グレン・キャンベルのこと  (40 武鑓宰)

ブリューゲル展へ行ってきました  (34 小泉幾多郎)

人の誠意は国境を越える! (32 伊豆山康夫  47 関谷誠)

(関谷誠君からの便り)

ご存知かと思いますが、KWV32年卒の伊豆山康夫さんは若くしてブラジルに渡り、CIS Eletronicaという電子部品メーカーを起業され、かの地で成功を収められている大先輩です。先日、「日本ブラジル中央協会」なる団体の会報に伊豆山さんが添付を寄稿され、それがブラジル関係者の間での情報ネットワークで流れてきました。

小生その昔、ブラジル各地の拠点で総勢5千人を超える従業員を預かっていた時代、常時200件を超す労働訴訟を抱え、苦労させられました。莫大な費用と時間を費やしましたが、伊豆山さんレポートのテーマでもある最近の労働法の改正で、多少は改善されているようです。

伊豆山さんはこの仲間内のネットワークで「個人の生き方も、会社経営も、所詮、人間の為すもので基本はブラジルであろうと、日本であろうと、何処の国であろうと変わらないとの思いを伝えたく書いたものです」とコメントをされています。伊豆山さんの長年のご苦労とこの人間に対する深い思いに感銘を受け、斯様なKWV三田会会員がいらっしゃることをご紹介いたしたく投稿します。

 

ブラジル新労働法に思うこと

執筆者:伊豆山 康夫 (CIS ELECTRONICA社 会長) 

Manausに本格的工場を設立したのは2015年、既に2年半になりますが、弊社とパートナーを組み、生産委託をしてくれる会社が現行数社あります。(TornozeleiraのSpacecomもその一社です。) お蔭さまで、順調に推移して参りましたが、CIS Eletronica(サンパウロ)の工場は仕事がどんどんと減少し、工場閉鎖も止む無き状況になりました。従来より出来るだけ従業員を減らして参りましたが、遂に採算維持上、サンパウロに セールス、サービス、管理、技術開発部門を残し、サンパウロの生産工場は、閉鎖せざるを得ない状況に陥りました。何しろ操業34年と長い間、弊社の生産を支えて来た工場なので、15年~20年勤務の工員(大半は女性)が大勢いて、解雇には大きな費用が掛かりますし、万一争議になれば、収拾が困難になることも予想されました。

既に新労働法が議会を通過し2017年11月に発効が決まりましたので、リストラ断行を先延ばしして、新労働法発効に合わせ11月30日とし、実行の準備、検討をして参りました。工場閉鎖に当たっては、弊社の弁護士が、新労働法に基づき、4通りのリストラ案を提示しましたので、それらを役員会で検討し、その一つである労組の仲介案の採用を決めました。そして、労組と交渉を開始、漸く11月末日をリストラ条件提示の日と決め、当日、辞めさせる人、残って貰う人両方合わせ全員に集まってもらいました。

私は今でも名目社長を務めていますが、実質社長の長男は、労組代表が弊社のリストラ案を全社員に提示する前に、自分からどうしても全社員に伝えたいメッセージがあるからと、事前に労組代表の了解をとり、檀上にあがり、リストラに至るやむを得ない事情を話し始めました。ところが何時も強気な長男が檀上で声が詰って話せない状態になりました。  彼の断腸の思いは皆に伝わり、皆涙ぐみ、冷水をコップに注いで持ってきてくれる者もいて、会場は静寂に包まれました。私は内心、誰か拍手をしてくれないか、そうすれば、全員から拍手を貰えるのにと、拍手を期待しましたが、残念ながら拍手は起こりませんでした。CISにはもう一人、息子の学友で、技術、生産部門を担当してくれている役員がいます。 彼は、声を詰まらせた息子を見るに見かねて立上りましたが、彼も又、言葉を発することが出来ない状況でした。

見るに見かねた私は、止むを得ず立ち上がり、「私の最も嬉しく思った思い出話」として、少々場違いの感はありましたが、次の話をいたしました。

それは、ある日の家族を含めた会社のパーティーの時、工員さんの一人が、未だ小さな自分の子供を私の処に連れて来て、「この私の子を、将来、CISで働かせたいので、この子を覚えて下さい」と云うのです。(実は同じ様なことは過去、何回か、別の従業員からもあったのですが、)この社員の気持ちは私にとって、忘れられない、とても嬉しいことでした。 そして「どうか皆さん、会社を辞めても、それはCISファミリーからの縁切りではないので、年末のパーティーや社内の慰安旅行にはこれからも参加して下さい」と締めくくりました。その後、労組代表から辞めて貰う社員名、退職条件の発表、承諾の是非、等々、詳細に入りましたが、去る者、残る者、皆明るく、終了後は笑い声が絶えず、何時もの社内パーティーの如き雰囲気になりました。

