このシリーズは44年安田耕太郎君が執筆中だった旅行記の紹介として掲載してもらってきた。彼の努力が結実、”アポロが月に到達したころ、僕は世界を歩いていた” がこの夏には刊行される予定が立ったとのことなので、今回をもってピリオドを打つ。僕が滞米中、彼ともう一人、39年の石谷正樹君が全米横断の途次、拙宅によってくれたし、野郎会の森永夫妻、アサ会の林田先輩、親友翠川夫妻などにも来ていただいた。日本とKWVが世界に目を向け始めた時期だったのだろう。
僕ら二人はカリフォルニアしか知らないが、その間、ケネディが築き上げた、よきアメリカがものすごいスピードで変貌してしまうのを見つめていた、それなりの感慨が蘇る。もういちど、センチメンタルジャー二―を敢行すべきか、僕らの大好きだったかの国のことはほんのりとした記憶のままにしておくのがいいのか、ぼんやりと考えることがある。
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ベルギーの港町オーステエンデから4~5時間はフェリーに乗っていたと記憶する。イギリスの陸地が見えてきたが、切り立った白い崖は何キロにも亘って続いている。
やがてドーバーには夜の帳が下りる時刻に入港。入国手続きを行い、イギリスポンドに両替する。ドーバーに一泊して翌日ロンドンへ向かうことにした。時は1969年10月であった。アメリカ以来、半年以上ぶりの英語圏だ。
入国早々何を見るまでもなく気づき驚くことがあった。物価がとてつもなく高いのだ。当時ポンドと円の交換レートは固定相場1ポンド1008円であった。今日ポンドはおおよそ140円である。単純に為替変動による貨幣価値でいうと、円貨で生活する日本人にとって物価は今より7倍以上高い勘定になる。とにかく食料などすべてが高いと感じた。
ロンドンの高級ホテルなどは一泊の部屋代が日本の大学卒初任給の一月分にも相当もしていたと記憶する。日本がまだまだ貧乏で、海外旅行など高嶺の花だった時代である。ユースホステル以外泊まれないと思ったものだ。
勿論ではあるが気がつけば車は日本と同じ左側通行だ。ヨーロッパではスウェーデンが2年前の1967年に右側通行に変更したのでイギリスだけが唯一の左側通行の国になった。日本を離れて一年半ぶりの左側通行だ。信号を渡る時まず車が来る方角、自分の右側を無意識に見るようになるまでしばらく時間を要した。
ロンドンのような大都市はヒッチハイカーにとって苦手な相手だ。その困難さはヨーロッパではロンドンとパリが双璧だ。町に入る時も出る時も共に目的場所への道筋と距離がつかめない。町が大き過ぎて迷うのだ。土地勘は全くない。市内では降ろされた地点から目的地(ユースホステルの場合が多い)までは公共の交通機関を使う。町を出る時も目的地へ通ずる道路を探し出して、ヒッチハイクできる郊外まで行かねばならない。東京の銀座から大阪までヒッチハイクする場合の困難さ、無謀さを想像すれば容易に理解できる。
ドーバーから乗った車はロンドンの市内にはいり、町の南に位置する鉄道のヴィクトリア駅前で降ろされた。地図と格闘したあと地下鉄に乗って、ユースホステル最寄りの駅まで行き、歩いてホステルへたどり着いた。場所について記憶が定かでないが、ハイドパークの近くであったのは覚えている。二段ベッドが4つある狭い部屋をあてがわれた。いびき、話し声など山小屋と同じだ。男女相部屋だ。ワンダーフォーゲル部の経験が活きる。ロンドンを出る時は地下鉄で北の郊外まで行ってから、ヒッチハイクした。
1960年代のロンドンはSwinging London(スウィンギング・ロンドン)と呼ばれファッション、音楽、映画、インテリアなどを中心にした若者文化が開花し、活気にあふれたストリート・カルチャーが一世を風靡して、このロンドン発のソフトパワーの文化大革命は津波のように世界に広がっていた。野球のバットやゴルフのクラブを振ることをスウィングするというが、ジャズ音楽の「躍動感」や「ノリ」を表現するときにも「スウィングする」という。まさにロンドンが「スウィング」躍動していた時期だった。
