8月度月いち高尾報告 (39堀川)

8月29日火曜、残暑厳しい中11名参加で8月度Wを実施。いつもと違いJR高尾駅北口集合、バスで小仏までいき、その後2コースに分散。

景信山/小仏峠へ行ったのは36年翠川、遠藤、鮫島の3名と堀川。私(堀川)はワイフの病後のケアで8,9月は泊りがけで行く山行は控えており、フラストレーションが溜まっていて「今日は歩くぞ!」と気合十分。出だし好調、爽やかな風も味方してくれている。ほぼ、コースタイム通りに景信山登頂、でも、暑い、暑い!!先輩方に保冷剤で冷やして持ってきた西瓜を振舞って、おおきに感謝された。

小仏峠に直接登る楽々コースの7名は吉牟田、蔦谷のもとで、コースのイメージ通り、ゆっくりと登る。途中で椎名さんが俺、もう帰る!と喚かれたとの噂もあるが、城山までなんとか頑張ったところ、その頂上春美茶屋(ご主人が鮫島さんの森林ボランティアの指導者)には、なんとなんと!! カキ氷があるではないか。ほとんど全員がこのボリュウム(写真は3分の1ほど食べた状態)を満喫。シロップは掛け放題で500円。この暑さには何よりのご馳走で何十年ぶりに、子供が小さかった時以来と、感激ひとしおの方も。・・でも、こんなところにカキ氷、本当にびっくりだった(もちろん、なめこ汁もあった)。

大休止のあと、全員で高尾山方面へ。下りは快調に進むも、もみじ台手前の鞍部から距離にして600㎡弱、標高差約150㎡の登りはきつい! まだまだ夏草が生い茂りむせかえるような草の匂い。正に夏山だ!結構ふらふらになりながら細田小屋に到着。しばし休憩。此処からは無理せず、出来るだけ水平に行けるように巻き道を利用して薬王院からケーブル山頂駅へ向かい、ケーブルで下山する8名と高尾山口駅まで歩き通すという3名に分かれて行動。

そしてもちろん、最後は久しぶりの「天狗」が待っている。4時40分無事に全員集合。乾杯!!!

今回の参加者は下記のとおり。ご苦労様でした!

(35年)平松、椎名 (36年)翠川、吉牟田、遠藤、高橋、鮫島、(38年)町井、(39年)多田、蔦谷、堀川

 

(堀川あとがき)

昨年までは8月はお休みでしたが・・・敢えて、開催することにしました。暑さのことも考え8月後半にし負担を少なくしたつもりですが想定外の暑さ(蒸し暑い)に参りました。熱中対策は各自工夫をされていましたがコースも少し長かったかもしれません。幹事役としてはエスケープルートの研究、バスの時刻表等の資料を整備しておくことを痛感しました。携帯電話が繋がりにくいことも肝に命じました。なお、9月の月例は9月20日(水)です。未定ですが、薬王院で精進料理を食べようかと思っています。

ナンカナイ会 夏の集まり (36翠川幹夫)

卒業時60数名居たワンゲル同期生仲間も事故や病魔に襲われて、50名を割っている(正しくは48名)。我々の年次は偶々だが90%以上が首都圏在住で、新年とお盆時期に年2回の「例会」を持ち、30人前後が集まって同じような話を繰り返しながら語り合っている。野外では、昭和40年代初めから始めたゴルフも数名から十数名で今でも延々と継続し、高尾山など近郊の野山にも月1回程度集まって出かけている。登山や スキーはワンゲル全学OB会で合宿形式で運営されているが、流石に我々年次の参加 人数は減って来た。

そんな中で昨日(8月24日)、都内、四谷で「夏の集まり」と称する例会を開催、28名が集まったが他に一人、日程を間違って(翌日と勘違いして)no-show。特に話題が ある訳ではない。3~4卓の丸テーブルを回りながら、最近やったこと、見たこと聞いたことなど語り合い、聞いた話は後で全て忘れてしまうような時間を過ごしている。次は来年早々の「新年会」である。

八ヶ岳山麓だより その2

全国的な天候不順の今年は八ヶ岳山麓でも同じで、僕らが滞在したほぼ1ケ月の間、快晴の日は一日もなく、毎日が曇天と小雨模様の連続、何しろ甲斐駒が満足に見られたのはほんの2,3回にすぎず、やる気の出てこない夏があっという間に終わってしまった。一方で張り切って持ち込んだ本もあまり読まず”中級”をめざすはずのドイツ語の勉強もしなかった。天気のせいにしてはいけないのだが。

