まぁそんな自由な校風でのほほんと10年間過ごし、
鉄鋼での新製品の売り込みと同じで回線問屋-海鮮問屋-
世界史の上でも2021年は大きな転換期に成って居るのでは無い
旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
まぁそんな自由な校風でのほほんと10年間過ごし、
鉄鋼での新製品の売り込みと同じで回線問屋-海鮮問屋-
しばらく遠ざかっていたBS劇場で、再見。いくつかのことが重なって、じっくりと観た。
一つはマイケル・ダグラス。彼の作品は正直言うとあまり見ていない。彼に興味があるのは、小生の年代ならそうだろうが、やはり ”カークの息子“ ということだろうか。たたき上げの俳優カーク・ダグラスを始めてみたのは 探偵物語、中学生の時である。普通なら中学生(そのころの)が見る映画ではなかったのだろうが、慶応普通部には教育の一環として生徒に映画を見せる、という授業時間があって、”聖衣“、かのシネマスコープ第一号、を観たのもそうだし、この映画もそうだった。”聖衣“ はキリスト教の一部を学ぶ、ということで意味はあっただろうが、探偵物語 が果たして教師同伴で中学生が見るべきものか、ということは父兄の間や教員の一部にも異論はあったらしい。何しろ姦通という、オトナであっても難しいことが背景になっている映画だったからだ。しかし今、すがめで見てみると、あれを選択した先生は実はカーク・ダグラスにほれ込んだからではないか、と思えるほど、15歳の少年にも衝撃を与えた俳優だった。それ以来、彼の黄金時代にはかなりの数の作品(史劇物は敬遠したけれども、あまり評判にはならなかったが御贔屓ドロシー・マローンと共演した ガンファイター は特に好きだった)を見た。その息子なのだから興味があって当然かもしれない。
しかしもう一つの興味は、松田優作、という俳優を改めてみてみたい、ということにあった。ただその理由は、多くの人たちがこの特異なキャラクタを持つ俳優、という目で彼を評価するのに対して、小生の単純な理由は 横浜ホンキートンクブルース をうたった歌手、としての彼を見たい、と思ったからだった。この歌のことを教えてくれたのはHP社の営業部門でただ一つのお荷物、といわれた事務用(当時はまだ事務用・技術用という区分があったのだ)コンピュータで悲鳴を上げていたころ、最大のカストマ(になるはずだった)C社とのルート開発に血の道を上げていたとき、先方の担当窓口だったS さんだった。出先で音楽を聴くとなればカセットテープくらいしかなかった当時、計画通りに事は運ばず、悶々としてアイダホ州はボイジーのモーテルのプールサイドでバドワイザー缶を片手に何回もこのブルースを聞いた。カントリーにも興味があった当時、いわばその本場にいながらなぜ、ヨコハマあたりの嘆き節を聞いていたのか、今思っても判然としない。しかしいかにも blue な気分にはぴったりしていたからなのだろうか。今自宅には原田芳雄版しかないがときどき、しんとした夜中なんかに気分を出して聞いている。
三つ目の理由はやはり高倉健。この映画と所々でごっちゃになるのだが、ロバート・ミッチャムが主演し、岸恵子も登場した ザ・ヤクザ というやはり日米にわたる犯罪捜査の話である。もともと、ブラックレインにせよヤクザにせよ、(言葉もわからんでこうは行くめえよ)という連続の、難しいことが好きな評論家先生方にはあまり評判のよろしくない映画なのだが、その中で、ある意味、(ああそうか、こういうことがアメリカ人のみる良き日本人なんだな)という役がご存じ健さんなのだ。この両方に登場して、全く瓜二つ、とでもいう役を淡々と演じている。英語も達者なものだ。健さん、といえば任侠ものを見なければならないのだろうが、小生は一本もみていないので、船津於菟彦はじめファンの方には肩身がせまいが、小生には 幸福の黄色いハンカチ とこの2本で十分、しっかりケンさんびいきになっている。
