22年9月 月いち高尾報告  (47 関谷誠)

真夏の間、KWV三田会夏合宿と猛暑・熱中症を考慮して中断していた「月いち高尾」を再開しました。コロナ第7波の先が見えはじめ、台風襲来の合間をぬっての爽やかな秋空の下、小仏城山(670.3m)コースと、定番のケーブルカー~高尾山(599.3m)コースに分かれて実施。

メインの城山コースは、この夏の猛暑の名残とその締めを付けるべく、「城山茶屋」名物のかき氷を堪能することをうたい文句とした。平均年齢76歳の老健脚10名が参加(S36吉牟田、S37菅谷、S40武鑓、S43猪俣、S45安田、S46村上、S48佐藤充、S51斎藤、羽田野、S47関谷)。

10:30 日影バス停から行動開始。トップ関谷が小仏城山北東尾根の日影林道からのアプローチ口を見過ごし、キャンプ場まで行ってしまい、数百メータをバックするも、林道から登山道への適当な渡渉点が、水量が多かったこともあり、見付からず。そんな中、さすが老練な菅谷さん、最適なポイントを探していただいた。数年前、某先輩が渡渉中に岩から滑ってしまった(仮称)H落っこちを無事渡り、木漏れ日差す尾根筋を500m弱登り、小仏城山に約2時間で到着。

目的の一つであった「城山」茶屋のかき氷を堪能して、暑かったこの夏にお別れ。小仏峠経由、小仏バス停14:40発でJR高尾駅に戻り、ケーブル組(S36中司、遠藤、高橋、S38町井、S39蔦谷、S46猪俣、S47平井、伊川)が待つ「テング飯店」での懇親会に合流。

ケーブル組も、秋空の下、遠足の小学生で賑わう高尾山登頂、下りはケーブルと1号路経由に分かれ、初秋の高尾を楽しんだ。マスクを外して、自然の空気を一杯に吸い込み、気心が知れたワンダー仲間との楽しい一日だった。

(48 佐藤)
入会資格の厳しい「月いち高尾」に入れていただきありがとうございました。またジャイさんから入会金支払いの指示もありましたが何とか切り抜けてしまいました。
吉牟田先輩はじめ平均年齢76歳とはとても思えない健脚に感服です。菅谷さんのルートファインディング、恐れ入りました。諸先輩方及び後輩と楽しい山行、懇親会に参加させていただき感謝です。

(43 下村) 写真を拝見、後期高齢者とはいえこれだけ揃うと壮観ですね。皆さんすばらしい笑顔!!
今回は参加できませんでしたが、来月の秋ワンは参加の予定です。

(43 猪俣)素晴らしいお天気のもと、山歩きを楽しみました。
企画、実施ありがとうございました。
城山は初めての経験でした。初心者程度のコースだと思いますが、結構
タフでした。やはり、歳とってきたのかなと感じています。

今日は老人会の体操の集まりのあと、松井田に来ました。明日はゴルフ。
明後日はワインの搾汁で勝沼に歳とったなど弱音を吐いている暇は
ないぞと自分を追い立てています。

次の機会も参加したいと考えています。また、よろしくお願いいたします。

 

今年の夏山記録  (39 三嶋睦夫)

今年の夏山の写真を何枚かお送りしますので、どうぞご覧下さい。天候不順の中で雨にも遭わず、幸運でした。いずれも “人生最後の〇〇山” です。

硫黄の爆裂火口壁
硫黄 赤岩の頭からの 赤岳・阿弥陀岳
一切経山頂からの五色沼。 左は家形山。
吾妻小富士。 一切経より
磐梯山 火口壁。遠くは秋元湖?。 弘法清水より
夕陽に染まる雲と五龍岳。  唐松岳山荘より
御来光
唐松岳と 不帰

残念だったのは、唐松岳山荘で ビールが品切れで無くて・・・・最悪でしたよ(こんなこと初めてです!)。なお唐松岳山荘は@14,000円でした。

いつまで歩けるかは神のみぞ知るの心境ですが、“もう一度行きたいあの山” を目指しています。

ヌーヴェルヴァーグ 概説  (普通部OB 舩津於菟彦)

