2月月いち高尾報告 (39 堀川義夫)

寒のぶり返しで寒い朝でした。おまけに空はどんより、気温は上がらず寒い高尾山行でした。でも、この季節ならではの雪の薄化粧を楽しみ、全員、元気に高尾山登頂!! 素晴らしいかな、この老人パワー!!

日 時 2018年2月22日(木)

一号路 中司、吉牟田、高橋良子、翠川夫妻、平松、岡沢、多田、浅野

稲荷山コース 堀川、蔦谷、伊川、関谷              以上13名

例によって10時に京王線高尾山登山口に集合。わずかな霧雨が降っていて、中にはこの天気では中止にするのではと淡い期待をもって私に予定通りに行くのですかと聞いてきた人もいましたが「当然! 行くよ!!」と言うことで、岡沢をリーダーとする一号路組と堀川リ―ダートの稲荷山コースに分かれて10時10分行動を開始。

何時もの細田小屋はこの状況ではやっていないと判断して久しぶりに目的地は高尾山頂上。両コース共に雪の薄化粧を楽しみながら12時頃に山頂で合流。

本来なら山行中のお酒は名目上ご法度ですが、今日は寒さに耐えかね、山頂のやまびこ小屋でおそばを食べたり、おでんに熱燗を個々に楽しみ、12時40分、安全なルートを選択して頂上から3号路経由薬王院、女坂、ケーブル山頂駅へ。疲れた人、足が痛い人、膝が痛い人は無理せずケーブルで下山してください、との呼びかけに応ずる人は皆無で全員舗装された一号路を下山。予定よりはたく2時40分ごろ何時もの天狗に集結して楽しい2次会。わいわいと食べて、飲んでお一人様2000円。16時解散! 今日もワンダーパワー全開。楽しい一日でした。

春は名のみの?

(34 小泉幾多郎)

山荘雪下ろしプラン  (現役 渡辺眞之)

2月も終わりが近づいてきたが、この冬の寒さは相当なものだと感じる。先日は大寒波で関東の水道にも凍結が発生し、千葉に住むある後輩は終始給湯器を頼りにあらゆる管の解凍に走り回っていたそうだ。無論山荘も例外ではない。

去る2月3日から4日に雪かきワークキャンプを実施した。積雪量は昨年に劣らない量で、北側の低い軒はもう雪の山に飲み込まれていた。お忙しい中OB7名、現役11名、ジャリ研1名にお集まりいただき、平成30年最初の大仕事が始まった。内容は毎年同じで今年も南面以外の壁が全て露出するまで雪をかく。北面から東面(上水タンク側)での作業は毎年核心部となっている。周囲を坂に囲まれているため壁沿いのバケツリレーでしか排雪ルートが作れないためだ。そのため今年も屋根の下にできた巨大な雪山を切り崩し、壁沿いに1m程の道を拓く。それを足掛かりに東面の雪をリレーして旧道まで送り出す。ゴリ押しではスタミナが持たないため、効率よいルート取りとスコップ持ちに負担がかからない排雪体制が重要である。これらの知恵は歴代のOBの皆様が熟知されており、沢山の学びがあった。かくして一同の獅子奮迅の働きにより3時間で全ての作業を終えることが出来た。

ワークキャンプの楽しみは夜の打ち上げにあると言っても過言ではない。昨年に引き続き今年も福島屋さんでご挨拶と懇親会を行い、手作りの熊汁をご馳走して頂いた。いつまで続くかはわからないが現役が浅貝の人と関われる貴重な機会であるため、今後も何かしらの形で続いてほしいと思う。山荘に戻ると打ち上げが待っている。今年は青椒肉絲の他に、妹尾昌次さんより鯛茶漬けを振る舞って頂いた。胡麻とほうじ茶が香ばしく、現役一同舌鼓を打っていた。宴は深夜まで続き延々と飲み語らい泥のように眠ったことで、翌朝、WCではおそらく初の現役一同寝坊という結果となった。

今回は初代山荘建設に関わったOBの皆様と共に作業でき、非常に有意義な時間を過ごすことが出来た。今年は山荘建設60周年だが、私が退いても優秀な次世代執行部と深い山荘愛を持つ山荘委員ら一同で大役を果たしてくれると思う。私も来年度以降も可能な限り山荘に関われるようにしていきたい。

