三国山荘―60年前のことども (35 森田半兵衛)

今回の60周年記念山荘祭、それが現役中心で実施されたことが大変嬉しかった。山荘は現役が管理運営する。そして現役のワンダーフォーゲル活動の中心にあるべきだと今も思っているからである。

60年前、資金(積立金)の不足を補い、山荘建設へ部員が直接参加する意味をこめてワークキャンプを6月に2度、実施した。下級生も参加し、山荘を自分たちの手で作るんだということが、夢のような話が、いよいよ現実になりつつあると感じたことだった。

棟上げ式もすみ、夏休みに入ってすぐ、妹尾さんと二人で山荘の建築現場に入った。屋根は出来上がっていたので2階に2帖ほどの板を張ってもらい、ローソクの灯で一夜を過ごした。結果、少人数での使用には充分であったが、スキー合宿、雪山合宿には炊事場が狭いと判断し、二人合意の上、独断で炊事小屋を作ることにした。追加工事費は40万円、当時のわれわれの感覚では大金であった。工事を担当してもらっていた野中建設の野中さんからは、妹尾さん、森田さん、支払いは卒業してからでいいからと言っていただき、有難く甘えさせてもらったが、この炊事場がスキー合宿、浅貝BHの時、大いに役に立ったのである。

その10月、われわれ三年生が委員会を担当することになり、正月のスキー合宿を三国山荘でやることを決定し、私がリーダーになった。11月末のワークキャンプで山荘内の整備,薪作り,薪挙げ(平標小屋へ)、スキーゲレンデの整備をおこなった。当時、浅貝にはスキーゲレンデというものがなかったのである。いまの別荘地のあたり、まばらに生えていた雑木を伐採し、切り株が出ないように(スキーが引っかからないように)して300mくらいのゲレンデを作った。浅貝合宿の参加希望者は70名で、50名収容の小屋ではきついとは思われたが何とかしようと決心。薪もできたので寺家幸一をリーダーにクリスマスワンデルングと称して入荘、正月合宿のためのボッカを行った。このとき、浅貝には雪に関するデータが何もなかったので、百葉箱を持ち込み少なくとも冬の合宿、3月の浅貝BH(L.畠山有敦、40名参加)の間、2時間おきに気温、湿度、風向、積雪を調べた。このデータはのちに苗場スキー場を開発した西武・国土開発の方が部室まで訪ねてこられ、ぜひ提供してほしいといわれたものであった。

水は山荘の真裏の上水が勢いよく流れていて決して凍結することはなかった。電気がひけていなかったので、ランプを20個くらいつるし、暖房は薪ストーブ、全く静かな世界だった。浅貝の部落もよく訪問した。本陣(唯一、電話があった場所)、弁次さん、タバコ屋などで、各家庭も17号線の開通と電気がくることを楽しみにしていたものである。

あれから60年。浅貝は全く変わった。しかし山荘は現役にしっかり引き継がれているのだということを感じたことであった。

三国山荘―思い出すこと  (36 後藤三郎)

今回久しぶりに三国山荘に赴き60年の時間があっと言う間に過ぎたことや小屋の周辺が立木も含めてすっかり変わったことを改めて実感しました。

考えてみると小屋が建設される前に畠山さんがリーダーで昭和33年4月に雪の深かった三国峠を越えて現在の小屋がある辺りを歩いたのが最初の思い出でした。当時小屋の候補が数か所あり、委員会で最終決定する為の調査行だと畠山さんがおっしゃっていたのが今も思い出されます。今回宿泊した三国荘の女主人が我々と同い年(当時20歳)だったようですが、浅貝本陣の格式が高く当時は我々が宿泊するなどとんでもないと言う感じで、隣接する旅館(高野弁次さんが柏屋旅館と後日名乗った)に泊めて頂き周辺を歩き回った記憶があります。

小屋の工事が始まったのは雪が解けてからで同期の小林章悟君の大活躍を今も鮮明に覚えております。河原から基礎の下にひく石を運び建設費用を節約する為に度々ワークキャンプと称して若手が労働を提供したことが思い出されます。小屋が完成して小学校の体育館でミーテイングを持ったこと、リーダーの今は亡き妹尾さんが”Caro mio ben”と言うイタリア歌曲を原語で歌われたことが驚きでした。”いとしい、私の恋人”と言う名前のこの曲をワンゲルのミーテイングでしかも誰もが恐れられるほど屈強な山男が歌ったのですから・・。その後本人にその話をしたら”俺は覚えていないよ”と言われたのですが・・・。先日数えてみたらチビさん主導の登山道開発のお蔭もありこの60年間でほぼ60回ほど浅貝と小屋に出かけたこと(正確な記憶ではありませんが)で偶然ですが60年間の区切りだったのかもしれません。

最初のスキー合宿で食当を命じられ、後閑の駅前の八百屋さんに飛び込み野菜の調達をしたのが契機となり、以後ワンゲルの部員たちが優しい女主人にお世話になったことも佳き思い出となりました(残念ながら昨年お亡くなりになりました)。

