東西文明が交差する十字路   (41 斉藤孝)

深い白雲が包み込み荘厳な雪山の白と一体になっていた。ここが憧れたパミール高原なのか、 興奮 !!
高齢になりパミール高原まで登って来られて感謝した。老眼にしっかりとその姿を残しておこう。
地図座標をパミール高原の中心に置いてみた。なるほど中央アジアの屋根に違いない。 中学生時代から熱中してきた西域の地名が続々と浮かんできた。

北にカザフステップとウラル山脈、その下にアラル海とシルダリアとアムダリア。右から天山山脈と崑崙山脈が迫って来る。
二つの山脈に挟まれるタクラマカン砂漠。その下にはカラコルム山脈とヒマラヤ山脈が広がる。その彼方はインド大陸に続く。
西に目を向けると、カスピ海がありイラン高原にザクロス山脈とその北にカフカス山脈が連なる。 そしてティグリス川とユーフラテス川に挟まれたメソポタミア。その西はアナトリア高原である。

パミール高原は7000m級の霊峰に囲まれた広大な高原である。険しい山々の隙間は深い渓谷になっていて人の往来は可能だった。
ソビエト連邦時代にコム二ズム峰(共産主義峰)と呼ばれた標高7495mのイスモイル・ソモニ峰は現在はタジキスタンの領土である。
中国領土には7719mの最高峰コングールとムスタグアタ山がある。カラコルム山脈のカシミールには名峰「K2」(標高8611 m)がある。

「カラクリ湖」

カシュガルからのバスは高山病を警戒しながら穏やかな速度で徐々に高度を上げていった。 この道はクンジュラブ峠(4733m)を越えてパキスタンのフンザへと通じている。その先のカラコルム街道からガンダーラ地方に入る。
インドで誕生した仏教は、最初は単なる人の生き方を説く説法に過ぎなかったが、 パミール高原でペルシャのゾロアスター教やマニ教の教えと交わることで経典が整えられて仏教という宗教になった。
ガンダーラの仏像のお顔はペルシャ人やローマ人とソックリなのだ。仏教は実にオープンで様々な思想と宗教を取り込んでいった。

パミール高原は東西文明が交差する十字路だった。

物語『西遊記』はパミール高原を舞台している。孫悟空は石から生まれた猿で、強力な力を持っている。 三蔵法師は仏教の経典を求めて旅に出て猪八戒や沙悟浄といった弟子を得て、妖怪たちと戦いながら天竺を目指す。
そのモデルとなった『大唐西域記』は唐の時代に中国からインドへ渡り仏教の経典を持ち帰った玄奘三蔵の長年の旅を記したものである。

カラクリ湖は標高標高3600mの所にある。紺碧の水面に天空の峰々を写しこんでいた。 ウイグル語で「カラクリ」は「黒い海」を意味するという。「カラ」はトルコ系言語でも多く使われている。 「カラコルム」や「カラキタイ」、そしてアナトリアとロシアやバルカン半島、コーカサスに位置する「黒海」(Black Sea)。 もしかして「カラクリ」と呼ばれたのではなかろうか。正式には「カラデニズ」(Kara Deniz)と呼ばれる。ウイグル語もトルコ系。 中央アジアからアナトリアまで壮大なトルコ系民族の世界が広がる。

皐月から水無月へ   (普通部OB 船津於菟彦)

今年もいよいよ梅雨の水無月がやって来ましたね。また猛暑到来かなぁ。錦糸公園は梅・桜から紫陽花と時は移ろいます。この五ヶ月間何して生きてきたのかなぁ。時計の針は刻々と動いているが我、明日と今日,じ日日。

そんな水無月はトランプの狂気とプーチンの拡大策がどう成っていくやら。米騒動に気を取られ世間を忘れそうですね。ロシアでは9日、第2次世界大戦の「戦勝記念日」を迎え、首都モスクワでは中国の習近平国家主席など20か国以上の首脳が出席して記念の式典が行われました。演説したプーチン大統領は「国民全体が

『特別軍事作戦』の参加者を支持している」と述べ、ウクライナへの侵攻を正当化しました。そんな皐月の80年前をひもといてみます。

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昭和20年(1945)5月24日は、東京の山の手地域と空襲で焼け残った町全体を目標として、525機のB29が渋谷・世田谷・杉並・目黒・大森・品川地域を爆撃した。さらに、翌日の25日深夜には、まだ焼夷弾による被害を受けていない東京の残存地域を目標として、470機が高性能焼夷弾3000トンを投下した。被害は、山の手方面を中心に南多摩・北多摩にまでくまなく及んだ。3月10日の東京大空襲の焼け残りをゴッソリ。