追伸。雪かきWC後、苗場祭や山スキーで10日間入荘したが、あまりの寒さに生活中も水道の凍結が相次いだ。福島屋さんでは洗濯機の水道まで凍りついたそうだ。雪国の厳しさの一片をまた味わった気がした。

“管見妄語”を読んで

2月8日付週刊新潮の“管見妄語”に藤原正彦氏が”愚かなる小学校英語”というタイトルで現在進行中の小学校での英語教育について書いておられる。氏はこの政策はまさに世の中の流れなるものにおもねったとんでもない愚挙であり、その結果生み出される将来の日本人は英語の発音が少しばかり良いだけの、無許容で薄っぺらな日本人で溢れることになる、と警告している。小生はこの結論に120パーセント、賛同する。偶然なきっかけからアメリカ系企業でサラリーマン人生を終えた立場から、実践に基づいた確信にもとづいてそう信じている。

外国人の英語の程度はサバイバル、ビジネス、ソーシャル、バイリンガルという4段階に区分できるそうだ。サバイバルレベルとは、とにかく目先をいわば生き延びるだけの会話が成立する段階で、パッケージツアーに組み込まれている程度の会話能力。ビジネスレベルになると、自分の専門領域、主婦ならレシピーを理解する、技術者なら回路や性能の議論ができる、財務担当なら業績を説明できる、といった段階になる。もちろん困難さは増すが、逆に専門家同士なら言語とは無関係に意思疎通が成立し得る。写真や建築図面や回路図やプログラムコードといったものが正確なコミュニケーションを保証するからである。議論の中身によっては、より抽象的な話も必要になるから、ここにはいくつかのサブレベルがあるだろう。ソーシャルレベルではこのような具体性がないものも対象になり、歴史や社会慣行や民族性や宗教などといったものの理解があり、咀嚼していないと目的とする情報や意見の交換ができないし、技術面でいえばそもそも会話自体がなりたたない。バイリンガルというのは、二つの言語が甲乙なく理解でき、その背景になる社会そのものが理解されている段階を指す。

日本人の英語力を高める、という意味の分からない政策は日本人がこの分類で言ったときにどのレベルに達することをゴールとするのだろうか。物理的に国境を接し、アルファベットとキリスト教とローマ帝国の遺産を共有するヨーロッパ諸国であっても、外国語ができないという人間のほうが多いだろうし、世界の指導的立場にある(はずだが)アメリカであっても、事情は同じである。世の中にあふれている”英語が苦手”、という感覚が何か悪いことなのか。それはそもそも、依然一部にある悪しき外国崇拝と日本人特有の自虐志向がもたらした雑音なのではないのか。一国の国民が他国の言語を理解しなければならない、あるいはそれができないからからそれを国家が主導するのだという論拠は何か。

僕が勤務していた会社は在勤当時従業員大体6千人くらいの規模で、メーカーでもあり販売会社でもあり、顧客も法人から一般個人までの広い客層を持っていた。だからそのありようはかなりワイドなもので、特殊環境であったとは思えない。あまり活動的でなかったとは言え労働組合もあった。しかし経営の実態は親会社のいわゆるグローバル志向のもと、英語による情報交換が絶対的に必要だった。日本人が運営しているが限りなくアメリカに近い環境だったといえる。電子メールの使用は始まったばかりだったが、社内電話は直に世界各地の事業所や客先と直接つながっていたから、電話をとったら英語だった、というのは日常茶飯にあったし、結果、日本人同士の間でも横文字があふれかえっている、皮相的に見れば世にいう“グローバル”的環境になっていたといえる。

このような環境の中で、我々の英語力は高かったのか。詳細な数字があるわけではないが、仮に6000人の社員がいたとして、僕の判定では、バイリンガルと言えるレベルの日本人は5人に満たなかった。ソーシャルレベルかな、と感じさせられる人もいたが、前歴にほかの会社で海外経験があるとか、外国で大学を出た、というような人たちで、これもまず10人とはいなかったように思う。自分自身の英語といえば、会社に入ってからやむにやまれず独学をし、幸運にもカリフォルニアに1年ほど駐在させてもらった程度だったが、自己採点では、言ってみればアッパービジネスレベル、くらいだったと思う。一時は日米合弁のモデルケースとまでいわれ、グローバリゼーションの先頭グループにいる、と自負していた企業でも”英語力”はこの程度だったのである。この中に藤原氏のいう ”発音のいい英語をしゃべる人”がもっといたら、会社の業績はあがったか。答えは絶対的にノーである。