しかし今回は前から思っていたのだが、近くに拠点を持っているOB仲間との交流の機会があったのは嬉しかった。47年の吉田学夫妻とは3年ほど前、全くの偶然からハイキング中に出会い、昨年、拙宅に来てもらい今年は彼らの素晴らしいヒュッテにご招待を受け、同じワンダー夫婦の会話を大いに楽しむことができた。また42年の下村祥介君とは一昨年の夏合宿で同じパーティになってお互いが近隣であることを知ったので、これまた再会を企画していたのだが、今年、彼の音頭取りで”八ヶ岳山麓会”というのが企画された。第一回のことなので、蓼科にいる41年の久米夫妻、それとゴルフにやってきた40年の藍原、武鑓両君とが集まる手はずになっていたのだが、何と当日朝、僕の持病の食道炎が突如発病して誠に残念だが我々はドタキャンをさせてもらう羽目に陥ってしまった。誠にお恥ずかしく申し訳なかったが、大変楽しい時間だったと連絡をもらった。ぜひ、この輪が広がればいいと思う。

(下村君から)

昨日は藍原さん、武鑓さん、久米ご夫妻と梅蔵で昼食、 その後小生の原村山荘でワインなどで歓談。 楽しいひと時を過ごすことができました。 ジャイさんご夫妻のいらっしゃらないのが画竜点睛を欠くきらいが ありましたが、先輩・後輩、 同じ釜の飯を食った仲間で昔ばなしに盛り上がり朱夏を謳歌した次 第です。

(武鑓君から)

お会いできるのを楽しみにしておりましたのに残念でしたが、 残りの仲間で美味しいイタリアンと下村邸での楽しい一時を過ごさせてもらいました。
また、機会ありましたらよろしくお願いします。
逆流性食道炎は小生も胃手術の後遺症で時々なりますが、 辛い症状です。
お大事にして下さい。

(藍原君から)

「頑健」のイメージしかジャイさんにはありませんでしたが、神様の風がどんなふうに吹いたのでしょうか?

兎に角残念でした。私は後輩たちに囲まれてご機嫌で酒を飲ましていただきました。又の機会を期待しながら、早急のご快復を祈っております。

勝手に”八ヶ岳山麓”などと言っているが、ここでは北の蓼科山から南の権現岳までの連峰のいわば信州側に広がる地域を意味していて、佐久側はおおむね清里あたりまでが我々のゲビートにあたる。一番北にある蓼科温泉を中心とする歴史のある別荘地域には、32年の荻原先輩をはじめ、35年の徳生さん、46年の石渡(つまりオスタである)夫妻、それと同じ”蓼科”という文句を謳っているももの実はだいぶ離れたところになるのだが、三井の森、と呼ばれる高級別荘地に前記の下村君と久米君夫妻が、甲斐大泉、小泉につながるいわば新顔の地域に同じく前記吉田君、41年の佐川君夫妻とわれわれの家が点在する。ほかにもこの地域に拠点を持たれているOBがおられればぜひコンタクトができればうれしい。

”平成の大合併”までは高根(清里もその一部)、長坂、小淵沢、明野、などと言われていたこの地域は今や北杜市、とよばれるようになった。僕らの家はその西端、長野県との県境といっていい場所にある。先月書いたようにこのあたりは武田信玄(37年初田君によれば、この地では”信玄公”と言わなければならないそうだが)の信濃攻略の足場だった地域で、大河ドラマ”風林火山”の山本勘助を思い出すし、また”真田丸”のバックでもあるというわけで、ほぼ15年通ったおかげですっかり甲州の地びいきになってしまった。それと言わずもがなだが、山梨は日本におけるワインの産地であり、さらに塩尻あたりにかけては新しい感覚を持ったワイナリーがたくさんある。あまりむずかしいことはわからないのだが(田中新弥や浅海昭あたりは僕が酒を語ることすら笑い飛ばしてしまうのだ)、それでも最近名前の売れて来た地元の ”高級” ホテル”、”小淵沢リゾナーレ”の地元ワインの専門店でもっともらしい顔をするの楽しみも増えた。

