霧の山稜

今朝、起きてみたらあたり一面、深い霧だった。室温は23度。いつも朝食前に小淵沢駅近くまで新聞を買いに出るのだが、今日は逆方向へ大回りをして八ヶ岳周遊道路(通称ハチマキ道路)へ、途中から甲斐小泉駅へ降りる道へ出た。小海線の踏切まで2キロほどの道が深い森を抜けるこの道で、霧の空気を吸いたかったからだ。途中で車を止めて,車外に出る。すっかり濡れているのであまり深く入るのはやめたが、それでも森の中へ分け入ってみる。15年も前だろうか、渋の湯から森へ入ってみて方向がわからなくなり心細くなった時のことを思い出しながら、しんとした空気を満喫して帰ってきた。

僕にはいわゆるクライマーと呼ばれる人たちの気持ちがよくわかるわけではないが、そのグループの中で著名な芳野満彦の 山靴の音 という本は愛読書のひとつである。大半を占める登攀記録にはほとんど心を惹かれないが、自身で書いた挿絵や短い文章が好きなのである。その中にあるこの一節が特に好きだ。

 

標高3000メートルを超える冬山の霧と山麓の林の霧が同じ色なのかどうか、わからないが、なにか レントゲン色 という一句に心を惹かれる。

山の文学、と言っても芳野とは全く違った雰囲気で好きなのが 霧の山稜 という一冊。2年の夏、金峰からの縦走に連れて行っていただいた金井隆儒さんから勧められて帰京するとすぐに買った本である。今どきなかなかお目にかからない、どっしりとしてそれだけで雰囲気のある本だ。その中の 霧 という一節。

 

霧の中にサルオガセが揺れていた。

シラビソの梢が、無限に重なって続いていた。遠く近くぬれたしわぶきとつぶやきは 落ちる雫の音だった。

 

僕の愛読してやまない本の一冊が愛好者の多いと聞く山口耀久氏の 北八彷徨 である。同氏の人柄もあるのだろうが、彼の文章は多くの場合明るく、時としてユーモラスでもあるが、そのなかでやや違って感じられる 落葉松峠という一文がある。

……..小広い平地になってひらけたその峠は、風と雪と、乱れ飛ぶ落葉松の落ち葉の、すざまじい狂乱の舞台だった。風に吹き払われる金色の落葉松の葉が、舞い狂う雪と一緒に一面に空を飛び散っていた。

滅びるものは滅びなければならぬ! 一切の執着を絶て!

もはやそこに、悔いも迷いも、ためらいもなかった。すべてがただ急いでいた。一つの絢爛を完成して滅びの身支度を終えた自然が、一つの季節の移りをまっしぐらに急いでいた……..

山口氏がこの峠に上った時、どんな気持ちだったのか、2003年夏、畏友山川陽一の計らいで一夕をともにすることがあったので聞いてみたが、それとなくはぐらかされてしまった。それ以上聞くことも失礼と思ってやめてしまったが、なにか口にだすのをためらっておられたような印象が残っている。

だがこの時の同氏の感情と、今、その山麓の霧の中にたたずんでいる自分との間には、何か同じものがあるように思えるのだが。

 

 

 

 

 

”とにこにい” 抄 (11) 笠ヶ岳

卒業後毎夏、大体4人くらいを誘い合わせて数日間の縦走をやるのが常になっていった、その5回目くらいだったろうか、三俣から笠へ縦走した。毎日好天に恵まれたが、みんな一様に体力の衰えを嘆き始めたころであった。

 

笠ヶ岳

 

暮れ方の飛騨の空の色に冷やされた

この 花崗岩の亀裂。

倦怠を通り越した疲労がしみわたる

この、亀裂。

国境のスカイラインに作られた

この非情なぬくもりに

俺はいつまで身を任せようとするのだ。

夕照はすでに加賀のプラトオに沈殿したというのに?

笠ヶ岳。

貴様のシルエットだけが

実ろうとする夢のむなしさを語りかける。

エーガ愛好会 (16)  ”ガス灯” をめぐって

(44 安田)820日放映NHK BSPの「ガス燈」を観ました。二度目です。初回に比べて細部にも注意を払い、より面白く楽しめました。 

品の良いフランスの美男スター、シャルル・ボアイエ(当時45)と、1942年の「カサブランカ」、1943年の「誰が為に鐘は鳴る」の成功でこの時期 “理想の女性像” として絶大な人気を博したイングリッド・バーグマン(当時28)の美男美女の競演が最大の見どころ、舞台は1870年代のロンドン。心理サスペンス映画。ロンドン名物の霧やゆらゆらと揺れるガス燈などを効果的に使った光と陰の映像美も秀逸なモノクロ映画です。 

未解決の殺人事件の被害者の姪(バーグマン)に良からぬ目的で近づき結婚するボアイエ。彼女をノイローゼになるようにじわじわと追い詰めていく悪人であることは、誰の目にも明らか。宝石目当てで叔母を殺し、彼女の宝石を狙って跡継ぎの姪(バーグマン)まで破滅させ病院に送り込もうと画策したボアイエの策謀の数々と彼の演技。バーグマンの恐怖と混乱を表した演技は共に見事と言うしかありません。 

叔母の名歌手(被害者)が遺した宝石の所在を探し屋根裏部屋にまで侵入。そこはバーグマン寝室の真上。不気味な足跡(実はボアイエの)が聞こえてくるが、ボアイエはバーグマンの幻聴だと言い張り、不思議な足跡の音を否定する。さらに、ボアイエ自らが仕組んで、首飾り、絵画、時計、ブローチなどの紛失事件を次から次へと起こし、バーグマンの過失として問い詰め、精神的に攻め立て異常を来たしたように思いこませていきます。外部の人間には妻は体調がよくないなどと言って他人との接触を断たせ、孤独の淵に追いやる。このねちねちとした粘着質の、ボアイエのいたぶり方が秀逸。親切づらをして穏やかに微笑む紳士から、ひとつひとつ計画を実行するたびに、妻を冷ややかな目で睥睨するボアイエの視線のバリエーションは、いくら見ても見飽きない。少し眉を上げてバーグマンを見下ろす高慢な視線は、この男の悪人振りを如実に物語っている。