60周年記念山荘祭―雑感

しばらく山荘祭からは遠ざかっていたが、60周年記念ということもあって久しぶりに浅貝へ行ってきた。”祭り”も楽しいが、60年前、建設の現場にいわせた年代の僕らにはやはり ”小屋” そのものに気持ちがむかう。前々日の午後湯沢で一緒になったOB10数人で好天の小屋に到着したとき、何よりも自分にずん、と響いてきたのは、庭に当然のように立っていた杉の巨木と、その前にあった白樺の樹がなくなっていたことだった。

倒壊の可能性と小屋の安全確保のため、やむをえず伐採する、という計画は何度も議論され、残念とは思いつつ了承していたことだが、現場に行って感じた空虚な気持ちは忘れられない。特にあの白樺は、いよいよ卒業という秋、同期で一夜を明かしたプランで、完全に泥酔した小林章悟(山荘代表)が半分泣きながらそのまわりをぐるぐるととめどなく廻って、大声で小屋への想いをつぶやいていた、あの情景がまだ目に浮かぶ。今は病床にあってコミュニケーションに問題のある彼には、むしろ知らせない方がいいのだろうが。

前日から入荘していた妹尾が”今燃えているたき火、その上にあるまるで大鍋みたいなものが、伐採した杉の言ってみれば”輪切り”だ、と教えてくれた。気持ちを押し隠して冗談にしたのか、なんだか自分たち世代の諦観というか、冷厳な時間の経過、ということを言おうとしていたのがわかって、胸にしみた。

時間の経過が燃えていくようだった

章悟の後を引き継いで山荘を担当したのは福永浩介だが、卒業後、OBの立場で山荘運営に携わった加藤清治も”白樺”に愛着をおぼえているひとりのようだ。

高校時代始めた山歩きを本格的に始められるとの希望を抱いてワンダーフォーゲル部に入りましが、入部早々に山小屋建設のワークキャンプが始まり、基礎の砂利を運ぶためにモッコを担いで、湯の沢の河原から雨の中を何度も往復。入部直後で山小屋建設に協力しているという思いはありませんでしたが、夏合宿で三国山に登り稜線から小屋の小さな赤い屋根が見えた時は皆で歓声をあげました。

 ホールの薪ストーブは燃えが悪く、二階まで煙が充満することも度々で小屋から帰ると体全体がイブくさくて弟達に臭いと文句を言われました。便所は水洗でなく汲み取り式でワークキャンプではいつも便所の汲み取りを担当しました。

 小屋が全焼したとき、知らせを受けて39年卒の小祝君と現地に急行しましたが、小屋は跡形もなく焼けおち、コンクリートの基礎だけを残して所々から煙が上がっていました。4年間春夏秋冬何度通ったことだろう、煙くて汚い小屋だったが小屋で過ごした日々を思い、深い喪失感を覚えたのを憶えております。小屋は2代目3代目となりましたが、細い白樺に囲まれた初代の山小屋に一番の愛着を感じております。

山荘と言えば、その裏に続いている通称三角尾根。2年夏の合宿前に実施された ”あの” リーダー養成で雨の中を半分眠りながらキタノイリ沢へ降りた、強烈な経験が忘れらないし、卒業1年目、児玉博が仙の倉で遭難したとき、小屋で待ち合わせていた同期の仲間たちが遺体を引き下ろしたのもこの尾根だった。多くの仲間が引退したあと、妹尾のアイデアでKWVのプレートを付けたときには、出発点の”三角”にその第一番目のプレートに児玉の名前を記した。それ以来、”三角”は同期の仲間にとって一種のシンボル的な存在になった。

国境稜線、三角頂上

児玉と小学校以来の親友の翠川などは浅貝へ行けば必ず三角を往復する。あの稜線の出っ張りから、児玉の最後の場所が遠望できるからではないか、と僕は思っているのだが、それを口に出す勇気はなお持ち合わせていない。

僕自身の三角尾根での自慢は3月春、田中新弥がリーダ―を務めたBHで、スキーを担ぎ上げ、平標頂上から滑り出し、この尾根を降りたことである。まだ今の夏路でさえ満足になかった藪と灌木の中を、滑るというよりスキーをわっぱ代わりにしたようなものだが、KWVに残る記録としては、平標から小屋まで、ともかく全ルート。、スキー滑降した、という意味ではおそらくはじめてだと内心思っているのだが自信はない。

児玉が亡くなった翌々年だったと思うのだが、児玉の遭難現場へお参りに行こうと、荒木床平さんや酒井征蔵さんたちとこの尾根を登り始めたが強烈な暴風雨にあって、その手前で引き返したのも僕には忘れられない記憶である。あれが、結果として ”しょっぺいさん” との最後の山になってしまったからだ。