さて、この”北杜市”のことだ。地元山梨の天気予報では、”大泉”という地名がつかわれている地域、JRでいえば小淵沢駅から小海線甲斐大泉駅のあたりは、はっきり言えば、見かけ、蓼科や諏訪、さらには富士見あたりに比べてもだいぶ ”ローカル” という感じをまぬかれない。僕らのいるのは”白樺平”という名前の一応 ”別荘” 地域だが、全域を見渡しても白樺はほとんど生えていない。むしろ”ミズナラ平”とすべきだ、と思っているのだが、バブル期に一攫千金を夢見た業者の誇大広告の典型だろうか。地図を見ると一応200戸近い名前があるのだが、その半分以上は売れたまま、中には持ち主と連絡が取れない、というものがあるようで、いわば買ったほうも転売目的の投資だったのだろう。そんなわけで、当然のことだが、蓼科などの大規模別荘地にあるセンター的な施設は全くないから、日常の買い物も当然として、外食するとなるとあちこちに点在する小さな店を探して歩くことになる。前記の”山麓会”は下村君の企画で、だいぶ蓼科に近い一角にある、かなり名の売れたイタリア料理店でやったのだが、長坂から小淵沢にかけては、何元かのそばやを除くと、安心して(というのは妙な言い方だが)食べられる場所はまずイタリアンが多い。和食の店もいくつかあるが、正直、甲州名物のほうとう料理をのぞくと鮮魚には恵まれない地域でもあり、15年通ってもほんの数回しか食べた記憶がない。中華も同じである。一昨年まで、日比谷発祥の中華料理の老舗があって、愛用していたのだが、去年から(どうも経営者が変わったらしい)すっかりその面影がなくなってしまったのは悲しい。

なぜイタリアンか。フレンチにくらべて日本人に相性のいいということもあるだろうが、多くの店が非常に若い人がやっていて、脱サラ組も相当いるところを見ると開業にあたってのバリアが低いのではないか。それだけに、結構出入りも激しい。数年前、近くにオープンした若い夫婦の店もいつの間にかなくなったし、やはり現実は厳しいのだろう。しかし例外もある。中央高速のインターに近いピザハウスは典型的な脱サラで、主人は必死の覚悟でイタリアへ勉強に行き、この地で開業したということだ。僕らも以前、この地を徘徊していたらしい横山美佐子のお墨付きがあったので、当初から愛用している。ドロシー・マローン(知らねえだろうなあ)によく似た、感じのいい奥さんとふたり、いつもキチンにいたものだが、大繁盛で数年前に増築し、いまではコックも3人ほどいるし、主人夫婦は一線を引いて悠遊の生活だ。大手の進出はないし、今では地元の大立者、という感じである。

こういう厳しい現実もあるが、このあたりにはこの15年間、全く同じたたずまいで、しかも我々が前を通ってもまず客らしきものをまずみたこともない、という店もある。また、飲食店ではなく、美術工芸関係の小さな店が多いのもこの辺の特色だろうが、そのような店、あるいはギャラリーという名を冠しているところも、およそどうやって商売になるんだろうかと他人事ながら心配させながら、いつ行っても堂々とオープンしているところも多い。このようなあり方と、一方では脱サラ大成功例を見るにつけ、一応は大企業と呼ばれた社会しか知らない僕には日本人のしたたかさを改めて教わる気持ちがする。

このあたりはあと3週間もすれば、すっかり秋になる。10月には紅葉も見事だが、メインの通りを外れて南側、釜無川近くの野良に出ると、”実りの秋”と日本の原点を実感させてくれる農村部のたたずまいが僕を呆然とさせる。その向こうに、甲斐駒、アサヨ、鳳凰、間に北岳、振り返れば編笠、権現。早ければ新雪もみられるかもしれない。夏が期待外れに終わっただけに、秋の日が待ち遠しい。

私のC&W

(伊川望 47年)

私たちの年代(?)ではカントリー&ウエスタン(C&W)( 俗称鼻にかかった歌声が特徴?)と称し、銀座5丁目の「ナッシュビル」に時々通い、 ハットとブーツに憧れておりました。

背負子と交換でネスケから入手した5弦バンジョー( 最後までチューニングが上手くできませんでしたが…)を抱え、浮かれていたバブル期を懐かしく思い出しました。

ジャイさんが西海岸で活躍されていた時代に、 私はバブルの恩恵を全身に浴び、疲れ知らずの日々( 連日連夜のお付き合い)を過ごしておりました。

次のブログを楽しみにしております。

伊川拝

追伸①長い間「ウィリアムハンク(?)のユアーチキンハート(? ?)」と思い込んでおりました。

追伸② ナッシュビルで最後に見たステージは高木ブーのバンドでした。

追伸③写真の掲載も如何でしょうか( 例えばグレンキャンベルのジャケットの写真があれば…)

