コロナ禍の消化法―オーディオファンの皆様へ (44安田耕太郎)
マニアではないがコロナ禍で自宅にいて、映画に加えて、音楽
音楽の作曲や演奏における「ダイナミクス」と云うのは、象徴的な
生演奏でない再生音楽をオーディオシステムで聴く場合、スピーカ
分かりやすい例を挙げれば、隣の部屋で演奏される実際のピアノの
オーディオにおける「ダイナミック・レンジ」は、録音再生できる
ダイナミック・レンジを表す単位、最小音量と最大音量の関係を示
デシベルと音量の関係をあらわす目安をあげてみます。
120dB 飛行機のエンジンの近く
110dB 建設現場のリベット打ち
100dB 電車が通るガード下
90dB 大声による独唱
80dB 地下鉄の車内(窓を開けた)
70dB 騒々しい事務所
60dB 普通の会話
50dB 都会の住宅地
30dB 静かな住宅地
電車が通るガード下(100dB)は普通の会話の音(60dB)
市販のオーディオ・スピーカーのダイナミック・レンジは80dB
「オーディオは生演奏には絶対かなわない」というような表現を
自分の好みに合ったオーディオは生演奏とは全く異なる音楽の悦び
生演奏の1番の魅力というのは、大音量、ダイナミックレンジの広
そういう意味でも、生演奏とオーディオは持ちつ持たれつだし、楽
(菅原) 小生、難しいことはサッパリ分かりませんが、若かりし頃は、例えを熟読して、高級な 音響装置に憧れたものです。例えば、タンノイとかワーフデイルの
現在は、パソコンにイヤフォンを付けて聴いてる体たらくで、かな
(安田)五味康祐はギョーカイでは有名なオーディオ評論の巨人でした。僕
(編集子)筆者は著名スピーカーメーカーの勤務が長く、製品や業界情報に詳しい存在。世の中には (今さら聞くに聞けないし)、という、人間のミエが沢山ある。デシベル、という言葉をもう一度、理解しなおしてみようか。編集子には生演奏の出来不出来、を聞き分ける能力は全くないから、(今日のピアノはどうだった?)などという話題にはくわわれない。これは(聞くに聞けない)レベルではないと思うんだが、(聞ける)人って結構いるんだろうなあ。
時代劇チャンネルを見て思うこと
テレビ放送の初期、ほぼ毎日何か連続ドラマを見るのが当たり前だった。拳銃無宿、ライフルマン、サンセット77、ララミー牧場にペイトンプレース、8時になればジャイアンツ戦、と夕食後の時間の使い方はテレビ次第だった期間があったが、昨今は全盛のバラエティ・お笑いものには全く無縁でニュースとミステリチャネルくらいしか見向きもしてこなかった。それを此処へ来てそのパターンを変えた。コロナ騒動の影響でテレビを見る時間が増えたのが直接の理由であるが、時代劇専門チャネル(502)で夕食前に放映される 大岡越前 と 遠山の金さん という2本を見ることにしたのである。
周知のように主人公二人とも実在の人物ではあるが、ふたつの作品は徹底した娯楽ドラマであって、史実に忠実であろうとする大河ドラマのように厳密な時代考証があるわけではないし、この二人が活躍した時代にはほぼ100年の違いがあるのだが、街並みのセットも登場人物の風体や振る舞いも全く違わない、時代劇東映 のスタジオ作品である。町奉行ともなれば街へ出るには駕籠を使うような待遇だったというが金さんは毎日遊び人暮らしだし、越前は深編笠こそかぶってはいるがひとりで居酒屋へ現れる始末、うるさいことを言えばきりがないのだが、そういうことよりも背景に描かれる江戸の街、江戸市井の人々の描写が実にいいのである。グーグルによれば、どういう理由だったのか知らないが遠山は北町奉行を2度、勤めている。もしかして一度退任後、超豪華接待で後任者が辞職してその後の整理のため…..等でもあったのかもしれない。大岡はドラマでは山口崇が扮する八代将軍吉宗の、遠山は家斉、家慶の治世の人物である。