映画のクライマックスは、少年の頃有名な歌手だった叔母に憧れていて、スコットランド・ヤードの警部になっていたジョセフ・コットンが同じ館に居を構えたボアイエ・バーグマン宅を訪れたことから急展開を見せます。

この映画で出色だと思ったのは、ひとつには招かれたコンサートのシーン。最初はベートーベンのピアノソナタ「悲愴」が弾かれ、次にショパンのバラード一番。演奏の途中で夫は時計が無いと騒ぎだし、探すと妻のハンドバッグから見つかる。夫が仕組んだ謀略だが、妻は混乱で取り乱す。この彼女の動転振りと恐怖をこの「バラード一番」の緊張感ある旋律が伝える。格調高く、けれど緊迫した場面。自分が狂気に陥っていると恐れるバーグマン、迫真の演技。バラードは美しいだけの曲でなく、こんな場面にもピッタリでした。

もうひとつのみどころは、屋根裏部屋でコットン警部がボアイエを捕らえ、ボアイエとバーグマンが二人だけで対峙する場面。バーグマンが見せる強く射るような視線で激しくののしる口調と、ボアイエの何かに憑かれたような、別次元をみているかのような歪んだ欲望に満ちた、しかし観念し諦めた視線は物語を締めくくるのに最もふさわしい見せ場だったと思います。 

ハンガリー系ユダヤ人ジョージ・キューカー監督の映画はこれまで、「素晴らしき休日」1938(ケーリー・グラント、キャサリーン・ヘプバーン)、「フィラデルフィア物語」1940年(ジェームス・ステュアート、ケーリー・グラント、ヘプバーン)、「スタア誕生」1954年(ジュディー・ガーランド、ジェームス・メイソン)、「マイフェアレディ」1964年(オードリー・ヘプバーン)を観ていた。キャサリーン・ヘップバーンをブロードウエイからハリウッドに呼び寄せ、成功に導いたのも彼であるし、俳優の魅力を遺憾なく引き出す能力に長けているとの評あり。ヘップバーン映画10本ものメガホンを執っている。特に女優を輝かせることにかけてはピカイチ。本作のバーグマンも彼女の魅力が見事なまでに美しく引き出されていたと思います。 

舞台でキャリアを積んだ実力の持ち主ボアイエと、若き実力派バーグマンの静かな火花が散る演技合戦、とりわけ彼らの視線の演技は。密室劇であり心理戦が主題である本映画にふさわしく見応え充分でした。紳士然としたボアイエの異常性をはらんだ人物像と、好対照に美しきバーグマンが身も心も閉塞感と孤独感にさいなまれて、現実と虚構の間を行き来する虚ろな心情の息詰まる感じ。伏し目がちになり、時に怯えてすがるように悲痛な視線を他人に向けるも、無力さを痛感して嗚咽する。そんな彼女が最も怯えるのが、タイトルにもなっている寝室のガス燈がある時間になると不安定にゆらめき、燈が小さくなって暗くなる瞬間だ。恐怖の色が顔に浮かび、狼狽しながら「聞こえるはずのない」不気味な音に耳を傾けます。そこに爽快なアクセントとなっているジョセフ・コットン、更には独特の存在感を醸し出して良いスパイスになっているメイド役の、後年テレビドラマシリーズ「ジェシカおばさんの事件簿」で大ブレークした、アンジェラ・ランズベリーが見事な脇役を果たしていました。存分に楽しめた2時間でした。

(HPOB 金藤)

安田さま  「ガス燈」の写真と素晴らしい解説文、ありがとうございました。
保屋野さま 「ガス燈」は名画だと聞いてはいましたが、私も観るのは初めて、サスペンスだとは思っていませんでした!
モノクロ画面で、霧に包まれるロンドンのl家、ガス燈、豪奢な家の中、調度品等、光の当たる部分と影になる部分が効果的に美しく映し出されていました。
ボワイエは初めから、いかにも悪そうに見える夫役をこれでもかと言うほど
しれっと演じていたのは見事でした。への字眉もこの役作りでしょうか?
揺らめくガス燈に揺らめく心
バーグマンが精神的に追い詰められていく様子がよく描かれていました。
バーグマンは美しい上に、恐怖の表情、演技力はさすがアカデミー賞受賞をしただけの事がありますね。 ウエストの細さにも驚きました・・・
耳の遠い家政婦さんはジェシカおばさんになっていたのですか!!観て良かった映画です!
(安田)ご感想のメールありがとうございます。ひとつだけ訂正させて下さい。

「ジェシカおばさん」で1980年代人気を博したのは若いメードの方で、当時19歳のアンジェラ・ランズベリー。この映画のメイド役でアカデミー助演女優賞候補にノミネートされました。シャルル・ボアイエも主演男優賞候補にノミネート。バーグマンとのトリプルオスカー受賞とはいきませんでしたが、二人とも見事な演技だったと思います。
(金藤)あの若いメードさんがジェシカおばさんになったのですか!!

