慶応高校野球部はなぜ強くなったか? (50 YHP 菅井康二) 

(今年の甲子園での慶応高校の活躍は塾関係者にとって素晴らしいニュースだった。本稿の筆者は50年工学部機械工学科卒、YHP(現日本HP)でPC分野のエンジニアとして活躍、同時に長年にわたり高校野球マニアをもって任じている。同君はこのブログの出発時点から技術的サポートを提供してくれている間柄でもある。本稿について質問などある場合は下記まで直接ご連絡を歓迎)。

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甲子園に翻る塾旗

今年の慶應義塾高校(以下塾高と略します)野球部は10年ぶりに春夏の甲子園に2季連続出場を果たしました。10年前の20089年は春・夏・春3季連続出場し今年の新チームも期待されていたのですが106日の秋季神奈川大会準決勝戦で9回表まで横浜高校を10でリードするもその裏に劇的なサヨナラ2ランホームランを打たれて惜敗しました。

1960年、後に東京六大学初の完全試合を達成した渡辺泰輔投手を擁してベスト8まで勝ち進みましたが、その後長きに渡り甲子園から遠ざかっていた塾高が2005年に選抜甲子園に45年ぶりに出場出来たのは、2003年に導入された推薦入試制度によって入学した才能に優れた生徒たちの活躍のお陰でした。この推薦入試制度での募集人員はトータル40名でスポーツ、文芸、音楽、などで優れた実績をあげ中学校の成績評価が38以上(9教科でオール5だと45になります)の者が出願資格を有するというものでした。塾高の野球部は40名中10名程度の枠があるようです。この推薦入試の第1期生の代のチームが秋季関東大会ベスト8という成績をあげ東京・関東から6校という枠の6番目というギリギリではありましたがいきなり選抜出場校に選ばれたことは多くの野球部関係者を驚かせました。

中越戦、宮尾遊撃手のサヨナラヒット

この制度導入以前は中等部や普通部で軟式野球をやっていた内進生達は当然のように塾高野球部に入部していたのですが「全国から野球エリートが入学してくるようになるとベンチ入りは難しい」と判断した運動能力に優れた一部の生徒がアメフト部に流れました。それだけが原因とは言いきれませんが塾高アメフト部は2005年のクリスマスボウルでは22年ぶりの優勝を果たし日本一に輝くという面白い結果をもたらしました。

横浜高校の前監督の渡辺元智氏や元野球部部長だった小倉清一郎氏は「慶應が本気になって(選手を)集め始めたら手強い相手になる」と危機感を抱いていました。世間的には「慶應(塾高)もついに全国から選手を集めはじめた」と見られているようですが実際にはそう簡単に言い切れるものとは言えません。

この推薦入試制度には大学のAO入試同様、慶應義塾としての矜持が保たれ、そこそこ勉強の出来る野球少年にとってはかなりの高いハードルのようです。横浜、東海大相模、桐蔭学園などのような神奈川の野球強豪校がやっている野球推薦入学制度、所謂「スポーツ推薦」は中学校時代の競技実績に基づき監督や指導者の判断で実質的な内定を出し、後に形式的な面接試験するというものです。塾高では内定は出さないので監督や部長は入学を希望している本人や保護者にどれだけ優秀な実績があっても合格の保証は出来ないので、落ちた場合のことも考えておくようにと念を押しています。実際にかなり優秀な実績を上げた選手でも不合格になった例があり、また当該部活の部長・監督など関係者は推薦入試の合否判定には加われないことになっています(それが原因で数年前に監督が「キャッチャーを6人も取ってくれた!」と嘆息していました)。通常、この種の推薦入試で合格した場合は当該部活に入部する義務が生じますが塾高の場合はそれもなく、従って塾高では大学と同様「スポーツ推薦」という言葉は使っていません。早実にも推薦入試制度がありますが、必要とされる成績が36/45と塾高よりやや低く合否の判定には野球部の監督の意向がかなり強く反映されているそうです。