この会社で “英語が必要” な職場はもちろんたくさんあった。技術系の多い環境だったから、文科系にくらべてなお英語に触れる機会は少ないまま社会に出た人がほとんどであった。それでもなんとか英語の資料や文献を読み、その大意さえわかれば後は自分の持つ力量で十分補うことができ、疑問があっても何とかあらすじさえ書けば、仕事は十分こなせるという自信を持つ人が大半だった。前述のレベルわけでいえば、ロワー、またはミドルビジネスレベル、だったろうか。すなわち、”発音が多少いい英語をしゃべる”ことよりも何よりも本業で勝負する実力が英語の壁を十分に超えさせたのだ。

社会人になってから英語を学ぶのは難しい、というのは単なるいいわけである。僕が工場現場で修業していたころ、上司の係長は帝国海軍の少年飛行兵で、もちろん、学校時代に英語教育というものを全く受けたことのない人だった。しかし持ち前の努力でそれなりの基礎英語を学び、担当部門の長として、まったく独力で ”英語らしきもの(本人の述懐だが)”を操って、日本のみならず、欧米の相手方とやりあい、だれからも尊敬されるようになった。彼のプレゼンテーションややり取りに同席したことは何回もあるが、まさに ”英語らしきもの“ で話をし、質問に応じた。相手も、彼が英語に関する限りは限界があるとわかるものの、実力と人柄とを尊重し、よほどのことがない限り、通訳を要求することはなかった。

一方、事業の拡大に伴い、アメリカ側の思惑で採用した日本人や、“日本語がわかる”人間を送り込んでくることも増えた。しかし僕が在籍したほぼ40年間のあいだで、仕事上関係があったそのたぐいのほぼ10人のうち、意味のある仕事をした人間は誰一人いなかった。一方、日本語は全くできなくても、日本人の間で尊敬され、見事な結果を上げて本国へ栄転した人間は、個人的に関係のあっただけでも10人はくだらない。言葉がわかる、という以前に何が必要なのか、という実例であろう。

ビジネスの分野の経験だけでの話になったが、”英語が喋れる“ ということ自体はいいことに違いないとしても、それ以前に個人の持つ実力や人間性こそが世界語である、という信条に間違いはと思っている。だから、藤原氏の、そういうものを培わなければならない青年期、その基礎を固めるべき少年期の教育こそが肝心であり、そのための時間を削って何の意味があるのか、という意見は正に正鵠を射ている、と考えるのである。

ただ、ひとこと付け加えさせていただくならば、”多少発音のいい”人間を育てるということもまた、実現不可能な空想に近いのではないかと思う。小学校の教師の方々の英語の実力がいかがなものか知らないが、英検一級を取得するのは小生ごとき多少の心得があってもかなり大変だった体験で言えば、失礼ながら三級ないしよくて二級程度の実力ではないか。このレベルの人たちに発音の模範を求めるのか。th の発音だの l と r はどうだとか、ということが仮にクリアできたとしても、もっと難しい、イントネーションやノンバーバルと言われる環境を含めた英語によるコミュニケーションの核心を”純”日本人に要求する方が無理というものだからだ。このあたりの実情を政府だか有識者だか知らないが無責任な論議をしてほしくないものである。

2018年1月 高尾山月例報告 (39 堀川義夫・岡沢晴彦)

堀川は当日家内の具合が悪くなり、欠席いたしました。新年早々に、皆さんにご報告しましたようにオーナーと事務局で打ち合わせをして、副事務局長の岡沢さんと藍原さんを決めていたため事なきを得ました。家内はノロウィルスに感染して、医者で点滴をしたり、水分補給を小まめにしろとのこと、終日看病に追われましたが、翌日にはケロッとして回復しました。