追伸④「アカズの山歩き」も中々面白いブログです。クマ、 アカズ夫妻の“馬鹿が付くほど”の体力には呆れますが…

 

グレン・キャンベルのこと                 

(菅井康二)

グレン・キャンベル追悼をご自身の米国(カリフォルニア) 滞在経験に照らして書かれた記事を非常に興味深く拝読しました。 Giさんとは15年という年齢差もあり当時の米国の事情というか 空気感は知る由もないのですが、アメリカが変わった( 古き良きアメリカが喪失)ことをボブ・ ケネディー暗殺事件が象徴しているというのは納得できます。

その容貌からも歌声からも明らかな善人を感じさせるグレンが歌う 失恋歌であるBy the time I get to Phoenixに漂う哀感は単に個人的なハートブレイクだけでは なく当時のアメリカの世情も反映されたものであることがGiさん の文章で良く分りました。この曲は元々はジョニー・ リヴァースが創唱しましたが、作詞・作曲したジミー・ウェッブ( ”Wichita Lineman”も彼の作品)の才能も大したものだと感じます。

フランク・シナトラはこの曲を “the greatest torch song ever written.”と絶賛しカバーした録音を残していますが、 グレンの若々しい歌に比べるとジャズ・ フレーヴァーのある落ち着いた大人のバラードになっています。 グレンの歌はついこの間のほろ苦い失恋という雰囲気ですが、 シナトラのそれはかなり昔の追憶という感があり比較して聞いてみ るとなかなか面白いです。

(菅井君は塾工学部計測科卒、HP時代の仲間でPCに関してのプロです。今回の小生の暴挙?の面倒をみてくれています)

By the time I get to Phoenix

8月10日、朝の読売新聞がグレン・キャンベルの訃報を伝えた。1937年生まれ、ということだから僕と同い年である。新聞記事では”カントリーソングの大御所”、と書かれていたが、僕にはそういうありきたりの形容詞には収まり切れない、特別の感情がある。

1967年、生まれて初めてアメリカの土を踏み、2週間モーテルでの仮住まいのあと、新聞広告で探し当てたデュープレックス、日本でいう二軒長屋に落ち着き、船便で送った家財道具が何とか届いて、どうやら生活が始まったちょうどそのころ、あの, By the time I get to Phoenix を聞いた。初めて聞いたのがラジオだったのかテレビだったのか、今では記憶がないが、とにかく心にしみるメロディーだった。この曲があっという間に大ヒットし、一躍有名になって、ラジオの定番になっていた大きなシリーズ番組(エド・サリバンショウだったか?)でキャスタが夏休みのあいだ、その代理に彼が抜擢されたことを覚えている。

実はカントリーソング、という用語が何を指すのか、僕にはよくわかっていない。昔からカウボーイソングとかウエスタンミュージックと呼ばれていたものと、ヒルビリーとかブルーグラスとよばれるアパラチアの鉱山地帯からグレートスモ―キー山脈のあたりの人々の歌、その代表がいうまでもなくハンク・ウイリアムズなのだろうが、そういういわばアメリカ人の演歌、といえばいいのだろうか。それはもちろんカリフォルニアでも人々の愛好するものだが、ジャズでもウエストコーストジャズ、というのが独立したジャンルで扱われるように、この”カントリー”にもそのような、いわばシティ感覚でとらえたものがあって、キャンベルはその文脈のなかにあらわれるもののように思える。

アメリカ到着早々に月賦で買った車はとにかく金がなかったからエアコンもつけなかったが、さすがにラジオはあったので、まもなくKEEN,というラジオ局があるのを知った。アナウンサがKEEN,というコールサインを ”キーン”と発音して”Radio KEEN, 24 hours country music station”とアナウンスしていたから、車に乗ればまずこのチャネルがつけっぱなしになった。この局では当時、バック・オウエンスの曲をよく流していた。今考えるといわゆるベイカーズフィールドサウンド、という奴だったのだろうが、やはり素人の耳にも伝統的なカントリーとはどこか違う、都会的なセンスが感じられた。だが、キャンベルの”フェニックス”には、そのほかのいろんな曲にはない、うまい形容詞がみつからないのだが、ほんのりとしたぬくみ、カントリソング定番の失恋話をテーマとしながら、それを超えた人々の間の共感というようなものがあるように僕には感じられた。