映画の筋書きそのほかについては特に書くべきこともない。ただ画面の血生臭さや爆音のなかで、この三つのテーマ、をあらためて味わった、ということか。
本日ブログ拝見致しました。カミユは私の好きな作家の一人です。
で私が読んだといえば「嘔吐」の一冊のみです。その中に吐き気と
小説の手法もメルヴィルやヘミングウェイなどに学んだといわれて
カミユの作品に登場する人間には善良さと温かさを感じるからです
カミユを理解するのに都合の良い、佐藤 朔先生の書かれた文章をご紹介いたします。
カミユの作品が今も尚愛されているのはなぜか?カミユの作品
罪に苦しむ者や罪を犯した者はいるが、いずれも悪人ではない。だ
カミユの作品の魅力が失せない訳はそこにあるのです
(編集子)白状すると、小生も 嘔吐 にでてくる、木の根を見ていて真実を悟る、という一節は何が何だか分からず、その意味では一応最後まで読んだ、という事実が残るだけで、到底この哲学の巨頭を理解したなどといえる段階ではない。しかしヨシコの示唆で、サルトル本体はともかく、カミュという人の作品が持つ意味はなんとなく分かったし、提示してくれた佐藤 朔の一節が、考えてみると今回もっともらしく読んだふりをした石光氏のいう ”正義” なのかも、と思ったりしている。
はたまた石油危機か?という不安が続きますが、関係情報を得たのでご参考までにご覧ください (出所:「宮崎正弘の国際情勢解題」)。
************************************
世界的なエネルギー価格上昇の懸念を受け、石油備蓄の放出に関する報道が相次いでいます。各国の個別の対応のみならず協調行動の可能性も浮上しています。
エネルギー価格の上昇はバイデン政権にとって最も厳しい試練になる恐れがあります。しかし実際のところ、バイデン政権ができることは限られています。何か手を打つとすれば、戦略的石油備蓄(SPR)の放出しかありませんが、効果は限られます。しかし、少なくとも具体的な対応をとっているという政治的アピールは可能です。このため、おそらく米国としては、最大3,000万バレルの緊急放出ではなく、最大500万バレルの「テスト・セール」のような措置にとどめ(この場合、緊急事態宣言は必要なく、エネルギー長官の決定で足りる)、さらに中国や同盟国との協調放出を進めようとしていると考えられます。
米中首脳会談では共通の利益に向けた連携が強調され、エネルギー危機への対応にも言及がありました(明日の記事で説明します)。中国はもともと単独でもSPRの放出を行う姿勢を見せており、米国との協調を受け入れる余地は十分にあると考えられます。上記記事で述べたとおり、原油価格は落ち着きを見せているので、SPRの放出の可能性は高くないと考えられていましたが、このような首脳会談からの流れを見ると、可能性はやや高くなったといえます。
しかも、次項で述べるとおり、ビルド・バック・ベター法案を成立させる上でも、インフレ懸念に対応しているというポーズを見せることは重要です。実際、原油価格の高騰は収まりつつあるので、政権としては短期的な圧力を弱めれば足りるところ、こうしたメッセージを出すことはそれなりに有効とも考えられます。
(ビルド・バック・ベター法案の下院可決)
米下院がビルド・バック・ベター(BBB)法案をついに可決しました。220対213で、民主党の反対は1人(ジャレッド・ゴールデン議員)でした。以前に指摘したとおり、下院は11月19日までの可決を目指していましたが、民主党穏健派はその前に議会予算局(CBO)による歳出と歳入の試算結果を確認する必要があると主張していました。今回の可決は、CBOが前日に試算結果を発表したことを受けて行われたものです。
CBOの試算はバイデン政権(民主党)の試算と大きく異なりましたが、それでも穏健派の多数は納得し、法案は可決されました。なお可決前に共和党のケビン・マッカーシー下院院内総務が下院での演説としては最長記録となる8時間半の演説を行ったことも話題になりました。