この結末は労組代表の女性弁護士さんにも強い感動を与えたようでした。彼女の言葉は「私は100社近い集団解雇の交渉に立合って来ましたが、CISの様な会社に初めて出会いました。もっと早くに知り合いたかったです。」とのことでした。

私はつくづく考え込んでしまいました。 従業員、いえ、人間の気持ちは日本もブラジルも変わらない。誠意は通じるものだと改めて思うのでした。ブラジルでの労務対策は他国と比較して決して難しいものではない。むしろ易しいのでは無いかと今は思い直しています。 労働者、貧困者、身体障碍者などの権利、義務を主張すること自体、決して間違っているとは思いませんが、度を超すと人間の善意を妨げる結果に繋がることもあり得るわけで、理想郷を造るのは如何に難しいことか。真の優和を求めるには宗教に依存する道しか人間には残されていないのだろうか? 深く考えさせられます。

現地三田会で塾森常任理事

(伊豆山さんの関谷君あて返信)

関谷さん

ご連絡有難うございます。関谷さんも同様かも知れませんが、私には、今となっては、KWVの仲間が一番大事です。私の帰国に合わせ32年の仲間が集まりますが、帰国時の一番の楽しみです。関谷さんはじめ、後輩の方々も同じだと思います。現役の方々にも、この伝統は伝わっているのでしょうが、是非、そうであって欲しいです。お申し越しの件、承知しました。どうぞ皆さんにご披露下さい。

今年のカーニバルも、リオのMarques de Sapucaiに行き Mangueiraに参加します。皆さんにご紹介出来るような参観記が掛けましたらお送り致します。

伊豆山

 

 

3000を愛した人の会 

3000、と言っても何のことか、と言われるのは当たり前だが、ヒューレット・パッカード(今HPとして知られている会社は僕らの愛していた会社とはあまりに掛け違う別物なので、あえてこの略称は使わない)が70年代後半に発表した ”汎用(まだ当時は技術用とは区別されていた)“ コンピュータの名前である。電子技術においては世界で一、二を争う超優良会社がなぜこの業界に挑んだのかは興味あることだが、まさかIBMですら苦戦を強いられていた日本のコンピュータ市場に進出するとは、当時の常識でいえば考えられなかった。しかし日本での総代理店であった横河ヒューレットパッカード(YHP)では立場上、親会社の意向には逆らえず、苦戦覚悟で1980年から準備がはじまった。その時に招集された仲間が久しぶりに集まる会合が2月2日夜、設けられた。僕は2年ほどたってからかかわったので、オリジナルメンバーではないのだが、席に呼ばれる光栄に浴したわけだ。

当時新入社員であった瓜谷輝之によると、配属前に “運の悪いやつがひとりだけ3000に呼ばれる” といううわさが流れ、よもや俺ではないだろうなと思っていたそうだ。配属が発表された日には同期の仲間が残念会をやってくれた、というから、だれの目に見ても勝ち目のない戦だったのだろう。僕のほうはその2年前、別の企画があってもう片方の親会社横河電機に出向していた。期間が終わり、”このまま残れ”と言われたのだが、どうしても戻りたい、と言ったら、”戻るなら3000の部署しかないぞ“といわれた。”しか“ である。どのらい ”しか“ だったかは、ワンダー時代の仲間や経済学部F組のクラスメートで当時同業にあった連中のほうがよく知っているだろう。