38/45という内申点をクリアした受験生は面接とその場で与えられた題で少人数でのグループ・ディスカッションを行い、中学生時代の実績(野球の場合はチームが全国大会でベスト8以上のメンバー又は国際大会のメンバーに選抜された選手というレヴェル)と合わせて合否の判定がなされます。

雄叫び挙げてサヨナラホームインする善波捕手

中学時代に野球をやっていたが要求されるレヴェルの実績を上げられなかった受験生の中には陸上競技など他競技での成績との「合わせ技」で合格を勝ち取った生徒もいました。中学時代に野球をやっていた生徒が全国レヴェルの作文コンクールの成績でこの推薦入試に合格したのですが、2005年の選抜大会の初戦ではこの選手がサヨナラヒットを打ったということが私が記憶しているユニークな一例です。

塾高には授業料免除などの特待制度は全くありません。生徒の保護者という立場では大学を含めると7年間の学費、用具代や遠征の費用、さらに地方出身者の場合にはそれに食住の費用(塾高野球部は合宿所や寮は持っていません)なども加わりその負担は半端な金額ではありません。また野球強豪校のようなスポーツ・クラスは設けていないので、学力的な水準ををクリアした野球少年達とはいえ塾高の授業についていくのはかなり大変だそうで、成績も普通の生徒と同じ基準で評価されます(日大三高のスポーツ・クラスなどは教科書も一般のクラスとは違い、授業も中学校の復習程度の内容のようです)。野球部の部長や監督は成績の芳しくない野球部の生徒の保護者には留年するよりは安いので必要に応じて塾に行かせるなり家庭教師をつけてください」と言っています。現在でも塾高では試験成績の平均点が10点満点で6点に近い5点台の点数があれば進級できますが、5点台半ばで進級会議において、レギュラークラスの選手でも留年したり放校になったというケースが実際にありました。

大学入試が無いという大きなアドヴァンテージがあるにしても、塾高というそれなりの制約のある環境において神奈川や全国の強豪校に互する実力を養うということは選手・指導者双方ともかなり大変なことも事実です。

甲子園入場式

三国山荘―60年前のことども (35 森田半兵衛)

今回の60周年記念山荘祭、それが現役中心で実施されたことが大変嬉しかった。山荘は現役が管理運営する。そして現役のワンダーフォーゲル活動の中心にあるべきだと今も思っているからである。

60年前、資金(積立金)の不足を補い、山荘建設へ部員が直接参加する意味をこめてワークキャンプを6月に2度、実施した。下級生も参加し、山荘を自分たちの手で作るんだということが、夢のような話が、いよいよ現実になりつつあると感じたことだった。

棟上げ式もすみ、夏休みに入ってすぐ、妹尾さんと二人で山荘の建築現場に入った。屋根は出来上がっていたので2階に2帖ほどの板を張ってもらい、ローソクの灯で一夜を過ごした。結果、少人数での使用には充分であったが、スキー合宿、雪山合宿には炊事場が狭いと判断し、二人合意の上、独断で炊事小屋を作ることにした。追加工事費は40万円、当時のわれわれの感覚では大金であった。工事を担当してもらっていた野中建設の野中さんからは、妹尾さん、森田さん、支払いは卒業してからでいいからと言っていただき、有難く甘えさせてもらったが、この炊事場がスキー合宿、浅貝BHの時、大いに役に立ったのである。

その10月、われわれ三年生が委員会を担当することになり、正月のスキー合宿を三国山荘でやることを決定し、私がリーダーになった。11月末のワークキャンプで山荘内の整備,薪作り,薪挙げ(平標小屋へ)、スキーゲレンデの整備をおこなった。当時、浅貝にはスキーゲレンデというものがなかったのである。いまの別荘地のあたり、まばらに生えていた雑木を伐採し、切り株が出ないように(スキーが引っかからないように)して300mくらいのゲレンデを作った。浅貝合宿の参加希望者は70名で、50名収容の小屋ではきついとは思われたが何とかしようと決心。薪もできたので寺家幸一をリーダーにクリスマスワンデルングと称して入荘、正月合宿のためのボッカを行った。このとき、浅貝には雪に関するデータが何もなかったので、百葉箱を持ち込み少なくとも冬の合宿、3月の浅貝BH(L.畠山有敦、40名参加)の間、2時間おきに気温、湿度、風向、積雪を調べた。このデータはのちに苗場スキー場を開発した西武・国土開発の方が部室まで訪ねてこられ、ぜひ提供してほしいといわれたものであった。