(編集子)BS劇場で 勝手にしやがれ の放映があり、その登場の背景としていわゆるヌーヴェルヴァーグ映画についての議論が起きた。その定義づけとして博学船津の解説。長文にすぎるので(編集子の判断による)概要をお伝えする。作品の解説については別途エーガ愛好会でご紹介する。           (本文で船津がフランス語を ニューウエーブ Newwave  と気楽に書いているが、愛好会メンバーでは菅井康二と小生には、わが黄金時代のhpの痛恨の敗退を意味することになった大プロジェクトの名前であり、エーガどころでは済まない深い傷?を負わせた単語である。関係ないか)

 

アレは高校大学時代。
ブックバンドの代わりにVANのワイシャツの箱に教科書入れて、小脇に抱えて投稿しました。粋なつもり!面にはサルトル・ポバールの本を。

1950年代とは、冷戦構造の固定した時代として位置づけられる。旧枢軸国を含む西側諸国では、経済が急速に復興し、1920年代と同様の消費生活が行われるようになった。都市近郊には郊外住宅が発達した。政治的・文化的にはやや保守化し、一部の人権拡大の要求は軽視された。こうした保守的な傾向への反動として対抗文化としての若者文化が生まれ、1960年代の対抗文化の爆発的広がりに結びつく。また朝鮮戦争後の東西ブロックの緊張から、軍備拡張競争、宇宙開発競争、西側における赤狩り(マッカーシズム)が起こった。この緊張は政治的な保守化につながった。

ヌーヴェルヴァーグ(フランス語: Nouvelle Vague)は、1950年代末に始まったフランスにおける映画運動。ヌーベルバーグ、ヌーヴェル・ヴァーグとも表記され、「新しい波」(ニュー・ウェーブ)を意味する。
映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』の主宰者であったアンドレ・バザンの薫陶を受け、同誌で映画批評家として活躍していた若い作家たち(カイエ派もしくは右岸派)およびその作品を指す。具体的には、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、クロード・シャブロル、ジャック・リヴェット、エリック・ロメール、ピエール・カスト、ジャック・ドニオル=ヴァルクローズ、アレクサンドル・アストリュック、リュック・ムレ、ジャン・ドゥーシェなど。また、モンパルナス界隈で集っていたアラン・レネ、ジャック・ドゥミ、アニエス・ヴァルダ、クリス・マルケル、ジャン・ルーシュなど、主にドキュメンタリー(記録映画)を出自とする面々のことを左岸派と呼び、一般的にはこの両派を合わせてヌーヴェルヴァーグと総称することが多い。

ヌーヴェルヴァーグの最初の作品は、最も狭義の概念、すなわちカイエ派(右岸派)の作家達を前提とするならば、ジャック・リヴェットの35mm短編『王手飛車取り』(1956年)だと言われる。
カイエ派(右岸派)にとって最初の35mm長編作品となったシャブロルの『美しきセルジュ』(1958年)が商業的にも成功したことにより、シャブロルの『いとこ同志』(1959年)、トリュフォーの『大人は判ってくれない』(1959年)、ロメールの『獅子座』(1959年)、リヴェットの『パリはわれらのもの』(1960年)といった今日においてヌーヴェルヴァーグの代表作と言われている作品が製作、公開された。『美しきセルジュ』がジャン・ヴィゴ賞を受賞したのを始め、『いとこ同志』がベルリン映画祭金熊賞(大賞)、『大人は判ってくれない』がカンヌ映画祭監督賞を受賞するなど、ヌーヴェルヴァーグの名を一挙に広めたが、ヌーヴェルヴァーグの評価をより確固たるものにしたのは、アナーキストとアナーキズムを主題としたゴダールの『勝手にしやがれ』(1959年)だった。
即興演出、同時録音、ロケ中心というヌーヴェルヴァーグの作品・作家に共通した手法が用いられると同時にジャンプカットを大々的に取り入れたこの作品は、その革新性によって激しい毀誉褒貶を受け、そのことがゴダールとヌーヴェルヴァーグの名を一層高らしめることに結びついた。