横浜大空襲は1945年5月29日,午前9時20分ごろ、米軍のB29爆撃機517機がP51戦闘機101機に護衛されて横浜上空に飛来。中・南・西・神奈川区を中心に、わずか1時間程度で、43万8576個(約2570トン)の焼夷(しょうい)弾を投下した。6日後の県警のまとめでは、死者が3650人、重軽傷を合わせた負傷者が1万198人、行方不明が309人、被災者が31万1951人に上ったという。5月14日は、名古屋城が空襲によって焼失.。

一方欧州では5月8日は、第2次世界大戦終結記念日です。
最初のドイツ降伏文書は1945年5月7日2時41分、フランスのランスで調印されました。戦闘はフランス時間の5月8日23時1分に停止される予定でしたが、フランスで情報が正式に伝達されたのは翌日になってからでした。フランス全国の教会の鐘が5月8日15時に打ち鳴らされ、「戦争に勝った。ここに勝利した。連合国の勝利であり、フランスの勝利である」とド・ゴール将軍はラジオ放送で宣言しました。国民は歓喜し、街頭にあふれる群集は、ラ・マルセイエーズや愛国的な歌を歌い出しました。
ドイツのヴィルヘルム・カイテル元帥が5月8日、ベルリンで全面降伏文書に調印しました。ランスではスヴェ将軍が、ベルリンではラトル・ド・タシニ将軍がフランスを代表し、これら2つの文書に連合国側として調印しました。ナチス・ドイツの無条件降伏はヨーロッパで、数千万人の犠牲者を出した6年間の紛争に終止符を打ちました。

1945年8月14日、日本政府は連合国に対してポツダム宣言を受諾する旨を、スイス政府経由でアメリカ合衆国大統領トルーマンに電信、翌8月15日正午、昭和天皇の玉音放送によって、このことが国民に向けて公表され、日本軍に対して『停戦命令』を発布します。同年9月2日、昭和天皇は「降伏文書調印に関する詔書」を発し、降伏文書への署名及びその履行等を命じました。これに基づき、同日、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリにおいて、日本側を代表して重光葵外相、梅津美治郎参謀総長、連合国を代表して連合国最高司令官のマッカーサーが降伏文書に署名したので、この9月3日を対日戦勝記念日とする国も多い。

Japanese representatives on board USS Missouri (BB-63) during the surrender ceremonies, 2 September 1945.

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平和っていいなぁ。80年間戦死者ひとりもで無いし戦争の無い日本。このまま戦争の無い日本であってほしい。

あぢさいや一かたまりの露の音 正岡子規
紫陽花の藍きはまると見る日かな 中村汀女
紫陽花や人見る犬の怜悧な目 星野立子
飽くほどの平和おそろし 七変化 伊丹三樹彦

 

乱読報告ファイル (49)虫を描く女    (普通部OB 菅原勲)

「虫を描く女(ひと)」[副題:「昆虫学の先駆」マリア・メーリアンの生涯](著者:中野 京子。発行:NHK出版新書、2025年。ただし、2002年に講談社から出版された単行本[情熱の女流「昆虫画家」メーリアン波乱万丈の生涯]の新書復刻版)。

最近、先が余りないことから、本につき、新刊本は購入、古い本は図書館から借用へと、方針を改めた。その宗旨替えから、本屋、その殆どが目黒の有隣堂なのだが、頻繁に訪れて新刊本を漁っている。やっぱり、本は手に取って、パラパラと捲りながら、気に入った本を探すのが最高の喜びであり、最高の愉悦だ。この前も、新書を3冊ばかり購入したが、その中で、表紙の絵に強く惹きつけられた極め付きの本が一冊あった。それが、これからお話しする「虫を描く女」だ。具体的に言えば、パッと見て、表紙にある絵「アメリカンチェリーとモルフォチョウ」(スリナム本/図7。下記を参照)の色彩の極めて鮮やかな事、それだけで購入することにした。これを後から良く眺めて見ると、蝶とかチェリーは勿論のこと、そこに取っついている毛虫についても、極めて微細に描かれており、鮮やかな色彩と相俟って、見るものを感動させる。