水は山荘の真裏の上水が勢いよく流れていて決して凍結することはなかった。電気がひけていなかったので、ランプを20個くらいつるし、暖房は薪ストーブ、全く静かな世界だった。浅貝の部落もよく訪問した。本陣(唯一、電話があった場所)、弁次さん、タバコ屋などで、各家庭も17号線の開通と電気がくることを楽しみにしていたものである。

あれから60年。浅貝は全く変わった。しかし山荘は現役にしっかり引き継がれているのだということを感じたことであった。

三国山荘―思い出すこと  (36 後藤三郎)

今回久しぶりに三国山荘に赴き60年の時間があっと言う間に過ぎたことや小屋の周辺が立木も含めてすっかり変わったことを改めて実感しました。

考えてみると小屋が建設される前に畠山さんがリーダーで昭和33年4月に雪の深かった三国峠を越えて現在の小屋がある辺りを歩いたのが最初の思い出でした。当時小屋の候補が数か所あり、委員会で最終決定する為の調査行だと畠山さんがおっしゃっていたのが今も思い出されます。今回宿泊した三国荘の女主人が我々と同い年(当時20歳)だったようですが、浅貝本陣の格式が高く当時は我々が宿泊するなどとんでもないと言う感じで、隣接する旅館(高野弁次さんが柏屋旅館と後日名乗った)に泊めて頂き周辺を歩き回った記憶があります。

小屋の工事が始まったのは雪が解けてからで同期の小林章悟君の大活躍を今も鮮明に覚えております。河原から基礎の下にひく石を運び建設費用を節約する為に度々ワークキャンプと称して若手が労働を提供したことが思い出されます。小屋が完成して小学校の体育館でミーテイングを持ったこと、リーダーの今は亡き妹尾さんが”Caro mio ben”と言うイタリア歌曲を原語で歌われたことが驚きでした。”いとしい、私の恋人”と言う名前のこの曲をワンゲルのミーテイングでしかも誰もが恐れられるほど屈強な山男が歌ったのですから・・。その後本人にその話をしたら”俺は覚えていないよ”と言われたのですが・・・。先日数えてみたらチビさん主導の登山道開発のお蔭もありこの60年間でほぼ60回ほど浅貝と小屋に出かけたこと(正確な記憶ではありませんが)で偶然ですが60年間の区切りだったのかもしれません。

最初のスキー合宿で食当を命じられ、後閑の駅前の八百屋さんに飛び込み野菜の調達をしたのが契機となり、以後ワンゲルの部員たちが優しい女主人にお世話になったことも佳き思い出となりました(残念ながら昨年お亡くなりになりました)。

武相国境に魔の山あり 四たびKWVの挑戦をはばむと

魔の山の位置
堀川発メールにいわく:
月いち高尾の実施の決定は二日前の午後10時とさせていただいています。
今回の生藤山については二日すなわち昨夜の10時までに中止の場合は連絡することになるわけですが、昨夜の段階で種々の天気予報から21日の生藤山は午前中は雨模様ながら降雨量が2mm(2㎜の降雨量は雨模様ではありますが霧くらいの状況です)午後から快方に向かうと判断し、決行することにしていました。
しかしながら、本日、私は千葉におりましたが2時半以降思っていた以上の降雨があり、これでは、よしんば明日の予想が従来通りであれ、山道は相当歩きにくい状況になるのではと思い、中止することに致しました。
4回目の生藤山行の企画がでしたが、すべて雨のため中止となりました。私の不徳の至りです。しばらくは生藤山への企画はやめます。(頭にきた!!!)
三嶋返信にいわく:
了解で~す。天気に恵まれず かなか行けない山ってありますよね。
4回目 来年までは消灯山。

針ノ木―種池を歩いてきた (40 河合国尚)