バイデン政権の試算結果は州税・地方税(SALT)控除の上限引上げによる減税効果などを含めていなかったのですが、CBOはこれらを含めて計算しており、新規支出と減税の合計額は2.2兆ドル、1,600億ドルの赤字を生じさせるという結果になりました。このような大きな違いが出ることを見越して、バイデン政権はCBOの試算をあらかじめ批判するという異例の行動に及んでいました。
それでも下院では可決に至りましたが、問題は上院です。マンチンとシネマの両上院議員は法案を大幅に書き換えるでしょう。しかも12月には国防授権法(歳出削減の回避が必要)、債務上限、つなぎ予算の失効という立法アジェンダが立て込みます。これらの問題はドタバタを演じながら最終的に解決されるでしょうが、BBB法案の審議にかける時間は大きく制約されます。したがって、年内の可決は難しく、来年に持ち越す可能性が高いと考えられます。
バイデン政権は、かねてよりOPECプラスが増産しないことを批判していましたが、先週には、FTCに石油市場の操作を監視するよう指示しました。これらの措置は、産油国やエネルギー企業の投機的行動に矛先を向けさせることが目的で、やはり打つ手が限られている中で国民への政治的アピールのために行っているものです。今後もこうしたメッセージは繰り返されるでしょう。
また、先週、バイデン政権はメキシコ湾での石油採掘のためのリース権の入札を実施しました。もともと公約に従い、発足直後に国有地での石油・天然ガスの新規リース契約を停止したのですが、産油州から訴えられて敗訴していました。そして最高裁でも勝てないと見てこれを許可したものです。民主党左派を失望させる措置ですが、エネルギー問題について批判をかわしつつ、民主党左派にはBBB法案を可決させることで、最終的には納得させるという計算があるのでしょう。こうしたバランスをとった現実的な路線を続けることで苦境をしのぎ、BBB法の成立で挽回を狙う、というのが政権の戦略と考えられます。
監督「大砂塵1954」のニコラス・レイ、主演ジェームス・キャ
冒頭主題歌 Run For Cover が唄われ、ニューメキシコのア
出会いから、樹々の向こうに煙が立ち上り列車との遭遇で、二人が
そのヴィヴェカとキャグニーが恋愛関係になり
クとボーグナインの対決となる。デレクは一味と通じていたことが
以上二人の出会いから、父性の懐の大きさを感じながら、強盗団と
(編集子)ジェイムズ・キャグニイといえばまず思い浮かぶのがシカゴのギャング、というイメージだし、出てくればまず憎まれ役が多い名優だった。小生の好きなフォンダの ミスターロバーツ でもその憎々しさが面白かった記憶があるし、かたやボーグナインといえばこれまた掛値なしの敵役だ。特に 地上より永遠に でフランク・シナトラを殺してしまう軍曹役なんかが思い出される。このふたりの西部劇、ということになるとセーブゲキ党としてはぜひ見ておかなければならなかったのだが所用で見逃してしまったのが残念至極。
(飯田)小泉さんが纏めた「追われる男」をビデオ撮りしておいて昨日観ました。今月のBSシネマで、劇場では観ていなかったので、この一本を観たいと思っていた作品でした。
ジェームス・キャグニーが善人役として、珍しい作品で西部劇としてそこそこ面白いと思いました。ジャイさんもコメントしてましたが、キャグニーの映画ではジョン・フォード監督の「ミスター・ロバーツ」のヘンリー・フォンダに対する上官役が秀逸であり「ヤンキー・ドウードウル・ダンディ」が自分は好きな映画です。それに当時劇場で観た「白熱」は、もう一度是非観たいと思ってますが、テレビでは見たことが無いです。
遠藤誉女史の自伝、「卡子(チャーズ)」(1984年、読売新聞社)を読んだ。極めて激しい衝撃を受けた。