一方、左岸派の活動は、カイエ派(右岸派)よりも早くにスタートしていた。時期的にはアラン・レネが撮った中短編ドキュメンタリー作品である『ゲルニカ』(1950年)や『夜と霧』(1955年))が最も早く、その後、レネは劇映画『二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)』(1959年)と『去年マリエンバートで』(1961年)を製作した。カイエ派、左岸派を含めた中で最初の長編劇映画はアニェス・ヴァルダの『ラ・ポワント・クールト』(1956年)だった。ジャック・ドゥミは『ローラ』(1960年)を公開した。これらが商業的な成功も収めたことから、1950年代末をヌーヴェルヴァーグの始まりとすることが多い。

トリュフォーやルイ・マルが過激な論陣を張った1967年のカンヌ映画祭における粉砕事件までを「ヌーヴェルヴァーグの時代」と捉えるのが妥当だと言えよう。この時点までは右岸派や左岸派の面々は多かれ少なかれ個人的な繋がりを持ち続け、運動としてのヌーヴェルヴァーグをかろうじて維持されていたが、この出来事をきっかけとしてゴダールとトリュフォーの反目に代表されるように関係が疎遠になり、蜜月関係と共同作業とを一つの特徴とするヌーヴェルヴァーグは終焉を迎えることとなった。ヌーヴェルヴァーグが興った1950年代から1960年代にかけては、フランスにおいては映画に限らず多くの文化領域で新たな動向が勃興しつつあった。それはサルトルを中心とした実存主義や現象学を一つの発端とするもので、文学におけるヌーヴォー・ロマンや文芸批評におけるヌーヴェル・クリティック、さらには実存主義を批判的に継承した構造主義など多方面に渡った現象であり、ヌーヴェルヴァーグもこれらの影響を様々に受けていると言われる。事実、ヌーヴォーロマンの旗手であったアラン・ロブ=グリエやマルグリット・デュラスは、原作の提供や脚本の執筆のみならず、自ら監督を務めることでヌーヴェルヴァーグに直接的に関与している。

日本におけるヌーヴェルバーグの影響としては、1960年代に松竹が、大島渚、吉田喜重、脚本家の石堂淑朗などによる作品の演出や作風が当時のフランスのヌーヴェルバーグと呼ばれた若手監督に似ていることに着目し、彼らの映画を「松竹ヌーヴェルバーグ」として売り出したことが挙げられる。

炭素文明論 その2      (会社時代友人 齋藤博)

前回は、ケシの果実から、アヘンが作られ、精製されてモルヒネ、そしてヘロインになるという経緯をまとめ、この炭素を骨格に持った物質が、世界に波乱を起こしていく歴史をまとめました。今回は、同じく炭素を骨格に持つ、糖の話です。糖は、実は人間の健康に重大な影響を及ぼす物質なのですが、それを知らずに世界は動いてきました。その歴史をたどってみます。

砂糖の起源は、ニューギニアあたりが原産とされるサトウキビだとされています。紀元前8000年位には、栽培されていたと言われていますが、それがどのように食されていたのかは、よくわかっていません。そのサトウキビがインドに渡って砂糖として生産されたのが、紀元前2000年あたりだそうです。

紀元前334年から始まったギリシャのアレクサンドロス(アレキサンダー)大王の東征部隊が砂糖に出会い、西方に持ち帰ります。砂糖に出会うまで、ローマ帝国では蜂蜜が一般的な甘味料でした。やがて西暦613年頃から100年ほどでイスラム世界がイベリア半島まで急速に拡がり、それと共に砂糖はヨーロッパだけでなくアフリカまで隈なく広まったということです。

イスラム世界では、イブン・スィーナーという哲学者が、砂糖は万能薬だと断言し、医師たちはペストから生理不順に至るまで、砂糖を治療薬として用いたそうです。栄養状態の悪い時代に、高カロリーで至福の甘さの砂糖を服用すれば、元気が出るのは当たり前のことだったと想像できますね。
11世紀のキリスト教世界でも、トマス・アクィナスと言う神学者が、砂糖は薬だと断言し、キリスト教の断食の日に砂糖を食べることへのお墨付きを与え、それが砂糖の普及を支えたと言うことです。