毎日眺めた立山連峰

L. 藤井 参加者 下井、武鑓、河合  計4名、8/20(月)スーパーあずさ19号にて新宿発、現地泊。

8/21 (火)

登山口6:50⇒8:30大沢小屋⇒14:05針ノ木小屋

実働時間:5:15 標高差:2536-1433=1103㍍ 歩程:5㌔

扇沢バスターミナルに向かって左側にある関電通路の左側の登山口に届けを出して出発。針ノ木自然歩道の樹林帯の中を歩く。途中4回も舗装道路を横切る。また沢も3本渡る緩やかな道で大沢小屋までは順調だった。途中、雨がぱらついたが、すぐに止んだ。しばらく行くと大きな沢に出て、簡易な橋を渡り右岸を登り、沢の中や高巻き道を行く。ノド部の手前で初めて雪渓を約20㍍横切って左岸に渡り、いきなり岩場になった所を3箇所の簡単な鎖の助けを借りてノド高巻きルートを行く。このあたりの雪渓はスノーブリッジが崩壊し、真ん中が崩れ落ちており、迫力のある眺めになっている。この通過には少し時間を要したが、雪渓の上部へ出た。

針ノ木雪渓を行く

このあたりから雪渓にはいつもの霧が出て峠が見えない。2つの沢を越え、再び右岸に渡る。マヤクボ沢を右手に見て、レンゲ沢を越えると傾斜が急になり、ザレた登山道をジグザグに登ると雲が取れ、峠と小屋が見えた。30~40分で短い休憩を取りながら、バテバテ状態でやっとの思いで小屋に到着した。ビールで乾杯しながら、赤牛や水晶を見た。槍は夕食後に姿を見せた。

8/22(水)

針ノ木小屋6:10⇒7:40針ノ木岳8:00⇒9:30スバリ岳⇒12:40赤沢岳(昼食)13:00⇒14:50鳴沢岳⇒16:10新越山荘

実働時間:7:20 コースタイム:5:10 標高差:上285㍍ 

針ノ木岳⇒スバリ岳 歩程:900㍍、標高差:下155㍍、上:86㍍、

下りと上りに岩がゴロゴロして足場が悪く、慎重にならざるをえない。途中、小スベリというコブを通過したこともあったが、ここもまずまず。

スバリ岳⇒赤沢岳 歩程:1.5㌔、標高差:下292㍍ 上:218㍍

ここからが問題でコースタイムの倍もかかっている。距離があり、標高差も上下でそれぞれ200㍍以上、通過に2時間はかかりそうな上、赤沢岳の手前で岩を攀じ登る所があり、時間を要す。ピーク手前で小休止。堪えることが苦しくなりすぐ楽になりたがる。そろそろ山から卒業する時が近くなった実感を持った。

赤沢岳⇒鳴沢岳 歩程:1.3㌔、標高差:下132㍍、上95㍍

1:00のところ+0:50分。ここも倍近くかかっている。存外、距離があり、昼を過ぎ、バテがきていた上、ピークからすぐだと判断して小休止したら、地形を読み間違い、ピークまでにもう一本、小休止を入れてしまい時間がかかった。

鳴沢岳⇒新越山荘 歩程:1㌔、標高差:下176㍍

今日は絶好の天気、風もなく、気温も18℃前後で汗も多くはかかず、一日中、裏裏の山、特に立山、剣はすぐそこに寄り添って、大きく見えていた。こんな天候は経験がないと言っても良く、夏だというのに澄んでいたのも幸運だった。針ノ木への最初の上りはいきなりの急登で目覚めていない体にはきつかった。途中から山の右側を巻くようにのぼり、最後は尾根に取り付き、山頂にでた。ここからの眺めは富士山、八ケ岳、南ア、妙高、浅間、北信5岳、槍、穂高、表銀、水晶、黒部五郎。東側に薬師、立山三山、大日、剣。北には爺、鹿島槍、五竜、唐松、白馬三山、朝日、雪倉から日本海と360度の眺望が楽しめた。