ずいぶん変わったのですね!ご指摘頂きましてありがとうございました。
とんだ勘違いをしていました。ありがとうございました。
(編集子)まずはウエストの細さがでてくるあたり、さすが昔から冷静さが頼りだった我がセクレタリ、でありますな。

エーガ愛好会 (15) ゲイリー・クーパーを思い出した

コブキこと久米行子発の何気ないメールから始まったクーパー論議。僕らの年代の代表的俳優のひとりだが、今どきの若いファンの間では誰が匹敵するのだろうか。ジェイムズ・スチュアートと並んで、良きアメリカ人を体現、代表する俳優だった。ウエインやイーストウッドがいわば右寄りのイメージなのに対し、いつも中庸を感じさせ、成熟という表現があてはまる存在だったと思う。

 

(きっかけとなった、安田の記事をフォローした久米のメール)

「眼下の敵」またもや見てしまいました。やはり、ロバートミッチャムが格好よくて満足しました。駆逐艦がUボートを駆逐したのですからこの艦長は勲章物でしょうね。それとクルトユルゲンスのまなざしに時々ゲーリークーパーのまなざしを見つけて驚きました。

(後藤)実は明治36年生まれの亡き母が最も好きな映画俳優がヴァレンチノとゲーリークーパーでしたので私も母のお供で幾つかの映画を中学生の頃観ました。沢山の良い作品の中で特に印象に残っているのはヨーク軍曹””誰がために鐘は鳴る”です。晩年にはフレッドジンネマンの”真昼の決闘”やヘップバーンとの共演ビリーワイルダーの”昼下がりの情事”ありましたが若々しくセリフの歯切れが良かったのは先の2本が特に印象的です。ヴァレンチノに関しては一本だけ”The Son of the Sheik”しか覚えておりません。他に”善人サム”と言う映画も若くてクーパーらしい男前といかにもスカッとした役柄が印象的でした。

しかし真昼の決闘以降の映画はクーパーファンにはあまり面白くありませんでした。ルー・ゲーリックの生涯をテーマの”打撃王”は素晴らしい映画でしたが ”The Pride of Yankees”を何故”打撃王”などと勝手な題名を日本で付けたのか母親はいつもボヤイテおりました。誰が為に鐘は鳴るのイングリッド・バーグマンとのラヴシーンは中学生には刺激が強すぎましたが鼻が邪魔するほど美形の二人のキスシーンは忘れません。

(菅原)小生の一番好きなクーパーのエーガは「真昼の決闘」です。主題歌も良かったし(今でも耳に甦る)、実際の時間とエーガの動きが同期化されていて、ハラハラのしどうしでした。

グレース・ケリー初お目見えの西部劇でもあった

が、それよりも何よりも、孤立無援で悪漢に立ち向かうクーパーが、実にカッコ良かったこと。終わって劇場(日比谷だったか、有楽座だったか、もう思い出せません)を出るに当たって、クーパーの積りで出ました、その恰好良さをを真似て。しかし、誰も気にも留めていませんでしたが。

(小泉)人間の善意が滲み出る人柄、皆さんの適切なるコメントに、こちとらはもうとても出る幕はないものと思っておりましたが、二言だけ言わせてもらいます。KOBUKIさん他の人が言われる通り、自分が歳を取ってみると矢張り勝手ながら、しわ首の目立たなかった若きクーパーが良かったです。西部劇では、平原児、西部の男、北西騎馬警官隊、無宿者、サラトガ本線、征服されざる人々ぐらいまで。打撃王、誰がために鐘は鳴る、ヨーク軍曹も良かった。ヨーク軍曹は、終戦間もなく、中学時代に観て感激した。終戦まで鬼畜米英と教えられてきた者にとって、ヨーク軍曹は戦場では、敵ドイツ人を25名殺害、132名を捕虜にする大功績をあげるが、兵隊に行くまでのクリスチャンとしての人を殺すなという教えに大いに悩み、苦労した挙句に、自由を手にするためには戦いに同意するという、今から思えば、戦意高揚の意識が盛り込まれていたのだが、やみくもに米英をやつけろとけしかけていた日本がアメリカに負けたのも、当たり前だと思ったものだった。

 善意クーパーにも、大いなる危機があった。クーパーファンとしては触れたくないが、魔が差すこともある。1949年48歳の時、摩天楼に主演したとき、25歳年下の共演のパトリシア・ニールと恋に落ち深い関係となってしまった。クーパーは妻ヴェロニカと一人娘マリアのことを考え、家庭を捨てることなく別れたのだった。後日談として、そのニール、ヴェロニカとも再婚したりしたが、クーパー死後20年後、再婚者共に死別、ニールのヴェロニカへの弔意の手紙が発端で、ニールとヴェロニカ、マリアの3人が夕食のテーブルを囲んだという。クーパーの妻と娘は過去のことを忘れ、ニールを許したばかりか。娘のマリアはニールに心当たりの修道院を紹介したとのこと。

(金藤)皆様の素晴らしいコメント、いつも楽しみにさせて頂いております。盛り上がっているのに、すみません、ゲイリー・クーパーについては、アメリカの大スターの他何も書けませんので小さくなっています。「真昼の決闘」「ヨーク軍曹」は観るべき映画に登録させて頂きます。 

***以下、ウィキペディア解説から***

ゲーリー・クーパーGary Cooper、本名: フランク・ジェームズ・クーパー、1901年5月7日 – 1961年5月13日)は、アメリカ合衆国モンタナ州ヘレナ出身の俳優。愛称はクープ

アイオワ州グリネル大学で学ぶが卒業はせず両親の持つ牧場で働きながら商業デザイナーを目指して新聞に漫画を書くようになるが、両親がロサンゼルスに移ったために共に移動、セールスマン等の仕事に就くが長続きしなかった。友人のツテで1924年ごろから西部劇映画のエキストラ出演を始め、俳優を志すようになる。1925年、名前をゲーリー・クーパーと変え1926年『夢想の楽園』で本格的にビュー。この映画を見たパラマウント映画の製作本部長は「この男は、うしろ向きに立っているだけで女性ファンの心をつかむ」と見込んで契約した。

1927年、『アリゾナの天地』で主役を演じてからは、しばらくは主にB級西部劇で活躍した。1929年、『バージニアン』で西部劇スターとしての地位を確立する。そして翌年、マレーネ・ディートリヒと共演した『モロッコ』で世界的な大スターの仲間入りを果たす。また、1936年、『オペラハット』でアカデミー主演男優賞にノミネートされるなど、順調にキャリアを重ねていった。