金さん のほうは徹底して自ら修羅場に登場するマッチョの勧善懲悪、白洲では言い逃れをする犯人に最後に自らが肌脱ぎになって “てめえら、この桜に見覚えがねえってのか?” というセリフが出なければ終わらない、徹底したワンパターンものである。越前 のほうは題材が必ずしも勧善懲悪パターンだけではなく、人情ものもあれば当時の街中の人々に溶け込んだ話が結構たくさんあって、白洲でのいわゆる越前裁き、そのものがどうなるか、最後まで決着がわからないという仕掛けである。金さんの役は小生が見るようになってからでも、松方弘樹、杉良太郎、そのほかあり(まだ見る機会がないが、橋幸夫版もある)、いま再放送のシリーズでは高橋英樹と変わってきたが、なんといっても松方金さんが一番よかった。生まれつき持っていたのだろうが無頼性というか不良性というか、それがよかった。ほかの配役、特にいまの高橋英樹は上品すぎるというか甘すぎる感じがする。引き換え、越前の加藤剛は徹底して格式高いサムライ
を演じているが、夫人雪絵役の宇津宮雅代、こんな魅力ある女優がいたのかと今頃感激する。渋い大坂士郎にコメディ調で常連の高橋元太郎に松山英太郎、時々登場する片岡千恵蔵などなど、何 よりも脇役陣が楽しい。
ところで、ここでエーガ愛好会の話をするのが本稿の目的ではない。言いたいのは、この二つのドラマをみて感じる、史実でいえばほぼ百年続いているはずの、江戸 のすばらしさである。大岡の私邸の豪華さにくらべて町人の家なみや長屋の貧弱さ、多くのストーリーで悪役をつとめる豪商たちの生活、浪人たちの困窮、大岡夫人が口を開けば下働きの少女にさとす ”おなごは殿方のなさることに口を出すものではありませんよ“ というせりふ、すべて現代われわれが何かといえば話題にする階級社会だとか格差だとか男尊女卑だとか、それだけとりだせば(今の眼で見れば)問題だらけの社会のはずなのだが、そこに生きている人たちの生き生きとした振る舞いや人情の通い合いとか、そういうことがらのことである。
僕らが教わってきた歴史によれば、このような春風駘蕩の世の中が外国列強からの脅迫により体制の変革を要求されて、いわゆる明治維新に至り、その結果、列強に伍することのできる近代国家ができたのだ、ということになっている。その感覚というか、司馬史観というのか、それをもっとも明確に書いたのが 坂の上の雲 で、白状すれば、僕は徹底した司馬ファンであり、江戸から東京への変革についてもこの小説の描いたものを信じる、といえば少し変だが、維新によってこの国はより素晴らしいものになったのだ、と思い込んでいた。しかしこの2本のテレビプログラムの背景をなす(どこまで考証されたものか、は別問題として) 江戸 の街を見て、昨今、いろんなシーンで議論される 日本は先進国ではなくなった(なりつつある)という議論を疑うようになった。別の言い方をすれば、”先進国“ とは何を言うのか、という疑問でもある。ヨーロッパの国々の成熟度(この定義そのものにも疑問はあるのだが)を示す、経済、社会、政治、いろいろな分野で彼らが作ってきたものをいうのか。つまり彼らの作ってきた民主主義国家が 進んでいて、日本は遅れている というというのか。
先般、本稿で少し書いたが、第二次大戦後の混乱は別として、国家として再建されて以後、日本の若者はひとりたりとも戦争で死んでいない。領土の争いとか資源の取り合いとか極めて明白な理由ならばまだ理解する余地はあるが、宗教の違いとか、人種問題だとか、イデオロギーだとか、はっきり言ってしまえば議論のしようのない問題に何か正解があるはずだ、といがみあい、その結果数多くの人命を失ってしまったのがすなわち先進国の現状だとすればこれはまた悲しいことではないか。民主主義の総本山だと思い込んできた米国では暴徒がこともあろうに光輝あるデモクラシーの殿堂たる議事堂を襲撃するなど、想像もつかないことが起きているのが ”先進国” の現状である。こういう悪にくらべればたかだか晩飯を一緒に食ったか食わなかったかなどでもめている国会の紛糾など、かわいいものだが、いずれにせよ国家のレベルで起きていることは 果たして民主主義が世界を救える解決なのか という根本的な問いのような気がする。こう言う問題を提起するについては、小生のささやかな主張だが、IT技術の無分別な発展拡大・自己増殖によって、多くの国(もちろん日本も含めて)の社会はすでに 大衆社会 という人類がかつて明白に意識したことのない, イデオロギーでは統治し得ない段階に来てしまっている、という意識がある。
