の世俗化・腐敗に”プロテスト”すなわち反抗した人々は実践において勤勉であり、高度な倫理を貴ぶ精神を持っていて、それが現在の資本主義の発展に結びついたと言われる。無限に近い資源と土地に恵まれた新興国家が資本主義の権化となったのはその結果であり(注1)、その現実の前に、欧州からの移民たちがアメリカという国の持つ信条(American Creed)に疑問を持つことは少なかったのだ、というのがハンチントンの前提となっている主張である。アメリカの信条、とは、トマス・ジェファーソンなどの“建国の父(Founding fathers)たちが起草した独立宣言と米国憲法で宣言された一連のことを指す。
ハンチントンがこの本で書こうとしたのは、このアイデンティが失われつつある、という危機感であり、その原因として挙げているのが、大別すると、いわゆるグローバリゼーションのもたらしたエリート層と一般大衆の間の懸隔、テキサス、アリゾナなど南西部におけるメキシコ人およびフロリダにおけるキューバ人の急増(本書では Hispanization という用語を使っている)、冷戦の終結によってアメリカに対する勢力がなくなったことと、それに代わる脅威として現れたイスラム民族の影響、ということになるだろう。第一と第三の影響については、比較的我々にも理解しやすいのだが、第二のラテンアメリカ人の問題についてはあまり知られていないのではないだろうか。この本はいろいろな団体によって行われた世論調査の結果をふんだんに使って客観性を高めようとしているが、数多くの数字のなかで、驚異的なものがあった。著者は2008年に逝去しているので、数字はすでに10年以上古いのだが、メキシコと国境を接する州にある20の大都市のうち、サンディエゴとユマをのぞいて、メキシコ人の人口比率は50%以上、10市以上でその比率は60ないし80%になっているという。メキシコの貧困層が南西部の労働力不足を補ってきたところまではよかったのだが、出生率が極めて高く、加えて不法入国も後を絶たず人口が増加の一途をたどっていること、メキシコには現在の米国南西部は戦争によって奪われたものだから、メキシコ人が帰っていくのは当然とする感情があること、さらに大きな問題はメキシコ人は法律によって両国の市民権を持ち、所得の大半がアメリカで消費されず本国に送金されてしまうこと、などが大きな問題であるとされる。
さらに衝撃的なのはマイアミのキューバ化である。メキシコからの移住が主として労働階級であるのに対し、キューバからの移民はかつてカストロ政権からの脱出者だったことから、高度に教育を受けたプロフェッショナルであり、フロリダに脱出定着後徐々に勢力を得た結果、いまや市長をはじめとした要職のほとんどがキューバからの移住者だということである。この人たちも同様に二重の市民権を持ち、本国から米国への圧力を働きかけられる立場にいることから、米国の議員は彼らの票をあてにした活動をせざるを得ない。メキシコからの圧力にくわえて、アメリカの南米化、というのが現在のアメリカにとってとんでもない課題なのだ、ということを初めて知ることができた。ここまで来て、トランプの”メキシコの壁”政策が単純至極な人種差別ではないことがわかってきた気がするのだ。
このような混乱の現実を前に、ハンチントンが提出した課題、すなわち、アメリカ合衆国がそのアイデンティを確立するための方策にはグローバル主義者やビジネスエリート層の唱える世界主義か、再び世界最大最強の国として他をリードする立場をとるか(ここで原著は帝国主義という用語を使っている)、あるいは一国主義(ナショナリズム)の三択が示される。わが親愛なるトランプ氏がいずれにすべきか、踏み迷っているのがその現実なのだろう。
ほかにも、この本を読んで、なるほど、とひざを打つことが多かった。国民としてのアイデンティ、などということは当たり前すぎて日本人には考えにくい話題なのだが、今のアメリカの混乱ぶりを知るにつけ、また安全保障に関してはその支援を頼らざるを得ない現実のもとで、もっとこの国を知らなければならない、ということを改めて感じた。
注1 マックス・ウエーバー プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神
奥武蔵の春:漫歩兼日帰りW調査 (51 斎藤邦彦)
51年卒が秋の日帰りを担当します
日帰りワンデルングは2回連続で雨のため中止となり担当学年の私達は「雨男の51年卒」と悪名を頂いております。春の日帰りワンデルングは5月19日(土)ということで案内されましたが、3度目の正直ということで晴天を願うばかり。
一方、秋の日帰りワンデルングは10月27日(土)という予定になっています。我々は総勢14人の少人数(実稼働5~7人)でありますが、幹事を引き受けるにあたって秋ワンでは「新たな山域コースの企画・開拓」にチャレンジすることにしています。勿論、48年以降の年次の方々のお力添えは欠かすことが出来ませんのでよろしくお願いいたします。