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出演作品は本稿記載のほかにも多くて記載しきれないが、われわれの射程内に入ってくる作品では何といってもマレーネ・ディートリッヒのラストシーンが名高い モロッコ あたりからだろうか。あまり話題にはならなかったようだが、ボージェスト は小生の愛する作品、悪役ナンバーワンに上がることの多いブライアン・ドンレヴィの強烈な印象もあって、何度も見ている。若き日のスーザンヘイワード、レイ・ミランドが共演(やっこにおすすめ。よければDVDお貸しします)。

西部劇なら 北西騎馬警官隊 とか 遠い太鼓 もちろん ベラクルス なんてのも興奮したね。ヴァージニアン はクーパーものではなく、ほかの題名でたしかランドルフ・スコットだったかジョエル・マクリ―の作品を見ているはずだが、題名思い出せず。小泉さん、ご存じありませんか。

”とりこにい” 抄 (10) 飯豊の夏

コロナに振り回されているうちに8月になってしまった。今はただ、暑いだけの日々しかないが、夏山を歩いた記憶はやはりこの月に多い。

数えてみればほぼ60年ほどになるある八月のこと。サラリーマン生活が4年もたつと、友人たちも新しい任地に去ったり、休暇があわなかったりで、毎夏出かける旅も現役時代とは違った組み合わせになることが増えていた。なんせ、同期だけで70人を超える仲間がいた時代だから、合宿なんかをのぞいた、いわゆる一般プランでは、卒業するまでいちども一緒になったことがない仲間の方が多かったから、OBになってから妙に新鮮な気持ちで歩いたものだ。

あの夏 - 好天に恵まれた飯豊の縦走は今考えても伸びやかな、のんびりしたものだった。

切り合せにて

 

ひろびろとふきわたる風はみちのくの風。

はろばろと受け止める山はみちのくの山。

そよぎたつ くさはらに 泥靴。

友の眼と俺の眼に むかしの夢。

越後から吹き寄せる風は 八月の風。

みちのくの夏のそのおわりに

チングルマは秋をうたう。

エーガ愛好会 (12) またまた西部劇であります   (34 小泉幾多郎)

7月17日BSP放映「荒野のストレンジャーHighPlainsDrifter1973」感想。

クリント・イーストウッドが「恐怖のメロディ1971」の次に監督した2作目。西部劇では最初の監督作品。出演した「荒野の用心棒」「夕日のガンマン正・続」の監督セルジオ・レオーネと真昼の死闘」「ダーティ・ハリー」のドン・シーゲルの影響を受けた作品と言われている。

 いずこより風の如く現れ、悪を倒して、いずこかへ消え去る。西部劇の典型、「シェーン」がその代表か。この映画も、大地に立ち込める陽炎に中、ストレンジャーが馬に乗ってゆっくりと湖畔の街ラーゴという所へやって来る。この男がシェーンのような善良な男でないところが、マカロニウエスタンの影響か。酒場で3人から絡まれ殺したことから、この街に雇われることになる。二人の監督の影響も勿論あるが、黒沢明の影響が強く影響しているようだ。と言うのは、この街の住民が、宗教心のある善人ずらをしているが、過去に街の金鉱の権利が国にあることが分かり、それを公にした保安官ダンカンを3人に依頼し殺害させ町人は見て見ぬふりをしたのだ。「七人の侍」での百姓もまた善人ぶって悪賢いところを見せていた。その悪人3人が牢から出所することが決まり、ストレンジャーに,その殺しの白羽の矢が立たのだ。「真昼の決闘」のことも念頭にあったらしい。クーパーを応援しなかった街の人たち、仮にクーパーが殺されていたらダンカン保安官と同じことだった。ストレンジャーにフラッシュバックしてダンカン保安官が殺される場面が2回も出てくる。これはストレンジャーがダンカン保安官の生まれ代りと言いたいのか?最後に、ストレンジャーが、3人の悪人を殺し、旅立つに際し、名前を聞かれたとき、ストレンジャーが「わかっているはずだ」と墓標を指す。ストレンジャー=ダンカンの亡霊なのか?。

(編集子)正直言って、つかみどころがないというか筋のわかりにくいフィルムだった。しかし玄人筋の評判はよかったようだ。ウイキペディアからの転載。

・・・アメリカでは1973年8月に公開され、当時800万ドルの興行収入を得た。これは1970年代に制作された西部劇で11番目に多くの興行収入を得た作品で,当初、出演のオファーを受け、脚本も受け取っていたジョン・ウェインは映画公開後、イーストウッドに本作を評価した手紙を送っている。ただし、その内容は「映画の町民たちは、実際のアメリカ先駆者達の精神を持っていない。アメリカの偉大なる精神をだ」というもので、本作に難色を示している。評論家からは賛否両論の評価を受け、『サタデー・レヴュー』のアーサー・ナイトはイーストウッドについて「シーゲルとレオーネの作り方を吸収し、レオーネと彼の独特の社会観が融合している」と述べた。現在、Rotten Tomatoesでは96%の高評価を受けている。うんぬん。

エーガそのものとは関係ないが、トップシーンで陽炎の揺らめく画面が真っ青な湖に変わった瞬間、あれ? という既視感があった。調べてみて直感が当たったことが判明。カリフォルニア中部、セントラルバレーからグレートベースンへかけての荒涼とした風景の中にあるモノレークだ。シェラネヴァダ山系の一端にあり、付近の水系から水の流入はあるが流出はない.そのせいかどうか、水の蒼さがすごい(青、か 藍、か。フィルムに写ってる色は小生の記憶に近い)。このあたり、北米(アラスカは別)の最高峰マウント・ホイットニー 4418Mと世界で2番目に低いマイナス86Mのデスバレーが至近のあいだに位置している、天地創造の時、北米造山活動の見本みたいな地域である。滞米中、よせばいいのに人のいかない6月、しかもエアコンのないバリアント(もう存在しない、クライスラーの最安値車)で(よく無事で帰れたもんだと今でも思うが)このあたりを走行したことがあり、その時、モノレイクに立ち寄ったのだと思う。妙なセンチメントを覚えた映画だった。