このあたりの花はもう終わっていた。針ノ木からの下りは急な岩場の下りだが、慎重に下りれば道は良く整備されている。小さなアップダウンがあったり、ガレている所を通過したり、変化のあるルートになっている。スバリへはジグザグの道を少しやれば着く。ここからの下りを過ぎれば尾根の少し西側に道がついており、安曇野側からの風もまともに当たらないが、時々、尾根の上に出ると安曇野側が鋭角に切れ落ちているところがあり、風が強いと嫌な所が何箇所かあった。

小屋に着いてからビールで乾杯(2人しか飲まない)したが、銘柄を特定しているのに違う銘柄につい手を出してしまいう。会社への忠誠心はどこへ行った?遅くの到着で5時の夕食が早かった。小屋は針ノ木も一緒だが、水に苦労しており有料で、歯を磨くのは省略、トイレはきれいでいずれもバイオ式。明日は下りるだけ、くつろいで楽しくやっていたら、隣の若者から注意されてしまった。明日から天候が悪くなるためか、小屋は空いており、ゆっくり休むことができた。

8/23(木)

新越山荘5:50⇒7:00岩小屋沢岳⇒9:05種池小屋⇒13:00扇沢⇒(タクシー)⇒13:30信濃大町14:13⇒15:12松本15:19⇒(あずさ24)⇒18:07新宿

実働時間:5:30 コースタイム:5:30 歩程:8.2㌔

今日も晴天、昼から雨予報だったが、ピーカンで扇沢に下りてからタクシーに乗ったあと、通り雨が降っただけだった。

小屋から尾根道を登り、途中から巻道に入り、新越岳を巻き、ゆるやな道を行くと岩小屋沢岳に着く。立山と剣がますます近く、威容が印象的だ。そこからはしばらく下りが続き、ハイマツと樹林帯の中を行く。種池小屋が同じ高さに見えるが、下りはもう少し続く。下がりきってから少し登ると小さな種池に出る。そこからまたひと上りして左の巻道を行くと小屋に飛び出す。小屋から爺がきれいな山容を見せているが、誰も往復しようとは言わなかった。途中、ガレ場があるが、問題なく通過。この柏原新道には「富士見坂」「駅見岬」「水平岬」「ケルン」など道に名前が付けられており、長い道で飽きないように工夫されている。あまりおいしくない昼食を済ませ、タクシーを13時で予約したが、なんと、ぴったりで下り。最終日だけが想定通りで歩けたのはどうしてだろうか?

今回のターゲット、針ノ木岳の雄姿
(中司―河合)
針ノ木は高校三年生のとき、立山のほうから縦走して黒部川へ降り、当時まだあった ”平の渡し” のかごで黒部を越えて針ノ木へ出ました。その後、KWV 2年の10月、新弥と鹿島槍から縦走して降りたのが記憶に残っています。この間の西穂で、北アは終わりにしました。同期の中島(きんちゃん)と行って、小生だけ具合がおかしくなり、登頂はあきらめた、因縁の笠ヶ岳が北の見納めです。
(河合―中司)
今回、平の渡しへの道を見ましたが、もう我々には無理なのでやめました。私はいつもこれで最後かな、と思いながら登っています。ジャイさんに連れていっていただいた八ケ岳で再び、山を歩けるようになり、はや7年が過ぎようとしています。

9月高尾山月例報告      (39 堀川義夫)

好もしい森の道。稲荷尾根といいくみあわせになりそうだ

実に4月以来、4か月ぶりに ‘月いち高尾’ を開催。5月は総会とバッティングし、6月、7月ともに天候に恵まれず幹事団としては行いを改めないと高尾の天狗に睨まれ、てこの後も月いち高尾は実施できないのではと懸念してしまいました。5月、6月、7月は3回連続で生藤山を目指しましたが3連敗になりましたので気分を変えて未踏破の日影から小仏城山東尾根コースにチャレンジしました。(昭文社の山と高原の地図では破線で道標のないバリエーションルート、コースタイム登り1時間40分となっています)

 

日 時 2018年8月22日(水)