越前や金さんが悪を懲らしめた時代、たしかに民主主義はなかったし女性の社会進出もなかった。困窮者も数多くいただろう。しかしここに描かれた江戸の庶民はそれなりに明快な正義が行われることを良しとし、自分たちの世界のなかで、云わば ”麒麟が来た“ 社会を作っていたのではないか。越前が活躍したのは “三代家光か八代吉宗か” といわれた、名君の代表である徳川吉宗の時代だが、究極的にはデモクラシーなどとは縁遠い独裁の政治であった。それでも江戸の街は栄え、多くの人々はそれなりのささやかな平和を満喫していたはずである。
二つの肩の凝らない時代劇を見ていて感じているのは、もしかして我々が目指すべきは 英君をいただく独裁政治なのではないのだろうか? という素朴な疑問である。デモクラシーの発祥の地とされているアテネだって経済や軍事は市民権を持たない奴隷によって支えられていたのだし、ローマ帝国もその形をひきついでいたはずだ。世界がひとしく民主主義によって動く時代になった、だから歴史は終わった、とフランシス・フクヤマが説いてからまだ日は浅いのだが、本当にそうか? と問いかける必要がでてきたような気がする。各位のご意見をぜひお寄せいただきたい。有り余る時間を熱した議論ですごすのはまことに結構な話だと思うのだが、いかが。
もう満開の桜です (34 小泉幾多郎)
今日の西
近い状態でした。境内に椿の花も咲いてまし
西方寺は、港北区新羽町所在。横浜地下鉄新羽駅から徒歩5分。800年前鎌倉にあり、500年前に現在地へ。KOBUKIさんのメールにもありましたが、秋の曼殊沙華でも有名なお寺です。
(41 久米)西方寺の素晴らしい中日桜の写真、ありがとうございます。
先日、西方寺を訪ねました際は蠟梅が満開でした。
しかし、目立った桜の木もなくこんなに可憐な桜が咲くとは
全く気が付きませんでした。西方寺の近くの専念寺には2本の枝垂
金、土曜日の雨で花が痛んでしまうのが心配ですが月曜日にでも訪れて見ます。
古き良き時代のエーガ(2) 陽のあたる場所 (普通部OB 船津於菟彦)
前回の「探偵物語」についで、普通部時代に先生引率で鑑賞した映画。1951年度のアメリカ映画で「探偵物語」「巴里のアメリカ人」「欲望という名の電車」そしてこの「陽の当たる場所」の4本がこの年を代表される映画とされている。文部省推薦映画にも選ばれている日本公開は1982年9月だから我々が見たのは普通部2年生,部歌にいう「若き学生」のころ。その時のパンフレットをとってあったので御覧に入れる。紙は「わら半紙」の様な雑な物で多分日比谷映画で観たのだと思われる(当時ロードショウは「東劇」「有楽座」「日比谷映画」の何れか)。
何と言っても「モンティ」=モンゴメリー・クリフトのどこか寂しげで孤独感を漂わせる雰囲気、繊細な演技と表情は巷の女性陣の心をさらった。モンゴメリー・クリフト(Edward Montgomery Clift, 1920年10月17日 – 1966年7月23日)は、アメリカ合衆国・ネブラスカ州オマハ出身の俳優。Montgomeryの発音はモントゴメリー「mɒntˈɡʌməri」で、愛称モンティ(Monty)はそこから来ている。「地上より永遠に」にも出演。女性陣は何と言っても美女エリザベス・テイラー。可憐で綺麗。
物語は原作のタイトル「アメリカの悲劇」が示すように、本作は格差社会がもたらした数奇な運命を描いている。貧しく学のないジョージ・イーストマン(モンゴメリー・クリフト)は、日陰で生きてきた自らの境遇にコンプレックスを抱いている。彼は伯父のチャールズ・イーストマンに会い、彼の工場に職を得る。伯父の家で社交界の花アンジェラ・ヴィカース(エリザベス・テイラー)に会い、「出会う前から愛していた」(I love you. I’ve loved you since the first moment I saw you. I guess maybe I’ve even loved you before I saw you.)と告げるが、それは裕福な身分への憧れが反映されているからだ。彼はひたすら「陽のあたる場所」を求めて彷徨ったのだ。しかし、身分の違い遠い存在と思っても居る。同じ職場にいたアリス・トリップ(シェリー・ウィンタース)は身よりのない娘で、映画館でふと隣合わせになり、女性の多い職場で社員の交際が禁じられていたにもかかわらず、2人の仲は急に深まる。ジョージは妊娠した彼女に堕胎をすすめるが、医者は引き受けてくれなかった。アンジェラとジョージは夏を別荘に過ごす仲になっていき、アンジェラの両親も2人の仲を許していた。