 

Sneak Preview (最終回)  ロンドンの思い出  (44 安田耕太郎)

このシリーズは44年安田耕太郎君が執筆中だった旅行記の紹介として掲載してもらってきた。彼の努力が結実、”アポロが月に到達したころ、僕は世界を歩いていた” がこの夏には刊行される予定が立ったとのことなので、今回をもってピリオドを打つ。僕が滞米中、彼ともう一人、39年の石谷正樹君が全米横断の途次、拙宅によってくれたし、野郎会の森永夫妻、アサ会の林田先輩、親友翠川夫妻などにも来ていただいた。日本とKWVが世界に目を向け始めた時期だったのだろう。

僕ら二人はカリフォルニアしか知らないが、その間、ケネディが築き上げた、よきアメリカがものすごいスピードで変貌してしまうのを見つめていた、それなりの感慨が蘇る。もういちど、センチメンタルジャー二―を敢行すべきか、僕らの大好きだったかの国のことはほんのりとした記憶のままにしておくのがいいのか、ぼんやりと考えることがある。

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ベルギーの港町オーステエンデから4~5時間はフェリーに乗っていたと記憶する。イギリスの陸地が見えてきたが、切り立った白い崖は何キロにも亘って続いている。

(ドーバー海岸の白い崖)

やがてドーバーには夜の帳が下りる時刻に入港。入国手続きを行い、イギリスポンドに両替する。ドーバーに一泊して翌日ロンドンへ向かうことにした。時は1969年10月であった。アメリカ以来、半年以上ぶりの英語圏だ。

入国早々何を見るまでもなく気づき驚くことがあった。物価がとてつもなく高いのだ。当時ポンドと円の交換レートは固定相場1ポンド1008円であった。今日ポンドはおおよそ140円である。単純に為替変動による貨幣価値でいうと、円貨で生活する日本人にとって物価は今より7倍以上高い勘定になる。とにかく食料などすべてが高いと感じた。

ロンドンの高級ホテルなどは一泊の部屋代が日本の大学卒初任給の一月分にも相当もしていたと記憶する。日本がまだまだ貧乏で、海外旅行など高嶺の花だった時代である。ユースホステル以外泊まれないと思ったものだ。

勿論ではあるが気がつけば車は日本と同じ左側通行だ。ヨーロッパではスウェーデンが2年前の1967年に右側通行に変更したのでイギリスだけが唯一の左側通行の国になった。日本を離れて一年半ぶりの左側通行だ。信号を渡る時まず車が来る方角、自分の右側を無意識に見るようになるまでしばらく時間を要した。

ロンドンのような大都市はヒッチハイカーにとって苦手な相手だ。その困難さはヨーロッパではロンドンとパリが双璧だ。町に入る時も出る時も共に目的場所への道筋と距離がつかめない。町が大き過ぎて迷うのだ。土地勘は全くない。市内では降ろされた地点から目的地(ユースホステルの場合が多い)までは公共の交通機関を使う。町を出る時も目的地へ通ずる道路を探し出して、ヒッチハイクできる郊外まで行かねばならない。東京の銀座から大阪までヒッチハイクする場合の困難さ、無謀さを想像すれば容易に理解できる。

ドーバーから乗った車はロンドンの市内にはいり、町の南に位置する鉄道のヴィクトリア駅前で降ろされた。地図と格闘したあと地下鉄に乗って、ユースホステル最寄りの駅まで行き、歩いてホステルへたどり着いた。場所について記憶が定かでないが、ハイドパークの近くであったのは覚えている。二段ベッドが4つある狭い部屋をあてがわれた。いびき、話し声など山小屋と同じだ。男女相部屋だ。ワンダーフォーゲル部の経験が活きる。ロンドンを出る時は地下鉄で北の郊外まで行ってから、ヒッチハイクした。

1960年代のロンドンはSwinging London(スウィンギング・ロンドン)と呼ばれファッション、音楽、映画、インテリアなどを中心にした若者文化が開花し、活気にあふれたストリート・カルチャーが一世を風靡して、このロンドン発のソフトパワーの文化大革命は津波のように世界に広がっていた。野球のバットやゴルフのクラブを振ることをスウィングするというが、ジャズ音楽の「躍動感」や「ノリ」を表現するときにも「スウィングする」という。まさにロンドンが「スウィング」躍動していた時期だった。

象徴的なアイコンはビートルズ、ミニスカート・モデルのツイッギー、007ジェームス・ボンド、ヒッピーの聖地ともいうべきカーナビーストリート(Carnaby Street)など。

(カーナビ―ストリート)

伝統の香りが色濃く残る古い街並み、山高帽子にスティック片手に歩く英国紳士と、時代を先取りしたこのサイケデリックな若者文化の新旧混在が当時のロンドンを特徴づけていて大変興味深く感心した。1966年自国開催のサッカー・ワールドカップ決勝で西ドイツを破り悲願の初優勝した余韻が、まだ残っている勢いと活気が街に充満していたロンドンの雰囲気を味わうことができたのは幸いであった。大英帝国の残照が光り輝いている感じがした。EU離脱ブレグジットで混迷を極める今日の姿とは大違いだ。

市内を走る赤い2階建バスと黒塗りの屋根の高い箱型タクシーには、やはり英国とロンドンに来た事実を感じさせられる。少しは通じるはずの英語に戸惑う。米語と違う抑揚と発音に慣れず、しかも格調高く喋っているように聞こえ気押されてしまった。地方に行けばもっと聞きづらかった。スコットランドの田舎では方言が強くこれが英語かと思うことが何度もあった。

ロンドンには一週間ほど滞在した。帰りにも再度立ち寄る予定だ。ロンドン滞在中は地下鉄と徒歩が移動手段。大英博物館、ロンドン塔、ウエストミンスター寺院、バッキンガム宮殿、ナショナルギャラリー(国立美術館)、テート美術館、ハイドパーク、コベントガーデンなどを訪れたり散策したりした。中心街をよく歩き、日帰りでウインザー城にも電車で行った。まずはお上りさん旅行者としてガイドブックが一番の友達だ。