こうして、砂糖の需要が高まってゆくなかで、新大陸が発見され、すぐに新大陸でのサトウキビ栽培がはじまったそうです。16世紀のアメリカには黒人奴隷による製糖所が4、50箇所もできたそうです。ヨーロッパからは武器や繊維製品がアフリカに送られ、その武器で集められた奴隷がアメリカ大陸に送られ、生産された砂糖がヨーロッパに送られる。いわゆる、砂糖・銃・奴隷の三角貿易はこの頃から始まったとされています。

やがて砂糖・紅茶大好きなイギリスでは、砂糖商人が莫大な利益を上げ、蓄えられた富は産業革命の原資となり、イギリスが世界を制する原動力になっていったそうです。テート・ギャラリーは、砂糖商人のヘンリー・テートのコレクションを基礎にしているそうで、砂糖が生む富の凄まじさを今に伝えていると著者は述べています。

砂糖を飽食した者たちは、サトウキビを刈って精製してその重労働に耐えながら砂糖を作った黒人奴隷とは、違った形で苦しめられてゆくのです。それは、糖分の摂りすぎによる糖尿病です。炭素文明論には、糖尿病のことも書かれているのですが、古い事も含まれているので、ここまでにしておきす。

中秋の名月      (34 小泉幾多郎)

わがマンションから眺めた中秋の名月。シャープには撮れてませんが、1枚目18時29分のあと、2枚目18時40分、 左下に新幹線が通過しました。

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(編集子)8月末にPCに異常が起きた。ACアダプタを使用しているのに、バッテリの充電不足なのでACアダプタを使え、というメッセージが出てきてしまう。何かいやな予感がして例によってPCデポに持ち込んで相談したら、何のことはなくアダプタのプラグを受けるジャックが壊れているけだが、これはメーカーでないと治せませんとのこと、やむを得ずメーカーに依頼してもらったのだが、なんと修理代の見積もりができるまで10日かかり、OKしてからさらに2週間かかってしまった。その間、メールだけはアイフォンで応答してきたがなんとも不便を感じていた矢先、ブログをご覧いただいていた一部の方から、何かあったのかとお問い合わせをいただいたりしてしまった。ここのところ、同期生の何人かが相次いで不帰の客となっていて、(?)と思われたのかもしれない。

このままだと弔電が来るかもの知れないと焦っていたら、今朝、連絡があって早速取り返してきた。ご迷惑をおかけした段、お詫び申し上げる。このひと月の間、数々のご投稿をいただいたので、その中から取り急ぎ、ご紹介をさせていただくことにしたい。とりあえず、遅ればせながら秋の季節感を。

なお、ご心配をおかけしたが編集子本人は心身(身のほうは多少怪しくなってきたが)ともに元気で、依然減らない体重だけが悩みであります。

コロナ対策は重大な岐路に立っています  (34 船曳孝彦)

新型コロナ肺炎(最近の病態は上気道炎と言った方がよいかもしれない)第7波は、夏休み・お盆の影響もあり、衰えを知らない高止まりの状況が続いています。おそらく皆さんの周りでもそうだと思いますが、いまや身近に感染者が発生しているのではないでしょうか。前報時には60~70%が感染しているのではと書きましたが、今や50人に1人以上ではないかと思われます。後述しますが、これから先はこの見当もあやふやとなってしまいます。

世界的に大きな波だった第5波の倍以上に大きな第7波ですが、欧米ではそれほどの大波ではありません。第7波の大部分はオミクロンBA-5亜株ですが、BA-2.75亜株が出てきました。感染し易さはBA-2と比べBA-2.75は1.36倍(BA-5は1.19倍)です。いずれBA-2.75が大部分を占めるようになるでしょうが、現在のシェアは明らかではありません。幸い致死率が高いとは言えないようですが、総数が増えれば医療逼迫に直結しますし、死亡総数も増えます。現在のコロナ問題は多岐にわたり、重大な危機にあります。一言でいえば戦後日本の目標だった【科学立国】の崩壊元年となりそうだということです。