が、ま、とにかく言った以上は引っ込みがつかず、1981年からこの場所での仕事が始まった。その後の苦戦具合についてはいまさら話をするつもりもない。ただ、今日の席を設けてくれたオリジナルメンバー、その後、この今考えても困難な企画に参画してくれた後輩たちとは、これ以上ない、貴重な経験をさせてもらった。僕自身についていえば、3年を費やしても結果が出ず、当然ながら担当をクビになったのだが、誠に幸運なことに会社自体は日の出の勢いだったから、ポジションができ、まもなく営業の一線に戻してもらえた。その後の時間を含めて、3000と過ごした時間は、僕にとっては第三の青春、といってはばからない、苦しかったが楽しいものだった。甘酸っぱい思い出のつまった慶応高校時代から大学ではワンダーフォーゲルで過ごした4年間が第一の青春であったとすれば、第二の青春、はYHP八王子工場の生産現場で “一工員” として過ごした2年間だった。そしてこの第三の青春、のほとんどは新宿、第一生命ビルの6階で燃焼しつくした。

さて、今回は瓜谷の骨折りで昔の仲間が久しぶりに集まったこの席、いろいろと話が弾む中で菅井康二から聞いた話が僕を感激させたので書いておきたい。。

3000の最大のユーザは何と言っても全国の工場の生産管理用にと採用してくれたT社で、当時の永島陸郎社長は同じゼミの仲間だった。当然僕も足しげく彼のもとに通い、最終的に採用してもらったわけだが、菅井が永島の親戚筋に当たるY氏と知り合い、ある席でこの話がでたそうだ。Y氏によれば、当時永島のスタッフはほとんど全員が3000の採用に反対だったが、彼の ”俺はコンサルタントより学友の言うことを信じる“ という一言で話が決まったというのだ。永島とは卒業後も親交があったが、そんなことは何一つ、言わなかった。寡黙だが誠実、という印象そのものの男だったが、改めて深い感謝の念を新たにする。痛恨の極みだが彼は2年前、病を得て急逝してしまった。いまとなってはただ、合掌するのみである。

当日、新宿で会が終了し、出席した9人と別れた後、ひとりでこの思い出深いビルを訪れた。僕の退職記念パーティーは関係者の心づかいで、ここで開いてもらったのだが、それ以来、実に20年ぶりである。もちろん、すでに働いている人は当然いない時間で、エレベータを降りた6階はただしんとしていた。フロアを歩いてみた。僕が座っていた”支社長室“のあったところはなんと新宿区の税務事務所。ほかにいくつかの会社。何の音も聞こえない、三角形のフロアをひとめぐりするうちにいろんな記憶が錯綜し、殺到し、共鳴する。なんともいいようのない時間だった。

“明治は遠くなりにけり”と詠んだのが中村草田男だったか、久保田万太郎だったか忘れてしまったが、その句が心に浮かび、平成も終わろうとしているいま、時間の冷酷なありようを改めて感じて帰ってきた。

大雪の日の散歩 (小泉幾多郎・後藤三郎)

(34 小泉幾多郎)

2018年1月 高尾山月例報告 (39 堀川義夫・岡沢晴彦)

堀川は当日家内の具合が悪くなり、欠席いたしました。新年早々に、皆さんにご報告しましたようにオーナーと事務局で打ち合わせをして、副事務局長の岡沢さんと藍原さんを決めていたため事なきを得ました。家内はノロウィルスに感染して、医者で点滴をしたり、水分補給を小まめにしろとのこと、終日看病に追われましたが、翌日にはケロッとして回復しました。

岡沢さんの報告

参加者 吉牟田 翠川夫妻 中司 平松 蔦谷 武鑓 中川 浅野 藍原 岡沢 の11名 平松さん天狗は欠席

全員楽々コースへ  登山口駅からバスで大垂水峠⇒一丁平⇒もみじ平北巻道⇒細田小屋(昼食)⇒下山

10時24分バス高尾山口駅発 大垂水峠10時43分発 一丁平11時25分

一丁平北巻道ともみじ台北巻道(共にシモバシラの説明案内板がありました)を通ったのですが 全然シモバシラの気配はありませんでした。12時15分細田小屋着 小屋は閉まっており鎖が張ってあったのですが 小雨が降り始めたので軒先を借りちょうど全員が座って雨宿り 食事ができました。12時35分細田小屋発一号路 ケーブルカー 電車で14時 天狗着 皆楽しく大きな声でおしゃべりをしていました。

15時35分解散

汁粉とぜんざいはどう違うのか   (40 藍原瑞明)

(前置き  中司)