少し時間が経過して、国境稜線に避難小屋を作ることに携わった。経過はいろいろあったが、いちにち、越路避難小屋の完成に伴う行事に何人かが川古から稜線へ駆けあがることになった。あいにく、台風がやってきて大雨が必然の深い谷に入るという、常識では考えられない行動を与儀なくされたことがあった。幸い同行してくれた佐藤団長のいわばマタギの知恵と技術によって事故に至らず無事帰荘できたが、小屋で待機していた僕ら何人かには戦々恐々の半日であった。この時、フィアンセを連れて小屋へ来て活躍したのが斎藤伸介。雨降って地が固まったのか、ほほえましいカプルができたのもこれまた小屋の徳であろうか。

僕が会社時代、同僚やらスキー仲間を何回か 初代小屋 へ連れて行ったことがあるが、毎回大好評だった。”ジャイさん、このシュラフのへりが偉く硬いけどこれでいいんですか?” ”え? ああすまん、それ、忘年会の時のげろが固まったままなんだ” “ギャー、ケイオーって野蛮なのね!”などといった楽しい時間があった。そのときに同行したスキーの名手であり、何を隠そう小生のblog挑戦を支えていてくれる大師匠、菅井康二君はこう書いてきた。

blogの山荘内部の写真を拝見しましたが私が泊めて頂いた時とは様変わりしており洒落た雰囲気で明らかに違う建物だということが分かりました。

山荘へ行った回数もそれほど多くない僕ですら、こういう思い出はいろいろあるのだから、小屋に足しげく通った仲間たちには、いろんな ”初代” 小屋の記憶は強烈なはずだ。ぜひ思い出を投稿してもらえればありがたい。

 

60周年記念山荘祭

今回新登場した ”絵馬” は好評を博した

60周年記念として挙行された山荘祭について、担当の52年卒桑原君は次のようにまとめてくれた。いずれ正式な報告はOB会ホームページや”ふみあと”に掲載されるだろうが、ここではいくつかのスナップショットを紹介しておきたいと思う。

9月15日(土)~17日(月)の3日間、と三國山荘に於いて、毎年恒例の山荘祭を開催しました。今年は山荘建設60年の記念の年であるので“60周年記念山荘祭”と銘打ち、企画致しました。

参加は、現役60名超、OB・OGも昭和34年卒の先輩から、今年卒業の若手OBまで、世代を超え・繋ぎ60名超の参加で、お陰様で総勢、120名超の“記念 大山荘祭”となりました。
天気は、メインイベントの中日16日(日)は、KWVの思いと情熱が通じ、昼のプラン行動中は、雨も降らず、この季節としては、恵まれた天気でした。昼のワンデルングは、下記4プランで現役OBとも好評であったようです。
 1、旧三国街道散策       2本
  ・三国峠~般若塚~法師温泉
  ・永井宿~般若塚~三国峠~三國山荘
 2、湯ノ沢(旧三国スキー場)~三坂峠~稲包山~三国峠
 3、温泉三昧(猿ヶ京温泉~周辺散策)

夜のイベントは、来賓とし浅貝町内会の師田会長、苗場観光協会の佐藤会長(兼 山荘管理人)をお招きし、大BBQ大会で昼のプランの情報交換、また、現役の夏合宿の報告会等々、交流を図りました。

来年からは、古希に向け、また歴史を積み上げて参ります。皆さまの積極的なご活用が山荘の維持管理に大きく貢献致します。よろしくお願いいたします。

天気は夕食パーティが始まる前まで持ったが、悪化が予想されたので庭にテントを張ったり、現役諸君が頑張ってくれた。特に今回は地面に板を敷き詰めるなどの配慮があり、深夜からの降雨にも十分耐えた。来年も今年と同じくらいの参加人数だとテントがもう一張り、欲しいとろかもしれないが。

例によってキチンは大忙し。初代の設計から基本的構造は同じだが、全般的に衛生的?向上があったように思える。最近では飯盒やストーブ飯などは無縁だし、電気家電品がずらりと並ぶ。

キチンはきれいになったけど、料理人は手をあらってるんだろうな

ただしBBQ前の食事メニューは60年変わらないカレーライス(小生は自分の用意をわすれたこともあり3連続で食べる羽目に陥った)。ただし、荒木床平さんが見るだけで機嫌を悪くした時代とは大違いの味なのは、ルーの進化か女性部員の腕なのかわからないまま。

小屋の中でぐだぐだしてるのも小屋生活の楽しみ、とするのは60年たっても変わらないようだ。現役の中にはPCを持ち出して一見、勉強しているらしいのもいたがOB連は(この時間から飲みだすか、どうか?)という雰囲気である。一時こういう時には必ずギターを持ち出す奴がいたものだが、いまやカントリー・ウエスタンは出番が少ないのかもしれない。

かたやOB, 飲もうか、歩こうか?