医療逼迫が現実問題として危なくなってきました。医療関係者への4回目のワクチン接種が遅れたことと、爆発的患者数増加で、医師、看護師、その他医療従事者の感染などにより、千葉大では2800名中109名( 4 %)の職員が欠勤したといいます。

医療逼迫のもう一つの原因が➊病床確保と運用です。これは政治家の発言では必ず出てきてはおりますが、実体を伴っていません。日本の病院数、病床数は世界で最も多いのですが、1病院当たりの医師数は先進7か国中最も少なく、看護師数も最も少ないのです。小さい病院が多いことも影響しています。では大病院が総動員体制で入院させているかと言えば、そうでもありません。❷国立大学病院で積極的に入院治療しているのはごく僅かで、公立・公的病院の4割が入院させていません。中小の私的病院が軽快者、無症状者をどんどん受け入れてくれればいいのですが、現実問題として感染/非感染のゾーニング(接触しないよう分離)やスタッフの問題、さらに重症化した時の大病院への転送困難などで、ごく限られた病院しかできません。➌患者の流れが未だに確立していません。国の方針として自宅療養を積極的に進めていますが、第5波の時にも問題化していたのに、患者数が倍増しても対策は取っておらず、重症化しても救急車にて運び込む病院がなく死亡した人が出ました。患者コントロールは国、自治体の責任です。

次に検査体制の問題です。❹発熱外来の大混雑で屋外の検査となり炎天下で検査待ちして熱中症患者が発生しました。政府はいたずらに患者数を増やすだけという理屈の通らない理由で、❺一貫してPCR検査を嫌っております。

患者数激増に対応するため、疑わしい時には抗原検査キットを薬局で購入し、❻自己検査で診断するような方針を打ち出しました。問題噴出です。先ずキットの品不足です。十分量用意してあるといいながら現場では足りていません。次に陽性となった場合の受け皿が用意されていません。重症化する可能性を持ちながら、入院先の補償なく自宅療養する不安を強いています。第3に、症状が無かったり軽かったりすれば、出来れば入院したくないのが人情です。コロナ患者は社会的にも阻害されるため、陽性だったことは伏せておこうという人が続出する可能性があり、このような疫病(伝染病)においては、あってはならないことです。総数把握の上からもザルの目となって抜け落ちてしまいます。なお、唾液による抗原検査は、経験から使い物にならないものと思います。薬局では市販しておりません。7月時点ではぬぐい液検査キットは入手出来ませんでした。

最大の問題は疾病対策の基本である❼『感染者総数把握』を放棄することです。首相がこの放棄を断念するよう、また最終判断を自治体に丸投げするなど、全く信じられません。パンデミックな大疫病の最中に、患者数が掴めないなどという事態は三流国、四流国と見做されます。日本政府は戦後に目標とした科学立国を否定してしまうのでしょうか。なぜこうも非科学的、否反科学的政策を進めるのでしょうか。私は断固反対を叫びます。医療逼迫が原因だから、医師の負担軽減のためという理由も筋が通りません。医師の一部には全数把握放棄を主張する医師もいますが、彼らは公衆衛生学、疫学を再勉強すべきです。

何時もながら畏友黒木博士に教わった[COVID-19 TK-File(42)]現在の➑「新型コロナウィルス感染症発生届」を見てみると、届け出時に不要な項目、詳し過ぎて手間と時間の無駄の項目、感染原因、感染経路など分からない項目、1回目からのワクチン接種年月日など、患者、医師ともに大きな負担になっていることが分かります。黒木氏が提案しているような、簡略化、デジタル化で、届出書記載の手間は数分の一になると思われます。

 

コロナ、無症状の患者さんでも後遺症 (普通部OB  篠原幸人)

東京都のコロナ患者さん数は多少ですが、減少傾向に向かって来たでしょうか?さて、世間は統一教会問題とともに、日本のコロナ患者の数を従来通り「全数把握」で続けるか、「定点把握」という新しい方法に切り替えるかの問題と、コロナをインフルエンザなどと同じ5類感染症とするか, 2類にとどめおくかでもめています.