「虫を描く女」とは、ドイツで、40ペニッヒ(1987年発行)の切手となり、500マルク(1992年発行)の紙幣となった(ユーロの時代となって、もうなくなってしまったかもしれないが)マリア・ジビーラ・メーリアン(1647年―1717年)だ。小生は、これまで全く知らなかったのだが、近代科学の夜明け前の17世紀、フンボルト、リンネ、ダーウィンなどよりも前に、全くの独学で虫の研究を行い、そのメタモルフォーゼ(変態。例えば、卵➡幼虫➡蛹➡成虫)の概念を絵によって表現した画期的な先駆者なのだ。従って、日本では5000円札の樋口一葉、津田梅子などがお馴染みの人物であるように、メーリアンもドイツでは、紙幣の肖像画となっているグリム兄弟、クララ・シューマンなどと同様、お馴染みの人物となっているのではないだろうか。

父はスイス人、母はオランダ人で、ドイツのフランクフルトに生まれたから、生まれながらにして国際人(コスモポリタン)だったことになる。実際に、そこから、ニュルンベルクを経てオランダのアムステルダムに移住し、52歳にしてオランダの植民地だった南米のスリナムへ、そして、マラリアで死に損なってアムステルダムへ帰国するなど、その動きは正に常人のものではない。

昆虫についての彼女の最大の功績は、当時、虫は腐敗物から自然発生するとのアリストテレスの説が依然として強固に信じられており、例えば、イモ虫と蝶は全くの別物とされていた。ところが、彼女はそれを真正面から否定し、上述のように変態を絵によって表現した。もう一つは、南国産大型昆虫の生態を知りたいがために2年ほど滞在していたスリナムから帰国後、彼女はライフワークとでも呼ぶべき手彩色された72枚の銅板画集「スリナム産昆虫変態図譜」を出版した。それは、日本でも「スリナム産昆虫変態図譜」(1726版)と題して翻訳され、2022年、鳥影社から35,200円で出版されている。高輪図書館で借りようと思ったが、残念ながら、現在、予約を受け付けていない状態だ。

中野のこの著作には、上記、スリナム本からメーリアン独特の絵が数々転載されているが、これをスペイスの関係で紹介出来ないのは甚だ残念だ。もし興味がある方がおられるならば、せめて立ち読みでもして彼女の芸術的とも言うべき絵画をとっくりと眺められてはどうだろうか。そこに表れているのは無味乾燥な虫、花などではなく、例えば、躍動的な蝶であり、何とも可愛らしい毛虫であり(小生、毛虫は毛嫌いしているのだが)、などなど、見る人を飽きさせない。こんな人が、今から400年ほど前、魔女狩りの全盛期である17世紀に生きていたのだ。男女の区別なく「好きこそ物の上手なれ」、を突き詰めて行くと、昆虫学の先駆者、メーリアンとなるのだろう。

(44 安田)先ず興味を惹かれたのは、著者が中野京子だと云うこと。正直驚きました。彼女は「怖い絵」、「名画で読み解く12の物語」シリーズなどで知られた作家で、彼女の著書は少なから読んでいて馴染みある作家だったが、本著書の題材は彼女の得意分野とは思えず全く知らなかった。

美術館でキュレーターをやった原田マハ(二人とも早大卒)の著作が絵画や美術を題材にしている点が、二人は若干似通っているだろうか。
6~7年前にフェルメール絵画が大挙(10点ほど)日本に持ち込まれ上野で展示され、フェルメールブームともいえる盛り上がりを見せたが、そのブームと期を一にして文芸春秋が主催して「フェルメールを語る」なる講演会を3人の講師を呼び文春本社で開催し、全てに参加した。講師は中野京子、原田マハ、生物学者福岡伸一だった。一人当たり1時間半ほどの講演で一週間毎に開かれた。3人の著書は読んだことはあったが、会うのは初めてだった。
中野京子は早大修士課程修了。作家、ドイツ文学者、西洋文化史家、早大講師、翻訳家でオペラ、美術について多くのエッセイを執筆している。
講演会での彼女の印象は、史実と現実に存在する作品を叙事的に淡々と述べながらも、面白みのある点に焦点を当てるなどメリハリがある講演であった。学校で教えている経歴を宜なるかなと伺わせた。対して原田マハはより小説家的なアプローチだったかと。
昔よく読んだ彼女の著書は、昨今はあまり読んでいない。久し振りに彼女の名前を菅原さんに紹介して頂き、懐かしい思いがしました。
昆虫学の先駆者とも称されるマリア・メーリアンはドイツ人。ドイツ文学を専攻した、好奇心旺盛で発想を逞しくしている中野京子は自身の守備範囲としてメーリアンの生涯に興味を持ったのは想像に難くない。それが彼女をして「虫を描く女」を著わせしめた要因であろう。機会をみて図書館で或いは書店で立ち読みをしたいと思う。