岡沢さんの報告

参加者 吉牟田 翠川夫妻 中司 平松 蔦谷 武鑓 中川 浅野 藍原 岡沢 の11名 平松さん天狗は欠席

全員楽々コースへ  登山口駅からバスで大垂水峠⇒一丁平⇒もみじ平北巻道⇒細田小屋(昼食)⇒下山

10時24分バス高尾山口駅発 大垂水峠10時43分発 一丁平11時25分

一丁平北巻道ともみじ台北巻道(共にシモバシラの説明案内板がありました)を通ったのですが 全然シモバシラの気配はありませんでした。12時15分細田小屋着 小屋は閉まっており鎖が張ってあったのですが 小雨が降り始めたので軒先を借りちょうど全員が座って雨宿り 食事ができました。12時35分細田小屋発一号路 ケーブルカー 電車で14時 天狗着 皆楽しく大きな声でおしゃべりをしていました。

15時35分解散

汁粉とぜんざいはどう違うのか   (40 藍原瑞明)

(前置き  中司)

考えてみると、このプラン開始以来、雨に降られた経験はほとんどない。発足当時は天候を見て参加するのも当人次第、としていたのを、間もなく悪天の場合は事前に連絡しあうようにしたので、当然といえば当然なのだが、今回は天気予報もかなりブロードだったので、結果として本人の判断で11人が集合。行動記録は前掲堀川:岡沢両君の記録に詳しいが、今回はなにしろ時間も早いし、天狗ではビールよりも熱燗かなあ、などと論議が始まった時、サプライズ発生。あのいかつい武鑓君がおずおずと、今日は 白玉しるこ がどうしても食べたい、と言い出したのだ。彼によれば、来るたびにそう思っていたのだが言い出せば吉牟田、鮫島など酒奴(注1)にさげすまれ、先輩諸氏の反感を買うと思って遠慮していたのだという。なにしろ寒かったことので全員早く下山したいばかり、その場では異議もなく1400には天狗到着、熱燗ならぬ温紹興酒ボトル2本で開宴。一段落してそれではということになったが、ここで、“しるこ”と“ぜんざい”はどう違うかという哲学的論議が発生、さらに“おはぎ”と“ぼたもち”はどうかについて天狗のおばさんまで巻き込んで論戦ほぼ30分。このままでは会が分裂しかねないと調査を藍原君に委託(学年差健在)。見かけによらず律儀なアイちゃんによる報告が届いた。このまま、関係者のみで消化するにはもったいないので、ワンデルング報告に加えて掲載することにした。

(注1)われわれが現役時代お世話になった故塚田ドクターは名だたる酒豪であったが、同じ酒飲みを定義して、“のんべえ” と、風格ある大人 “酒仙”、それと酒の奴隷状態に身を落とした “酒奴” に区別していた。同期にはいまだ”酒仙”は存在しない(あえて名前は上げないが、酒奴予備軍は多数存在する)。

以下,藍原リポートを転載する。

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昨日 つきいち高尾の会が開催され、雨模様の中、無事下山し、いつものように天狗にて懇親いたしました。雨模様の為、急いで天狗に駆け込みましたので、時間もあり、のんびりとくつろぎました。話題ものんびりしたもので、天狗のメニューを見ながら言葉の違いに花が咲きました。例えば、「しるこ」と「ぜんざい」・「おはぎ」と「ぼたもち」・「せんべい」と「おかき」の違い皆様それぞれ薀蓄を述べられていましたが、千差万別でした。結果私に調べるように下命あり、その結果を報告いたします。

詳細は添付の資料をご覧ください。上記の簡単な言葉でも異なる地域の言葉の違いが面白いです。結局皆様のご解釈が全て正解ということでした。

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「しるこ」と「ぜんざい」の違い  三省堂の国語辞典によると

しるこ(汁粉) 餡を溶かした汁の中に餅等をいれた食品

ぜんざい(善哉)つぶしあんをまぶした餅。

違いが分かる辞典によると

おしるこ(お汁粉)とぜんざい(善哉)はどちらも小豆を砂糖で甘く煮て餅や白玉団子を入れたものだが、両者の違いは、関東と関西で異なり、関東では汁気の有無、関西では使う餡の違いで区別される。 関東では 汁気のある全般を「おしるこ」、汁気の無い餅に餡を添えたものを「ぜんざい」と呼んでいる. 関西ではこしあんを使った汁気のあるものを「しるこ」粒あんを使った汁気のあるものを「ぜんざい」、汁気のないものは「亀山」や「金時」とよばれる。