私はまだ2類にとどめ置き、かつ少々形は変えても、「全数把握」を続けるべきだと思っています。政府は「定点把握」といって、いくつかの大きな病院でのみ新コロナ患者数を算定し、全体の数はそれから類推する方法を取りたいようです。たしかにこの方法は、新しいコロナ患者の詳細に関する面倒な記入の為に、診察時間終了後、莫大な労力を強要されている小さな病院・医院にとっては朗報です。一人の患者さんのデータを入力するために今のままでは30分以上かかるからです。しかし、新規発症コロナ患者さんの数をある程度、正確に知ることは、今後のコロナ対策にはまだ必要でしょう。それよりも、余りに詳しい現在の書類形式を廃止して、新規患者さんの数、各年齢、性別、診察時の状況、合併症の有無だけの記載にすれば、記入に要する時間は多分、10分の1になるのではないでしょうか? 政府や厚生省・保健所の言い分は、書式を変えるのに抵抗のある何時ものお役所仕事の一環であると思います。

5類・2類の問題も、2類の今のままなら患者さんは無料で検査を受け、治療が必要ならまた無料で受けられます。しかし5類に分類されるようになると、高価な薬も入院費も全て保険でまかなわなくてはなりません。お金のない人は死んでもらおうという考えになることを心配しています。

多分、現在発表になっているコロナ患者総数は、本当は氷山の一角で、実際の患者数はもう3-5割ぐらいは高いと、私は考えています。多分無症状ないし軽症の患者さんたちは、面倒だからと正しい診断を受けに行っていないのではないでしょうか?皆さんの中にも、ここ1-2年の間に、微熱が出た、一寸咳や鼻水が続いた、喉に何となく違和感があったなどという方は何人もおられると思います。その中には、いわゆる無症候性コロナ患者さんが混じっていたかもしれません。そんな人はラッキーだったとお考えかもしれませんが、実はコロナ後遺症はこのような無症状のコロナ患者さんからもたくさん見られるという報告があります。

コロナの後遺症は200種類以上の症状が報告されています。

全身倦怠感・何となくだるい

頭痛

息苦しさ・息切れ・咳

眠れない

脱毛

かゆみ

味覚・嗅覚・聴覚の低下 などです。

これらの後遺症にために、休職を余儀なくされ、解雇までされた方もあり、急性期に正しくコロナ感染と診断されていないと、年のせい・ずる休み・ノイローゼなどと誤診されたり。キチンと病院で診てもらえなかったりするケースがこれから増えるもしれません。東京ではすでに7人に一人はコロナ感染と考えられていますが、実際には5人に一人ぐらいは居られるでしょうか。

これから冬にかけて、第八波も考えられます。やはり、ワクチン接種は発症予防・後遺症予防には多少なりとも有効と考えることには科学的な妥当性があります。10月にはオミクロン株対応の新しいワクチンが出てくる予定です。しかしその功罪に関しては、まだ何のデーターも発表されていません。また情報が入りましたら、お伝えします。

 

 

乱読報告ファイル (30) 死者の靴   (普通部OB 菅原勲)

久し振りに探偵小説を読んだ 。英国の探偵小説作家、レオ・ブルース(Leo Bruce)の「死者の靴」(Dead Man’s Shoes。1958年発行。翻訳者:小林晋。なお、この英語は慣用句で、死亡した人の財産、を意味するとのこと)。また、これは私家版であって市販はされていない。従って、探偵小説ではネタバレは厳禁だが、私家版で部数が極めて限られていること、これから読む人も先ずいないと思われることなどからも、異例だが、ネタバレして話しを進めることにする。