考えてみると、このプラン開始以来、雨に降られた経験はほとんどない。発足当時は天候を見て参加するのも当人次第、としていたのを、間もなく悪天の場合は事前に連絡しあうようにしたので、当然といえば当然なのだが、今回は天気予報もかなりブロードだったので、結果として本人の判断で11人が集合。行動記録は前掲堀川:岡沢両君の記録に詳しいが、今回はなにしろ時間も早いし、天狗ではビールよりも熱燗かなあ、などと論議が始まった時、サプライズ発生。あのいかつい武鑓君がおずおずと、今日は 白玉しるこ がどうしても食べたい、と言い出したのだ。彼によれば、来るたびにそう思っていたのだが言い出せば吉牟田、鮫島など酒奴(注1)にさげすまれ、先輩諸氏の反感を買うと思って遠慮していたのだという。なにしろ寒かったことので全員早く下山したいばかり、その場では異議もなく1400には天狗到着、熱燗ならぬ温紹興酒ボトル2本で開宴。一段落してそれではということになったが、ここで、“しるこ”と“ぜんざい”はどう違うかという哲学的論議が発生、さらに“おはぎ”と“ぼたもち”はどうかについて天狗のおばさんまで巻き込んで論戦ほぼ30分。このままでは会が分裂しかねないと調査を藍原君に委託(学年差健在)。見かけによらず律儀なアイちゃんによる報告が届いた。このまま、関係者のみで消化するにはもったいないので、ワンデルング報告に加えて掲載することにした。

(注1)われわれが現役時代お世話になった故塚田ドクターは名だたる酒豪であったが、同じ酒飲みを定義して、“のんべえ” と、風格ある大人 “酒仙”、それと酒の奴隷状態に身を落とした “酒奴” に区別していた。同期にはいまだ”酒仙”は存在しない(あえて名前は上げないが、酒奴予備軍は多数存在する)。

以下,藍原リポートを転載する。

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昨日 つきいち高尾の会が開催され、雨模様の中、無事下山し、いつものように天狗にて懇親いたしました。雨模様の為、急いで天狗に駆け込みましたので、時間もあり、のんびりとくつろぎました。話題ものんびりしたもので、天狗のメニューを見ながら言葉の違いに花が咲きました。例えば、「しるこ」と「ぜんざい」・「おはぎ」と「ぼたもち」・「せんべい」と「おかき」の違い皆様それぞれ薀蓄を述べられていましたが、千差万別でした。結果私に調べるように下命あり、その結果を報告いたします。

詳細は添付の資料をご覧ください。上記の簡単な言葉でも異なる地域の言葉の違いが面白いです。結局皆様のご解釈が全て正解ということでした。

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「しるこ」と「ぜんざい」の違い  三省堂の国語辞典によると

しるこ(汁粉) 餡を溶かした汁の中に餅等をいれた食品

ぜんざい(善哉)つぶしあんをまぶした餅。

違いが分かる辞典によると

おしるこ(お汁粉)とぜんざい(善哉)はどちらも小豆を砂糖で甘く煮て餅や白玉団子を入れたものだが、両者の違いは、関東と関西で異なり、関東では汁気の有無、関西では使う餡の違いで区別される。 関東では 汁気のある全般を「おしるこ」、汁気の無い餅に餡を添えたものを「ぜんざい」と呼んでいる. 関西ではこしあんを使った汁気のあるものを「しるこ」粒あんを使った汁気のあるものを「ぜんざい」、汁気のないものは「亀山」や「金時」とよばれる。

関東でも餡による区別がないかと云えばそうでもない。 区別する場合はこしあんを使ったものを「御膳汁粉」、粒あんを使ったものを「田舎汁粉」という。 また「小倉汁粉」という呼称もあり、普通は砂糖で煮た小豆粒にこしあんを加えたものをいうが、粒あんを使ったおしるこを言うこともある。

「せんべい」と「あられ」と「おかき」の違い

米菓は「せんべい」と「あられ」、「せんべい」と「おかき」という組み合わせであれば明確に区別することができる。せんべいは、うるち米(ご飯のお米)が原材料に使われる。あられやおかきは、お餅と同じもち米が原材料に使われている。そのため、原材料によって、「せんべい」と「あられ・おかき」のグループに分けることができる。

「あられ」と「おかき」は、同じもち米が原材料であるため、「せんべい」との違いのように明確な区別の方法はないが、一般的には次のように区別されていることが多い。あられは、餅を煎る際に音を立てて跳ね、膨らむ様子が、空から降ってくる「霰(あられ)」に似ていることから付いた名で、霰のように小さいものである。