その内容は、戦争の終わった1948年、日本に引き揚げずに満州の新京(現:長春)に残り、チャーズに収容された人たちの話しだ(戦いもせず、我先に逃げ出し、敵前逃亡とも言える軍規違反をした関東軍には言葉もない)。チャーズとは、国民党、または、共産党が管理し、鉄条網が張り巡らされた、小生の理解では、強制難民収容所だ。しかし、そこには住まいもなく、食料もなく水もなく、体力のない人は、それこそ次から次にバタバタと死んで行く生き地獄だった。現に、当時7歳だった女史がチャーズに足を踏み入れた際には、死体があちこちに散乱し、目を覆う状況だった。雑草も木の芽も、そして、食べられるもの全てを食い尽くした後に残っているのは、カニバリズム(人肉食)だけだった。チャーズで何人の、それこそ無辜な日本人が亡くなったのか、未だに分かっていない。
何故、こんな悲惨なことが、戦争も終わり、しかも民間人の身の上に降りかかったのだろう。シナ人がスパイの存在を恐れたためだとの説があったようだが、それだけではこの蛮行、いや大虐殺は説明しきれないだろう。
日本はシナで蛮行を繰り返して来たと教えられてきた。例えば、重慶の爆撃、南京事件、その他。逆に、中国共産党は、清く正しく美しく、まるで宝塚でもあるかのように一方的に日本を非難し続け、片方の日本は、腰抜けの河野洋平がただただ叩頭するだけの河野談話を発表するお粗末さ。この虚偽に、日本が未だに拘束されているのは言うまでもない。
中国共産党は、チャーズの存在自体を公にしているわけではなく、ましてそこで亡くなった日本人がどれぐらいいたのかなど全く興味を持っていないだろう。となると、チャーズでの大虐殺は歴史の闇に葬られることになるのだろうか。結局は、勝てば官軍、負ければ賊軍か。
最後に、亡くなった方々の御霊に合掌。
日本のコロナ感染が下火になったかと思ったら、今や、コロナの話題はオミクロン株ばかりですね。私も外来で沢山の患者さんからオミクロン株についての質問を受けます。 確かにこの変種株は変異の部位が多岐にわたり、今までのデルタ株などとは大分様子が変わってきていることが知られています。
この新種コロナウイルスは感染力が今までの株より3倍ほど強いことは確実ですが、病原性も従来株より強いかどうかはまだよくわからないのです。大量にこのオミクロン株感染者を出した南アフリカの医師会長(女性です)は、感染力は強いが病原性は強くないと強調しています。他の風邪症候群とおなじように、今回のオミクロン株は感染は起こしやすいが、重症な肺炎や亡くなる方は少ないと、だから怖がることはないと言っているわけですが、当初私には信じられませんでした。しかし世界保健機構(WHO)にもまだ死亡例の報告はないようです。
南アは観光大国です。ヨハネスブルグの街からみる台形のよう大きな山や、ケープタウンから1-2時間のところにあるサファリ公園などは一見の価値があります。私も広大なサファリパークの中で、すぐ近くに放し飼いのキリンや象をみながら食べたサンドイッチと、テーブルにあふれるばかりに盛られた日本では見たこともないような沢山の果物を想いだします(一寸、嫌みな書き方かな?)。ケープタウンの街からハイヤーを1日貸し切り、パークのなかでも専任の案内人をつけて、それでも入園料や食事代も全て含めて確か一人一万五千円ぐらいだったからかなり安い印象でした。この観光が大きな収入源である南アにとって、このオミクロン騒動は大変な痛手だから、それを忖度した医師会長の発言ではないかと当初は思ったのです。でもそれは「ゲスの勘繰り」だったかも。
確かにワクチン2回接種済みの方もこのオミクロン株は感染していることは事実ですが、まだ死亡例を聞かない。死んだり重症にならなければ、このコロナは風邪と同じようなもので、恐れるには足りません。これはこのオミクロン株の毒性がおもったより弱いのか、それともワクチン接種が感染は防げなくても、重症化を予防しているかのどちらかだと思います。今後、データが出てくるでしょうが。 いずれ、オミクロン株を主因とする第6波が日本にも来るかもしれませんが、入院必要例や死亡例はかなり少ない可能性は十分あると思います(希望的意見ですが)。