一方、山荘祭といえどもワークキャンプを兼ねるのも変わらないようだ。今回伐採した樹の残材処理に、いつも通りストイックに取り組んだのが妹尾。駆り出されたのか、義侠心かはたまた運動不足解消なのか、一部現役の中には(たぶん、しょうがねえなあ、このおじさん!)と思っていたのもいたに違いないが、妹尾の見積もりでは5トン!を超えるという残材処理が進行していた。ワークキャンプに酷使されたチェーンソーの修理など、裏方の地道な活躍も見慣れた光景であった。

いつまでやるんかなあ!
あんだけ使えばキカイだって疲れるよなあ

第二日目は現役OB交歓の場として企画されたワンデルング。中でも健脚元気組を対象にした稲包ー三国峠プランは、いわゆる”新道開発プロジェクト”で開発されたルートの一部がめでたく ”KWV新道” として県の管理下に入ることを受け、そこに建てる指導標を運び上げる、というアルバイトが組み込まれた。桑原君からのメモを再度ひいておこう。

道標は、ご指摘の通り皆さま先輩の強く厚いご支援で完成した“KWV新道”の道標です。記録では、全17本ですが、実際は、20本有ります。記録に有る17本の内、朽ちて倒れてダメージの酷いものから順に、建て替えます。その正に1本目がこの写真です。

小生も新道開発プランの途中でこの20本のうちの1本をほんのわずかの距離を背負った記憶があるが、あれを稜線まで担ぐというのか!というのが正直な反応。

四勇士は現時点OB見習い心得の渡辺、4年座間(担いでいる本人)、中野、3年田辺、の面々

この他のプランはともかくも天候に恵まれて無事完了。夜は恒例のBBQ大会を楽しんだが、後半から空模様悪化、現役諸君恒例のパフォーマンスが始まるころから雨となった。これをきっかけに、ロートル組にはねぐらに引き返したものも多かったが、それぞれ、宿で愉快な夜を過ごしたのは間違いない。

翌朝、小屋前に集合。今年からは時間が大幅に早められ、夕べの残りか、体操がつらかったOBも多かった。最後は現役を代表、3年鈴木君のエールと慶応讃歌で幕を閉じた。この朝の情景を俳人、杉本光祥君(37年)はこう詠んだ。

六十年の小屋の思ひ出秋の夜」

       霧上がり 老若男女 集ふ 朝

楽しい時間を演出してくれたCL以下、関係各位に改めて感謝申し上げる次第である。

ワンダーよ永遠なれ!

武相国境に魔の山あり 四たびKWVの挑戦をはばむと

魔の山の位置
堀川発メールにいわく:
月いち高尾の実施の決定は二日前の午後10時とさせていただいています。
今回の生藤山については二日すなわち昨夜の10時までに中止の場合は連絡することになるわけですが、昨夜の段階で種々の天気予報から21日の生藤山は午前中は雨模様ながら降雨量が2mm(2㎜の降雨量は雨模様ではありますが霧くらいの状況です)午後から快方に向かうと判断し、決行することにしていました。
しかしながら、本日、私は千葉におりましたが2時半以降思っていた以上の降雨があり、これでは、よしんば明日の予想が従来通りであれ、山道は相当歩きにくい状況になるのではと思い、中止することに致しました。
4回目の生藤山行の企画がでしたが、すべて雨のため中止となりました。私の不徳の至りです。しばらくは生藤山への企画はやめます。(頭にきた!!!)
三嶋返信にいわく:
了解で~す。天気に恵まれず かなか行けない山ってありますよね。
4回目 来年までは消灯山。

漢詩ぶらぶら―中秋の月にちなんで (36 坂野純一)

異常に暑かった今年の夏もそろそろ終わり、秋の気配も感じられるこの頃、漢詩では、月、菊、雁、霜、秋風、紅葉、などを材料とするものが多い。中秋の名月にちなんで、月を詠んだいくつかを紹介したい。阿倍仲麻呂は奈良時代の遣唐留学生、養老一年(西暦717年)吉備真備らとともに唐に渡り、玄宗皇帝に仕えた。天平勝宝五年(753年)帰国を許され鑑真和上とともに1月15日明州から帰国の途に就いた。この日はちょうど満月で「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」の歌を詠んだと言われる。これを英国人アーサー・ウエイリー(大英博物館に勤め語学の天才とも言われ「源氏物語」英訳でも知られる)が訳したものをまず紹介する。

Across the field of heaven                           

Casting my gaze I wonder

Whether over the hills of Mikasa also,

That is by Kasuga,

The moon has risen.