関東でも餡による区別がないかと云えばそうでもない。 区別する場合はこしあんを使ったものを「御膳汁粉」、粒あんを使ったものを「田舎汁粉」という。 また「小倉汁粉」という呼称もあり、普通は砂糖で煮た小豆粒にこしあんを加えたものをいうが、粒あんを使ったおしるこを言うこともある。

「せんべい」と「あられ」と「おかき」の違い

米菓は「せんべい」と「あられ」、「せんべい」と「おかき」という組み合わせであれば明確に区別することができる。せんべいは、うるち米(ご飯のお米)が原材料に使われる。あられやおかきは、お餅と同じもち米が原材料に使われている。そのため、原材料によって、「せんべい」と「あられ・おかき」のグループに分けることができる。

「あられ」と「おかき」は、同じもち米が原材料であるため、「せんべい」との違いのように明確な区別の方法はないが、一般的には次のように区別されていることが多い。あられは、餅を煎る際に音を立てて跳ね、膨らむ様子が、空から降ってくる「霰(あられ)」に似ていることから付いた名で、霰のように小さいものである。

おかきの語源は、鏡餅を手や槌で欠き割ったことから「欠き餅」と呼ばれ、宮中の女房言葉として「おかき」になったもので、霰に比べ大きいものという印象がある。しかし、何センチ未満が「あられ」何センチ以上が「おかき」といったものではなく、大体の大きさの区分である。

また、「あられ」は関東を中心に広まった呼称で、「おかき」は関西を中心い広まった呼称であるため、関西地方では「あられ」のように小さい米菓も「おかき」と呼ばれることがある。

「おはぎ」と「ぼたもち」

おはぎとぼたもちは基本的に同じ食べ物で、どちらか一方で呼ばれることが多いが、季節・大きさ・材料によって呼び分けられることもある。ぼたもちは漢字で「牡丹餅」と書き、春の彼岸の頃に咲く牡丹の花に似ていることから付いた名。

おはぎは漢字で「御萩」と書き、秋の彼岸の頃に咲き萩の花が咲き乱れる様に似ていることから付いた名で、春に作るものを「ぼたもち」、秋に作るものを「おはぎ」と呼び分ける地域も多くあったが、現在は、季節によって呼び分けられることは少ない。

ちなみに、夏は「夜船(よふね)」冬は「北窓(きたまど)」という。大きさによって、「おはぎ」と「ぼたもち」を呼び分ける地域もある。

おはぎには「つぶあん」、ぼたもちには「こしあん」を使い、あんこの違いによって呼び分けることもある。収穫シーズンとなる秋の小豆は、皮まで柔らかいことから、秋のおはぎには「粒あん」を使い、春の小豆は冬を越して皮が固くなっていることから、春のぼたもちには「こしあん」を使ったためといわれる。

その他、いろいろ呼び分け方があり、地域やメーカー・販売店によって逆転していることもあり、全国共通のものではない。

熊野古道歩き 別動隊 (47 水町敬)

三国山荘についての意見 (47 関谷誠)

ジャイ先輩ご提唱のKWV挙げての平成年代最後と思われる"国民的議論"に参戦させていただきます。

今までの「ふみあと」を読み返すと、山荘に絡む課題は、初代山荘建築以来60年にわり俎上にのぼっており、結論無き議論だと、はなから内心思うものの、敢えて、"国民的議論"の切っ掛けとして一言二言。

何はともあれ、三国山荘は"現役ありき"で存在するものだと言いたい。1970年の初代山荘焼失後の再建に現役として関わった一人である。当時、何人かの先輩から、開発された浅貝からもっと山奥に山小屋らしいものを作ったらどうか、浅貝はOBがOBの為に再建するとの話もあった。そんな中、オールシーズンでの利用を議論したか定かではないが、少なくとも、部員が140~50人がいた時代、春の五色での春合宿のスキーツアーに初心者でも参加し得る苗場でのスキー強化、積雪期登山の訓練の為の浅貝BH等々、大人数を収容出来、アクセスの良い浅貝に再建するとの結論だった。これもあくまで当時の"現役ありき"での判断だった記憶する。