しかし皆さんは、①マスクは常に携帯し、人混みへの外出は極力減らして、感染予防には従来通り十分気を使う、②インフルエンザにも罹らないように、そして③冬に流行の可能性のある食中毒(ノロウイルスなど)に気をつけましょう。そのためには、帰宅後手指のアルコール消毒+石鹸による手洗い(両方やるという意味です)を励行してください。
(浅海)篠原君のオミクロン株に関する話なんとなく信じたくなった。
”月いち高尾” に参加してくれた川名君との立ち話のことがきっかけで始めてみた ”エーガ愛好会“ なるメールグループのやり取りをブログにアップしてみた第一号が2020年5月15日の ”赤い河をめぐって“ である。その後参加者の応援を得て今回の記事が第百回目にあたる(この会の名称は金藤君が小泉さんにあてたメールで使ったのだ、と小泉さんは書いておられる)。本格的(?)な解説記事を投稿してくれた第一号は安田耕太郎君の ”めまいを見ました”、12月10日には保屋野君が ”エーガ愛好会が半年たちました“ と喜んでくれた。
”映画“ ではなく ”エーガ“ だとこだわった甲斐があったのか、そもそも参加者がすべて世にいう ”オールドファン“ なのか、”新作“ についての投稿はあまりない。このあたりはこれから変わっていくかもしれないが、その ”オールドムービー“ の極めつけともいえるかの ”哀愁“ と ”白い恐怖“ という2代名作を見るタイミングが99回目、金藤さんのご尽力で、いわばグループ公認メディアになったNHK BS劇場に登場したというのも面白い偶然だろうか。
企画した ”編集子“ にとってなお嬉しいのは、このグループの(言ってみれば世にいう ”バーチャル“ だが)交友というかチャットというか、その領域が映画を離れて、美術とか音楽とか旅行とか、より広い話題に拡大してきたことだ。コロナ鬱の社会情勢のもとで絶えがちな友人との連帯感を強めてくれた、いわばSNS社会にあって初めて経験する、一種の至福感、といえば言い過ぎだろうか。ただ、感覚的に言うと、小生がもらっているメンバー間のメールはこのいわば “非映画” 話題のほうが今や70%くらいなような気がする。”仲間うちの情報誌” たらんとしておっかなびっくり始めて見たものとして、本当にうれしく、また感謝に耐えない。紙上を借りて御礼申し上げるし、今後ともこの交流が発展していくことを期待してやまない。
ただ、まことに申し訳ないというか情けないが、小生, 造形芸術について全く興味がなく、かけらほどの知識も持ち合わせていないので、折角の交流ぶりをまとめる能力がゼロである。このような(つまりエーガ、にとどまらない)交流であれば、もっと広い範囲で語り合える友人がまわりにいるのではないか。 現在、”エーガ愛好会”のMLは12人にとどまっているが、だれかデスクを買って出て(ブログにアップするのは小生が担当)折角の知見をまとめ、また何らかの方法でより広い友人関係を育ててくれる人が現れるのを待っている。
さて、100回目を記念して、安田・保屋野両兄のご提案で、いわば年末記念事業?として、メンバーにいくつかの設問を試みた。その結果は下記の通りである。”オールドファン“ の好みがより鮮明になるような気がする。
オクガタまたはダンナと初めて一緒に観た映画は覚えていますか?
(本稿回答が少ないのは、ほかでは記憶力抜群のメンバーの中に ”忘れた” とか ”教えてなんかやらない!” という回答があったからである。理由は想像するしかないが)
無人島へ流されるが1本だけ映画を持っていいと言われたらなににしますか?
映画に出演できるとしたら、今まで見た中でどんな役をやりたいですか?