住み始めた長屋にはちいさな裏庭があったが、右隣が学校の敷地でプラタナスの樹とクリンプ塀で仕切られていた。その塀の上をつたってリスがよく現れた。東京では考えられない環境であったが、異国で初めて迎える深い秋の日差しの下に醸し出される平和な時間に、憂愁を帯びたあの”フェニックス”のメロディがピッタリ調和していた。あの歌詞には、常に何かを追い求めて動き続けるアメリカ人の、いわば業とでもいえる人生観と、一方ではその中にしみこんでいかざるを得ない一種の諦観と、最後にそれを自分の事だけでなく、(おお、お前もそうだったのかい、こっちへ来なよ)というような仲間意識、つまり、良き、懐かしきアメリカ人の、というのが、いい過ぎならばカリフォルニア人の、感覚がにじんでいるのだと思われる。

当時はアメリカ自体がベトナム戦争で疲弊し、特に僕の住んでいたサンフランシスコ周辺は反戦運動の聖地であったわけだから、そういうメランコリックな雰囲気もいつの日か失われるのでは、という予感があった。果たしてある朝、ロバート・ケネディ暗殺の報が飛び込んできて、会社でも異様な緊張感が感じられた事を覚えている。この事件を境に、アメリカの変質が始まった。その後、仕事を辞めるまで、カリフォルニアは常に僕のそばに意識されていたが、”フェニックス”を聞きながらに感じていた、あの秋の日の、よきアメリカは戻ってこなかった。いま自分が人生の黄昏にかかろうとするときに、ほんのりと思い出されるものが僕らが垣間見ることができた、good old Americaの中での時間であり、グレン・キャンベルなのである。だから、僕は”恋のフェニックス”などというまったく馬鹿げた、おざなりの日本語タイトルは気に入らない。というより憎悪を感じる。僕にとって、グレン・キャンベルのこの曲は、あくまで、By the time I get to Phoenix でなければならない。

さよなら、そしてありがとう、グレン。

 

 

 

 

棒道のこと

ジャイ様

ブログ第一信拝読いたしました。「棒道」、イヤー懐かしいですね 。ブンヤ屋として最初の赴任地が甲府。3年半の在任中は信玄公( 山梨では信玄と呼び捨てにせず、必ず「信玄公」という) の話はいろいろ聞かされていましたが、なかでもロマン溢れる「 棒道」の話はよく耳にしました。八ヶ岳での遭難取材のついでに、 小淵沢町役場に寄って、「棒道」の所在を聞いたりもしました。 その頃(50数年前)はまだ町内に「上ノ棒道」 のほんの一部が残っているだけでした。

私が新聞記者になったきっかけは、当時読売新聞のコラム「編集手 帳」を15年以上書いていた、高木健夫という評論家の自宅に大学 4年の時、新聞スクラップづくりのアルバイトに通ったのが縁でし た。甲府に在任中、高木さんが、八ヶ岳西麓の長野県原村に別荘を 建てたので、よく出かけていました。その別荘の近くに、信玄の棒 道が通っていたと村長から聞かされ、調べてみたがどこだかわかり ませんでした。

その後、東京本社の社会部になり、3年先輩の小学生の息子が夏休 みの自由研究で、信玄の棒道を見たいというので、小淵沢町内に残 っていた棒道を案内しました。草藪になった部分を探して歩きまし たが見つかりませんでした。その先が今では、ジャイさんの別荘の 前にハイキングコースとなっているとは奇遇ですね。 その周辺は、とくに紅葉がすばらしいとか。10月になったらゴル フを兼ねて、棒道の散策を楽しみたいと思います。  初田正俊

ナンカナイ会夏の集まりだよ!