話しは、モロッコのタンジールから英国のロンドンに向かう、5人の乗客を乗せた貨物船から始まる。船長を含む船員、乗客の専らの噂は、この船には殺人者がいるのではないか。確かに、乗客の一人は粗野で、誰にでも喧嘩を吹っ掛ける嫌われ者だった(ウィルバリー・ラーキン)。ところが、ロンドン到着を前にして、「誰かが落ちたぞー」の掛け声と共に、何かが船から海上に落下する。船員が全客室を探したところ、その男だけが船にいない。しかも、残された客室のタイプライターに「これから自殺する」旨の紙片が残されている。殺人者は、本当に海の藻屑と消えたのか。

種明かしをすれば、それは二つある。一つは、ラーキンは死んでおらず、自分から掛け声をかけ、変装道具を錘と共に海に投げ捨て、寝台の上げ蓋の下に隠れた。もう一つは、ラーキンなどと言う男は全く存在せず、その実態は、殺された大富豪、グレゴリー・ウィリックの甥であるランス・ウィリックそのものなのだ。つまり、ランスは変装して別人のラーキンに成りすまし(眼鏡をかける、洋服に詰め物をして大きく見せる、踵の高い靴を履いて高く見せる、声を変えるなどなど)、叔父を殺した犯人なのだが、この一人二役で逃げ切れると踏んで長年に亘り、計画し、それを実行して来た。

訳者あとがきで、「実に大胆なトリックだが、それゆえにかなり見え見えの真相である」と述べているが、これは、大胆なトリックなどと言うより、先ず実現不可能なトリックと言った方が正確だろう。加えて、場合によって、本人と別人が行ったり来たりすることになるのだが、歌舞伎の早変わりではあるまいし、そんなに簡単に出来る代物ではない。その意味では、残念ながら、関係者全員を集めて、素人探偵である歴史教師キャロラス・ディーンによって犯人が明かされる最後の30頁前後で大変失望したと言わざるを得ないのが正直なところだ。具体的には、人は完璧な変装をすれば全くの別人になりすますことが出来るのかと言うことが焦点となる(シャーロック・ホームズは変装の名人だったそうだが)。これが、訳者が言っている大胆なトリックなのだが、これが実現できないとなると、それこそ九仞の功を一簣に虧くことになり、なーんだと言うことになる。小生の反応が正にそれだった。

これが本格探偵小説だと言っても、物好きなひと以外、そんなものを読む人はいなくなって、益々、本格探偵小説から遠ざかって行くのは間違いない。小生、こう言った変装で人を騙くらかす話を、勝手に変装奇譚と名付けており、全く馴染めない。

ブルースには、ビーフ巡査部長を主人公とした別のシリーズがあるが、その第一作に「三人の名探偵のための事件」(1936年)と言う傑作、と言うより怪作がある。A.クリスティーのE.ポワロ、D.セイヤーズのウィムジー卿、G.K.チェスタートンのブラウン神父と言った名探偵でさえ解決できなかった難事件を、ビーフ巡査部長が易々と解いてしまうと言う、正に人を食った話しだ。

エーガ愛好会 (170) 折れた槍    (34 小泉幾多郎)

「折れた槍1954」はエドワード・ドミトリク監督の西部劇。他に西部劇では「ワーロック1959 」「アルバレス・ケリー1966」「シャラコ1969」があり、何れも問題作。特に当作はオリジナル脚本に与えられるアカデミー原案賞受賞のフィリップ・ヨーダンによるもので、父マット・デヴロー(スペンサー・トレイシー)が築き上げた牧畜王国における重苦しいホームドラマ的な西部劇。

インディアンの母セニヨーラ(ケティ・フラド)を持つ四男ジョー(ロバート・ワーグナー)のほかは、白人の前妻の子供である長男ベン(リチャード・ウイドマーク)、次男マイク(ヒュー・オブライエン)。三男デ二―(アール・ホリマン)がいた。ジョーは知事の娘バーバラ(ジーン・ピータース)と恋仲。父のお気に入りは四男ジョーだけ、人間性を潰される長男たちは敵対する。