1994年の現山荘新築にも、一OBとして関わったが、最大の議論は、現役が本当に三国山荘を必要としているかだった。当時、1年生だったW君の涙の訴えもあり、"現役ありき“での前提が新築しようとの結論だった。新山荘は、確かに、OBの使い勝手、快適さも考慮されたと思うが、何はともあれ"現役ありき"が大前提だった。

現4年の渡邊君の投稿で、山スキーなり雪山登山のBC地として山荘は今でも重要だと知って嬉しい限りである。幾ら部員数が減り、"ジャンル別ワンデルング"とかの活動になったとしても、渡邊君の様な"小舎バカ!"がいる限り"現役ありき"の山荘でなければならないと考え、サポートして行きたい。

とは言え、山荘維持の為の労力と費用は大変だ。現役にとり負の遺産とならないようにどうすれば良いか。具体的な回答はないが、小生の短絡的思考で言うと以下が考えられる。

現在のKWV三田会の資産は、山荘積立金を含め、約33百万円あるようだ。年間の必要経費は、「ふみあと」作成代等々を含め、約2.5百万円。この年間予算は、単純計算で、年5千円のOB会費を500人から徴収すれば賄える。今後、会費免除会員が増えたとしても、KWV最後の団塊である小生の47年卒が免除となる約10年後までは回して行けるだろう。今後、「ふみあと」の配布部数も確実に減るだろうし!

又、三国山荘を、今後、改築・新築することはあり得ないと考えるので、極端なことを言えば、KWV全財産を山荘の維持管理に回しても良いのではないか。そうすれば,今後、少なくとも十数年は何とかなるでしょう。

この先、2025年問題を控えており、小生の様な団塊世代が後期高齢者となり、国民の3人に1人が65歳上、10人に1人がボケ老人になるだろうとされており、恐らく、社会構造そのものがどうなるのか分からないでしょう、それこそ"不透明・不確実性の時代"を迎えるだろう。そんな中、今から、将来をとやかく言っても始まらないでしょう。なる様にしかならないでしょう!ケセラセラ!

要は、三国山荘は"現役ありき"で、当面、考えたらどうでしょうか。現状の現役活動に対し、ああせい、こうせいと多くは望まないが、"現役ありき"の三国山荘として主体的に動いてもらいたい。性格は異なるが、遭難対策委員会の様に、現役主体の活動に、OBが、適宜、経験を生かしてのサポート役になれればと思う。

忘年ゴルフレポート (47 伊川望)

スタート前、舌戦開始。
去る12月5日に恒例の「忘年ゴルフ」が快晴の府中カントリーで開催されました。

36年組vs.37年組の対抗戦に端を発し、戦に疲れた両陣営が和解の意を込めて「親睦忘年ゴルフ」へと変遷したとか。噂がうわさを呼び、匂いを嗅ぎつけたゴルフ好き28名が参加。

晩秋とは思えない穏やかな日、青空に映える紅葉が目を楽しませてくれます。練習グリーン上でもお喋りの輪が広がります。8時30分、OUT,IN に分かれてスタート、競技ならびに壮絶なる舌戦の開始。

41年組集合!

我々は相対的に若手中心のパーティ(47田端、51斉藤、52安藤&47伊川)。

目を見張るようなナイスショット、目を覆うようなミスショット、バーディ有り、ダブルスコア有りと賑やかなゴルフです。お互いの好プレイを讃え合い、珍プレイに笑い転げるなど絶え間のない会話。

やっと最終ホールまでこぎつけた時には疲労感が!

後続の37年組に「いやぁ疲れました」と告白した私に、「全然疲れとらん、天気が良いからもう1ラウンドやりたい!」とのお言葉が。皆さまお若い!

年代を超えての初プレイを楽しんだ一日でした。終了後の懇親会で「来年はもっと声をかけて盛大に忘年ゴルフを楽しもうよ!」との提案がございました。来年の開催に向けて微力ではございますがお手伝いさせていただきます。

私のスコア?忘却の彼方に消え去っております・

アサ会忘年山行  (37 小泉幾多郎)