参加者 平松、小泉、椎名、翠川、後藤(三)、岡沢、三島、堀川、多田、藍原、浅野、伊川、関谷、川名  以上14名  (36遠藤は当日所要のため前日の21日に単独踏破)

 

路は快適に整備されていた

高尾駅北口10時集合。10時12分発のバスで日影バス停下車。日影林道に入って50m位でルート入り口がある。何回も通過しているが意外な登山入り口で気を付けていないと見落としてしまいそうだ。木立の中をゆっくりと登って行く。蒸し暑い! でも尾根筋に出ると結構風があり快適に登る。静かで人に合わない。また、高尾山の知られざるルートを知ることができました。

3人の長老たちも頑張りました。多少時間は

長老英気を養うの図

大目にかかりましたが、熱中症になることもなく1時ころに城山着。待望のかき氷に舌鼓。私は大盛400円に挑戦しましたが、途中で頭が痛く、舌の感覚がマヒするようでした。昼食も済ませ1時40分小仏経由で下山開始。小仏バス停14時55分着。舗装道路に到着出る前に消防署の赤いオートバイが2台登っていき、登山道入り口に数台の救急車や消防車が物々しく待機している。

聞くと上で熱中症らしき人が居て救助要請があったとか?それにしてもすごく大げさに感じましたね・・・!!15時10分のバスで高尾駅北口着。11名参加で久しぶりの天狗へ!ビールが旨い!!!

Satisfaction !!
9月は21日の金曜日の予定です。詳細の企画は9月10日頃にお知らせします。皆様、万障お繰り合わせの上、ご参加ください。
特に、最近オーナーであるナンカナイ会の参加者が少なくなったように思います。奮って、参加してください。

 

 

Who are we ?  読後感について (36 大塚文雄)

Who are we ? 読後感を拝見。

”おい、トランプさんよ、あんたのやり方は気に入らねえが、あんたの気持ちもわからんでもねえなあ“ には同じ思いですし、好き嫌いは別として、政治家としてやっていることは評価しています。 ディマジオとケネディーにあこがれた時代をこえて1967年ソニーアメリカ勤務(「そのふみあと」238239頁)に始まったアメリカ人/アメリカと触れ合いは50年を超えました。アメリカについては何かと雑感があります。

多国籍移民の寄せ集めのアメリカはもともと多極分散社会です。国勢調査で国籍を二つ書けることになったのはその象徴と思えます。それなのに政治の世界では長らく二大政党に集約されていました。分散・分断社会のアメリカが政治の世界ではたった二つの政党に集約されてきたのが不自然に思えます。近年そこに経済格差の拡大(経済的分断)が加わり分断性が戻っているように思います。2016年の大統領候補選びで数多くの候補者が林立した共和党、バーニー・ サンダースが善戦した民主党はそれを現しているように思えます。

”Make America great again”のトランプ大統領によってこの流れを押し戻すかどうか一つの注目点ですが、経済がこれだけGlobal化したなかで、難しいと思っています。おそらくアメリカの経済格差は広がり、社会の劣化は進むと思っています。一方、戦前は知らず、戦後の日本では東京大学と朝日新聞(プラス文芸春秋?)が教養の代表です(でした?)。左よりの思想を持っている人々が連携して(戦後一貫して右寄りの)権力批判を繰り広げ、現代の日本人の精神形成にはかり知れない影響を与えたと思っています。良きにせよ、悪しきにせよです。

アメリカにも似たような構図があり、数少ない全国紙の代表であるNew York Timesは一貫して民主党支持で、Harvard Universityも99%民主党支持者の集まりだそうです。両方とも、民主党のオバマは良い大統領、共和党のトランプは悪い大統領と主張していますし、テレビニュースや学者の学説にも反トランプのスタンストークが多いと聞きます。トランプ氏がアメリカにいる同じ日にロシヤで乱痴酒席を開いていたなどというニュースもその一つでしょう。日本のマスコミ全体が例によって New York TimesHarvard University発の情報を“アメリカの世論”として受け入れ、拡散し、日本人の間に偏ったステレオタイプのトランプ像を作りだされているように思います。