シェイクスピアのリア王に設定が似ている。次男三男は厳し過ぎる父に反発し、自分の牛を盗んだりする。そんな或る時、近くの鉱山から流れてくる鉱毒のため家畜が大量に死ぬ事件が起き、抗議の果ての激しい銃撃戦によって、鉱山から訴えられ、ジョーが父の代りに3年の刑で入獄する。この裁判、自分こそが法律であり、撃ち合いも辞さない男が裁かれるということは、西部の歴史が裁かれるのと同等の深刻さを秘める。この事件以降、牧畜王国に斜陽の影が差す。創業者の物語から次の世代への移行は、第一次産業から第二次産業へのシフトが示唆される。父親の土地を石油会社に売ろうとする長男との確執から父は倒れ死んでしまう。特に許されて葬儀に参列したジョーは槍を突き立てインディアン決闘の定法を示す。

その後、3年の刑を終わり出所したジョーは、父の旧家で、インディアン部落に戻っていた母と再会、母から、悲しみは捨て、愛する者と自分の道を行け、と諭され、ピストルを置いて、その気になるが、長男ベンは、槍を地面に突き刺されたことから、仇の気持が消えてないと思い、殺すことを決意する。逃げまどうジョーを救ったのは、牧童頭のトウー・ムーンズ(エドウアルド・フランツ)だった。父の墓を詣でるジョーとバーバラ、それを見送る母。ジョーは槍を折り、新天地を目指す

味のある俳優揃いで、重苦しいホームドラマ的西部劇だが楽しく観られた。主役スペンサー・トレイシーの貫録、リチャード・ウイドマークはセリフは少ないが、父の圧力に否応なく人間性を潰されて行く長男の悲哀をぬかりなく表現し、ケティ・フラドはインディアンの妻として母としての愛情溢れる演技、その他若手の俳優も夫々の持ち場を発揮していたと思う。

(編集子)先回の 燃える平原児 につづいて白人と先住民族間の確執が背景にある、重苦しい作品だった。

Actress Katy Jurado

ロバート・ワグナーはどうもこういうシチュエーションにはあまり向いていないように思えたが、ケティ・フラードにひかれて見た。”真昼の決闘”で、乾いた感じの画面で描かれる人間のありようをどこかほかのところから見ているような演技が印象に残っている。彼女の出演作はこのほかには数えてみても2本しか見ていないのだが、どこか突き放したような雰囲気のある女優だった。

(題名の槍(lance)を矢(arrow)にすると “折れた矢” でこれも一ひねりされた作品だったが、タイトルが英語の文字通り ”ブロークンアロー” だった映画はジョン・トラボルタが悪役で主演、という核爆弾を扱ったスリラーである。このタイトルの BROKEN ARROW という語は米国では核施設の破壊あるいは事故を意味する暗号であることはこの映画にまつわる話として書いた。いままさにその現実が起きようかとしているのがウクライナの原発周辺での戦闘である。暗号が現実とならないように祈るだけだが)。

居酒屋昭和、のこと

たかがテレビの音楽番組にこんなに心が揺れたのははじめてだ。これが年を重ねるという事なのか、斎藤なにがしの忠告を振り切ったうえ、少しばかり定量を過ごしたジンの所為なのか、定番番組を見終えて変えたチャンネルに釘付けになった。

八代亜紀の 居酒屋昭和なる一曲。歌詞を拾い読みする。

男の背中にゃ色気があり

女の背中にゃ艶がある

そんな時代がここにある

 

令和にはぐれた路地裏に

昭和の灯が灯ります

 

情け見つけに来ませんか

居酒屋昭和の

居酒屋昭和の癒し酒

 

めったに見ないテレビ番組でまったく偶然に出会っただけなのに、なにか心にドーンと来た感じ。10年以上前になるが、中央高速を走っていて時間調整のために横道へ入り、出くわした武田一族最後の地、という薄暗い林。苔むした遺跡で全く予想もしなかった涙が出た。その時以来の心の共鳴、だった。不思議なもんだ。やはり年齢、であろうか。

俺達月一度の天狗飯店の酒も結局は居酒屋昭和のこころなのかも知れない。