大英博物館の最も印象に残った展示品を挙げると、ロゼッタ・ストーン(Rosetta Stone)。エジプトのロゼッタでナポレオン遠征軍が1799年に発見した紀元前2世紀の古代エジプトの石碑。ヒエログリフ(神聖文字)を含む三種類の文字で同じ内容が記述されている。ヒエログリフ解析のきっかけとなった発見であった。発見された直後、1801年、イギリス軍がエジプトに上陸してフランス軍を降伏させ、それ以降ロゼッタ・ストーンはイギリスの所有物となり、大英博物館で公開されることとなった。しかし、現在ではエジプトがその所有権を主張しているがイギリスは受け入れてない。パリのルーブル美術館でも感じたが、英仏両国の帝国主義時代における海外遺産の持ち帰り(略奪)は凄いとしか言いようがない。

ロゼッタストーン

テート美術館の絵画ジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」、光を大胆に取り入れた鮮やかな色彩のターナー絵画も印象的だ。ナショナルギャラリーのレオナルド・ダ・ヴィンチの「岩窟の聖母」、カラヴァッジョの「洗礼者ヨハネの首を受け取るサロメ」、ゴッホの「ひまわり」(2020年現在、滞日中)、なども忘れがたい。

世界的な価値は低いが大英博物館にて、明治11年(1878年)5月14日、明治の元勲内務卿(現在の首相に当たる)大久保利通が東京の紀尾井町(現在のホテル・ニューオータニの裏手辺り)で暗殺されたニュースが、記事となって載ったイギリス現地の英字新聞が展示されていたのにはびっくりした。流石イギリスと感心しきりであった。

1863年(文久3年)開通の世界最古の地下鉄(Underground、あるいはTubeという)の古めかしさにはびっくりしたが市内くまなく網羅していて、東京山の手線のような環状線と併せると市内であればほぼどこへでも行けた。地下鉄は筒状の形状をしたトンネル内を走ることからTube(管、筒)といわれるのだ。地下鉄の車両は、丸い天井は両端になるに従い低くなるので長身ぞろいのイギリス人には窮屈そうだ。

ロンドンで気づくのはやはり多国籍人種。世界の覇権を握っていた大英帝国時代の旧植民地からの移民が目立つ。アフリカの黒人諸国、インド、インドシナのマレーシア・ビルマ、香港出身中国人、カリブ海の西インド諸島諸国と多士済々だ。北アフリカのアラブ系とアフリカ黒人諸国、インドシナのベトナムとカンボジアのフランスに比べると人種の多様性の幅が大きい。アメリカのニューヨークよりさらに国際色が豊かだ。

 

エーガ愛好会 (11) 眼下の敵

ここのところ、BS3劇場 常連のわがパートナーには、どうせ、戦争映画でしょ、と一蹴されてしまったが、第二次大戦欧州戦線の史実に興味がある編集子にとっては見逃せない一作。先週の シェナンドー河 に引き続き、”悪いやつの出てこない映画” でもある。”潜水艦映画にはずれはない” というギョーカイのジンクスもあるようだが、かの レッドオクトーバーを追え は米ソ冷戦時期の話で政治的背景やらやり取りも伏線になっていた。このジャンルでかかせないドイツ映画 Uボート はナチ政権下での話で潜水艦という極限の密室での人間ドラマとして重苦しい映画だった。最近売り出し中のジェラルド・バトラー主演の ハンターキラー は今度は現在のロシアの混とん状態が背景になっているが、ハイテク筋の作品として別の意味で面白かった。ただ潜水艦内部の描写はあまりにもテクニカルで2作に比べて人間味に欠ける。しかし素人目にも、そのテクニカㇽぶりが レッドオクトーバーに比べてずいぶん違ってしまっていることは明らかだし、まして 眼下の敵 のものとは隔世の感があるのは当然だろう。

今回はとりあえずわが愛好会では人間グーグルと呼ばれ(命名者不明)事実確証には定評のある安田耕太郎の解説から始めるとしよう。

(安田)南大西洋で行動中の米駆逐艦 ヘインズ の新任艦長ロバート・ミッチャムはFeather Merchant (羽毛商人- 兵役忌避者)と乗組員に陰口をたたかれるほど戦意が無いようにみえた。ところが、終わってみれば恰好良すぎるくらいの艦長振りであった。その辺の変わりゆく艦長振りがまず見どころ大であった。

駆逐艦はソナー(asdic)から電波を発して海中の物体があれば跳ね返っくる時間によって潜水艦の存在と位置を把握できる。それに対して、潜水艦は気泡発生装置から海中に気泡を放出してソナーからの電波を気泡に当てさせ、潜水艦の位置を攪乱させる。潜水艦の位置が全く分からなくなるのは、駆逐艦の真下に潜り込みソナーからの電波を無効にするか、海底にへばりつき、ソナーの電波が海底に当たったように思わせることである。「眼下の敵」では潜水艦は海底にへばりつき、駆逐艦側は位置を見失う。ところが、海底深く潜航すると、当然水圧が高くなり、潜水艦内のバルブなどが水圧で吹っ飛んだりして海水が艦内に入ってきて、乗組員はパニック状態に陥る。また、艦内の温度が上昇して暑くて汗みどろで不快極まりない。さらに、駆逐艦には聴音機なる装置で、潜水艦艦内の微音でも把握して位置を特定することが出来る。水中では音はより鮮明に聴こえるのだ。それで、潜水艦内では乗組員は話せない、物音を出せない。足音も立てられないという極度の緊張を強いられる状態に陥る。ストレスが溜まり戦意を喪失していくのである。