(翠川幹夫)

既にご連絡のとおり、今年の夏の集まりは8月24日5時、四ツ谷東京ガス四谷クラブです。まだ連絡のない方、至急確認をお願いします。

今回の ”ふみあと”にワンデルング記録は記載されていますが、参考までに2001年から、新年会と夏の集まり、そのほかの会合の記録をまとめてみました。いままでの最大人数は33人です。今年はこれを上回りたいものですが。

2001/1/25(木)銀座クルーズ・クルーズ
2001/8/17(金)ユニコン倶楽部
2002/1/16(火)カシーヌ(タネ紹介)
2002/12/12(木)キリンシティー銀座中央
2003/4/17(木)新橋キリンシティー
2004/1/15(木)キリンシティー
2004/11/27(金)赤坂プリンスホテル創部70周年記念式典
2005/1/14(金)銀座「お多幸」
2005/8/23(火)キリンシティー
2006/1/13(金)銀座「お多幸」
2006/8/22(火)東京ガス青山クラブ
2007/1/12(金)銀座「お多幸」
2007/8/21(火)東京ガス四谷クラブ
2008/1/10(木)交詢社*
2008/8/21(木)東京ガス四谷クラブ*
2009/1/10(土)東京ガス四谷クラブ
2009/8/5(水)東京ガス四谷クラブ
2010/1/9(土)東京ガス四谷クラブ
2010/5/22(土)日吉キャンパス協生館創部75年パーティー
2011/1/15(土)東京ガス四谷クラブ
2011/8/25(木)東京ガス四谷クラブ
2012/1/14(土)東京ガス四谷クラブ
2012/8/23(木)東京ガス四谷クラブ
2013/1/12(土)クルーズクルーズ新宿
2013/8/22(木)クルーズクルーズ新宿*
2014/1/11(土)クルーズクルーズ新宿
2014/8/28(木)東京ガス四谷クラブ
2015/1/8(木)東京ガス四谷クラブ
2015/8/27(木)東京ガス四谷クラブ
2015年10月  三国山荘へ旗掲揚台を寄贈
2015/11/7(土)帝国ホテル 創部80周年記念パーティー
2016/1/7(木)東京ガス四谷クラブ
2016/8/25(木)東京ガス四谷クラブ*
2017/1/7(土)東京ガス四谷クラブ
2017/8/24(木)5:00pm 東京ガス四谷クラブ

*参加人数33名(最大)

 

八ヶ岳山麓から  その1

僕のブログの記念すべき第一号発信を八ヶ岳南山麓にあるセカンドハウスで書いている

一応 ”別荘地”なるもののじっこに2002年に建てた小屋だ。場所は北杜市小淵沢。別荘、というイメージが定着した箱根とか蓼科とか軽井沢とかいった土地柄ではないし、大手の企業がやっている大規模・ハイクラス志向のものでもない。それまで聞いたこともなかった小さな不動産会社がひらいた場所なのだが、一応のインフラはあるし、管理も行き届いているので、僕ら夫婦が目的としている”二か所定住”スタイルを貫くに不満はない。しかしなにより気に入っているのは、家の文字通り真ん前を”棒道”が通っていて、その向こうが秋深まればゴージャスな紅葉がみごとな、深い原生林になっていることだ。

棒道、というのは武田信玄が信濃攻略のために作った軍用道路と言われていて(近年の研究では信玄以前に存在した道だ、という説もある)、現在の地名でいえば穴山あたりを起点にして長野県和田峠まで、三本のルートがあった、というのだが、現時点でその痕跡が明瞭で保護されているのはそのうちの”上の棒道”の部分である。穴山は武田勝頼が築いた新府城のあったところで(中央線に新府駅がある)このあたりが起点というのはうなづける説であるが、この”上の棒道”の核心部は小海線甲斐小泉駅近くの小荒間という集落から始まり、小淵沢カントリクラブの敷地をかすめて小淵沢インターからくる道路の下をくぐり、通称 ”鉢巻道路”と呼ばれる八ヶ岳周遊道路を原村へむかう途中で消える。小荒間から山道に入り、標高差でほぼ100メートル、最後のピッチを登ったところで拙宅の前に飛び出すということになっている。ハイキングシーズンにはハイカーが言ってみれば軒先を歩いていくので、別荘管理規定がなければコーヒースタンドでもやれば小遣いくらいは出るかもしれない。コースは地元の管理が行き届いていて、快適であるし、中ほどにはきれいな、小さな流れが2本ある。古いガイドブックで権現あるいは編笠への案内を探すと小泉から棒道をたどるのが標準になっているので、ベテランの登山家には知られたルートだったのだろう。名著”北八ツ彷徨”で知られる山口耀久氏の続編”北八ツ挽歌”にも一部、棒道のことが出てくる。

