僕もとうとう、数えで80歳になりました。会社を辞めたのが1999年10月31日ですから、”無職”生活もほぼ20年ということです。
勤務していたヒューレット・パッカードを辞める、といったとき、多くの部下から、”ジャイさん、これからどうするんですか?”という質問を受けました。役員定年まで2年を残してやめるということから、どこかほかの外資系会社へいくのだろうと想像していた人がほとんどだったようです。今後一切仕事はしない、俺には学生時代からの素晴らしい友達が山ほどいるから、これからはやつらとの再会を楽しみたいから辞めるむんだ、と言ったとき、彼らの一致した反応はまさに羨望そのものだったと思います。
日本の社会においては仕事を離れた翌日から、どんなに社会的地位を持とうと高給を食んでいようと、人間関係の喪失に悩む人が数多くいます。僕にとって一番身近な例が父親でした。サラリーマンとしてはいわば人臣位を極め、いわゆる財界人として日向に居続けた人でしたが、母に先立たれ、最終的に引退後、しばらくは部下の人たちも訪ねてはくれたようですがそれもいつしか絶え、訪れる友人もなくまさに落魄、というべき晩年を過ごしていました。それを見ていたので、俺は違う道を歩く、という気持ちが強かったのです。僕には数え切れないほどの、時としては命を預けあったことさえある、強い絆で結ばれた友人がある、ということがその支えでした。しかも幸運なことに、KWVではOB会が活性化され、そのおかげで後輩の諸君とも親しくなることができてその輪はひろがりましたした。勤務していたHP社も米国会社にしてはOBを大事にする気風があった(今は疑問だが)し、慶應には三田会の伝統があり、高校や普通部時代、さらには小学校時代の恩師やクラス仲間とも交流を続けています。本当に恵まれた環境だとつくづく感じます。
しかし20年という時間の経過は残酷です。仲間の幾人かはこの間に鬼籍にはいり、自分の足も時としてはよろめくようになりました。これから後何年、元気でいられるかわかりませんが、その間、この輪を保ち、できることなら広げたい。仲間たちの消息を伝え、自分のありようやら意見やらをできることなら共有して、この輪を保っていきたい。そんなこともあって、思い切ってブログ、とやらを始めることにしました。
ただ、”ブログ”というシステム本来の、いわば不特定多数の人たちとの交流、ということは目的としませんので、本件のご案内は慶応義塾大学ワンダーフォーゲル部(KWV)OB会、会社時代の親しい友人の方々、学生時代からの長い付き合いの方々に限らせていただき、コメントやサイトへのご投稿はサイト直接ではなくメールで小生あて頂戴することにしました。ただサイトの目的上、公開掲載すべきか、ごく個人的な交信とするかは僕のほうで判断、選択させていただきますのでご容赦ください。
ま、あと何回続くか、自分でもよくわからないのですが、これが自分にとって開いた社会への窓、と考えています。原則(狙い)として月2回程度、更新をしたいと思っています。よろしくお付き合いいただければ幸甚であります。
今回の冒険?を理解し、初心者をあきらめずにご指導いただいているHP社時代からの畏友、菅井康二くんに改めて感謝いたします。