この様なパニックに近い乗組員の緊張状態を和らげるクルト・ユルゲンス潜水艦艦長の行動が振るっていた。ドイツの有名な行進曲をかけ、皆に声をだして歌わせ、「俺が皆を助けるのが仕事だ、皆。俺を信じるか」とリーダー振りを発揮する。乗組員は皆勇気づけられる。当然、ローバート・ミッチャム側の駆逐艦では音楽を感知して潜水艦の位置を特定する。「敵は随分余裕があるではないか」と錯覚させられる。

この様な虚々実々の秘術を尽くした心理戦を含んだ戦闘のなかで、お互い見えない敵の両艦長の間に敵ながら相手に敬意を払うある種の同志意識みたいな気持ちが芽生え始める。ラストシーンに繋がる演出ぶりが心憎いほどだ。
ユルゲンス艦長はナチス嫌いの戦争反対派。乗組員がヒトラーの「我が闘争」を読んでいるのをみていやな顔をする。また、艦内に掲げられた「ヒトラー総統の命令に我々は従う」の独語の標識には不機嫌に布をかぶせる。一方のミッチャム艦長も、Feather Merchantと思われたほどだから、戦争反対派。

しかし、両艦長ともいざ艦と艦の一騎打ちとなると、スポーツゲームの勝負に徹底的にこだわるが如く、戦闘には勝ちに行く。戦争に勝つ、祖国の為に・・・などとは全く無関係なように。映画の最後は、両艦双方損傷を負い痛み分けの引き分けで終わる。亡くなった潜水艦の副艦長の死に敬意を表して駆逐艦上で米・独の敵味方乗組員が同席してドイツ式の水葬を行う。

戦争映画でありながら、戦闘場面の悲惨さは全くなく、戦闘シーンの描き方は技術的に観ていて面白いし、潜水艦の特徴も理解できた。死と隣り合わせの極限状態に置かれた艦長と乗組員の人間模様の描き方も、温かさに溢れていて気分がスカッとする面白い映画であった。お知らせいただいたコブキ姉様に感謝。

(保谷野)眼下」というのは少し変だと思って調べたら、やはり原作は「水中の敵」でした(編集子注: 原題 Enemy Below)。(知らない人は戦闘機と軍艦の戦いだと勘違いしそう?)ただ、「水中の敵」では迫力ないか?日本語の妙ですね。

私は2回目でしたが、駆逐艦VS潜水艦そして、魅力的な2人の艦長・・・結構楽しめました。しかし・・・(疑問) あれだけ優秀なUボート艦長が、何故、簡単なトリック(駆逐艦の偽火災)に引っかかったのか。(そのため、致命的な5分の猶予を与えてしまった。)

さて、現代ならどうでしょう。原子力潜水艦にはどんな軍艦でも勝てないのでは?深海から水中ミサイルを発射されたらお終いでしょう。いや、迎撃水中ミサイルという手はあるか。まあ、そういう時代が来ないことを祈ります。

(安田)保屋野さんのご尤もな疑問は、当時の海戦の戦闘(battle)における了解ごとに関係していると思います。

敵の艦が大きな損傷を受けた場合、その乗組員を艦から退避させて救命するのが、いわば戦闘(battle)の紳士的ルールでした。ですから駆逐艦側は大火災(致命的損傷)と見せかけて、乗組員を退避させるに必要な時間(5分間)を敵方に与えさせるように謀ったのです。ルールに従って、その間には敵の潜水艦は更なる攻撃を仕掛けてこないことを見越して、時間を稼いで反撃に出る。少し狡い頭脳作戦ではありましたが、潜水艦に損傷を与え痛み分けに持っていくことが出来ました。映画Directorはその辺も計算ずくで勝負の行方を二転三転させて、最後は引き分けのノーサイドで終わらせたました。

(編集子)安田記事にもあるが、この映画のエンディングが素晴らしい。救助にきた米艦の船尾で、ミッチャムとユルゲンスが煙草を吸いながら航跡を見つめている。ミッチャムは(想像だが)ドイツ軍潜水艦のために失った妻のことを、ユルゲンスは親友ハイ二のことを考えていたのではないか。ユルゲンスが冗談めかしてミッチャムが投げたロープに感謝し、この次はもう投げないぞ、という返答に、いや、君はまた投げるよ と暖かい視線でいうのだ。もし、配役がミッチャムでなく、例えばジェームズ・スチュアートとか、ジョン・ウエインだったら、同じセリフを言ったとしても感じは違っただろう。この映画の時のミッチャムはまだまだ若いが、後年の男の渋さを感じさせる演技を約束するような、人間味のあふれるシーンだった.

オリバー君の娘

オリバーの娘、といってもエーガの話ではない。

足掛け6年位になるだろうか、ほぼ毎週、英会話のレッスンをしてくれているロンドン生まれの好青年 オリバー・ワトソン君にお嬢さんができた。勿論、大変な喜びようだ。彼の父君がちょうど小生と同じ年だそうで、こちらも何だか父親代わりみたいな気持ちになっていて、英語を習う見返り(?)にわがヤマト民族のことをいろいろと教えている間柄でもある。夫人にはまだお会いする機会がないが、デザイン関係の仕事を持っておられるらしい。この教室(GABA)のインストラクタには、日本人と結婚している人が多い。これからの時代、これからのいわば地球俯瞰型生活のなかで、こうして国を越え、文化の違いにとまどいながら理解しあっていく家族が増えていくのは素晴らしい事ではないだろうか。僕の勝手な想像だが、英国と日本、という二つの国にはそれとなく文化的な要素のところで近いものを持っているのではないか、と思ってきた。この一組の夫婦から新しい時代の種がまかれた。彼が得意になって見せてくれた写真、娘さんの髪は漆黒、生後1週間だというのに ふさふさ という形容詞を使いたくなるような日本髪、であった。

彼の喜びようが55年前、自分が感じた歓喜の感情を思い出させ(父親がわり、と勝手な思い込みもあって)、ちいさな記念品に、わが子誕生の朝に書いた、例によって詩まがいのものをそえた。夫人がどう翻訳してくれるか、申し訳ないが楽しみである。誕生後のレッスンで、名前をどうするのだ、と聞いたら、英語のパスポートには Alyssa 、日本語では ありさ としたい。ただ日本語をかなにするか漢字がいいか、と聞かれたので、僕は漢字がいいと思う、と答えた。かなはやさしいし、読み間違えがない。しかし漢字には意味がある。それが大事なのでは、というのが理由だった。結果として、長女は 有里彩 ちゃん。彩のある(埼玉は彩の国と言っている)ふるさとをもつ娘。何と素晴らしい命名だろうか。この三つの文字を選ばれた夫人のセンスには脱帽である。オリバーはいずれ、国籍を選ぶ時期がきたら、どちらを第一にするか、本人に決めさせる、と言っている。その時期、小生はたぶん、この現世にはあばよ、と言っているだろうが、わが有里彩ちゃんに栄光あれ!