盛唐の代表的な山水詩人「王維」に「竹里館」という五言絶句がある。

獨坐幽篁裏  独り幽篁の裏に座し

弾琴復長嘯  弾琴 復た 長嘯

深林人不知  深林 人知らず

名月来相照  名月 来りて相照らす

夏目漱石は「草枕」に東洋詩人の代表的な境地としてこの詩をあげ「汽車、権利、義務、道徳、礼儀で疲れ果てたのち、凡てを忘却してぐっすりねこむような功徳である。」と言った。此のような境地に憧れるのが良いのか、もっと違う道があるのか、考えさせられるようにも思われるのだが。先に紹介した李白にもいくつもの月を読んだ詩がある。

峨眉山月帆輪秋  峨眉山月 半輪の秋

影入平羌江水流  影は平羌 江水に入って流る

夜発清渓向三峡  夜 清渓を発して 三峡に向かう

思君不見下渝州  君を思えども見えず 渝州に下る

此詩を作ったのは李白二十代の半ば。以降長い遍歴の旅が続く。

長安一片月  長安 一片の月

万戸擣衣声  万戸 衣を擣(う)つの声

秋風吹不尽  秋風 吹いて尽きず

総是玉関情  総べて是れ 玉関の情

何日平胡虜  何れの日か 胡虜を平らげて

良人罷遠征  良人 遠征を罷めん

もう一つ、静思夜という詩を挙げておこう

牀前看月光  牀前 月光を看る

疑是池上霜  疑うらくは 是れ地上の霜かと

挙頭望山月  頭を挙げて山月を望み

低頭思故郷  頭を低(た)れて故郷を思う

漢詩の最盛期,詩仙と呼ばれた杜甫にも「月夜」と題する詩がある。

今夜鄜州月  今夜 鄜州の月

閨中只独看  閨中 只独り看ん

遥憐小児女  遥かに憐れむ 小児女の

未解憶長安  未だ長安を憶うを解せざるを

香霧雲鬟湿  香霧 雲鬟(うんかん)湿(うるお)い

清輝玉臂寒  清輝(せいき)玉臂(ぎょくひ)寒からん

何時倚虚幌  何れの時か虚幌(きょこう)に倚(よ)り

双照涙痕乾  双び照らされて涙痕(るいこん)乾かん

さて 平安時代の日本文学に最も大きな影響を与えた詩人白居易(楽天)に「八月十五日夜禁中獨直対月憶元九」がある。

銀臺金闕夕沈沈  銀台 金闕 夕べに沈沈たり

獨宿相思在翰林  独り宿して相い思いて翰林に在り

三五夜中新月色  三五夜中 新月の色 

二千里外故人心  二千里外 故人の心

渚宮東面煙波冷  渚宮の東面 煙波冷ややかに

浴殿西頭鐘漏深  浴殿の西頭 鐘漏(しょうろう)深し

猶恐清光不同見  猶(た)だ恐る 清光の同(とも)に見ざるを

江陵卑湿足秋陰  江陵は卑湿にして秋陰足らん

アンダーライン部分(三五夜中新月色 二千里外故人心)は平安朝の文人の心を捉えたようで、紫式部の「源氏物語」にも引用されている。須磨の巻の中で

月いと花やかにさし出でたるに、今夜は十五夜なりけり、と(源氏の君の)おぼし出でて、殿上の御遊び恋しう、所々ながめ給ふらむかし、思いやり給うにつけても、月の顔のみ、まぼられ給う。二千里の外の故人の心」と誦(ずん)じ給える。例の、涙も止められず

なお この句は、藤原公任(きんとう)撰の「和漢朗詠集」にも採られさらに広く知られるようになった。まだまだ数多くの名吟があるが、次の機会に譲る。

雲南省への旅     (44 安田耕太郎)


中国雲南省麗江・玉龍雪山訪問記です(2017年11月11日~17日)。S44同期仲間総勢5人で行きました。齢70歳を超えるワンダラーには4500mまでロープウェイで上がれるという老齢者には打ってつけの山岳観光コースでした。

中国雲南省のビルマ・チベットに近く、氷河を持つ山としては北半球で最南端に位置する玉龍雪山。南北35キロ東西13キロに及ぶ巨大な山塊。ヒマラヤの最東端に位置する。麗江は中国南部・ラオス・ミャンマーから四川省・チベットを結ぶ茶葉街道の要衝、少数民族 納西(ナシ)族  30万人の都。玉龍雪山は納西族にとって聖なる山。標高5,596m、未踏峰。ユネスコ自然世界遺産、麗江もユネスコ世界遺産の美しい古都。

麗江はの省都 昆明から飛行機で一時間500キロ西北に位置し、標高2,450m(立山室堂と同じ)、北北西へ仰ぎ見る山頂まで水平直線距離15キロ(東京駅から羽田空港までと等距離)、標高差3,100余m。因みに富士山は山梨県富士吉田市(標高700m~900m)から直線水平距離15Km。ちょうど、標高差と距離は富士吉田市から仰ぎ見る富士山と同じ位です(3000m強、15Km)。今や麗江は人口100万を超える大都市。高いビルは無く旧市街を取り巻いて新市街が整然と緑溢れる景観の調和を保っている。これ程高い山が大都市の至近に聳えるのは、1969年に訪れたボリビアの首都ラパス(標高3600m)から指呼の距離にある、イリマニ山(6439m)以外知りません。ラパス市からは標高差2,800m。