卒業して2年で結婚して、そのあと2年は夫婦で結構山を歩いた。その間に、村井純一郎(37年卒)とひょんなことから付き合いが再開し、彼の勧めで北八ツに足を運ぶことが増えた。子育て期に入ると、多少ひけめを感じながら、単独でもいろんなルートを歩いたが、なかでも当時の高見石小屋の雰囲気が好きだった(今の高見石にはあの頃のロマンはまったくないのだが)。それに比べて南八ツは夫婦で真教寺尾根から赤岳のラッシュをやったことがあるだけで、全く縁はなく、特にその南を限る権現岳は一度行ってみたいところだった。会社をひいて2年たち、2001年9月の初週、翠川幹夫、深谷勝、中島英次、岡秀雄、安東静雄に我々夫婦というメンバーで小淵沢地内の観音平から編笠へ上り、ついでに西岳を回って青年小屋へ泊まり、翌日、権現へ行くという旅を楽しんだ。考えてみるとこの時のメンバーとは現役時代、合宿などをのぞくと一般プランでは全く顔を合わせたことがなかった。30年を超える時間を経過してそれに気が付くというのものんきなものだが、この時の仲間が現在”月いち高尾”の中心になってほぼ毎月顔を合わせているのもなにかの因縁だろうか。

重要なのは、このワンデルングによって、僕ら夫婦が小淵沢、という土地を知った、ということである。そしてその後の経過がすでに記憶から抜け落ちてしまっているのだが、ある日、口の達者な営業マンに連れられて、たしか小雨が降っていたと思うのだが、今の場所を見に来た。まだほとんど家もない、原野といっていいくらいの場所だった。清水の舞台から飛び降りる、といえば言い尽くされた表現だが、そんな気持ちで契約した理由の一つは、この場所が”棒道”という歴史ロマンに隣り合っている、ということだった。信玄軍団の侍たちが歩いた道がそこにある。ローマを訪ねたとき、”シーザーが歩いた石畳を俺は今歩いている!”と興奮したものだったが、同じような、不思議なたかまりがあった。

契約を決意する前の3月に、八方尾根の帰りだったような気がするのだが、この場所へ来てみたとき、膝を没する新雪が森をうずめていた。尾崎喜八の文章に、同じように雪に埋もれた、友人が作った小屋の入口へ、”僕もいつの日か、襟巻をはためかせてここへ滑り込むだろう”というような一節があった。襟巻がキルティングに変わったにせよ、その日が来年には来る!という気持ちが湧いてきて、決意をさらに固めたものだった。

その後12年を経ているが、あの時のような積雪があったことは一度もない。何冬かして、悔しくて土地の人に聞いてみたら、あの時はとてつもない大雪だったがあんなことはもうないね、といわれてなんとも悔しい思いをした。

とにかく、棒道と編笠・権現。この二つに出会わなければ僕らはこの好ましい土地に来ることはなかった。満州から引き揚げ、以来の東京育ちのゆえ、故郷、というものを持たない僕には、このあたりの人と人情、ちょっと歩けば文字通り日本農村の原点、というようなたたずまいは心のフルサト、とでもいうべきものになりつつある。これからも花鳥風月を楽しむ、というような高尚な気持ちにはならないだろうが、デッキに座ってミズナラの林を過ぎていく風の音をききながらジントニックをすする、程度の恰好はつけながら、第二の故郷の時間をすごすつもりだ。

(幸い、このあたりには佐川久義(41年)夫妻、下村祥介(42年)、吉田学(47年)夫妻などの諸君が拠点を持っているし、少し離れるが蓼科には荻原年(32年)、徳生勇二(35年)両先輩を始め、久米吉之助夫妻、石渡美知江(46年)君らがいる。この夏には下村君の肝いりで第一回八ヶ岳山麓会、なるものをやろうということになっていて、そのような意味でもKWVの絆が固められる楽しみもある。)

 

編笠と権現

編笠と

権現のあいだに

雲がかかっている

 

夏の終わりの雲だ

 

あの稜線を駆け上がった心臓の鼓動は

まだ

どこかに新しいのだが

今の心は

どうしてもそこへ行かない

 

夏の終わりの雲だ

 

それでは、また。

 

 

おい、大丈夫か?

(大塚文雄より送信)
ブログ開設を祝していいのか、感心していいのか、 はたまたお気の毒と思っていいのか?
他人事ながら判断に窮します。ブログに挑戦した知人の話では、 一定の間隔で書き続けると苦行になるそうです。 長さにもよるでしょうが。月2回挨拶版ほどの長さを書き続ける締日との戦いの行方はいかに ?