そして、アリスは結婚を迫り、承諾しなければ自分との間を公にすると脅した。翌日、出世の妨げになるアリスを溺死させようと、彼女を湖に誘う。ところが、アリスのひたむきな愛情を知り、彼女を溺死させる気持ちを失う。アリスは逆に恐怖にかられ、ボートの上に立ち上がったため、ボートが転覆、アリスは溺死する。ジョージは裁判にかけられ、殺意のあったことを認めたが、犯行は否定する…。死刑が行われる日にアンジェラは獄舎にジョージを訪ねて「永遠の愛を誓った」ジョージはアリスが溺れた時例え殺人をしていなくても心の中で殺人を犯したと同じ事だと電気椅子へ廊下を落ち着いた足取りで歩いた。
この裁判の時のシーンが今でも心に残っている。法廷のボートが運び込まれ、フランク・マーロウ判事(レイモンド・バー(Raymond William Stacey Burr)が鬼のような形相でジヨージの犯行を迫る。そり後刑事物でも活躍したが、まだあのボートをオールで叩くシーンは目に焼き付いている。名演技だった。
ポーランド映画のはなし (2) (大学クラスメート 飯田武昭)
私のポーランドへの興味はショパンの音楽とポーランド映画(特にアンジェ・ワイダ監督作品)とそれから小児科医であり児童文学者のヤヌシュ・コルチャックの児童文学です。
順番は逆になりますが、コルチャック先生で知られる著作の中で「こどものための美しい国」というタイトルの子供のための空想の国のお話しは、小学校低学年位までのお子さんを持つ人にプレゼントした事もありますが、大変喜ばれました。
アンジェ・ワイダ監督のポーランド映画は世界の映画史の中でも、映画生産国としては小国ながらその人間性、社会性、映像美等で必ずピックアップされる作品が少なくとも数本あります。「灰とダイヤモンド」「地下水道」など抵抗(レジスタンス)3部作と言われる作品を初め「約束の土地」「夜行列車」「夜の終わりに」「大理石の男」などです。(後の数本はワイダ監督物ではありません)
もう一つのショパンですが、私がドイツ(ハンブルグ)勤務時代の1970年代に仕事でポーランドへ数回出張していた際に(主として当時、ポーランドの繊維公司(こんす)にポリエステル繊維製造設備一式を日本から輸出する契約が出来て、その製造技術の部分を私の会社が担当し、伊藤忠商事が機械一式を輸出する約6~7年に亘る大きなプロジェクトでした)契約の調印式にわが社の社長(東洋紡)が日本から参加しました。その際にポーランドの繊維公司と会食したりする機会が多々ありましたが、先方からはショパンのピアノ曲アルバム(添付写真を参照ください)を記念品に贈られました。
この全集は5枚のLPレコードから成っていて、演奏者が全員ポーランドのピアニスト(後に調べるとショパンコンクール優勝者を含む数人が演奏者です)いう事が又彼らの自慢でもあったと思います。密かにポーランド人はショパンはポーランドのピアニストが弾くのが一番だと思っている節があります。
ワクチンは怖くないよ! (34 船曳孝彦・普通部OB 篠原幸人)
(船曳)