象徴的なアイコンはビートルズ、ミニスカート・モデルのツイッギー、007ジェームス・ボンド、ヒッピーの聖地ともいうべきカーナビーストリート(Carnaby Street)など。
(カーナビ―ストリート)
伝統の香りが色濃く残る古い街並み、山高帽子にスティック片手に歩く英国紳士と、時代を先取りしたこのサイケデリックな若者文化の新旧混在が当時のロンドンを特徴づけていて大変興味深く感心した。1966年自国開催のサッカー・ワールドカップ決勝で西ドイツを破り悲願の初優勝した余韻が、まだ残っている勢いと活気が街に充満していたロンドンの雰囲気を味わうことができたのは幸いであった。大英帝国の残照が光り輝いている感じがした。EU離脱ブレグジットで混迷を極める今日の姿とは大違いだ。
市内を走る赤い2階建バスと黒塗りの屋根の高い箱型タクシーには、やはり英国とロンドンに来た事実を感じさせられる。少しは通じるはずの英語に戸惑う。米語と違う抑揚と発音に慣れず、しかも格調高く喋っているように聞こえ気押されてしまった。地方に行けばもっと聞きづらかった。スコットランドの田舎では方言が強くこれが英語かと思うことが何度もあった。
ロンドンには一週間ほど滞在した。帰りにも再度立ち寄る予定だ。ロンドン滞在中は地下鉄と徒歩が移動手段。大英博物館、ロンドン塔、ウエストミンスター寺院、バッキンガム宮殿、ナショナルギャラリー(国立美術館)、テート美術館、ハイドパーク、コベントガーデンなどを訪れたり散策したりした。中心街をよく歩き、日帰りでウインザー城にも電車で行った。まずはお上りさん旅行者としてガイドブックが一番の友達だ。
大英博物館の最も印象に残った展示品を挙げると、ロゼッタ・ストーン(Rosetta Stone)。エジプトのロゼッタでナポレオン遠征軍が1799年に発見した紀元前2世紀の古代エジプトの石碑。ヒエログリフ(神聖文字)を含む三種類の文字で同じ内容が記述されている。ヒエログリフ解析のきっかけとなった発見であった。発見された直後、1801年、イギリス軍がエジプトに上陸してフランス軍を降伏させ、それ以降ロゼッタ・ストーンはイギリスの所有物となり、大英博物館で公開されることとなった。しかし、現在ではエジプトがその所有権を主張しているがイギリスは受け入れてない。パリのルーブル美術館でも感じたが、英仏両国の帝国主義時代における海外遺産の持ち帰り(略奪)は凄いとしか言いようがない。
テート美術館の絵画ジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」、光を大胆に取り入れた鮮やかな色彩のターナー絵画も印象的だ。ナショナルギャラリーのレオナルド・ダ・ヴィンチの「岩窟の聖母」、カラヴァッジョの「洗礼者ヨハネの首を受け取るサロメ」、ゴッホの「ひまわり」(2020年現在、滞日中)、なども忘れがたい。
世界的な価値は低いが大英博物館にて、明治11年(1878年)5月14日、明治の元勲内務卿(現在の首相に当たる)大久保利通が東京の紀尾井町(現在のホテル・ニューオータニの裏手辺り)で暗殺されたニュースが、記事となって載ったイギリス現地の英字新聞が展示されていたのにはびっくりした。流石イギリスと感心しきりであった。
1863年(文久3年)開通の世界最古の地下鉄(Underground、あるいはTubeという)の古めかしさにはびっくりしたが市内くまなく網羅していて、東京山の手線のような環状線と併せると市内であればほぼどこへでも行けた。地下鉄は筒状の形状をしたトンネル内を走ることからTube(管、筒)といわれるのだ。地下鉄の車両は、丸い天井は両端になるに従い低くなるので長身ぞろいのイギリス人には窮屈そうだ。
ロンドンで気づくのはやはり多国籍人種。世界の覇権を握っていた大英帝国時代の旧植民地からの移民が目立つ。アフリカの黒人諸国、インド、インドシナのマレーシア・ビルマ、香港出身中国人、カリブ海の西インド諸島諸国と多士済々だ。北アフリカのアラブ系とアフリカ黒人諸国、インドシナのベトナムとカンボジアのフランスに比べると人種の多様性の幅が大きい。アメリカのニューヨークよりさらに国際色が豊かだ。