従来日帰りワンデルングは数箇所の山域の繰り返しで運営していましたが新たな山域として「奥武蔵」を取り上げています。西武鉄道が推奨しているガイド「西武鉄道で行くハイキング24選https://www.seiburailway.jp/railways/hiking/」を母体に様々なバリエーションコースを検討しています。同期で手分けし昨年の1月から4月にかけて約10回の調査行を進めてきており一通りの実査は終わりました。

ベースキャンプもいくつかの候補地の中から「飯能河原」を予定しています。飯能駅から徒歩15分で行くことが出来る場所で、夏には子供たちの水遊びで賑わう広い河川敷です。新たな山域の計画に向けて今後とも皆様方のご支援を頂くと思いますが深いご理解を賜りますようよろしくお願いいたします。
お花見ハイクを兼ねた.調査行(4月5日)
同じ調査行をするなら花の季節にということで、お花見ハイクを兼ねて西武秩父線の西吾野駅から「高山不動尊⇒関八州見晴台」のコースのバリエーションルートを調べに同期の五十嵐君と2度目の調査に行ってきました。

今回はメインルートから離れて不動三滝のルートを調査しましたが三滝とも水量が少なく見応えの点で今一つかと感じました。巨大な伽藍を誇る「高山不動尊」は改修工事中でテントがかかっていました。10月15日に工事が終わると表示があったので予定通り終われば改修直後の堂宇を拝むことが出来ると思います。
お花見について、関八州見晴台の周辺は山桜、三つ葉ツツジ、ミツマタ、馬酔木等百花繚乱で見事な景色です。とりわけ三つ葉ツツジは真っ盛りで鮮やかに山を染めています。今回第一目標にしていたスポット「八徳(やっとこ)の一本桜」は残念ながら散り始めていました。見事な巨木ですが地元の人からはもう一日早ければというコメントをもらいました。

「八徳の一本桜」が終わっていたので第二目標地点の「顔振峠(こうぶりとうげ)の枝垂れ桜」まで粘って足を伸ばしてみました。ここは満開、まだまだ楽しめると思います。顔振峠から吾野駅は1時間弱のコースでよく整備された山道なので景色を楽しみながら安心して歩けるコースです。

下山後は飯能駅まで行き、私の好きな「お蕎麦居酒屋ゆきやなぎ」で一杯、10月27日の2次会の予約もしておきました。ちなみに植物の「ゆきやなぎ」は西日本では「こごめ花」といいます。
5月の春ワンが終われば秋ワンに向けてさらに計画の完成度を上げていきたいと考えていますが、来年以降どのように運営していくのか幹事団のなかで議論が必要になってくると感じています。
4月月いち高尾報告 (39 堀川義夫)
何カ月ぶりかに‘月いち高尾’が晴天に恵まれ、歩いても汗をかかない程度で何とも心地よい里山歩きを楽しむことが出来ました。今月は高尾山から少し離れて八王子城跡とたま森林科学園を訪ねました。
日 時 2018年4月10日(火)
参加者 中司、吉牟田、高橋良子、遠藤、鮫島、岡、深谷、町井、岡沢、多田、蔦谷、河合、武鑓、藍原、堀川 以上15名
高尾駅北口10時集合。何時もと違って今回は出だしはタクシーを利用、到着順に4人づつタクシーで八王子城跡へ、10時30分頃城跡の管理棟に全員集合。
この日は、出発前に皆さんに悲しい知らせをしなければなりませんでした。35年卒の妹尾清次先輩が昨夜亡くなられたとのこと、皆さんにお伝えしました。
ボランティアガイドをお願いして、約1時間強城跡の案内をしてもらいました。その後ガイド付きでなければ通れない山道を案内していただき、城山登山道の五合目に出ました。そこからガイドさんと別れてほぼ30分程で頂上本丸跡に到着、心地よい風に恵まれながら昼食。12時40分に頂上を出て約40分で管理棟着。
再び呼んでおいたタクシーで多摩森林科学園へ。ここは100種類以上の桜の保存林があり、3月から4月末ま様々な桜が順次咲いていくそうです。それにしても桜が早かった今年で期待はしていませんでしたが、本当にびっくりするくらいの見事な景観を見せてくれました。写真をご覧ください!
3時20分に解散。12名は何時ものてんぐへ。さほど歩いた感覚はなかったのですが、2万歩以上歩いたそうで結構疲れました。でも、生ビール最高! 心地よい春の里山歩きでした。
5月の月いち高尾は 5月23日(水)です。5月13日ごろにご案内します