新型コロナVirus肺炎に対する国の対応は、これまでにも繰り返し申し上げてきましたが、不十分なPCR検査体制、官尊民卑かつ役所間の高い壁などのお役所的対応、厳重防止策と言いながらGo-Toトラベルなどの真逆な対応、ワクチン接種の全体像が決まっていないなど、2政権とも中途半端な場当たり的対応としか評価できません。これでこの程度の蔓延、死者数で収まったことは世界的に不思議な経過と見られています。決して一流国とは見做されておりません。日本は製薬会社に完全に舐められており、本当にワクチンは供給されるのか、分からなくなってきたようです。本当に情けなく、敢えて失政といいます。しかし、私の心配していた通り、問題を残したままスタートとなり、すでにワクチン接種が始まっています。アナフィラキシー症状らしき症状がぼつぼつ出現していますが、過去にこの発作を経験した人でなければ、特に男性ではそれほど心配することはありません。一体何時になったら受けられるのか分かりませんが、この多くの読者の方は高齢者ですので、もし順番が来たら進んで受けてください。また、1年前に私の主張してきたPCR検査の普及が変異株出現に押され、やっと始まろうとしています。私的機関では高い金額の施設もあってこれはどうかと思いますが、本来行政のやることでしょう。機会があり納得できればお受け下さい。痛くも苦しくもありません。ワクチン接種なんて怖くない。順番が来たら受けてください。
(篠原)
1-2週前からテレビでは国立系の病院を中心に、医療従事者へのワクチン接種の画像が頻回に流れていますね。しかし、ワクチンがまず配られたのは国立大学系病院や一部の総合病院だけでした。しかもそれらの病院の一部には、新型コロナ患者さんをあまり見てくれていない病院も含まれていることに私は少し不満でした。私が働いている準国立の国家公務員共済組合連合会立川病院や、入院ベッドを全て新型コロナ患者に特化した東海大学東京病院にもなかなか新型コロナ用ワクチンは回ってこなかったのです。これでは高齢者や一般の方々へのワクチン接種は4月からは難しいなと思っていました。
イスラエルは国民の90%以上が一回目の接種を終了したというニュース、見ましたよね。世界の大手製薬メーカーの上層部はほとんどユダヤ系に牛耳られているからかもしれませんが、それに対して、日本はなにしているのかと。不気味な薄ら笑いを浮かべながら答弁をするワクチン接種専門大臣にも不信感を募らせていたのですが。
昨日、外来のため立川病院に到着すると、なんと急にワクチンが届いたので、今日からでも接種が可能とのメモが机の上にありました。外来終了後、早速会場にむかいました。体調と体温、以前のワクチン接種後の副反応、既往歴や現在服用中の薬などを記載したアンケートを提出し、簡単な問診をうけてから、迷うことなく接種を受けました。左上腕骨の骨頭から指幅2本ぐらい下の上腕三頭筋肉内に注射を受けました。痛かったかって? 皮膚に針を刺すんだから痛いのは当たり前でしょ。しかし筋肉内にワクチンを注入中はもう痛みはナシ。1-2秒で接種はおしまい。あと別室で30分座って様子を見てくださいと頼まれ、今日の外来の書類を整理しているとあっという間に30分が経過。注射部の痛みも何もない。自分の部屋に戻り少しだけ仕事をして、そのまま車を60分ほど運転して帰宅。過去に予防接種で具合が悪くなった人や喘息などのアレルギーを持つ人以外は今回のコロナワクチン接種は全く心配ないと思いますよ。一時的に気分が悪くなっても、接種会場にそれに対応する用意があれば恐れるに足らずというのが私の感想です。但し、かかりつけのお医者さんがいる方は事前に念のため必ず相談してください。
当日の入浴は可ですが、接種日の深酒や注射部位をこすったりもんだりはしないほうがよさそうですが。
接種後1-2日間は注射部位に痛みや腫れ、それにだるさ・頭痛・発熱・吐き気・関節痛・リンパ節の腫れなどの報告はありますが、大体1-2日で収まります。私は今日で2日目ですが注射部位に触ればちょっと痛いかなという程度。早速今日は趣味のスポーツをいつもどおり楽しみました。
かかりつけの先生のOKが出たら皆さん、怖がらずに接種を受けてください。私の経験では高齢者でも、怖がる必要は全くありませんよ。
Kingfisher はよく見ていますよ (41 久米行子)
私がいつもウォーキングをしております遊歩道には2,3か所カワセミがやってくるせせらぎがありまして良く素人カメラマン達が立派な望遠レンズを構えてカワセミが飛んでくる姿をとらえようと待ち構えております。