おかきの語源は、鏡餅を手や槌で欠き割ったことから「欠き餅」と呼ばれ、宮中の女房言葉として「おかき」になったもので、霰に比べ大きいものという印象がある。しかし、何センチ未満が「あられ」何センチ以上が「おかき」といったものではなく、大体の大きさの区分である。

また、「あられ」は関東を中心に広まった呼称で、「おかき」は関西を中心い広まった呼称であるため、関西地方では「あられ」のように小さい米菓も「おかき」と呼ばれることがある。

「おはぎ」と「ぼたもち」

おはぎとぼたもちは基本的に同じ食べ物で、どちらか一方で呼ばれることが多いが、季節・大きさ・材料によって呼び分けられることもある。ぼたもちは漢字で「牡丹餅」と書き、春の彼岸の頃に咲く牡丹の花に似ていることから付いた名。

おはぎは漢字で「御萩」と書き、秋の彼岸の頃に咲き萩の花が咲き乱れる様に似ていることから付いた名で、春に作るものを「ぼたもち」、秋に作るものを「おはぎ」と呼び分ける地域も多くあったが、現在は、季節によって呼び分けられることは少ない。

ちなみに、夏は「夜船(よふね)」冬は「北窓(きたまど)」という。大きさによって、「おはぎ」と「ぼたもち」を呼び分ける地域もある。

おはぎには「つぶあん」、ぼたもちには「こしあん」を使い、あんこの違いによって呼び分けることもある。収穫シーズンとなる秋の小豆は、皮まで柔らかいことから、秋のおはぎには「粒あん」を使い、春の小豆は冬を越して皮が固くなっていることから、春のぼたもちには「こしあん」を使ったためといわれる。

その他、いろいろ呼び分け方があり、地域やメーカー・販売店によって逆転していることもあり、全国共通のものではない。

新春七福神詣での話 (34 小泉幾多郎)

山荘運営について思うこと (54 石倉周一郎)

私自身は、三田会活動(親睦委員会)に参加した10年くらい前から、山荘で行う行事にはほぼ全部参加しており(但し、「新道隊」とか「冬ごもり」とかには参加しておりません)、一昨年から山荘委員も兼務しております。「なにゆえ山荘に行っているのか」という私の思いの説明になってしまうと思います。

私にとって「山荘」は、極端に言ってしまうと「ワンダーOBとして現役との交流を持てる唯一無二の場」ということです。もちろんそれだけではありませんが、そういうことが好きで、そういう環境の醸成を目指して山荘に通っておりました。「現役~80歳のOBまでが思いを一つにできる場所」として三国山荘ほどふさわしいところはありません。

けれどももし現役がその維持管理の任に耐えられなくなったら「山荘」での交流が保てなくなったら、いよいよ山荘を始末するという選択をせざるを得ないこと、それを先の世代に先送りしないでKWV三田会に力(お金)があるうちに実行すること、ではないかと思っています。浅貝の地に「新たな山荘建設」ということは現実的なことではないと思います。

現在の山荘維持にあたって、例えば「ごみ処理」ひとつとっても結構大変ということをご存知でしょうか。宿泊される方には「自分のゴミは自分で持ち帰ってください」というお願いをしています。

「生ゴミ」、「燃えるゴミ」、「缶・瓶ゴミ」など、きちんと分別してそれぞれ指定日に指定場所(本陣前あたり)に出さねばならないのですが、「平日」の指定日にはだれも浅貝にいないので、山荘祭の時などは、現役が直接(休日も持ち込むことができる)塩沢の処分場まで車で持っていったり、場合によっては都会まで持ち帰ったり、しています。

庭に焚き火場がありますが、ゴミを燃やすことは絶対できません。(下手すると別荘住民から通報されます・・・おそらく、通報されたこともあります。煙の色が違ってきますもんで)。いい加減にやっていた我々現役時代と違って、現在、現役は「湯沢町民」としての義務を生真面目に一生懸命やってくれています。

そんなことも含め、都会にいるOBが、心ない宿泊者への対策なども含め「宿泊施設」として運営するのは無理ではないでしょうか。(管理会社に委託するとか、奇特なボランティア精神にあふれる誰かが小屋番などやってくれるとかすれば別ですけれど、私はまっぴらですが)。