・黒い稲妻トップシーンのザイラー ・”情婦”のマレーネ・ディートリッヒ ・(コネリー演じる)007 ・大いなる西部のジーン・シモンズ ・80日世界一周のデヴィッド・ニーヴン ・ジャイアンツで石油を掘り当てたときのジェイムズ・ディーン ・陽の当たる場所 のモンゴメリ・クリフト ・ロシアより愛をこめての急行列車で舌平目を食べてる007 ・カサブランカのハンフリー・ボガート ・第三の男のトレヴァ・ハワード
この100回を終わってみると、われわれ世代にとっては、エルヴィス・プレスリーと並んで世代文化を築いたはずの、ジェイムズ・ディーンへの言及が少ないこと、映画名で言えば 理由なき反抗 エデンの東 などもあまり話題に上らなかった。また カサブランカ ばかりが取り上げられる一方、違うボガートの演技が冴えた ケイン号の反乱、あるいは同じクリフトでも 地上より永遠に ジョン・ウエインものでも作品そのものにやがて去り行くウエインへの生前の決別という雰囲気だった ラストシューテスト などにほとんど言及がなかったことに気がつく。
上記回答群もそうだが、100回の記録を違った視野から眺めてみると、全般的にこのグループにはロマンチックな傾向がめだつような気もする。メンバーの半数が基本的にはセンチメンタリストというかロマン追求派でなければやっていけない、ワンダラー、という人種だからかもしれないのだが。さて、次なる百回がどうなっていくのか、また楽しみが増えた。さてこの ブログ なるものに挑戦してみたのは小生80歳の時。月は去り星は巡って、昨日、誕生日を迎えた。関係ないか。
(保屋野)「哀愁」初めて観ました。ヴィヴィアン・リーとロバート・テーラーの共演、久しぶりに、目の保養になりました。ただ、ストーリーは、当時としては斬新だったのでしょうが、現代では良くあるパターン(陳腐は言い過ぎ)で、特にヒロインの救いようもない悲劇的ラストは後味が悪い。これに比べて、似た作品「旅情」や「慕情」も悲劇的作品ではあるが、ラストは、ヒロインの明るい未来を予測させる余韻の残る内容だったと思います。
さて、昔観た「旅情」と昨年観た「慕情」、そして「哀愁」・・演技派のキャサリンヘプバーンは別として、ヴィヴィアン・リーも魅力的ですが、私は、ジェニファー・ジョーンズの気品ある(控えめな)美しさの方が好きです。
(安田)「哀愁」1940年の映画以来、「愁」
(飯田)「哀愁」のビビアン・リーや「慕情」のジェニファー・ジョーンズ
私の好みからするとビビアンは演技派過ぎて、見ていると少し疲れ
(安田)確かにヴィヴィアン・リーの白眉は「風と共に去りぬ」と「欲望という名の電車」。映画の大成功と人気沸騰によって、“オリヴィエの妻”の枕詞で呼ばれていたヴィヴィアン・リーは、いつしか、オリヴィエは“リーの夫”と攻守逆転するに至り、誇り高きオリヴィエにとっては甘受し難き展開であった。二人は夫婦でありながら競合するライバルともなり、オリヴィエは妻の映画出演を快く思わなくなり、映画を舞台演劇の下と見て、妻もその影響を受ける。リーの演技が芝居がかった様相を呈するようになったのである。「欲望という名の電車」は先ず舞台で演じそれからエリア・カザン監督の映画に出演する。そのような事情が、映画の観客をして観るに疲れさせた原因の一つであったとも思われる。勿論、リーの感受性の鋭さも影響したと思われるが。
読んだヴィヴィアン・リー伝記本にも詳述されていたが、オリヴィエは男色趣味もあり(マーロン・ブランド、ダニー・ケイ、ジョン・ギールグッドなど沢山の男性が彼の恋人だったという)、夫婦は俳優としての緊張したライバル関係、リーの病気も手伝って、夫婦関係にはやがてひびが入っていき、離婚に至る。大向こうをうならせる俳優という人気稼業は大変複雑で難しい職業だと知らされる。ヘミングウエイの「武器はさらば」は、本を読み、1932年に映画化されたゲイリー・クーパー主演、ヘレン・ヘイズ相手役の「戦場よさらば」(なぜが邦題が異なる)を数年前に観た。映画「モロッコ」とほぼ同じ時代の古い映像だったが、クーパーの颯爽たる格好良さが印象に強く残っている。ロック・ハドソン ジェニファー・ジョーンズ版1957年は観ていない。またゲイで有名だったハドソンは逞しい体格とハンサム顔の割にはそれほど惹かれなかった。