本当に動きがすばやいのですが素晴らしく美しいブルーの羽を持つ鳥です。又、白鷺はさほど珍しくはありませんがアオサギも見かけます。獲物を取る為にまるで銅像のように身じろぎもしない姿は面白い物です。先日はカワウを見つけたので
(保屋野)カワセミは何時でも見られますが、確率の高いのが、立川の根川公園です。多摩モノレールの「芝崎体育館駅」近くです。ただ、上野毛からは遠いのでは。・・・桜の名所でもあるので、今月末なら両方楽しめます。
(安田)話が音楽から飛んで恐縮ですが、
(編集子)”足立ポイント(20年12月23日本稿)” といい kingfisher=かわせみポイントといい、久米夫妻邸は自然に囲まれた理想郷のように思える。そのうち、月一高尾のプランでこのあたりを散策し、久米邸で谷脇審議官級の接待を受けるという企画を提案したい。
弥生の陽気とロシアのレンズ (普通部OB 船津於菟彦)
あっと言う間に弥生三月になってしまいました。そのスタートは晴天の温かさに恵まれ不要不急でしたが、御徒
さて、恒例ですと銀座で全日本クラッシックカメラクラブの春の写
弥生三月になり色々本を見ていましたらMIR-1と言うロシアレ
日本もそうで在ったようにソ連も戦後、外貨獲得のためカメラ産業
今、中国・台湾・マレーしア・タイ・ベトナムなどもカメラとカレ
矢張り第二次世界大戦で破れ東西ドイツに分割され、東側はソ連-
まぁ色々な遊びが在るもんですね。新型コロナウィルス蔓延旋風に付き御身大切にお過ごし下さ
エーガ愛好会(54) リオ・ブラボー の楽しみかた
(小泉)岩山を背景に幌馬車隊の行進を描くタイトルバックの後、酒場の大
そもそもハワード・ホークス監督は「真昼の決闘1952」への反発から、この映
最初のほか、見せ場が多くて紹介しきれない。難関を男のアンジー・
音楽が「真昼の決闘」のディオトリー・ティオムキン。「OK牧場
(小田)小泉様が詳しくお書きになっていましたように、ジョン ウエインを中心に、(Everybody loves somebody sometimeの唄の)ディーンマーチン、
(相川)保安官ジョン・ウェインは町の見回りにいつもライフルを持ち歩い
西部劇は好きだけど ジョン・ウェインはどうも と言う人も中には いるようです。その理由を問うと、図体も大きいが態度もでかい。淀川長治氏がジ
・味のある演技を見せてくれたウオルター・ブレナン
4人目の保安官役。歳だからって牢番にしやがって といいたげでした。
独特の歯抜けのしゃべり方は、若い時撮影中に 馬に蹴られて歯を殆ど失ったため、らしい。230本の映画に出演した名バイプレーヤーで、アカデミー助演男
西部劇には凄みのある悪役と共にこういったひょうきん役もいると
(編集子)この映画の封切りが1959年、つまり小生大学3年在学中。いつ、どこで、だれと観たか、まったく記憶にない。三田から有楽町映画街へ、3人もそろえばタクシーを飛ばして行っていたころだったのだが。
ウエインの西部劇も後期にはいると、フォードの詩的な雰囲気を持ったものから小泉さんが指摘されているように娯楽性の高い作品が増えてくるがその先陣を切ったのがこれだろう。何回か書いたが、エル・ドラド、チザム、エルダー兄弟、などなどがこの系列だ。なかでも チザム はジョン・チザムという実在の人物と、”リンカーン・ウオー”とまで言われた開拓者間の大規模な抗争、悪名高いビリー・ザ・キッドと最後には彼を射殺したシェリフ、パット・ギャレットというこれも実在の人物を組み合わせた作品で娯楽性も当然だがそういう史実との対応が面白かった。しかしこのリオ・ブラボーは徹底した娯楽作品として作られていて、そういう意味ではあっけらかんと楽しめばいいものだ……….と言ってはいけないのだ。なぜか。ディーン・マーティンが ライフルと愛馬 をうたった作品だからである。この歌をワンダーの世界に持ち込んだのは僕らの2年下、林裕(ウクレレ)で、何となく小生がほれ込んで(歌にである!)、”持ち歌”にさせてもらったという歴史?がある。歌そのものはもちろんだが、キャンプサイトで飯盒の焚き具合を気にしながら夕暮れを楽しむ、といった雰囲気を持った歌詞が気に入ったからだ。そんな時を過ごすことがこれからもあるのだろうか?