日本では、アメリカに限らず海外の政治情報の殆どが間接情報で、それに依存して作成される日本の情報番組は間・間接情報です。それによってアメリカ政治やトランプ大統領に対する社会常識が形成される日本は能天気社会です。 

私の第一作に共著者として参加してくれたDr. Morseから選挙中の7月に「トランプが勝つ」と聞いていたので、トランプ氏政策発言に注意していました。彼が今やっている政策は選挙公約の実行です。内容の良し悪しはは別として、これが選挙で選ばれた公人がとるべきものです。公民権法はアメリカがだからこそ不可欠な法律だと思うし、オバマケアも一般大衆向けにもっと改善する余地があると思います(ソニーアメリカでヘルスケアの不足事例をいやというほど見ました。)

公民権法を無視し、オバマ成果を消すと言わんばかりのトランプは好きになれません。品位がないアメリカ大統領も困ります。しかし、民主的プロセスを経て選ばれた大統領が選挙公約を実行している事実は評価すべきだと思います。

 

ジャイさんのブログにコメントします (51 斎藤邦彦) 

ジャイさんのブログで気になったものがいくつかあったのでコメントします。

2018 年 2 月掲載の「管見妄語」について
私も大変感動した論文で藤原正彦さんと全く同感です。英語が堪能であって海外で活躍している人で幼いころから英語の勉強をした方が良いと言っている人はいません。また、海外在住以外の人で英語が満足話せる人を見たことがありません。もっと大事な「善悪の判断」「両親、地域や国に対する愛情」などの常識を身に着けるべきです。

2018 年 3 月の長崎紀行について
私は平成 11 年~ 13 年に NTT の長崎支店長を勤めました。
亀山社中の近くに単身赴任していましたのでよく石段を散歩しました。ブログに登場する風頭山の坂本龍馬像は平成元年に建てられたものですが首から下のモデルは NTT の社員だったそうです。高島秋帆の旧宅も行ったことがあります。現在の板橋区にかつて幕府の砲術練習場があったところが高島平という地名で名残をとどめています。

春告鳥って俺のこと?   (34 小泉幾多郎)

寅さんに会って来たー同期タウンウオーク第一回報告

酒井政蔵先輩とか百名山二百名山のつわものはともかく、ワンダーにいたおかげで、世の中の多くの人よりはいろんな場所を訪ねて来た。しかし70年以上住んでいるわが東京に関しては、城南から都心の一部くらいしか知らない。意地になっているところもあるが、東京タワーにも上ったことはない。まして城北城東と言われる地域に至っては西も東も分からない、という現状に発奮,一念発起して、まずは城北は柴又あたりを歩こうかと思いついて企画したが一度は雨のため断念。考えてみたら同期の連中にも同じ思いの仲間がいるはず、と、例によっておせっかいな企画を立てた。いわく、”タウンウオークプラン”。高尾山でも遠くなった連中も誘えるかと、まず歩くのは街なか、参加申し込みなど不要、都合により中途切り上げ自由、食べるものだけは土地の名物。ただし連絡の関係もあるので、参加意思を表明した人に限ってリストを作って連絡する、いうのが骨子である。第一回の参加希望を確定、2月28日、寅さんのふるさと柴又をたずねた。

メンバーは安東、浅海、深谷、岡、翠川夫妻、鮫島夫妻、田中(新)、高島、山室、横山夫妻、吉牟田の16人という予想以上の大舞台になった。型どおり帝釈天まいりと彫刻、庭園拝見、山本亭、寅さん記念館、山田洋次ミュジアムと定番コースを歩き、残念ながら冬季運航停止の矢切の渡しを展望。

矢切の渡し 遠望

食事は横山隆雄先輩(この人は飲食の舞台には必ず重要な役目を果たす天命を受けているらしい)のおすすめ、塾員の経営するうなぎ屋で満腹。ここで流れ解散とし、三々五々、通りの商店街をぶらついて帰宅した。次回は月島でもんじゃ焼きはどうか、という雰囲気である。川を渡れば古戦場、夜はブリックあたりになるのではないか?

川千家で鰻重うまし
草団子か?佃煮か?