 

 

 

娘よ。

おさなき生命萌え出づるあさ

阿佐ヶ谷の空は おだやかなりき。

霜月にはあれど

ドアより垣間見たる雲は やわらかにして

朝 まだき

うす黄金色に光り居れリ。

このあさ

ふるさと東京は

気温 9.3  湿度 83

しじまをぬらしたる時雨おさまり

いと おだやかなりき。

 

娘よ。

人の親となりたる日

健やかにまどろめる母を置きて

父は街へ出でたり。

日 土曜なれば

道は人にあふれたり。

そのとき

高らかに笑い交わしつ一群の少女父がそばをすぎ

わかき香り

埃せる街をきよめたれば

卒然と心のうちに 父は叫び居れり。

 

われに娘あり

我が娘 また きよらかに生きんと。

 

娘よ。

愚鈍なる父は今こそ悟りたり。

いのちこそは尊きもの

いのちこそはうつくしきものなりと。

 

娘よ。

晩秋の空はすでに暮れ

病室に灯の入りたれば

わかき父とわかき母は

しづかに手とりあい

汝れが名前を語りき。

 

娘よ!

いまいちど

父は心に叫びき。

われに娘あり

わが娘またきよらかに生きんと。

新選組血風録

自粛騒動の結果、小生の日常に今までなかったイベントが加わった。テレビ番組を探す、ということである。従来は 1.気に入った大河ドラマ 2.NHKニュースセブン 3.ジャイアンツが勝ってる試合 4.ときどき映画 しかテレビは見ない、と決めていた。ましてやエンタメと称するお笑い芸人だとか、その連中がバカ騒ぎするやつだとか、グルメ番組と称して味がわかるのかどうかもあやしいタレントがこれ、美味しー、などとのたまう番組(ギャラをもらってる以上、おいしー以外に言えない仕組みだろ、最初から)なんぞが始まると自分の部屋へ引き上げるのが常だったし、このあたりは今後も頑として変えないつもりだが、偶然、”時代劇専門チャネル” で 新選組血風録 をやるとわかって、以来、平日午後4時から1時間、テレビを独占することにした。26編あるそうだから、当分、この体制は続きそうだ。これが終わるころには月いち高尾とハイライトのチョー三密、天狗飯店宴会が再開されてることを祈るだけだ。

さて、新選組血風録。

いわば ”中堅” サラリーマンの日常が順調に回っていた時期。よそ様に比べれば文句の言えないくらいのいい待遇の会社であることは十分承知しながら、(これが俺の人生か?)という暗流が時々顔を出し、なお心底が定まらない時期があった。全国で大学ワンダーフォーゲル活動は絶頂期にあり、”学連” つまり大学間の連絡網が企画した参加全大学のワンデルングがあった4年の初夏、その企画で “主将班” なるものに参加した。能登半島の突先、曽々木海浜でのキャンプで日本海の荒波をみているとき、突然、妙な厭世観みたいなものが自分を襲った。それはその後も続き、高校時代から俺の進路、と決めていた新聞記者になる、という野望がどういうものかすっかり魅力を失ってしまい、結局、デフォルトでサラリーマンになった。なってしまった、という、一種のコンプレックスから抜け切れていなかったのだろうか。そういう、不安定な時期に偶然、”血風録” に遭遇した。まだカラーテレビもなく、当初は全く期待していなかったのだが、2回、3回と見てみて、すっかり、今の用語でいえばはまってしまった。

理由は二つある。ナレーションもよかったが何といっても栗塚旭がまさに適役だったことで、”燃えよ剣” で僕の中にできていた土方のイメージそのものだったこと(すこばかりハンサム過ぎたが、本人も大変もてたそうだからよしとする)で、数年前ブームになった ”新選組!” の山本耕史もよかったけれど重厚さを感じさせず、ほかにも何人かの土方をみたが、司馬遼太郎にほれこんでいる小生の持っている土方像にはマッチしない。近々、岡田准一主演で 燃えよ剣 が封切りされるらしく、心待ちにしているが、たぶん、栗塚には及ぶまい。まさに栗塚の前に土方無く、栗塚の後の土方なし、だと思っている。

もうひとつはこの番組の底流にある、気障に言えば滅びゆくものに殉じる、信じるものに命を懸ける、という覚め切った雰囲気が当時の小生のどっちつかずの、甘え切ったコンプレックスに対しての回答のように思えたことである。春日八郎(知ってる?)が歌う主題歌が、番組が進んで鳥羽伏見の戦いから江戸への退却あたりから、”三つ葉葵に吹く嵐、受けて立つのも武士の意地。鴨の千鳥よ心があらば、新選組のために泣け” という歌詞に変わる。さらに北海道に向かい、最後まで意地を通して戦死する、そのあたりのいくつかのエピソードがなんといってもいい。信じたもののために生きる、というのはこういう事なんだ、今、おれが信じるものはなんなのか、という真剣な問いをあらためて感じたことだった。

放送はもちろん白黒だし、スクリーンの構成もまことに古めかしければ録音も上等はとても言えない。しかし、26回、完全に見てやるつもりでいる。映画、というよりも自分の歴史を紐解いているような感じがしている。