麗江 玉龍雪山は歴史 文化 大自然の異なる魅力が混合した、中国でも超最高級の国立公園に指定されている一級のトラベル地でした。登山口は山塊の東側、麗江から25キロ、標高約3,000m地点。山塊の北東に清流の谷 「藍月谷」、大規模な上高地の類あり。標高2,800m~2,500m、山頂まで谷からの標高差 約3,000m。チベットに近くヤクも生息。到達最高地点4,680mへは3,300m地点からロープウェイで4,500mまで上り、そこからは徒歩で標高差約200m登った地点(空気が薄く携帯酸素ボンベ持参)。スケールはアルプスを裕に凌駕してヒマラヤの雰囲気に近い。景観的に四姑娘山とミニ九寨溝と歴史文化古都を混ぜ合わせた大変魅力に富む山岳歴史文化の旅でした。乾季で毎日快晴に恵まれたのも幸運でした。東京からは上海、昆明、麗江と飛行機を乗り継ぎます。写真には猛々しくも美しい山岳景観のみならず、イナゴ・蜂・さなぎの中国色濃い揚げ料理、昆明近くの世界遺産Stone Forest(石林)、麗江の旧市街の写真を紹介します。

 

 

針ノ木―種池を歩いてきた (40 河合国尚)

毎日眺めた立山連峰

L. 藤井 参加者 下井、武鑓、河合  計4名、8/20(月)スーパーあずさ19号にて新宿発、現地泊。

8/21 (火)

登山口6:50⇒8:30大沢小屋⇒14:05針ノ木小屋

実働時間:5:15 標高差:2536-1433=1103㍍ 歩程:5㌔

扇沢バスターミナルに向かって左側にある関電通路の左側の登山口に届けを出して出発。針ノ木自然歩道の樹林帯の中を歩く。途中4回も舗装道路を横切る。また沢も3本渡る緩やかな道で大沢小屋までは順調だった。途中、雨がぱらついたが、すぐに止んだ。しばらく行くと大きな沢に出て、簡易な橋を渡り右岸を登り、沢の中や高巻き道を行く。ノド部の手前で初めて雪渓を約20㍍横切って左岸に渡り、いきなり岩場になった所を3箇所の簡単な鎖の助けを借りてノド高巻きルートを行く。このあたりの雪渓はスノーブリッジが崩壊し、真ん中が崩れ落ちており、迫力のある眺めになっている。この通過には少し時間を要したが、雪渓の上部へ出た。

針ノ木雪渓を行く

このあたりから雪渓にはいつもの霧が出て峠が見えない。2つの沢を越え、再び右岸に渡る。マヤクボ沢を右手に見て、レンゲ沢を越えると傾斜が急になり、ザレた登山道をジグザグに登ると雲が取れ、峠と小屋が見えた。30~40分で短い休憩を取りながら、バテバテ状態でやっとの思いで小屋に到着した。ビールで乾杯しながら、赤牛や水晶を見た。槍は夕食後に姿を見せた。

8/22(水)

針ノ木小屋6:10⇒7:40針ノ木岳8:00⇒9:30スバリ岳⇒12:40赤沢岳(昼食)13:00⇒14:50鳴沢岳⇒16:10新越山荘

実働時間:7:20 コースタイム:5:10 標高差:上285㍍ 

針ノ木岳⇒スバリ岳 歩程:900㍍、標高差:下155㍍、上:86㍍、

下りと上りに岩がゴロゴロして足場が悪く、慎重にならざるをえない。途中、小スベリというコブを通過したこともあったが、ここもまずまず。

スバリ岳⇒赤沢岳 歩程:1.5㌔、標高差:下292㍍ 上:218㍍

ここからが問題でコースタイムの倍もかかっている。距離があり、標高差も上下でそれぞれ200㍍以上、通過に2時間はかかりそうな上、赤沢岳の手前で岩を攀じ登る所があり、時間を要す。ピーク手前で小休止。堪えることが苦しくなりすぐ楽になりたがる。そろそろ山から卒業する時が近くなった実感を持った。

赤沢岳⇒鳴沢岳 歩程:1.3㌔、標高差:下132㍍、上95㍍

1:00のところ+0:50分。ここも倍近くかかっている。存外、距離があり、昼を過ぎ、バテがきていた上、ピークからすぐだと判断して小休止したら、地形を読み間違い、ピークまでにもう一本、小休止を入れてしまい時間がかかった。

