先週の映画館行に続いて久しぶりに紀尾井ホールへでかけた。小泉先輩やら後藤三郎なんか筋金入りのクラシックファンには及びもつかないド素人だから、曲そのものよりもそれにまつわることのほうが先に出てくる。
小生の兄は8歳半年上だったから僕が中学生になったときはすでにサラリーマン、およそ正反対の性格の真面目一方。フルブライト留学生試験にも合格したが体に問題あり(入学前に肋膜炎で1年寝込んでいた)ということでハワイ大学へ推薦されたり、銀時計ももらいかけたくらいの勉学一筋、当時のインテリの典型ともいえる性格で、その教養の一部としてクラシック音楽はいわば ”マスト” であると信じ込んでいた男だった。ちょうどLPレコードというのが出てきて、1枚買うと月給の四分の一がなくなる、という時代だったが、生真面目に買い揃え、日曜日などは僕を捕まえて、”お前もこのくらいは聞いておかねばならん”と畳に座らされたものだった。彼が買った最初の曲がベートーベンの”第七”で、その次がこのピアノ協奏曲5番、通称 ”皇帝” であった。
そんなことで、好きとか嫌いとか、ましてや鑑賞の仕方も知らず、耳だけで覚えている名曲もいくつかあって、折に触れて気が向けばCDを買ってくる、という程度のリスナーにすぎないが、亡兄の想い出でもあるこの ”皇帝” だけは特別な存在である。だいぶ以前、同期でヒマラヤトレッキングの時、”エベレストを観ながらこれを聴こう”と決め、まだCDなんかなかったからカセットを持参していった。無残なことに極度の高山病にとりつかれてどうしようかと心配する状況だったが、かろうじて窓ごしに山を観ながら朦朧としながら聞いたことだった。
そんなわけで今回のコンサートに出かけたのだが、もう一つ興味があったのは指揮者がピアノの演奏者でもあるという”弾き振り”とやらであった。有名な渡辺暁雄の長男であるご本人が最初に登場して演奏項目の解説をしてくれたが、古い表現でいえば六尺豊かの大男であることがわかり、始まってみると体格の大きい人でなければピアノ越しにタクト(もちろんこの場合は手指だが)が演奏者には見えないのではないか、ということに気が付いた。曲の流れは全部おぼえているので、聴くというよりそういうビジブルなものに興味がわく。自製、自慢の真空管アンプでは当然とはいえ再現できない実物の圧倒的なボリュームや広がりもそうだが、(あ、次はオーボエだがどの人かな)とか、CDだけでは気が回らないのだが、バイオリンが丁寧にピッキングをしているのを観たり、などと、本格的なリスナーには呆れられてしまうような聴衆であった。
帰り、50年前に二人で良く通った “清水谷茶房” がまだあるかなと淡い希望をもって夫婦でオータニから赤プリへと散歩したが、当然のごとくすでになく、第一赤坂プリンスホテル、という個体が存在しなくなっているのを初めて知った。四谷駅までもどり、”アントニオ”というオヤエ推薦の店で食事。最中になんと妹尾(ちび)からスマホに着電。持ってはいるがほとんどオンにしていない小生にはこれまた椿事というべきか。