鳴沢岳⇒新越山荘 歩程:1㌔、標高差:下176㍍

今日は絶好の天気、風もなく、気温も18℃前後で汗も多くはかかず、一日中、裏裏の山、特に立山、剣はすぐそこに寄り添って、大きく見えていた。こんな天候は経験がないと言っても良く、夏だというのに澄んでいたのも幸運だった。針ノ木への最初の上りはいきなりの急登で目覚めていない体にはきつかった。途中から山の右側を巻くようにのぼり、最後は尾根に取り付き、山頂にでた。ここからの眺めは富士山、八ケ岳、南ア、妙高、浅間、北信5岳、槍、穂高、表銀、水晶、黒部五郎。東側に薬師、立山三山、大日、剣。北には爺、鹿島槍、五竜、唐松、白馬三山、朝日、雪倉から日本海と360度の眺望が楽しめた。

このあたりの花はもう終わっていた。針ノ木からの下りは急な岩場の下りだが、慎重に下りれば道は良く整備されている。小さなアップダウンがあったり、ガレている所を通過したり、変化のあるルートになっている。スバリへはジグザグの道を少しやれば着く。ここからの下りを過ぎれば尾根の少し西側に道がついており、安曇野側からの風もまともに当たらないが、時々、尾根の上に出ると安曇野側が鋭角に切れ落ちているところがあり、風が強いと嫌な所が何箇所かあった。

小屋に着いてからビールで乾杯(2人しか飲まない)したが、銘柄を特定しているのに違う銘柄につい手を出してしまいう。会社への忠誠心はどこへ行った?遅くの到着で5時の夕食が早かった。小屋は針ノ木も一緒だが、水に苦労しており有料で、歯を磨くのは省略、トイレはきれいでいずれもバイオ式。明日は下りるだけ、くつろいで楽しくやっていたら、隣の若者から注意されてしまった。明日から天候が悪くなるためか、小屋は空いており、ゆっくり休むことができた。

8/23(木)

新越山荘5:50⇒7:00岩小屋沢岳⇒9:05種池小屋⇒13:00扇沢⇒(タクシー)⇒13:30信濃大町14:13⇒15:12松本15:19⇒(あずさ24)⇒18:07新宿

実働時間:5:30 コースタイム:5:30 歩程:8.2㌔

今日も晴天、昼から雨予報だったが、ピーカンで扇沢に下りてからタクシーに乗ったあと、通り雨が降っただけだった。

小屋から尾根道を登り、途中から巻道に入り、新越岳を巻き、ゆるやな道を行くと岩小屋沢岳に着く。立山と剣がますます近く、威容が印象的だ。そこからはしばらく下りが続き、ハイマツと樹林帯の中を行く。種池小屋が同じ高さに見えるが、下りはもう少し続く。下がりきってから少し登ると小さな種池に出る。そこからまたひと上りして左の巻道を行くと小屋に飛び出す。小屋から爺がきれいな山容を見せているが、誰も往復しようとは言わなかった。途中、ガレ場があるが、問題なく通過。この柏原新道には「富士見坂」「駅見岬」「水平岬」「ケルン」など道に名前が付けられており、長い道で飽きないように工夫されている。あまりおいしくない昼食を済ませ、タクシーを13時で予約したが、なんと、ぴったりで下り。最終日だけが想定通りで歩けたのはどうしてだろうか?

今回のターゲット、針ノ木岳の雄姿
(中司―河合)
針ノ木は高校三年生のとき、立山のほうから縦走して黒部川へ降り、当時まだあった ”平の渡し” のかごで黒部を越えて針ノ木へ出ました。その後、KWV 2年の10月、新弥と鹿島槍から縦走して降りたのが記憶に残っています。この間の西穂で、北アは終わりにしました。同期の中島(きんちゃん)と行って、小生だけ具合がおかしくなり、登頂はあきらめた、因縁の笠ヶ岳が北の見納めです。
(河合―中司)
今回、平の渡しへの道を見ましたが、もう我々には無理なのでやめました。私はいつもこれで最後かな、と思いながら登っています。ジャイさんに連れていっていただいた八ケ岳で再び、山を歩けるようになり、はや7年が過ぎようとしています。

レッド・リヴァー(Red River) の話  (と円熟期オールドワンダラーズの近影)

Old Wanderers 練習風景

9月2日、赤坂の カントリーハウス で、カントリー好きを集めてやってきたKWV  仲間のバンド ”Wandering 80’s” のライブがあった。バンドマスターは35年卒徳生勇二、ほかに同期の森永正幹、36年の田中新弥、それと ”準”34年卒横山隆雄というメンバーに、客員でその道では名高いピアニストとドラマーを加えての活動はすでに10年を超える。腕がどうかの論評は差し控えるが、いつ参加しても楽しい。今回は場所的な制限でワンゲル関係者は大幅に制限されてしまったが、できることならまた、沢山集まれる機会があればうれしいと思うのだが。

さてその場で、”ゲスト” (てえのもだいぶ身が引けるが) として栗田敦子、後藤三郎に小生が歌わせていただく光栄に浴し、小生は Red Rivr Valley を選んだ。この Red River について、最近面白い経験をしたので紹介をしたい。

数週間前、何の気なしにテレビをつけたら、ジョン・ウエインの代表作とされる ”赤い河” をやっていた。原題は Red River。ウエインの脂の乗り切った時代の非常にすっきりした、これぞ西部劇、というやつで、当時(1948年)、売り出し中のモンゴメリ・クリフトが初めて西部劇に出演したという意味でも知られる映画である。僕も映画館でももちろん見たし、その後何回もテレビで見る機会があったのだが、今回、終わり近くになって、バックに流れるテーマ曲が、僕のもう一つの愛唱歌である My Rifle my pony and me  (これもウエインの代表作といわれる リオ・ブラボーの挿入曲)と同じことに気がついた。そこで終わった後、何もあるまいがダメモト、とおもいながらグーグルに ”Red River, My Rifle and Me” と入れてみたら、なんと!一発でアメリカ人の女性が同じ質問をしていて、その道の専門の人が明確に答えをだしているではないか。この広い世界で同じ経験をした人がいるということもうれしかったが、この解説によると、この2本は主演ジョン・ウエイン、監督ハワード・ホークス、音楽ディミトリ・ティオムキンという共通点があり、1959年に作った ”リオ・ブラボー”にティオムキンが原曲をそのまま使ったのだそうだ。ちくしょうめ。

この時、思い出したのだが、だいぶ前、やはりテレビで、本当に残念ながらタイトルを忘れてしまったのだが、やはり西部劇のラストに近い酒場のシーンで演奏されていたのが Red River Valley だったことを思い出した。そうなると次なる疑問は、”赤い河” の Red River と Red River Valley は同じものか?ということになる。はたまたウイキペディアで調べてみてこういうことが分かった。

1.北アメリカ大陸に Red River という河は2本存在する。うち1本はミネソタ、ノースダコタのあたりから始まり、北上してカナダを流れる。この流域には開拓初期、レッドリバー植民地という地域があった。2本目はテキサス、オクラホマにまたがるミシシッピーの支流である。

2.西部開拓時代、牛肉は主として中部諸州から提供され、テキサス牛(ロングホーンと呼ばれる種類)はまだ流通していなかった。一方、大陸横断鉄道が徐々に伸び、カンサスあたりまで敷設されるようになり、ジェシー・チザムによってテキサス南部からカンサスまでのトレイルが開かれた。この道をたどって、テキサスの牛をカンサスまで運ぶという冒険がはじまった。

3.映画 ”Red River” はこのチザムトレイル開拓史をベースにした物語であり、その脚本のベースになった記録もあるのでこのような話は史実として裏書される(これによって成功者となったチザムを主人公にした単純明快勧善懲悪なウエイン作品が”チザム”(1970年)である)。

うんぬん。

それでは俺の ”Red River Valley” はどうなる? まだ資料は見つからないが、単に作詞者の創造した地名でないとすれば、どうも雰囲気は1本目のほう、つまり初期の英国植民基地のほうが合うような気がする。ジョン・ウエインは僕のごひいき俳優NO.1ではあるけれど、どう見ても come and sit by my side if you love me などとめんどくさいことはしないで、それじゃあばよ、と格好つけて馬を駆っていってしまうだろうという気がするからである。何方か、博識の方のご意見を頂戴したい。

 

新ルートご案内ありがとう!  (34 小泉幾多郎)

堀川義夫様
月いち高尾、バリエーションルートによる小仏城山はお蔭様で、三人長老を含め、無事所期の目標を達成することが出来、ありがとうございました。写真付きの報告書も有難くいただきました。

バリエーションルートも、30分くらいはやや急な登りであとはずっと緩やかな登りという事前ののご託宣でしたが、長老の身には結構堪えました。 このルートの入口、澤を渡渉する場所はわかりずらい筈が、事前歩いていただいた岡沢さんの先導で難なく見つかり、いよいよ木立の中の急登が始まりました。台風19号20号の影響も若干あるのか、蒸し暑い登りには参りましたが、リーダーの言われる
通り、確かに尾根筋に出ると風があったりで、また先頭の岡沢さんのゆったりしたペースに守られ、先ずは標高446mの御料局三角点に到達。ここからは緩やかな登りで,のんびりと登れるものと思っていましたが、確かに緩やかなところもありましたが、そうもいきませんでした。621mのピークに到達したと思ったら、下りでまた登りが 始まるといった具合。しかしちょっとした椅子のある休憩場があり一息。そこからちょっとで日影沢からの広い道に出て、目的の小仏城山に到着。皆一目散にかき氷を注文。あまりの大きさに、平松君の半分をいただく。昼飯のおにぎり2個持参も1個しか食べられなかった。

あとで調べたら登山口日影の標高 243mで城山670.4mだから、標高差427.4m、結構な標高差。僕のコースタイムで 休憩含み2時間20分、休憩除き1時間35分の奮闘でした。 写真城山頂上の2枚ご笑覧下さい。

8月27日    小泉幾多郎